■番外編 ***が死んだ世界で
02:破れたハリー
(呪いの子『集う反逆者達』読了推奨)
「ハリー・ポッターは死んだ」
ヴォルデモートのその言葉が、ハリエットの胸を深く突き刺した。ロン、ハーマイオニー、シリウスがハリーの名を呼ぶ声が聞こえる。ハリエットはただ打ちひしがれてその場に立ち尽くしていた。
「惑わされた者どもよ、今こそ分かっただろう? ハリー・ポッターは最初から何者でもなかった。他の者達の犠牲に頼った小僧に過ぎなかったのだ!」
ヴォルデモートが、ハリーのことを侮辱している。悔しい。悔しくて堪らないのに、ハリエットの思いは言葉にならない。ただ茫然と涙を流すだけだ。
唯一の救いは、ヴォルデモートの『我が下に下れ』という命令に、ホグワーツ陣営の誰も従わなかったことだ――いや、しかし、ハリーが死んだ今となっては、抵抗を続けることに、何の意味があるのだろうか? 唯一ヴォルデモートを倒せるハリーは死んでしまった。自分が人質になったせいで、死んでしまった――。
いや、一人だけヴォルデモートの方へと足を進める者がいた。無造作に髪の垂れた、埃や煤で顔が汚れたドラコ・マルフォイだ。ガラガラと足場の悪い瓦礫を踏みしめ、前へ進んでいる。
「ドラコ!」
ルシウスが彼の名を呼んだ。声一杯に安堵の思いが溢れている。突然ホグワーツが戦場になり、そこで最終学年を過ごしていた息子の消息が不明になったことで、彼は生きた心地がしなかったのだ。
「ドラコ、さあ、おいで。こちらに――」
「ドラコ」
ヴォルデモートは大仰に両手を広げ、ドラコを迎え入れた。軽く背中を叩きながら、満足そうに頷く。
「良い……良い。もちろん俺様は大歓迎だ。お前は見事死喰い人を手引きし、ダンブルドアを殺害するのに一役買った。その上お前の高貴な純血の血は惜しい。俺様もマルフォイ家の血筋を絶やすのは忍びなかったのだ……。俺様の下に来てくれて嬉しいぞ」
ドラコの無感動な視線が、ハリエットの虚ろな視線と交錯した。瞬間、二人の間には、様々な感情が入り交じった。
走馬灯とでもいうのだろうか。死ぬ間際という訳ではないのに、突然、初めての出会いからまでに至るまでのことが鮮明に蘇ってきた。どんな出来事があったか、どんな話をしたか、どんな表情をしていたか、その時自分が何を思ったか――そんな些細な所までもが、次々に二人の胸を打った。
やがてヴォルデモートは、ドラコがどこを見ているのかに気づいた。おかしそうに口角を上げる。
「今俺様は気分が良い。ドラコよ、お前に小娘を与えよう」
彼が合図をすれば、近くの死喰い人がハリエットを乱暴に押し出した。全く力の入っていなかったハリエットは転びかけたが、ドラコに支えられる。
「さあ、他の者はどうするか? 大人しく俺様の下に下った者には望む地位や褒美を与えることも厭わぬ」
ヴォルデモートの最後通告にも、誰一人としてなびく者はいなかった。彼は不愉快そうに唇を歪める。
「愚か者どもめ。良いだろう、お望み通り、一人残らずあの世行きにしてやろう」
ホグワーツ陣営は、皆杖を手に臨戦態勢を取った。と同時に、ヴォルデモートも徐に杖を振り上げた、その時。
遠い校庭の境界からどよめきが聞こえた。遠くの塀を乗り越えて、何百とも思われる人々が押し寄せ、雄叫びを上げて城に突進してくる音だ。
同時に、グロウプが叫びながら、城の側面からドスンドスンと現れた。その叫びに応えて、ヴォルデモート側の巨人達が吠え、大地を揺るがしながらグロウプめがけて突っ込んでいく。
更に蹄の音が聞こえ、弓弦が鳴り、死喰い人の上に突然矢が降ってきた。不意を突かれた死喰い人は叫び声を上げて隊列を崩す。
「ハリー!」
ハグリッドの声が響いた。
「ハリー――ハリーはどこだ!?」
何もかもが混沌としていた。誰もが巨人達に踏み潰されまいと逃げ惑った。空から新たな援軍もやってきた。セストラル達やバックビークが、巨人達の目玉をひっかく一方、グロウプは相手をめちゃくちゃに殴りつけていた。
そして今や、ホグワーツの防衛隊とヴォルデモートの死喰い人軍団の区別なく、魔法使い達は城の中に退却せざるを得ない状態となった。
ハリエットは、ドラコにぐいぐい腕を引っ張られながら、戦線とは逆方面に歩いていた。微かに後ろ髪引かれる思いだったが、ハリーが死んだ今、ハリエットは無気力だった。もはや何もかもがどうでもいい。自分が戻った所で、一体何になる――。
「ドラコ!」
突然横から現れたナルシッサは、悲鳴のような声を上げながらドラコを抱き締めた。続いてルシウスも死喰い人の波をかき分けて歩いてくる。
「ドラコ、無事で良かった。早々のうちに離脱するぞ。ここは危険だ――」
ルシウスの目がハリエットに留まる。彼は不愉快そうに顔を顰めたが、何も言わなかった。
「行くぞ、いつ何時流れ弾が来るか――」
「ハリエットから手を離せ!」
視界の隅でちらついた閃光に気づき、ルシウスはすんでの所で盾の呪文を出した。パッと振り向けば、怒りで総毛立ったシリウス・ブラックが立っている。ルシウスはサッと妻と息子、そしておまけのハリエットを後ろに追いやった。
「これはこれはブラック……。息子が我が君に与えられた『褒美』に何か用かな?」
「戯れ言を! お前なんかに誰がハリエットをやるものか!」
シリウスは猛々しく杖を振るい、真っ直ぐドラコに呪文を放ったが、ルシウスに阻まれる。そのまま二人は激しい戦闘に突入した。
ナルシッサは怯えた顔でドラコを避難させようとしたが、ドラコはその場から動かなかった。ルシウスとシリウス、二人の間に大きな盾を出し、一時的に戦闘を中断させる。
「父上、止めてください」
「ドラコ、何を――」
「行け」
ドラコはハリエットの背を押した。ハリエットは困惑した視線を彼に向ける。
「行け!」
ハリエットはよろよろと歩き出し、シリウスの腕の中に飛び込んだ。シリウスは顔をくしゃくしゃに歪めてハリエットを抱き締め、そして周囲を警戒しながら、ホグワーツ城へと撤退していく。
二人に追い打ちをかけることもできたが、それすらも息子に止められ、ルシウスは苛立たしげに髪をかき上げた。
「私がブラックなぞに負けると思ったのか?」
「違います」
ドラコは多くは答えず、遠い目をして父を見上げた。
「父上、僕たちも行きましょう。ここから逃げ出せば裏切り者と見なされます」
「しかし」
「父上」
静かに訴えてくるドラコに、ルシウスは頷くほかなかった。直に闇の帝王の時代が到来するのは目に見えている。ならば、勝ち戦でわざわざ戦線から離脱する方が愚かというもの。
ルシウスは油断なく杖を構えながら、ドラコとナルシッサを伴い、ホグワーツへ乗り込んだ。
*****
ハーマイオニーは油断なく戦況を見極めていた。頬を誰かの閃光が掠めても、彼女は表情を変えることすらせず、ただじっと一点を見つめ続け、じりじりと距離を詰める。
ハリーは死んでしまった。その事実はハーマイオニーをこれでもかというほど痛めつけた。しかし、同時に今こそ奮い立つべきだと己を鼓舞した。
魔法界の希望は断たれた。だが、本当に?
ハリーは確かに死んでしまった。だが、ハリーの意志は、共に旅をしてきた自分達の中に根付いているのではないだろうか?
ハリーは最後まで勇敢に戦った。なら、私だって――。
最後の分霊箱を破壊する。
それが、今自分にできうる最大の事だとハーマイオニーは思った。
チャンスは一度きりしかない。失敗すれば、己の命はない――いや、それどころか、この場にいるホグワーツ陣営全ての命が危うい。失敗は許されない。
ヴォルデモートは、マクゴナガル、キングズリー、スラグホーンの三人を相手取って戦っていた。だが、それでも彼の顔に苦戦の様子はない。まるで虫でも払うかのように杖を振るい、そして三人が吹き飛ばされたとき、確かに隙ができたとハーマイオニーは確信した。ヴォルデモートは、三人をぐるりと見回し、己の戦績に酔いしれている。
ハーマイオニーは大きく息を吸い込み、バジリスクの牙を振りかざし、大蛇に飛びかかった。
「――っ!」
もう少しでその喉を仕留められる――その瞬間、ハーマイオニーは凄まじい衝撃で後ろに吹き飛ばされた。何か激しい呪文が胸を打ち、一瞬呼吸ができなくなる。ハーマイオニーはゲホゲホ咳を繰り返した。
「穢れた血め! 我がナギニを殺めようとは!」
ヴォルデモートは瞬時に魔法の球を作り出し、その中にナギニを閉じ込めた。そして真っ直ぐ杖をハーマイオニーに向けながら、口を開く――。
「プロテゴ!」
勇敢で、頼もしい声だった。その声が、ハーマイオニーの前に立派な盾を作り出した。
ヴォルデモートは呪文の出所を目を凝らして探した。ハリエットも、一抹の希望と共にぽっかり空いた空間を見つめる。何もなかったそこから突如姿を現したのは、ハリー・ポッターだった。
衝撃の叫びや歓声があちこちから沸き起こった。だが、たちまちそれも止む。ヴォルデモートとハリーが睨み合い、同時に、互いに距離を保ったまま円を描いて動き出したのだ。
「ハリー、ハリー……!」
ハリエットは流れ出る涙をそのままに、ただ歓喜に打ち震えることしかできなかった。シリウスも震えながらハリエットの肩を抱く。しかしすぐに我に返り、ハリーの助太刀をしようと飛びだしかけたが、それより先にハリーが制する。
「誰も手を出さないでくれ。こうでなければならない。僕でなければならないんだ」
ハリーが大声で言った。
「お前の相手は僕だ」
「ハリー・ポッター! 死の淵から舞い戻ったか!」
ヴォルデモートは愉快そうに腕を広げた。その表情は余裕そのものだ。
「して、だからどうだと言うのだ? 森にいたお前と、今のお前。一体何が違うのだ? 蘇ったとはいえ、お前は再び俺様にやられる。何度生き返ってもなお」
愛でるようにヴォルデモートはナギニの魔法の球を撫でた。
ハリーは僅かに怯んだ。ヴォルデモートはそれを確かに見抜いていた。
「お前はそのちっぽけな身一つで俺様と戦おうというのか? それとも、確信でもあるのか? 俺様の武器より強力な武器を持っていると」
「持っている」
ハリーは静かに言った。
「僕にはこの杖がある」
「ほう、杖とな?」
ヴォルデモートは嘲笑を浮かべ、それに合わせて死喰い人達にもさざ波のように笑いが広がる。
「だが、ハリー・ポッター、残念なことに、俺様も杖を持っている。それも、お前の借り物の杖とは似ても似つかない、最強の杖を」
「確かに、僕の杖は折れた。でも、お前のそのニワトコの杖を打ち破る自信がある」
「戯れ言を――」
「いいか? その杖はまだ、お前にとっては本来の機能を果たしていない。なぜならお前が殺す相手を間違えたからだ。セブルス・スネイプが、ニワトコの杖の真の所有者だったことはない。スネイプがダンブルドアを打ち負かしたのではない」
「スネイプが殺した――」
「まだ分かっていないらしいな、リドル?」
今度はハリーが嘲笑を浮かべる番だった。
「杖を所有するだけでは十分ではない! オリバンダーの話を聞かなかったのか? 杖は魔法使いを選ぶ……ニワトコの杖は、ダンブルドアが死ぬ前に新しい持ち主を認識した。その杖に一度も触れたことさえない者だ。新しい主人は、ダンブルドアの意志に反して杖を奪った。その実、自分が何をしたのかに一度も気づかずに。この世で最も危険な杖が、自分に忠誠を捧げたとも知らずに……」
ハリーは息を吸い込んだ。
「ニワトコの杖の真の主は、ドラコ・マルフォイだった」
ヴォルデモートの顔が衝撃で一瞬茫然となった。慌ただしく視線を彷徨わせるが、目につく所にドラコの姿はない。
大広間の隅で話を聞いていたルシウスとナルシッサは、守るようにサッと息子を抱き締めた。
「……それがどうだと言うのだ? お前が正しいとしても、お前にも俺様にも何ら変わりはない。お前にはもう不死鳥の杖はない。我々は技だけで決闘する……そして、お前を殺してから、俺様はドラコ・マルフォイを始末する……」
「遅すぎたな」
ハリーは笑った。
「お前は機会を逸した。僕が先にやってしまった。ずっと前に、あいつの家で僕が武装解除した」
ハリーは囁くように言った。
「要するに、全てはこの一点にかかっている、違うか? お前の手にあるその杖が、最後の所有者が『武装解除』されたことを知っているかどうかだ。もし知っていれば……ニワトコの杖の真の所有者は、僕だ」
二人はしばし、微動だにしなかった。だが、頭上の、魔法で空を模した天井に、突如茜色と金色の光が広がり、それが同時に二人の顔に当たった瞬間、時は動き出した。ヴォルデモートが甲高く叫ぶと同時に、ハリーは杖で狙いを定め、天に向かって叫ぶ。
「アバダ ケダブラ!」
「エクスペリアームス!」
ドーンという大砲のような音と共に、二人が回り込んでいた円の真ん中に、黄金の炎が噴き出し、二つの呪文が衝突した。その瞬間、ニワトコの杖は高く舞い上がり、朝日を背にくるくると回りながら、ご主人様の下へと向かった。ついに杖を完全に所有することになった持ち主に向かって、自分が殺しはしないご主人様に向かって飛んできた。ハリーの片手が杖を捕らえた。その時、ヴォルデモートは両腕を広げてのけぞり、床に倒れた。ありふれた、トム・リドルの最期だった。その身体は弱々しく萎び、蝋のような両手には何も持たず、蛇のような目は何も映していなかった。
ヴォルデモートは、跳ね返った自らの呪文に撃たれて死んだのだ。
身震いするような一瞬の沈黙が流れ、衝撃が漂った。次の瞬間、ハリーの周囲がドッと湧いた。見守っていた人々の悲鳴、歓声、叫びが空気をつんざいた。皆が皆、ハリーに駆け寄ろうとした。
だが、異変は起こる。宙に浮いていたナギニがヴォルデモートへと近づき、光り始める。ハリーは血相を変えてナギニに妨害呪文をかけたが、分霊箱に魔法は効かなかった。ナギニは光りながらゆっくりとヴォルデモートの死体と溶け込む――。
不意にヴォルデモートの身体が蠢く。皆の顔は恐怖に引きつった。まさか、いや、そんなことある訳がない――。
ヴォルデモートは、ゆっくり身体を起こした。その場の誰もが動けない。真っ先に我に返ったハリーが武装解除呪文を放ったが、ヴォルデモートは無言呪文でいとも容易く受け流す。
「ハリー・ポッター、俺様の勝ちだ」
赤い目を細め、ヴォルデモートはハリーに狙いを定めた。シリウスが、ハリエットが、ロンが、ハーマイオニーが、ルーピンが、マクゴナガルが、キングズリーが――皆が皆、ハリーを助けようと呪文を放った。だが、幾本も連なった呪文をものともせず、ヴォルデモートの呪文は真っ直ぐハリーに向かい、そして――。
緑の閃光は、ハリーの胸を打った。ハリーはまるで魂が抜かれたかのように全身をだらりとさせ、仰向けに倒れる。
「ハ、リー……」
ハリエットの乾いた声が大広間に響いた。死喰い人は歓声を上げ、ホグワーツ陣営は微動だにしない。
「あっ……あ……」
ハリエットは人混みをかき分け、よろよろとハリーの下にたどり着いた。
「ハリー、ハリー……」
ハリーの目は力なく開いたまま、空虚な瞳で天井を見つめていた。明るい緑色のその瞳は、もうハリエットを映すことはない。中途半端に開けられた口はもうハリエットの名を呼ぶことはない。驚きに固まった顔は、もうハリエットに笑顔を見せてくれない――。
「ヴォルデモート!」
激しい怒りと憎悪を瞳に滾らせ、シリウスが前に出た。
「よくも――よくもハリーを!」
「今度はお前が相手か? 忌々しい血を裏切る者よ。ブラック家の血が潰えるのは俺様としても惜しいが――」
シリウスはそれ以上ヴォルデモートの無駄口を許さなかった。激しい怒りに駆られ、緑の閃光を何度も放つ。だが、どれも容易くヴォルデモートに阻まれる。
「ハリー・ポッターの話を聞いていなかったのか? お前の愛する名付け子の話では、このニワトコの杖はようやく俺様のものになったらしい。始めは下らぬ戯れ言かとも思ったが、この様子では、なるほど、確かに今までの杖とは何もかもが違う。ハリー・ポッターを殺害したことで、この杖は確かに俺様を主と認めたようだ――」
「黙れ!」
シリウスは大きく吠え、今まで以上に激しく呪文を繰り出す。だが、その一つもヴォルデモートを掠めもしなかった。
「黙るのはお前の方だ、ブラック。あの世で名付け子と傷をなめ合っているといい」
「止めて!」
ハリエットは息も絶え絶えに叫んだ。しかしヴォルデモートは止まらない。
「――アバダ ケダブラ!」
緑の閃光が瞬いた。シリウスの呪文を真っ直ぐ突き抜け――そして、彼の胸に直撃した。
一瞬何もかもが止まったように思えた。だが、ゆっくりとシリウスは仰向けに倒れていく。
「あ――ああああっ!」
ハリエットは駆け出した。地面に倒れる前に受け止めれば、ひょっとしたら何とかなるかもしれないと、あり得もしない希望に縋り付く。
「シリ――シリウス!」
――受け止めるのには間に合わなかった。そして、シリウスは事切れていた。
「シリウス……シリウス……」
ハリエットは祈るようにシリウスの顔を撫でた。まるで眠っているかのようだった。今すぐにでも目を開けて、あの子供のような笑顔を見せてくれるんじゃないかと縋った。
しかしシリウスの身体はどんどん熱を失っていく。シリウスは――逝ってしまったのだ。
「さあ、次は誰が俺様に挑むのだ? 勝敗など、始めから分かりきっているようなものだが――」
鬨の声を上げて、突然ロンが飛びかかった。ヴォルデモートに対してではない。その隣で、魔法の球に安全に守られているナギニにだ。バジリスクの牙は、魔法の檻を突き破った。大蛇は暴れ、その牙から逃れようとする。
ハリーが死に、シリウスが死に、誰もが油断していたその時ならば、ナギニを殺害するのも容易だったかもしれない。だが、ヴォルデモートにはまだ最強の副官がいた。副官はロンの行動に気づくと、すぐさま杖を振るい、彼を吹き飛ばした。
ナギニはまたしても無事だった。ロンを鋭く睨み付けたヴォルデモートにより、再び魔法の檻に閉じ込められ、天井高く浮き上がっていく。
「まだなお俺様に楯突く者がいようとは。良いだろう、まずは見せしめにお前を殺してやろう。血を裏切るウィーズリー家の末息子」
杖がロンに向けられる。モリーが、アーサーが、ビルがパーシーが、ウィーズリー家の皆がロンを助けようと駆け出すが、間に合わない――。
「ハリー・ポッターを友とした己を恨むがいい。あの世でな」
「止めて……止めて!」
絹をも裂くような悲鳴はヴォルデモートを一瞬躊躇させた。これが取るに足らない者の声だったならば、何の躊躇いもなく死の呪文を放っていただろう。だが、その声の主は。
「もう止めて――やるなら私をやって!」
ボロボロのままハリエットは立ち上がった。
もう生きる気力もなかった。ハリーもいない。シリウスもいない――こんな世界に、一体何の意味があるのだろうか?
「ハリエット・ポッター……ハリー・ポッターの双子の妹……」
ヴォルデモートは静かに呟く。嘲笑うような、嘆き悲しむような、そんな不思議な声色だった。
「要するに、なけなしの魔法界の希望は全てお前の肩に掛かっている。違うか?」
ゆっくり足を進め、ヴォルデモートはハリエットのすぐ前まで来た。ナギニはもはや遙か頭上だ。
「お前が我が下に下るというのであれば、見逃してやろう。無慈悲な殺戮は止めだ」
ピクリとハリエットの肩が揺れる。ロンがハッと息を吸い込んだ。
「ハリエット! 駄目だ! 諦めるな!」
「そうよ!」
ハーマイオニーも必死になって叫ぶ。
「ハリエット! 私達が――」
「黙れ!」
ヴォルデモートの黙らせ呪文は、今後こそ完璧に効いた。それどころか身動きすらできないかのような錯覚にも囚われる。
「選択を誤れば、この場にいる者は全て皆殺しだ」
ヴォルデモートは嬲るように辺りを見回した。
「そうだな、まずは友情に厚い二人から殺してやろう」
そのヘビのような視線が、ロンとハーマイオニーに向けられる。ハリエットの呼吸は浅くなる。
「ハリエット・ポッター、お前が選択するのだ。お前が魔法界の行く末を決めるのだ……」
ハリエットは項垂れたままその場に立ち尽くしていた。
ハリーの意志は、私が継がなければ……。
そうは思うのに、身体が動かない。視線をずらせば、物言わぬ骸のハリーとシリウスが視界に飛び込んでくる。
ハリエットの顔が歪む。ゆっくり――ゆっくりと、ハリエットはその場に膝をついた。
「――ヴォルデモートに、栄光あれ……」
囁くようにそう宣言したとき、死喰い人達は一斉に喜びの意を表した。ヴォルデモートも満足そうに唇の端を歪める。
ハリエットはもう顔を上げることができなかった。堪えきれない嗚咽が口から漏れ出る。
ヴォルデモートは、父も母も、兄も、名付け親も、ハリエットから全てを奪った。なのに、どうして私は今彼の前に跪いているのだろうか? どうして杖を構えないのだろうか?
自分が情けなくて、不甲斐なくて、しかしそれ以上に上回る悲しみに、ハリエットは打ちひしがれていた。
「さあ、ハリエット・ポッターは我が手中に収めた。後に続く者は誰だ?」
ヴォルデモートは上機嫌に周りを見渡した。
「よく聞け。俺様は俺様に楯突いた者は永劫許さぬ。それを、今なら水に流しても良いと言っておるのだ。お前達がハリー・ポッターに賺され、クーデターを起こしたのは目に見えている。だが、もはやそのハリー・ポッターは死んだ。誰に傅くのが一番良いか、お前達も分かるだろう?」
問いかけるようなヴォルデモートの声が朗々と響く渡る。
「このまま俺様に反旗を翻すのも良い。だが、そうなれば俺様は家系図を洗い出し、お前達の親、祖父母、子供、孫、従兄弟、伯父、叔母に至る全ての血を絶やすまで容赦はせぬと思え。お前一人の存在で、一体何人の血が流れることか」
あからさまにホグワーツ陣営はどよめいた。自分一人の命ならまだいい。だが、家族の命ともなると?
この場に共にいる家族は、志を同じくした同士だ。だが、家で己の帰りを待つ家族となると? 自分の訃報を、彼らは死喰い人の到来によって悟るのだ。抵抗する間もなく殺されるに違いない。もしかすると、死ぬよりも辛い目に遭うかもしれない――。
思い悩む人々は、ふと隣にいた誰かが前に進み出たのを感じた。そしてそれは、この大広間のあちこちで起こっていた。ポツポツと進み出た人影は、皆ハリエットの後ろに並び、項垂れながらもその場に立ち尽くす。
死喰い人はあざ笑い、ヴォルデモートは賢い選択をした者たちを迎え入れるように頷いてみせる。
ロンは、己のすぐ側を見慣れた人物がフラフラと歩いて行くのに気づいた。茫然とその名を呼ぶ。
「ビル……!」
「フラーが家で待ってる」
ビルは振り返りもせず、力なく答えた。
「お腹に、子供がいるんだ……」
ロンは、それ以上何も言えなかった。見送るしかなかった。だが、続いて視界に飛び込んできた人物には、再び耐えきれず叫んだ。
「ママ!」
ロンは引き留めるようにモリーのローブを掴んだ。モリーは涙でグシャグシャになった顔で、ゆっくり首を振る。
「分かってちょうだい……」
モリーからこぼれ落ちる涙がロンの顔を濡らしていく。モリーは震えながらも愛情込めてロンを抱き締めた。
「私は、お前達を誰も失いたくないの」
「パーシー!」
遠くの方で、ジニーが叫ぶのが聞こえた。パーシーの、今にもかき消えそうな声が聞こえてくる。
「僕は、今度こそ選択を間違えない……。僕は僕の家族を守るんだ」
家族を守るために、一人、また一人とヴォルデモートの方へ歩みを進めていく。彼らの気持ちは痛いほど分かった。だからこそ、積極的に止めることができずにいる。
「ハリエット!」
ロンを支えながらハーマイオニーが叫んだ。
「諦めちゃ駄目! 私達が側にいるわ!」
親友の必死の声にも、光を失ったハリエットには、もう届かない。
「ハリーの無念はあなたが晴らすのよ! ハリエット――」
「小賢しい!」
ヴォルデモートは黒いローブを翻し、周囲の目から隠すようにハリエットの前に立った。
「穢れた血よ、今すぐそのバジリスクの牙をこちらに引き渡せ。そうすれば命だけは助けてやる」
「誰が――」
「誰が渡すものか!」
ハーマイオニーよりも先に、ロンが声高に叫んだ。
「お前の分霊箱は、必ず僕達が破壊してやる! ハリーの敵は、僕達が討つ!」
「――殺せ」
ヴォルデモートは無感動に言い放った。
「二人とも、必ず殺して我が下へ連れてこい」
「止めて――止めてっ!」
半狂乱になってハリエットが叫ぶ。だが、無情にも命を下された死喰い人は前に躍り出た。ヴォルデモートに従うことを選ばなかった者たちは、皆一気に臨戦態勢になる。
「ロン」
ロンとハーマイオニーの前に、赤毛の双子が立ちはだかった。
「ジニーとハーマイオニーを連れて逃げるんだ」
「フレッド、ジョージ!」
「そのうち必ずチャンスはやってくる。希望はお前達に託したぞ
「ロン、必ず二人を守れよ」
閃光が激しく瞬く。ジョージがロンにジニーを押しつけ、フレッドが巨大な盾を作り出す。ロンはジニーの腕を掴み、ハーマイオニーと共に走り出した。ジニーは激しく泣きじゃくって抵抗する。
「いやっ! いや! 私、ここに残る……! ハリー! フレッド、ジョージ!」
「生徒は皆、ここから逃げるのです!」
痛む身体に鞭を打ち、マクゴナガルが威厳のある顔で叫んだ。
「ここから脱出して、家族を連れて逃げなさい! 奴らは私達が食い止めます!」
「並べ! 壁を作るんだ! 誰一人として通してはならない!」
キングズリーも吠えるように叫んだ。不死鳥の騎士団が、ホグワーツの教授達が、一列になって死喰い人と激しい戦いを繰り広げた。
阿鼻叫喚だ。大広間の扉から雪崩のように生徒たちが逃げ出し、それを追う死喰い人が騎士団と教授との壁に激突する。死喰い人と防衛隊の戦いは一進一退を繰り返した。だが、ひとたびそこにヴォルデモートとベラトリックスが加わると終わりだ。打ち破られた者が倒れ、強固な壁には穴が開く。
「しもべ妖精達! 生徒を――皆を姿くらましで――」
マクゴナガルの声は途中でぷっつり途切れた。彼女の胸を緑の閃光が直撃したのだ。マクゴナガルが倒れた後には、残忍な笑いを浮かべたベラトリックスが悠々と立っている。
「マクゴナガル先生!」
誰もが悲鳴を上げた。ダンブルドア亡き今、ホグワーツの象徴とも言えるマクゴナガルが倒れた――。
「しもべ妖精達! 側にいる生徒を安全な場所へ姿くらまししてくれ! ここから連れ出すんだ!」
マクゴナガルの意志を引き継ぎ、ルーピンが叫んだ。ホグワーツの教授も同じことを繰り返し叫び、あちこちで死喰い人の足首を滅多斬りにするしもべ妖精にさざ波のように伝わった。
何とかしてここから逃げ出そうとする生徒たちの腕を引っつかみ、しもべ妖精は次々に姿くらましをした。ヴォルデモートはこれに激怒する。
「逃がすな! 俺様に刃向かう者は、一人残らず始末しろ!」
戦いが激化する。ヴォルデモートの怒りに当てられ、死喰い人の攻撃は激しさを増し、防衛隊もそれに比例して何とかして生徒を逃がそうと杖を振るう。
「ハリエット様!」
どこからかクリーチャーの声が聞こえてきた。ハリエットが顔を上げると、クリーチャーが今まさにこちらに駆け寄ろうとしている所だった。ハリエットは静かに首を振ってそれを制する。
もう、ここから逃げ出す気力はなかった。自分が逃げ出せば、ヴォルデモートは更に激怒し、彼の下に下った者たちまで始末するかもしれない。そんなことは――絶対にあってはならない。
「ロンとハーマイオニーを……」
気力のないハリエットの声は微かで、怒号や悲鳴、爆発音が鳴り響くその場所では、到底聞こえうるようなものではなかった。だが、クリーチャーには確かに伝わった。彼の足はピタリと止まり、その小さな顔は歪んだ。何か言いたげに口が開くが、結局そこから言葉が飛び出すことはない。くるりと踵を返し、クリーチャーはまた駆け出した。
クリーチャーの後ろ姿が見えなくなってもなお、ハリエットはその方向を見つめ続けていた。誰かが悲鳴を上げて倒れる音が、そのことに怒り嘆く声が、次から次へとハリエットの耳に飛び込んでいき、そして心を追い詰めていく。
誰かの呪文に当たって死にたいとすら思った。ハリーもシリウスもいないのに、生きていてこの世界に何の意味があるのだろう? このまま死ねたら、どんなにか幸せだろう――。
だが、残酷なことに、ハリエットは生き残った。
太陽は昇り、いつの間にか戦いは終わっていた。
ホグワーツの大広間は無残な有様だった。あちこちが破壊され、死体が散らばり、死喰い人は生き残りがいないか念入りに調べ回っていた。
「ウィーズリーとその妹、グレンジャーは逃げたようだ」
ハリエットの耳元でドラコが囁いた。ハリエットはその言葉に我に返り、顔を上げた。――だが、視界に飛び込んできた、その光景は。
「ああっ! ああああっ!」
ハリエットは両手で顔を覆ってむせび泣いた。
目の前にあったのは、遺体の山だった。マクゴナガル、ルーピン、キングズリー、ムーディ、トンクス、フリットウィック、スラグホーン、スプラウト、アバーフォース――。まだだ、まだたくさんの死体が山積みになっている。皆――死んでしまったのだ。生徒や、未来ある若者に希望を託し、彼らを守るためにその命を散らしていったのだ――。
遺体の山のすぐ隣には、同じくらい大きいものがびくともせずに横たわっていた。紛れもなくハグリッドだ。彼の周りには、大量の蜘蛛が、まるで悼むように彼を取り囲んでいる。
私は――どうすれば良かったのだろう? どうすれば、皆を助けることができた?
ハリエットの嘆きの声が、大広間に響き渡る。
ハリー・ポッターは死んでしまったのに、ハリエット・ポッターは生き残ってしまったのだ。
――その事実が、ようやくハリエットの胸に絶望として染み渡った。