■呪いの子
16:幻想の後
シリウスの帰りはすぐに分かった。玄関で物音がしたと思ったら、すぐに『ハリエット!』と大きく叫ぶ声が聞こえてきたからだ。
「ああ、ハリエット――!」
力なく床の上に倒れているハリエットに、シリウスはすぐさま近寄った。汗で張り付いた前髪を流し、体温を確かめる。
「一体何があったんだ?」
「ボガートだよ」
シリウスが来た安心感からか、レギュラスはグズグズ嗚咽を漏らすばかりで、何の説明もできなかった。代わりにアルバスが答える。
「ボガートが……黒い女に変わった。女が、叔母さんに呪いをかけてた」
一気にシリウスの顔が険しくなる。そして労るようにハリエットの涙を拭った。
ハリエットをベッドに運んだところで、ドラコが帰ってきた。息せきって真っ直ぐハリエットの下に行き、そして脈を測る。
「アルバス、何があったんだ?」
「ボガートだ」
アルバスは同じ説明を繰り返した。
「ボガートが黒い女に変わって、叔母さんに呪いをかけてた。その後、レグの死体に変わって……シリウスお爺ちゃんも死んで、父さんも殺されたって」
「…………」
ドラコは痛ましい表情でハリエットの頬を撫でた。シリウスは勢い込んで尋ねる。
「ハリエットは大丈夫か?」
「気を失ってるだけです。脈も安定してきています」
「……また昏睡状態に陥る可能性は?」
「分かりません……」
ドラコは絞り出すように答えた。
「ただ、今は前より技術が進んでいます。精神を安定させる魔法薬を飲ませて、何とか……」
「頼んだぞ」
シリウスはドラコの肩に手を乗せた。彼の背中は微かに震えていた。ドラコは振り返り、アルバスを見た。
「ボガートは今どこに?」
「あそこ」
アルバスは洋箪笥を指差した。まだガタガタと音がする。
「『リディクラス』で閉じ込めたんだ」
「よくやった……」
ドラコは褒めたが、その声色は暗い。その後に続く沈黙も重苦しい。
そんなとき微かに響いたキイッという扉が軋む音は、この場の皆の注意を引いた。一斉に皆の視線を受けたアリエスは目を擦ったままの状態で固まった。
「あ、あの、私、お昼寝してて……でも、皆の声が聞こえたから……」
アリエスは、ようやくベッドで眠る母の姿に気がついた。
「お母さん、どうしたの?」
アリエスは首を傾げた。皆は顔を見合わせる。
「シリウス……」
「ああ」
ドラコに言われ、シリウスは立ち上がった。
「アリエス、お母さんは少し疲れてるんだ。あっちでお爺ちゃんと遊ぼう」
「お父さんは?」
「お父さんはお母さんの看病だ」
アリエスは泣きそうな顔になった。
「お母さん、身体の具合悪いの? 大丈夫?」
「大丈夫だ。きっとすぐに良くなるさ」
二人の声が遠ざかっていく。ドラコはまたハリエットの方を向いた。
「クリーチャー、アルバスを送ってやってくれ。その後で、ハリーにもこのことを伝えて――」
「嫌だ。僕、ここにいる!」
クリーチャーよりも早くアルバスは反応した。
「僕だって叔母さんのことが心配なんだ。ここにいる!」
「…………」
しばらくドラコは答えなかったが、やがて背中が動いた。
「分かった。クリーチャー、ジニーにもこのことを伝えてくれ。アルバスはこっちに泊まるとも」
「承知いたしました」
クリーチャーはその場で姿くらましをした。バシッという大きな音が響いた後の部屋は、余計静かに、寂しく思えた。
そう間を置かずにハリーもやって来た。青ざめた顔でベッドの傍らに膝をつき、妹の寝顔を眺める。
「ハリエット……」
「ハリー、来たか」
いつの間にかシリウスが戻ってきていた。ハリーの隣に並び、腰を下ろす。レギュラスとアルバスは、この雰囲気に呑まれ、少し後ろの所で黙りこくって座っていた。
「クリーチャー、アリエスの様子を見ていてくれ」
「かしこまりました」
クリーチャーは頷き、レギュラス達の方を気にしながらも、部屋を出て行った。大人三人は、すっかりレギュラス達の存在を忘れているようだった。
「――今、ハリエットはショックで気絶しているのか? それとも……あの時のように?」
ハリーの声は震えていた。
「ベラトリックスから呪いを受けたとクリーチャーが言っていた。痛みはあるのか? ハリエットは、また磔の呪文を受けたのか?」
「記憶が痛みを呼び起こすこともある」
ドラコの声は低かった。
「ボガートはその魔法に長けている」
「守護霊の呪文の時」
ハリーはどこか夢現に口を開いた。
「私のボガートは吸魂鬼に変わった。その吸魂鬼は、まるで本物のように最悪な記憶を呼び起こした……ハリエットにも、同じだけの影響があったのだろう」
ハリーは拳を握った。
「どうしてボガートがこんな所に? いつ入り込んだんだ?」
「自然に、とはあまり考えにくいな」
シリウスは呟いた。
「いつもクリーチャーが完璧に掃除をしてくれている。どうやってその目をすり抜けてボガートが入り込む?」
「誰かが人為的にやったことだと?」
唸るようにハリーが聞き返した。シリウスは慌てる。
「誰もそこまでは言っていない! そもそも、誰がそんなことをする? こっそり入るのも不可能だ。家にはいつもクリーチャーがいるし、子供達だっている……」
「もし誰かの仕業だとしたら」
ハリーにシリウスの言葉は聞こえていないようだった。
「悪戯なんて言葉で許されるものじゃない。もしハリエットのことを知っていての仕業だったら、悪意の塊だ。ハリエットをめちゃめちゃにするつもりだったんだ。正気の沙汰じゃない」
アルバスは、じっとハリエットの顔を見つめた。
ずっと気にかかっていたことがあったが、今ようやく分かった気がした。
ボガートの退治方法について、かつてルーピンは、こちらの数が多いほど有利だと言っていた。誰の怖いものに変化すれば良いか分からないからだ。にもかかわらず、今回のボガートは、自分やレギュラスの怖いものには変化せず、どうしてか頑なに黒い女の姿をしていた――。
その理由は、きっと――いや、確実に叔母の恐怖心が桁違いに強かったからだと思った。未だ涙の跡が残る彼女の頬を見てアルバスの考えは確信に変わった。
レギュラスの怖いものは、今は亡きヴォルデモートという、所詮は漠然とした恐怖でしかないし、アルバスはというと、そもそも自分の怖いものだってまだ確定していない。そんな状態で、ボガートは何に変わるというのか。
誰かに拷問を受けたことも、誰かが死ぬかもしれない状況に陥ったことも、一度たりとも経験したことのない二人は、ボガートの相手とはなり得なかったのだ。ボガートの餌にもなったのは、たった一人、困難や苦境を乗り越えてきたハリエットのみだった。
「この頃、ハリエットの調子はあまり良くなかった。もっと気にかけるべきだった」
「何かあったのか?」
シリウスが顔を上げた。
「夢見が悪いようでした。……あの頃の夢を見ると」
「デルフィーのせいだ」
ハリーはイライラしたようにため息をつく。
「デルフィー? 記事を書いたという女か?」
「ああ。デルフィーニ・オルガ。――ハリエットは、ベラトリックスに似ていると怯えていた」
「――まさか」
シリウスはすぐにそう返した。
「他人のそら似だ、そうだろう?」
「ハリエットもそう言っていた。だが……たとえそうであれ、もう近づかせたくはない。お前達にも」
急にハリーが振り返り、アルバス達を見た。
「ハリエットにとっても、私達にとっても、過去は楽しいことばかりではない。もう掘り返されたくないんだ。分かってくれるだろう?」
レギュラスは静かに頷いた。アルバスも頷きかけたが、しかしやはり顔を上げた。
「――でも、デルフィーは解雇されたって」
「会ったのか?」
「…………」
アルバスは怯んだが、負けずにハリーを見つめた。
「もう会わない。でも、デルフィーに迷惑をかけたままじゃ嫌だ」
「……分かった……」
ハリーは渋々頷いた。
「もうあの記事を出さないと言うのなら、解雇を取り消すよう私から取り合ってみよう」
「本当!?」
「ああ」
「……ありがとう」
消え入るほど小さな声でアルバスは礼を口にした。ハリーは戸惑ったように息子を見つめていたが、やがて立ち上がった。
「今日はもう失礼する。ドラコ、ハリエットのことを頼んだ」
「もう遅い。泊まっていけ」
シリウスが引き留めた。
「だが……」
「アルバスもここに泊まる」
ハリーはチラリと息子を見た。
「いや、やはり一度戻る。ジニーもハリエットのことを心配しているだろうし――アルバス、ハリエットを頼むぞ」
アルバスは戸惑いつつも頷いた。ハリーは中途半端に微笑み、そのまま部屋を出て行った。