■呪いの子

30:三度目の介入


 階段を上り、四人は地下牢教室へ出た。地下よりは温かく、そして広い場所だ。にもかかわらず、彼らの表情は硬く強ばっている。

「まだ授業中なことが幸いした……」
「誰か先生が徘徊してるかもしれないわ。気をつけて……」

 今こそ透明マントがあれば、とどれだけ願ったことだろう。だが、吸魂鬼に透明マントは効かないので、どちらにせよ意味がなかったかもしれないが。

「でも、ハーマイオニーおばさん」

 不意にレギュラスが口を開いた。

「僕分からないことがあるんだけど……」
「この世界でハーマイオニーのことそんな風に呼べるのは君だけだぜ」

 ロンのからかいを無視し、ハーマイオニーは微笑んだ。

「何かしら?」
「一度目の介入は、秘密の部屋の事件を起こさせないようにするものだった。その結果、僕らは生まれてこなかったけど……でも、魔法界は平和だった。お母さんとお父さんの絆はなかったのに、お母さんはナギニを倒せたのかな?」

 様変わりした魔法界の原因がナギニだと分かったとき、レギュラスはこれしかないと思ったが、しかし、よくよく考えてみると急に不安になったのだ。一度目は、二人は両思いではないし、父はヴォルデモートを裏切ってもいない。それならば、母はどうやってナギニを倒せたのだろう、と。決死の覚悟でハーマイオニー達は外に出ているのに、介入する原因が見当違いでした、では話にもならない。

「……私が今から話すことは、全て憶測でしかないけど」

 ハーマイオニーは、そう前置きした。

「三年生以降、ハリエットはそれまで以上に大人しく、目立たないようになったわ。談話室で大泣きして以降……。きっと、あの事件以来、私達が分からない所で、ずっと自分を責め続けていたんだわ。六年生の時、ダンブルドア先生からハリエットに何も情報を与えないよう言われたってハリーが伝えたときに、ハリエット、自分がリドルの日記に操られたからかって尋ねたもの。……まさか、何年も経ってもなおハリエットが秘密の部屋のことを気にしているとは思わなかった」

 ハーマイオニーは悲しそうに首を振った。

「だからね、秘密の部屋のせいで、ハリエットは自信を失っていたのよ。たぶん、その先の人生の中で何が起こったとしても、永久に取り戻すことのできない心の奥底の自信を……。だから、継承者じゃなかったハリエットにはナギニが殺せて、継承者だったハリエットには、誰かに勇気を与えてもらわなきゃ、ナギニを殺せなかった。私はそう思うわ」
「……うん……」

 複雑な思いで、レギュラスは頷いた。ハーマイオニーの話を聞いて、レギュラスは、今更ながらに一度目の、秘密の部屋が開かれなかった魔法界の時の方が、母にとっては良かったのではないかと思っていた。

 継承者じゃなければ、ハリエットは自信を失わない。もちろんドラコとの関わり合いもないので、拷問を受けることもない。

 アルバスの話では、ハリエットもドラコも結婚しているのだ。その世界でも二人は幸せなのだ。なら、自分たちはいない方が――。

「でもね」

 レギュラスのそんな不安を見透かしたように、ハーマイオニーは優しく言った。

「自信を失っても、拷問を受けたとしても、ハリエットはハリエットだと思うの。ハリエットは、きちんと立ち直ることのできる人だわ。他人の痛みをわがことのように考えすぎるきらいはあるけど――でも、それだって素敵な長所でもあると思う。私は、誰かに整備された道を歩くことを、ハリエットは良しと思わないと思う。その時その時自分に課せられた道を、運命を歩いていきたいと願うと思う。もちろん、私だってハリエットが苦しむのは嫌だわ。でも、ハリエットは、私達のよく知るハリエットは――」

 言葉を切り、ハーマイオニーは顔を上げた。階段を上がりきった所で、突然辺りが薄暗くなったのだ。身体の芯が凍り付きそうな冷たい風が、地面から忍び寄ってくる。

 窓の外に、黒いローブが漂っていた。ローブは黒い人影となり、そして吸魂鬼の形になる。

「見つかった」

 いち早くハーマイオニーが叫んだ。

「奴らは私を狙っている。あなた達じゃない。――ロン、愛してるわ、ずっと前から。あなた達三人は逃げて。さあ、早く」
「えっ」

 あまりにも唐突な愛の告白に、ロンは面食らっていた。

「あの……えーっと、まずはもう少し詳しく今の話を聞かせてくれないか?」
「ヴォルデモートの世界なんてもううんざり。過去を変えれば、何もかもが変わる。早く行って!」
「でも、吸魂鬼はハーマイオニーおばさんにキスする。魂を吸い取るよ!」
「君が過去を変えるでしょう。そうなれば、こいつらはそれができなくなる。行きなさい、早く」

 吸魂鬼が四人の存在に気づいた。奇声を発しながら、窓から一斉に飛び込んでくる。

「行くんだ! 一緒に来い!」

 スネイプに腕を引っ張られ、レギュラスは躊躇いながらついて行った。ハーマイオニーが、まだ動こうとしないロンを見る。

「あなたも行くのよ」
「うーん、こいつらは少しは僕を狙っている。うん、一匹や二匹……もしかしたら全部かも。それだったら、僕もここにいて囮役を引き受けた方が――いや、今はとぼけるのは無しだ。あのさ、正直に言うと、僕はむしろここにいたいんだ」

 微笑み、ロンは杖を構えた。

「エクスペクト――」

 ロンは呪文を放とうとしたが、ハーマイオニーがその腕を押さえた。

「こいつらをここに引き留めて、あの子に、私達にできる限りのチャンスを上げましょう」

 ロンはハーマイオニーを見て、悲しそうに頷いた。手は繋がったままだった。

「娘と息子だって」

 ハーマイオニーは小さく呟く。彼女に向かってロンは優しく微笑んだ。

「今なら超特大の守護霊が出せる気がする」
「見てみたかったわ」

 二人は周りを見渡した。自分の運命は分かっていたが、しかし――。

「怖いな」
「キスして」

 ハーマイオニーが静かに言った。ロンは少し考えてその通りにした。

 やがて、襲いかかってきた吸魂鬼によって、二人は乱暴に引き離され、地面に押さえつけられた。金色がかった白い靄が、二人の身体の中から引きずり出された――。


*****


 餌に群がるハイエナのように、一点に集中する吸魂鬼の群れを見ていれば、嫌でも何が起こったのか分かった。その群れの中からは、パトローナスを呼ぶ呪文すら聞こえなかった。ロンとハーマイオニー、二人ほどの実力者なら、守護霊などお手の物のはずなのに――。

「歩け、走るな」

 レギュラスの腕をしっかり掴みながら、スネイプは極力落ち着いた声で言った。教え子の動揺をスネイプは感じ取っていた。

「落ち着け、レギュラス。あいつらは目が見えないが、お前の感情を感じ取ることができる」
「でも……でも、おじさんとおばさんが、二人が今……魂を吸い取られた――」

 吸魂鬼が一体、二人の頭上に襲いかかり、レギュラスの行く手を塞いだ。

「レギュラス、何か別のことを考えるのだ。別のことだけを考えろ」

 レギュラスはぶんぶん首を振った。意志に反して身体が震える。

「寒い。目が見えない……」
「お前はキングだ。私は教授だ。あいつらは襲う条件がなければ襲わない。愛する人のことを考えろ。なぜこんなことをしているかを考えろ」
「お母さんが苦しんでる。磔の呪文を受けてるんだ。泣いてる。僕は……僕は、これからお母さんをあんな目に遭わせに行くんだ。僕がお母さんを苦しめるんだ――」
「違う、お前のせいではない!」

 レギュラスは抵抗すらできなかった。されるがまま、吸魂鬼が作り出す絶望に支配されている。スネイプはレギュラスに向き直った。

「この世界の母親と、お前がいた世界の母親、どちらがより幸せそうだった!? この先消えない傷を負ったとしても、彼女は前を向いて生きようとしていなかったか!? 私の知るハリエット・ポッターはそういう人だ! お前が見た母親はどうなのだ!?」

 徐々にレギュラスの瞳に光が戻った。意志を宿した顔で吸魂鬼から離れる。

「お母さんは……自分が傷つくことよりも、周りの人が傷つくのを嫌がる。きっと……僕がやり遂げることを望んでる」
「スネイプ先生!」

 その時、突然背後にアンブリッジが現れた。

「アンブリッジ校長」
「ニュースを聞きましたか? 穢れた血のハーマイオニー・グレンジャーを捕まえましたわ。今し方、ここにいたのですよ」
「それは……喜ばしいことですな」

 アンブリッジはなおもスネイプを睨み付けている。何かを見透かそうという魂胆が見えていた。

「あなたと一緒にね。グレンジャーは、あなたと一緒にいましたのよ」
「私と? 何かの間違いです」
「あなたと、スコーピウス・マルフォイと一緒にですわ。ますますわたくしの心配の種になっていた生徒と一緒にです」
「校長、我々は授業に遅れそうなのだ。失礼して……」
「授業に遅れそうなら、どうして学校を出ようとしているの? どうして玄関へ向かっているんでしょう?」

 完全な沈黙が訪れた。それからスネイプが、全く彼らしくなく――笑みを浮かべた。

「いつから私を疑っていた?」
「もう何年も。もっと早く対処すべきでした」

 アンブリッジは宙に浮き、両腕を大きく広げた。闇の魔術が全身に満ちている。杖を構えたが、スネイプの方が早かった。

「デパルソ! 除け!」

 アンブリッジの身体が後方に吹き飛んでいく。

「さあ、もう後戻りはできない。エクスペクト パトローナム!」

 スネイプの杖の先から、白く美しいパトローナスが飛び出した。牝鹿の守護霊だ。

「お前は逃げるのだ。こいつらは私の力の続く限り遠ざけておく」

 吸魂鬼の集団が二人を囲み始めていた。滲み出るような悪寒が二人を襲う。

「ありがとうございます。先生は僕の、闇の中の光です。減点ばかりされても、もう口答えしないようにします」
「口答えは構わない……おそらく、戸惑っているだけだ。どう接すれば良いか分からず……」

 スネイプはもごもご答えた。

「アルバスに伝えてくれ。アルバス・セブルスに――私の名前がついていることを、私が誇らしく思うと。さあ、行け、行くんだ!」

 牝鹿がスネイプを見た。スネイプは頷き、すると牝鹿は今度はレギュラスを見て、それから走り始めた。レギュラスは一瞬躊躇って、その後を追って走る。

 スネイプは身構えた。

 襲いくる吸魂鬼に地面に乱暴に押さえつけられる。身体から徐々に魂が引き離されていく。

 牝鹿が振り返って美しい瞳をスネイプに向け、そして消える。バーンという大きな音と閃光。

 そして静寂。長い静寂。

 全てが静止し、穏やかで、完璧な安らぎに満ちていた。

 突然ガタゴトと箒置き場が揺れる。立てかけられていた箒を巻き込み、レギュラスがこけた所だった。何も考えず、扉を押し開ける。隙間から飛び込んでくる眩しい陽光。その僅かな隙間から、みずみずしい青い空が覗き込んでいた。

 しばらくして、後ろからアルバスがよろよろと出てきた。

「全く、どうなってるんだ? 扉の立て付けが悪かったのか? アロホモーラを使っても全然扉が開きやしない」
「君にまた会えて、僕がどんなに嬉しいか」

 振り返って笑うレギュラスに、アルバスは目をぱちくりさせた。

「ついさっき会ったばかりじゃないか」

 にへらっと笑ってレギュラスはアルバスをハグした。

「それからいろんな事があったんだから」
「でも、僕らは結局何もできなかった。どうしてか箒置き場から出られなくて、魔法の一つも出せやしなかったんだから」
「それ、僕がやったんだよ。必死になって君よりも早く『コロポータス』を何度も唱えたんだ」
「何だって? 一体何のために? 君、蛙チョコを食べ過ぎたんじゃないか? 分かった、僕に内緒で、こっそりチョコを持ち込んだんだろう」
「それきた――辛辣なユーモア、アルバス流だ。僕のことよく分かってる。好きだよ」
「いよいよ僕はもうお手上げだぞ……」
「アルバス!」

 ぐいっと箒置き場の扉が開かれた。そこから覗くのは、ハリー、ハリエット、ドラコ、ジニー、シリウス、ロン、スネイプ、ルーピン――何とも大勢に出迎えられ、二人はしばし固まった。

「アルバス、アルバス、大丈夫か?」
「レグ、怪我はない?」

 アルバスはポカンとし、レギュラスはじわじわと喜びが胸を打つのを感じた。やがてパアッと喜色をその顔に広げる。

「ハリー・ポッター! ハリー伯父さん! 生きてる! シリウスお爺ちゃん!」

 レギュラスは喜び勇んでシリウスに抱きついた。

「ロンおじさんも、普通の格好になってる! やっぱりそっちの方がおじさんらしくていいや! お母さん、大好きなお母さん! ちゃんと幸せそうだ……それに僕のお父さん! やあ、お父さん!」
「やあ、レグ」

 レギュラスはせわしげに一人一人とハグをした。ちゃんとスネイプも忘れずに。スネイプはスニッチのような速さでレギュラスから飛び退いた。

「どうやら、過去へ行っている間に君たちの息子は頭がやられたらしい……」
「僕の頭は正常です!」
「逆転時計を盗み出し、過去を変えようとするのは正気の沙汰とは思えぬが」

 レギュラスは、即座に大人達が何を知っているのかに気づいた。慌ててローブのポケットをまさぐる。

「あ……あ……どうしよう。どこに行ったのかな?」
「どうしたの?」
「無くしちゃった! 逆転時計を無くした!」
「何だと!?」

 スネイプはみるみる般若へと変化した。

「お前は――過去へ行くだけでなく――逆転時計まで無くしたのか!? どれだけ厄介を持ち込めば気が済むんだ!」

 スネイプの怒声が玄関に響き渡った。レギュラスはおろおろと彼を見上げることしかできなかった。