■呪いの子

26:大きなさざ波


 過去のホグワーツは、想定していた以上に混沌とした戦いの場だった。ハリエットとロン、ハーマイオニー、そしてドラコとスネイプ、ブロンドの死喰い人が杖を構えて対峙している。両者の間には、容赦なく緑の閃光や赤い閃光が飛び交っている。ドラコの瞳は虚ろで、明らかに操られている様子だった。

 アルバスとレギュラスは、玄関ホールのすぐ側の、箒置き場に身を隠した。僅かに空いた隙間から、戦況を見守る。

 温室育ちのアルバスとレギュラスは、目の前の光景にすっかり足を竦ませていた。介入しなければならないのに、どうすれば良いか分からない。ほんの少しデルフィーと訓練し、武装解除を習得したのがやっとの二人だ。命がかかっている戦いの場面に飛び込むなど、できる訳もなかった。

 戦況は、人狼のグレイバックが現れたことで一気に死喰い人側に傾いた。彼の力は強大で、そして非常に好戦的だった。彼は逃げるために戦うのではなく、『餌』のために、『快楽』のために戦うのだ。

 彼がハーマイオニーの首に噛みつこうとしたとき、ドラコがグレイバックに向かって服従の呪文をかけた。操られたグレイバックは、目にも留まらぬ速さでハリエットに失神呪文を放ち、そして倒れ込んだその身体を抱える。

「お母さん!」
「駄目だ! 今はまだ――」

 アルバスは、外に出ようともがくレギュラスを必死に引き留めた。ドラコは、グレイバックを従えたまま、こちらへ駆け出していた。ここで飛び出して姿を見られる訳にはいかない。だが――。

 レギュラスは、決死の表情で杖を構えた。

「ペトリフィカス トタルス!」

 箒置き場の隙間から、まばゆい閃光が走った。それは真っ直ぐ闇を切り裂き――グレイバックに直撃した。グレイバックの身体は硬直し、ハリエットを抱えたまま地面に転がる。

 二人のすぐ後を走っていた死喰い人の足が止まった。油断なく杖を構えながら、今まさに攻撃された場所――箒置き場へとジリジリ近づく。

「コンフリ――」
「エクスペリアームス!」

 絶体絶命の危機か、と思われたとき、ハリーの声が明朗と響いた。真横から放たれた閃光を死喰い人は紙一重で避け、ハリーと対峙する。

 その間に、ドラコはハリエットの身体を抱え上げ、既に走り出している所だった。慌ててアルバスが彼に向かって武装解除を投げかけるも、一歩及ばず足下には届かない。

「駄目だ、このままじゃ――」

 どうにでもなれ、とアルバスがいよいよ外に出ようとしたとき、猛然と城から駆けてくる黒いものがあった。スネイプを追い越し、ハリーと死喰い人を追い越し、ぐんぐんドラコへと近づいていく。

 その正体は、クマほどに大きい黒犬だった。紛れもなくシリウス・ブラックだ。シリウスはあっという間にドラコに追いつき、そしてその足にガブリと噛みついた。ドラコは転倒し、人へと戻ったシリウスは、素早くハリエットを抱き上げた。ひしとハリエットを腕に閉じ込め、シリウスはドラコを仕留めようと杖を構えたが、あえなく阻まれる。後ろからスネイプが妨害呪文をかけたのだ。

「アルバス、もう時間が――」

 逆転時計が震えだしていた。顔を上げ、レギュラスが最後に二人が目にしたのは、ハリエットを固く腕に抱き抱えるシリウスと、ドラコを引っ張りながら校門の外に出るスネイプ――。


*****


 現在に戻ってきたとき、レギュラスは拳を天に突き上げていた。

「すごいや、すごい! 僕たち、本当に過去を変えたんだ! アルバス!」

 しかし、振り返った先にアルバスはいない。くるくると周りながら辺りを見渡したが、すぐ側にいたはずのアルバスは、忽然と消えていた。

「アルバス? アルバス!」

 叫びながらレギュラスは箒置き場から飛び出した。だが、すぐ目の前にピンク色の物体があり、レギュラスは急停止を余儀なくされる。

「――マルフォイ、いつもの奇行はお止めなさい」

 甲高く、冷たい声だった。ピンク色の物体は紛れもなく人で、強いて言うなら、ガマガエルにも似たずんぐりした女だった。呆れたようにレギュラスを見下ろしている。

「一体何の用があってそんな所にいたんです? 全く嘆かわしい。どんなに貴重な家の出であろうと、天は二物を与えず、といった所かしら」
「あの、あなたは?」

 臆せず尋ねるレギュラスに、女はピクリと頬を引きつらせた。

「あなたのお粗末な頭は校長の顔もお忘れかしら? 残念ながら頭の方は母親に似たのね。わたくしはドローレス・アンブリッジ。あなたの学校の校長です」
「あなたが校長? でも僕……」

 レギュラスは一旦は疑問を振り切り、アンブリッジに近づいた。

「アルバス・ポッターを知りませんか? 友達を探してるんです……」
「ポッター? アルバス・ポッター? そんな生徒はいませんわ。事実、ホグワーツにはここ何年もポッターという生徒はいません――それにあの少年も結局うまくいきませんでしたわ。ハリー・ポッターよ、安らかに、永遠に眠れ、ですわね」
「ハリー・ポッターが死んでる?」

 冷たく、弱々しい風が突然レギュラスの周りに吹き付けた。なぜ今まで気づかなかったのだろう。空には、黒いローブがいくつも浮かび上がっている。目を凝らしてみれば、それは吸魂鬼だと気づいた。死を思わせる黒い影が、ホグワーツの上空にいた。

「どうやらいよいよ頭がおかしくなったようですね。ハリー・ポッターは二十年以上前に死にましたわ。学校のクーデターが失敗して……ホグワーツの戦いで我々が勇敢に打ち負かしました。さあ、急ぎなさい、何の真似かは知りませんが、吸魂鬼の機嫌を損ねて、『ヴォルデモートの日』を台無しにしていますわよ」
「ヴォルデモートの日?」

 レギュラスは怯えた声で聞き返した。ホグワーツは、今や自分の知らない全く別の場所へと変化していた。


*****


 世界は紛れもなく様変わりしていた。闇の世界だ。地上は灰で覆われ、不安と死の影が常に漂っている。

 ハリーは死に、ヴォルデモートは生きており、そして支配者となっている。何もかもあるべき姿とは違っていた。

 レギュラスがこの世界に来てから三日が経っていた。逆転時計はまだ所持しているが、いつ、どのタイミングで過去に戻るかレギュラスは考えあぐねていた。今の世界が、魔法界にとって確実に悪いことは分かっている。ハリー・ポッターもいなければ、アルバス達もいない。何よりここは、マグル生まれや、ヴォルデモートに反抗する者たちが虐げられる世界なのだ。早く本来の魔法界に戻す必要がある。だが、どうしてハリー・ポッターが死ぬ世界になってしまったのかが分からない。どのタイミングで本来の軸からずれてしまったのか――それを明確にし、修正する必要のある『時』へ戻るのが何よりも重要だった。

 この世界では、レギュラスは、『スコーピウス・マルフォイ』という名で生まれていた。両親はもちろんドラコ・マルフォイとハリエット・ポッターだが、妹のアリエスはいない。ローズやヒューゴ、ジェームズ達もいない。ホグワーツの教授は死喰い人しかおらず、授業内容もマグルを淘汰するようなものばかりだ。

 レギュラスが情報収集に明け暮れる中、校長であるドローレス・アンブリッジに呼び止められた。ミネルバ・マクゴナガルは、ホグワーツの戦いで最後までヴォルデモートに屈さず、生徒を庇って亡くなっていた。フリットウィックも、スプラウトも、スラグホーンもまた亡くなっていた。他の教授の生死については、ここの生徒たちはもう預かり知らぬ事だった。今の支配者であるヴォルデモートに逆らった反逆者の生死など、取るに足らない事象なのだ。

 レギュラスは、緊張の面持ちでアンブリッジの後から校長室に入った。キョロキョロしたくなるのを抑え、じっと地面を見つめる。

 ドローレスは一番奥の椅子に腰掛けた。彼女の体重で椅子がギシリと軋む。

「スコーピウス、わたくしは長い間考えていたのですが……まあ、あなたには全校の首席としての資質がある、と認めざるを得なくなったようです。マルフォイ家の出で、生まれながらのリーダーであり、スポーツ万能で……」
「主席? スポーツ万能?」
「謙遜なんてわざとらしいわ、スコーピウス。クィディッチのピッチであなたを見てきました。あなたに取れないスニッチはほとんどありませんわ。あなたは評価の高い生徒です。教授達にとってもそうですし……しかしわたくしはどうにもあなたが信用なりませんわ。おそらく、母親の血が影響しているのでしょうが……あなたは時折妙に間の抜けたことを口にします。それが一部の生徒に人気のようですが、リーダーとしてはあるまじきことです。どうすれば完璧なリーダーになれるかわたくしも奮闘してきましたが……こればかりはどうにもならないようです」
「僕、そんなに駄目ですか? 一生懸命頑張ってるんですけど……」

 この世界の自分が何者なのか、レギュラスはさっぱり分からなかった。スコーピウスと呼ばれているし、クィディッチでシーカーをしているし。少なくとも自分の方は、ローズを差し置いて首席なんてとんでもない。唯一共通しているのは、どうやら見た目と性格だけのようだ。この世界の『スコーピウス』は、懸命に自分を立派に見せようとしているらしかったが、どうやらアンブリッジにはバレバレのようだ。

「駄目駄目ですね。せめて『血の舞踏会』での演出の主導を握るくらいにならなければ。わたくし、あなたがのらりくらりと躱しているのは知っていますのよ。上手いこと周りには言い訳しているようですが、どうにも――」

 アンブリッジはコホンと咳払いした。話が逸れたと思っているらしい。

「しかし、そうなる日もおそらくは永遠に来ないかもしれません。ヴォルデモートの日にあなたと遭遇して三日経ちますが、どうもあなたは……どんどんおかしさに磨きがかかっているようですわね。特に、突然ハリー・ポッターの事にこだわるように……」
「そんなことは」

 レギュラスは躊躇いがちに首を振った。アンブリッジは目を細める。

「誰彼なくホグワーツの戦いのことを聞いていますわね。ポッターがどのようにして死んだとか、なぜポッターが死んだとか。誰かに呪いをかけられたんじゃないかと調べましたが、そんな兆候はありませんでした。一体どうしたのです? 何かわたくしにできることはありませんかしら……元のあなたに――いえ、スコーピオン・キングの名に相応しい生徒になるために」
「い、いいえ、いいえ。僕はもう回復したと思ってください。一時的な変調で、ちょっとおかしなことを口走っただけなんです。校長先生のお手は煩わせません」
「……そうですね。あなたはいつもどこかおかしかった。少しくらいの変調に気を砕いてはいられません。では、一緒に仕事を続けられますわね?」
「はい」

 アンブリッジが、片手を心臓の上に乗せ、両方の手首を重ねてねじった。

「ヴォルデモートに栄光あれ」
「あ――う――あれ」

 何とか見よう見まねでレギュラスはやり過ごした。


*****


 すっかり疲弊した顔でレギュラスが校長室を出ると、二人の男子生徒が駆けてきた。元気いっぱいのカールとヤンが、片手を上げレギュラスにグイグイ近づく。

「おい、サソリ王、スコーピウス」

 レギュラスは仕方なくハイタッチをした。前の世界ではレギュラスを見かけるたびに悪口を言っていたくせに、この世界ではとんだ変わり様だ。

「計画に変わりないな、明日の夜だ。穢れた血の腸を掻ききってやろうぜ」
「え?」

 レギュラスは思わず聞き返した。穢れた血? 掻ききる?

 カールがヤンを小突いた。

「おい、だから言っただろ。サソリ王ともあろう奴が、自分の手を汚す訳がない。サソリ王はこの話題が嫌いだ。悪かったな」
「お土産話を期待していてくれ」

 ニヤニヤと嫌な笑い声を残し、二人は去って行った。レギュラスはしばらくその場から動けなかった。どうか、たちの悪い隠語であればいいと思った。

「スコーピウス」

 だが、レギュラスが立ち直る前に、今度はポリー・チャップマンに呼び止められた。

「単刀直入にいくわね? 皆が知りたがっている事よ。あなたが誰に申し込むのかって」
「申し込む? 何に?」
「血の舞踏会よ! はぐらかさないでいいわ。もう期限は迫ってるでしょう? あのね、あなたは誰かに申し込まなきゃならないし、私はもう三人に申し込まれたの。あなたがどうすべきか、分かるわね?」
「うん……えっと、おめでとう」
「もう、分からない人ね!」

 ポリーは頬を紅潮させた。

「あなたは……本当に……人をやきもきさせるのが上手だわ。女の子には紳士的だし、優しいし……。それでいて、決して簡単にはなびかない……。皆に対して優しいの。でも、それってずるいわ。そろそろ誰か一人に決めないと――そう、例えば、私とか」

 ぐいっと身を乗り出し、ポリーは妖しく微笑んで見せた。

「オーグリー様が強く言うことだけど――未来は自分たちが作るもの。だから私は今未来を作っているの。あなたとの未来を。返事を期待しているわ。ヴォルデモートに栄光あれ」
「ヴォル――あれ――」

 レギュラスはこくこくっと頷き、颯爽と立ち去るポリーを見送った。