■呪いの子

28:闇の中の光


 毅然として魔法省を出たレギュラスだったが、すぐにたたらを踏んだ。ここからウィルトシャーまでどうやって行けば良いのだろうという疑問が首をもたげたのだ。

 だが、その疑問はすぐに解消された。魔法省のすぐ目の前の道路に車が止まっていたのだ。

「スコーピウス・マルフォイ様ですね。お父上からお話は伺っております。ウィルトシャーに行かれたいのだと」
「はい……お願いできますか?」
「もちろんですとも」

 レギュラスは、そのまま魔法使いの運転する車に乗り込み、あっという間にウィルトシャーに到着した。ついたのは、ルシウスやナルシッサの住むマルフォイ邸である。今までレギュラスは数えるほどしか行ったことのない場所で、そのどれも、ハリエットはついてこなかった。もっぱら、マルフォイ祖父母に会うときは、二人がブラック邸を訪れる時くらいだ。

 何も考えずにいつも通り正面へ向かったレギュラスは、すんでの所で思い出した。確か、父は裏から入れと言っていなかったか。お祖母様に気づかれるなとも言っていた。

 なぜ気づかれてはいけないのか。それはよく分からなかったが、しかしひとまずレギュラスは裏手へ回り込む。裏への入り口などレギュラスには思い当たる節もなかったが、すぐにその疑問は解決した。マルフォイ邸の裏には、小さな別宅があったのだ。

 周りの木々に隠れるようにして佇むその別宅は、まるでどこかのお伽噺に出てくるような雰囲気を醸し出している。ドアノブのすぐ横にノッカーがあったので、レギュラスはトントンとノックする。

 扉はすぐに開いた。

「スコーピウス様。お戻りでいらっしゃいましたか」

 視線を下げ、レギュラスは屋敷しもべ妖精をマジマジと見つめた。クリーチャーではないし、ドビーでもない。前の世界でも見たことのないしもべ妖精だった。

「君がトニー?」
「はい、トニーはトニーでいらっしゃいますが……? 若旦那様からお話はお聞きしておりました。どうぞ中へお入りください」
「ありがとう……」

 レギュラスはキョロキョロ中を見渡しながら、別宅へ足を踏み入れた。清潔に保たれた、整然とした場所だった。だが、ものが少ないせいか、どこか寂しい印象を受ける。

「若奥様は二階へいらっしゃいます。先に何かお食べになりますか?」
「いや、いいよ。お母さんに会ってくる」

 気もそぞろにレギュラスは階段を上った。二階にもいくつか部屋はあったが、レギュラスは三度目で正解を見つけた。ベッドの上で半身を起こし、窓の外を眺めている赤毛の女性を見つけたのだ。

「お母さん!」

 堪らなく何かが込み上げてきて、レギュラスは母に抱きついた。ハリエットは驚いたように息子を見下ろす。

「スコーピウス?」

 レギュラスだよ、と言いたくなるのをグッと堪えて微笑んだ。

「うん、ただいま」
「どうして帰って来たの? 学校は?」
「会いたくなって」

 ハリエットは目に力を込め、レギュラスの頭を撫でた。まるで何かを堪えているような顔だ。

「お母さん、顔色が悪いよ。どこか具合でも悪いの?」
「……いいえ。ただ、何もやる気が起きないだけよ」

 そう呟くハリエットの声には覇気がなかった。笑顔もない。疲れたような雰囲気が漂っている。

 レギュラスは不安を押しのけ、母親の顔を覗き込んだ。

「お母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだ。……シリウスお爺ちゃんはどこ?」

 ハリエットの手が止まった。目は見開かれ、表情は強ばっている。

「どこでその名を知ったの? あなたには何も言ってないはずだわ」

 ハリエットは、驚きと後悔、懐かしさと不甲斐なさ、そしてそれらを全て覆い尽くす悲しみを湛えた瞳で言った。その声は掠れていた。

「あの人が言ったの?」
「あの人?」

 レギュラスは首を傾げる。ハリエットは視線を落とした。

「あなたのお父様」
「ううん、お父さんは何も言ってないよ。その……学校でちらっと聞いたんだ」
「何を聞いたの?」
「えっと……僕には、シリウスっていうお爺ちゃんがいるって……」

 ハリエットは片手で目を覆った。

「シリウスは死んだわ」
「――っ!」

 レギュラスは目を見開き、そしてすぐにでもなぜ死んでしまったのか聞きたい衝動に駆られた。だが、ハリエットの手の隙間から、一筋の涙が頬を伝うのを見て、それ以上は何も聞けなかった。

「じゃあ、ロンおじさんとハーマイオニーおばさんは? どこにいるの?」
「分からない……」

 ハリエットは力なく首を振った。

「二人の消息も知れないわ。どこで何をしているのか……生きているのかさえも……」

 彼女の視線は窓の外に向けられた。すぐそこに外の世界はあるのに、逃げ出したいとでも言いたげな寂しげな視線だ。

「僕は、このままじゃいけないと思う」

 レギュラスは母の手をぎゅっと握りしめた。

「何も悪いことをしてないのに、アーサーお爺ちゃんがアズカバンに入れられるのはおかしい。マグル生まれだってだけでひどい目に遭わされるのも」
「スコーピウス……」
「お母さん、僕を助けて。僕にはお母さんの力が必要なんだ。一緒にホグワーツに来て」
「私は行けないわ……」

 ハリエットは痛ましげに視線を逸らした。

「私はここから離れられない。約束してるの」
「誰と?」

 なおもハリエットは首を振る。

「私がここから逃げ出せば――ヴォルデモートに反旗を翻せば、あなたもあの人も殺されるわ。お義父様も、お義母様も。他にも殺される人がいるかもしれない。私にはそんなことできない」
「……分かった」

 レギュラスはしっかりと頷き、立ち上がった。

「お母さんが動けないのなら、代わりに僕が動くよ。僕がお母さんの分までやってみせる」
「スコーピウス……不安だわ、何をやるの? 私をあまり心配させないで。危ないことじゃないでしょうね?」
「でも、やらなきゃいけないことなんだ。僕のせいだから」

 レギュラスは身を翻した。だが、歩き出そうとした彼の手をハリエットはひしと掴む。

「スコーピウス・レギュラス・マルフォイ……」
「えっ?」
「私は、本当はあなたにレギュラスと名付けたかったの。シリウスの弟さんの名前よ。私は彼から名前をもらうつもりだったの。シリウスともそう約束していて。……でも、お義父様に反対されて――」

 ハリエットは思いを振り払うようにして微笑んだ。レギュラスに手を伸ばし、目にかかっていた前髪を優しく払う。

「勇気を内に秘め、家族を大切にする――そんな人になって欲しかったの。レギュラスさんは、自分の信念を貫いた人よ」

 レギュラスは微笑みを返した。

 ハリエットから何度も聞かされていた言葉だった。『レギュラス』という人について、シリウスやクリーチャーから生前の話を聞いたこともある。その名前が、今も己のミドルネームに入っていることが、レギュラスに勇気を与えた。

「私は今まで……母親としてろくに何もできなかったけど……あなたのこと愛してるわ」
「僕もだよ」

 レギュラスは身を屈めてハリエットの頬にキスをした。ハリエットは驚いたように目を丸くする。

「お父さんもお母さんのことも大好きだ。だから行くね」

 レギュラスの瞳には決意が宿っていた。


*****


 魔法省の煙突を借りて、レギュラスは再びホグワーツに戻ってきた。出迎えたのはもちろんアンブリッジで、レギュラスは問答無用で授業へと送り出された。だが、こんな非常事態に呑気に何かを学んでいられる訳もなく、レギュラスはすぐに図書室に籠もりっきりになった。必死になって歴史書を漁り倒す。

「どうしてヴォルデモートは生きてるんだろう? 何か見逃してるのかな? お母さんが拉致されなかっただけで、どうして魔法界はこんな風に――」
「サソリ王」

 もうすっかり慣れてしまったその呼び名に、レギュラスは振り帰った。すぐ目の前には、居住まいが悪そうにクレイグ・バウカーJRが立っていた。

「どうかした?」
「伝言です。スネイプ先生から。なぜ授業に出なかったのかと。理由によっては罰則もあるので、すぐに地下牢の教室に来るように、と」
「……スネイプ先生?」

 レギュラスは素っ頓狂な声を出した。今、彼はなんと言ったのだろう?

「スネイプ先生は生きてるの?」

 思わず疑問が口をついて出たレギュラスに、クレイグは不思議そうな顔をした。

「も、もちろん……とにかく、伝えましたからね」

 辺りを憚るようにしながら、クレイグは出て行った。レギュラスはなおもポカンとしていたが、やがて我に返ると、慌てて図書室を出た。目指すは、唯一の希望かもしれないスネイプの下へ。

 随分前に授業は終わったらしい。地下牢の教室はしんとしていた。そんな中、レギュラスはバタバタと騒々しくその扉を開けた。

「君のお父上はドアをノックすることを教えなかったのか?」

 レギュラスは息も絶え絶えにスネイプの顔を見つめた。紛れもなく、セブルス・スネイプだった。眉間の皺の数ですら、レギュラスのよく知る魔法薬学教授と同じだ。

 スネイプは、返事も返さないレギュラスに、一層眉間の皺を深くする。

「お前のサソリ王振りにもついにほつれが出始めたようだ。校長が訝しんでおる。そんな調子では、お父上の後は継げぬぞ」

 レギュラスはじわじわ口角を上げながら一歩スネイプに近づいた。まるで今にも抱き締めたいと言わんばかりのその表情に、スネイプは一種の悪寒を覚える。

「スネイプ先生……会いたかったです……」

 レギュラスはじりじりとにじり寄ってくる。スネイプは咄嗟に立ち上がり、一歩後ずさった。

「我輩も……ああ、さよう、会いたくはあった。授業に出なかった理由を聞くためにな……。だが、我輩とお前の間にはかなりの熱の差があるような気がするのは気のせいではあるまい……」
「良かった……先生の毒舌はいつも通りだ……」

 レギュラスはついに満面の笑みになり、ぐっと身を乗り出した。スネイプは反対にぐっと身をのけぞらせる。

「今すぐにお前が退かなければ、罵声を浴びせることもやぶさかではない……それとも減点の方がお好みですかな?」
「減点でも何でも先生の好きなようになさってください。でも、僕の話を聞いてください!」
「ではまず話を聞ける体勢にして頂けますかな? 我輩の平衡感覚に狂いがない限り、お前は些か近すぎだと思うのだが」

 レギュラスはようやく元の体勢に戻った。スネイプとの距離の近さはそう変わらないが。

「僕は、先生に助けて頂きたい……でも、どんな風に助けて頂きたいのか分からないんです」
「では、頭の整理をしてから我輩の部屋に突撃してもらいたいものですな。罰則として教室の掃除をして今日は帰るのだ」
「そんな訳にいきません!」

 レギュラスはまた身を乗り出した。スネイプはうんざりした顔になって身をのけぞらせる。

「先生は……今は誰を支持しているんですか? 今もダンブルドアを支持しているんですか?」
「ダンブルドアはもう死んだ。それに、その名を口にするのは非常に危険なことだぞ。マルフォイ家の名前をもってしても、私が罰則を科すのを妨げるものではない」
「知ってます! 先生は隙あらば僕たちに罰則を科してたんだから――じゃ、なくて! 話を逸らさないでください!」
「話を逸らしているのはお前の方だ」

 スネイプは冷静に切り返した。頭痛を発症し、忌々しげに顔を歪めた。レギュラスは諦めずに彼に顔を近づける。

「別な世界が存在する、と言ったら――ヴォルデモートがホグワーツの戦いで敗れた世界が、ハリー・ポッターとダンブルドア軍団が勝った世界があると言ったら、先生はどう思われるでしょうか……」
「ついにお前の頭がおかしくなった、と考えるであろう……」
「逆転時計があるんです。僕が盗みました。アルバスと一緒に。その世界では全てが平和です。ヴォルデモートもいない。でも、お父さんとお母さんは中傷に苦しんでいます。死喰い人と継承者だっていう中傷に……僕たちは、それを何とかしたくて、過去を変えようと決めたんです。でも、それが間違いだった。僕たちが変えたのは……何か、とても大切なことだった。なくてはならない事件だった……分かりません――教えてください。ホグワーツの戦いで何があったんですか? ハリー・ポッターは一度死んだと思われて――でも、透明マントの中から姿を現して、ヴォルデモートと対決し、敗れたはずです。どうしてハリー伯父さんは死んでしまったんですか?」

 スネイプは疑り深い顔をしながらも、渋々口を開いた。

「ハリー・ポッターは……ヴォルデモートと対決した。そこまでは一緒だ。だが、敗れた。敗れたのはハリー・ポッターの方だ。確かに、一度はハリー・ポッターが勝利したかに思えた。だが、その時ナギニの身体が光り――倒れたと思ったはずのヴォルデモートは蘇り、ハリー・ポッターを殺した」
「ああっ!」

 レギュラスは頭を抱えた。全ての事象が繋がった瞬間だった。

「そうだ、それなんだ! ヴォルデモートを倒すには、まずナギニを殺さなければならなかった……。本来は、お母さんがナギニを殺すはずだった。でも、お母さんは伯父さんが死んだと思って絶望していた。お母さんを奮い立たせたのはお父さんだった! ただそれには――お父さんがヴォルデモートに刃向かう決心をさせる出来事が必要だった! お父さんは、お母さんを拉致しなくてはならなかったんだ!」

 目まぐるしくレギュラスは考えを巡らせ、最後の、必死の切り札を出した。

「先生はお母さんのお母さんを愛した。本にもなったから知ってます。お母さんの母親――リリーだ。先生はリリーを愛していた。だからハリー伯父さんとお母さんを救おうとした。一生懸命手助けしていた。そのことはダンブルドア先生だけが知っていた。そうでしょう? でも、ダンブルドア先生が亡くなった後も、あなたは二人を影で手助けしていた。先生はいい人です。僕らにとってはあんまり良い先生じゃなかったけど……でも、先生がいなかったら、僕らは生まれてこなかった」
「……母親からそんな戯れ言を聞いたのか?」

 静かな口調でスネイプは問うた。レギュラスは首を振る。

「お母さんは、僕に何も話してくれていませんでした」

 推測でしかないが、レギュラスは何となく察していた。

「僕にシリウスという名のお爺ちゃんがいることも、ロンとハーマイオニーという二人の親友がいたことも、何も。僕がこの世界を生きづらいと思わないようにするために何も話さなかったんだと思います。何が間違ってるか、何が正しいのかも教えずに――お父さんは、僕にサソリ王を演じるように言いました」

 レギュラスはキッと顔を上げた。

「僕は、変えてしまった過去を元に戻さなくちゃならないんです。でも、それには先生の力が必要なんです。もし全てが元通りになれば――ハリー・ポッターも生きているし、罪もない人がアズカバンに入れられることもなく、マグル生まれがひどい目に遭うこともないんです」

 レギュラスを見ながら、スネイプは戸惑いの色を隠せずにいた。何か裏があるのではないかとレギュラスを見透かすように見つめている。

「ハリー・ポッターは死んだ」
「僕の世界では違います。ハリー伯父さんとお母さんは、あなたこそ、二人の出会った中で一番勇敢な人だと言いました。それだから、特にハリー伯父さんは、自分の息子の名前を――僕の親友の名前を――尊敬する二人の名前から取ったんです。アルバス・セブルス・ポッターと」

 スネイプはピタリと動きを止めた。深く心を動かされている様子だった。

「どうか――リリーのために、世界のために、僕を助けてください」

 スネイプは考え込み、レギュラスに近づきながら杖を握った。レギュラスは睨むようにして立ち向かった。スネイプはドアに向かって呪文を放つ。

「コロポータス」

 見えない錠がガチャリとかかった。スネイプは教室の奥の小さな潜り戸を開く。

「さあ、来るんだ」
「どこへ行くんですか?」
「我々は何度も移動しなければならなかった。居場所と定めた所は全部破壊された。この道は暴れ柳の根元に隠された部屋に続いている」
「我々って誰ですか?」
「すぐに分かる」

 スネイプは短く返し、身体を屈めた。