■呪いの子

15:過去の傷


 夏休みも中程まで来たところで、ある日突然デルフィーから手紙が来た。前回の時とは違い、今回は特に外出の制限をされることはなかったため、アルバス達はすぐにデルフィーと約束を取り付け、会いに行った。久しぶりに会った彼女は随分と憔悴していた。

「ハロー……」
「デルフィー、大丈夫?」

 開口一番アルバスは尋ねた。デルフィーは引きつった笑みを浮かべる。

「どうだろう……あれから週刊魔女を解雇されちゃってね、その日食べるものにも苦労するくらいなの」
「そんなに!?」

 二人は声を揃えて驚いた。

「解雇されたって、どうして!?」
「魔法省に楯突いたからよ。警告はされてたのに」
「そんな……」

 レギュラスはおどおどとデルフィーを見、アルバスは俯きじっと一点を見つめていた。

「ああ、お腹空いた。お腹いっぱい食べたい……」

 その切なる呟きに先に反応したのはレギュラスだ。ぐっと身を乗り出してデルフィーに顔を近づける。

「デルフィー、僕の家に来ない?」
「え?」
「今、家に誰もいないんだ。お父さん達は仕事だし、アリエスはクリーチャーと一緒にミルザの散歩に行ってる。今ならご飯を食べさせてあげられるよ」
「いいの? 迷惑じゃない?」
「そんな訳あるもんか」
「僕たちのせいでデルフィーがこうなっちゃったんだもの」

 アルバスも参戦した。デルフィーは眉を下げて笑う。

「私は自分のしたことに後悔はないけど……でも、今回はお言葉に甘えさせてもらうわ」
「ぜひ」

 二人は、デルフィーの付き添い姿くらましで、すぐにブラック邸へとやって来た。

「さあ、厨房へ来て。いつもここにはクリーチャーが作り置きしてる料理があるし、日持ちするものも買ってあるよ。好きなだけ持って行って」
「僕たちもトランクに詰めるの手伝うよ」

 アルバスはパンを持ってデルフィーのトランクに近づいた。住む所もないのだろうか、デルフィーは持ち歩くには不釣り合いな程大きいトランクを転がしていた。

「あ、いいのいいの。これには大切なものが入ってるから」

 デルフィーは笑ってトランクを遠ざけた。

「それよりも、お手洗い借りて良い?」
「どうぞ。一階にあるよ」
「ありがとう……」

 コロコロトランクを転がしながら、デルフィーは厨房を出て行った。彼女が戻ってくるまでに、たくさん食べ物を見つけなければとアルバスとレギュラスは手分けして厨房の中を探し回った。

 そのおかげで、デルフィーが戻ってくる頃には、山盛りの食料をテーブルに用意することができた。デルフィーは目を輝かせた。

「素敵! こんなにもらっても良いの?」
「どうぞ、持って行って!」
「姿くらましができるのなら、重い思いをすることもないよね? 持って帰れるよね?」
「もちろんよ。ありがとう、二人とも」

 デルフィーは両手に食料を抱えながら、階段を上ろうとした。だが、数歩と登らないうちに、扉がガチャガチャ動く音がした。

「まずい、アリエス達が帰ってきた!」
「煙突借りてもいい? 私、たぶん顔を合わせない方が良いと思うわ。私のことは、皆きっと良く思わないだろうから」
「ごめんね、デルフィー」

 デルフィーは笑って煙突飛行ネットワークで帰って行った。『漏れ鍋!』と叫んでいたので、おそらく今は漏れ鍋に泊まっているのだろう。

 間一髪、デルフィーの姿はアリエスやクリーチャーに見られずに済んだ。だが、クリーチャーの目を誤魔化すことはできなかった。

「どなたかいらっしゃったのですか?」
「ああ……うん、まあね」
「友達さ」

 アルバスはすぐに答えた。クリーチャーは不審そうな顔つきをしていたが、それ以上追求するようなことはしなかった。

「クリーチャー、私お腹空いたわ。ミルザもおやつが食べたいって」

 アリエスの膝の上で、小さな犬がワンッと鳴いた。

「ああ、かしこまりました、お嬢様。すぐに用意いたします」

 そうしてキッチンへと向かったクリーチャーだが、すぐに気づいた。用意してあったクッキーがないと。

 食欲旺盛なレギュラス達が食べたのかと、次にクリーチャーは常備してあるアイスやパン、パイの方へ向かうが、どれも忽然と姿を消している。

 クリーチャーの疑いの目はレギュラス達へと向けられたが、彼らはもう既に部屋へと逃げ去った後だった。

 レギュラスの部屋へと逃げ込んだ後は、作戦会議だった。どうやってデルフィーを助けるかについてだ。

 『ザ・クィブラー』のような権力に屈しない雑誌に彼女を雇ってもらえるように話をしに行く、という案も出たが、編集者の一人であるゼノフィリウス・ラブグッドは、生憎とハリーの友達の父親である。アルバスとハリー、どちらの話を聞くかは明白だった。

「日刊予言者新聞も、魔法省にはあまり屈してないよね? 結構伯父さんやハーマイオニーおばさんの悪口書いてるし」
「でも、あそこは駄目だって皆が言うじゃないか。しょっちゅう父さん達の事を嗅ぎ回ってる。昔、皆はあの記者にひどい目に遭わされたって言ってたよ」
「そうだね、そんなところじゃ、デルフィーも可哀想だよね」

 話し合いは一向に前進しなかった。そのうち、ハリエットが戻ってきた。

「アルバス、いらっしゃい」

 突然の訪問にもかかわらず、出迎えたアルバスをにっこり笑ってハリエットは歓迎した。

「おばさん、あの、記事のこと……ごめんなさい」

 開口一番、アルバスは謝罪した。記事を出したことに関して後悔してはいないが、しかし、承諾を得ずにやったということについては申し訳なさがあった。

「ああ、気にしないで良いのよ。もう終わったことだもの。でも、もう私達に内緒でしないって約束してくれるわね?」
「……うん……」

 アルバスは小さく頷いた。どちらにせよ、デルフィーがいない今、もう記事は出せないのだ。

「アルバス、良かったらうちで夕食を食べていく?」
「いいの?」
「もちろんよ。ジニーには私から連絡をしておくわ」
「とっても良い考えだ!」

 レギュラスは満面の笑みで頷いた。

「夕食までチェスして遊ぼうよ!」
「またチェス? 僕もう飽きたよ」
「僕は全然飽きないよ!」

 アルバスの腕を引っ張っていく息子を見送った後、ハリエットはクリーチャーを見た。

「私、着替えてくるわね。アリエスは部屋?」
「はい。フォークス様と、ミルザ様と遊んでおいでです」
「そう。後で様子を見に行くわ」

 ハリエットは目を細めて笑いながら階段を上った。騒がしい二階を通り過ぎ、三階まで上がる。

 扉を開けたときから、違和感はあった。それが何かも分からないまま、ハリエットは上着を脱ぐ。

 カタンと後ろから物音がした。振り返ると、そこには洋箪笥しかない。高級木材であるマホガニーで作られた洋箪笥は、もともとこのブラック邸に備え付けられたものだ。

 かけていた洋服でも落ちてしまったのか、とハリエットは気にせずまた前を向いた。だが、そう間を置かずにまたカタンと音が鳴る。今度は先ほどのものよりも大きい。

「フォークス?」

 咄嗟にそう声をかけたハリエットだが、まさかと首を振った。わざわざフォークスが洋箪笥の中に入る理由がないし、そもそも彼は狭いところが嫌いだ。それに、つい先程、アリエスの部屋にいるとクリーチャーが言ったばかりだ。

 ネズミでも出たのだろうか、とハリエットは取っ手に手をかけた。深く考えていなかった。

 開け放たれた箪笥の中から、黒い何かがワッと飛び出してきた。驚きのあまりハリエットは後ずさる。咄嗟に杖を構えたが、その『何か』に杖先を向ける間もなく固まる。

 黒い女が、こちらを見てニヤニヤ笑っていた。背が高く、整ってはいるものの、その顔は落ち窪んでいる。

「あ……あ……」

 コツコツとヒールの音を響かせながら、彼女はゆっくりと近づいてくる。ハリエットは恐怖に戦きながら後ずさった。

 死んだはずではなかったのか。なぜここにいるのか。

 ――そんな疑問は露ほども湧いてこなかった。ハリエットの中にあるのは、ただただ純粋な恐怖だった。

「クルーシオ!」

 向けられた杖先に、ハリエットは反応することができなかった。否、抵抗する気力すら湧かない。今この場所にいたのは、あの頃の、成人にも満たず、杖も持たず、助けも来ず、ただいたぶられるだけの、ちっぽけなハリエット・ポッターだった――。

 いっそ死んでしまいたい程の、耐えがたい苦しみ――。

 ハリエットは力の限り叫んでいた。痛みが頭を麻痺させている。行動することも、考えることも放棄させられる。そんなことあるはずがないのに、耐えてさえいれば、この痛みが止んでくれるのではないかと思ってしまう――。

 すぐ上の階から尋常ならざる悲鳴が聞こえ、血相を変えて駆けつけたのはレギュラスとアルバスだ。

「お、お母さん! どうしたの!?」

 レギュラスが見たのは、苦痛に顔を歪め、地面をのたうちまわる母の姿だった。思いも寄らない光景に足が竦んだが、すぐに黒い女の存在に気づき、杖を上げる。未成年は魔法を使ってはいけないなんてことなど、頭から吹き飛んでいた。

「ペトリフィカス トタルス!」

 閃光は確かに女に当たった。にもかかわらず、身体が煙のように歪んだかと思うと、女はまだそこに立っていた。レギュラスは茫然と彼女を見る。

 開いた扉から、滑るようにして紅の何か飛び込んできた。

「フォークス!」

 不死鳥は、長い嘴を槍のようにして女に突っ込んでいく。だが、信じられないことに、フォークスは女を通過した。フォークスは助けを呼ぶように高い声で鳴いた。

 突然、バチッと音がして、クリーチャーが姿を現した。彼は、うつ伏せに倒れたハリエットを見、そして高い所から見下ろしている黒い女に視線を移し、顔を歪める。

「ベラトリックス・レストレンジ!」

 クリーチャーが叫んだ。長い指が彼女に向けられ、そこからまばゆい閃光が迸る。

 だが、結果は同じだった。閃光は女を通過したのだ。クリーチャーは唖然とし、我に返ったところで立て続けに魔法を放ったが、一つたりとも女には当たらない。

「に――逃げて――」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔で、ハリエットは息も絶え絶えに言った。

「レグ……アルバス――」
「アバダ ケダブラ!」

 緑の閃光が走った。アルバスは咄嗟にレギュラスの身体を押した。二人は絨毯の上に転がりながら倒れ込む。

「ああっ――ああっ!」

 過呼吸のようにハリエットは浅い呼吸を繰り返した。ぜいぜい息をしながら、絶望の表情で物言わぬ息子に這い寄る。息子の目は固く閉ざされ、顔からは血の気がどんどん失われていく。腕はだらんと力なく垂れていた。ハリエットは両腕で息子をかき抱いたが、骸となった彼は霞のように消え去った。

「ああ――ああ――レグ、レグ……!」
「わたしの娘に何をする! この女狐め!」

 どこからかシリウスが颯爽と現れた。マントをかなぐり捨てて、両腕を自由にして杖先を女へと向ける。

「私がお前を殺してしまったら、ハリエットはどうなるだろうね?」
「シ――シリウス――!」

 シリウスの呪いが右に左に飛んでくる中を跳ね回りながら、女は凶器の形相でシリウスをからかった。

「お兄ちゃんも名付け親もいなくなって、可愛いハリエットちゃんは独りぼっち。また正気を失うかもねえ?」
「お前なんかに――二度と――ハリエットを傷つけさせてなるものか!」

 シリウスの呪いが、真っ直ぐ女へと走る。女は間一髪その閃光を躱すと、目にも留まらぬ速さで右手を動かし、緑の閃光を放った。それは一直線にシリウスに向かっていき――胸に直撃した。シリウスはゆっくり宙を舞い、そして大の字になって倒れた。

「あ――あ――」
「ハリー・ポッターは死んだ」

 どこからか低い声が響き渡る。ハリエットは両手で耳を塞ぐ。

「お前を助けようとして無様に死んでいった。哀れな最期だった。次は誰を殺してやろうか? 血を裏切る者か、穢れた血か?」
「現実逃避したって無駄だよ、ポッターちゃん」

 黒い女がハリエットを見下ろした。彼女の黒いローブが、ハリエットを闇へと引きずり込んでいるように見えた。

「お前は幸せな夢を見ていただけなんだ。現実はどうだい? 冷たい地下牢がお前の寝床さ。お前はこんなに辛い目に遭ってるのに、結局お兄ちゃんも名付け親も助けに来てはくれなかった。お前は見捨てられたんだよ」

 ハリエットは喘いで天を見上げた。しかしそこから見下ろすのは歪んだ笑みを浮かべる黒い女。

「クルーシ――」
「止めろっ!」

 ハリエットのすぐ側からレギュラスが飛び出し、黒い女へとタックルした。だが、女はするりと避ける。まるで雲のように手応えがなかった。

「お母さん! 僕はここにいるよ! お母さん!」

 レギュラスは精一杯叫んだが、ハリエットの目はもはや何も映していなかった。絶望に瞳を染めながら、眠るように気を失うところだった。

「お前――許さないぞ!」

 レギュラスは闇雲に杖を振り回した。クリーチャーと共に、石化呪文も武装解除も拘束呪文も、今のレギュラスにできることはなんでもやった。しかしニヤニヤ笑う女には全く効かない。

 フォークスは、まるで訴えかけるように鳴いてアルバスの注意を引いた。女を倒すことに躍起になっているレギュラスやクリーチャーではなく、二人の後ろで、ハリエットを安全な所に移していたアルバスに向かって女を指し示したのだ。

 黒い女を注意深く観察すると、女は、レギュラスと対峙するたび、見るからに禍々しい雰囲気を持つ男に薄ら姿を歪ませていたのをアルバスは見抜いた。

 かつて、闇の魔術に対する防衛術の授業の前、レギュラスはぼやいていた。もしかしたら、自分の怖いものは『例のあの人』かもしれないと言っていたことを。ルーピンの授業で、レギュラスよりも先の生徒のボガートがヴォルデモートに変化したことで、彼の想像はそのままそのボガートに上書きされていたのだ。

「レグ、ボガートだ! この女はボガートなんだ!」
「ボガート!?」

 アルバスの言葉を受け、レギュラスは瞳に闘志を宿した。正体が分かればこっちのものだ。レギュラスは大きく息を吸い込む。

「リディクラス!」

 しかし女は僅かに歪むだけで、姿は変化しない。母の苦しむ姿が目に焼き付き、レギュラスはこの女の滑稽な姿を想像できずにいた。

「リディクラス!」

 アルバスも反対側から応戦した。またも女は揺らぐのみだ。

「レグ、ルーナおばさんだ! 母さんの誕生日の時、おばさんが着てきた服を着せるんだ! 行くぞ!」

 一、二、三、と二人は息を合わせた。

「リディクラス!」

 パチンと鞭を鳴らすような音がして、女が躓いた。と、次の瞬間には、彼女は頭に大きな角の帽子を被り、灰色のツルツルしたワンピースの格好へと変貌した。

 ボガートは途方に暮れたように立ち尽くした。

「リディクラス!」

 二人がもう一度叫ぶと、ボガートはパチンと音を立てて逃げるように洋箪笥の中に飛び込んだ。ガタガタと音が鳴るが、もうそこから出てこようとはしない。

「お母さん……!」

 レギュラスは泣きながらハリエットに縋った。ハリエットの顔は血の気を失い、まるで死人のようだった。

「ど……どうしよう……アルバス……」

 アルバスは唇を震わせたまま、何も答えられなかった。混乱と恐怖が頭の中をぐるぐる回る。

「ご主人様とドラコ様をお呼びしてきます」

 クリーチャーはすぐに姿くらましをした。しもべ妖精が姿を消し、二人は一層心細くなる。

「お母さん……」

 レギュラスは右手を、アルバスは左手を。

 ハリエットの手をギュッと握りしめながら、どうかどうかと一心に祈り続けた。