■アフターストーリー

03:癒えない傷


 空気を切り裂くような、何かのけたたましい音でハリエットは目を見開いた。視界に飛び込んでくるのは、暗い天井と、そこから吊されるガラスのシャンデリア。僅かに開いた口からは、名残の悲鳴が小さく漏れていた。

 ハリエットは、自分の叫び声で目覚めたのだと悟った。温かい涙が頬を伝っている。夢の余韻で、ハリエットの感情は未だ揺さぶられていた。

「く、クリーチャー……」

 喘ぎながら小さく呼ぶと、屋敷しもべ妖精はすぐにバシッと音を立てて来てくれた。

「ハリエット様」
「お水を……」

 クリーチャーは黙ってコップを差しだした。ハリエットがこうしてクリーチャーを呼び出すのは、今や日常と化していたので、用意が良かった。

「ありがとう」

 ほどよく冷やされた水は、頭をスッキリさせるには充分だった。ここはグリモールド・プレイス十二番地で、同じ家にハリーとシリウスが寝ていて、この世にはもうベラトリックス・レストレンジも、ヴォルデモートもいないことが遅ればせながら実感される。

 ハリエットは無意識のうちにクリーチャーの皺だらけの手を握った。それだけでは足りず、クリーチャーを抱き締めると、彼は抵抗もなくされるがままになった。今はただ、人肌が恋しかった。

「気分はいかがですか?」
「もう大丈夫よ」

 ハリエットはにっこり笑ったが、クリーチャーはなおも心配そうな表情を崩さない。

「本当によろしいのですか? ご主人様にお伝えした方が……」
「大丈夫」

 ハリエットはすぐに答えた。

「大丈夫だから、絶対に言わないでね」
「……かしこまりました」

 クリーチャーは、空のコップを持って、姿くらましをした。ハリエットはまた部屋に独りぼっちになる。

 ヴォルデモートがこの世からいなくなってから、幾日が経っただろう。あれから魔法界は随分と様変わりした。

 まず、キングズリー・シャックルボルトが魔法省の暫定大臣に指名されたことにより、腐敗の進んでいた魔法省が、本来あるべき方向へと是正されていった。むしろ、ヴォルデモートの手が入る以前よりも良い方向に、である。キングズリーの元々の人柄とリーダーシップ、多種多様な人脈は、迅速な魔法界の立て直しに一役買った。闇祓いと不死鳥の騎士団が協力して死喰い人の残党狩りを行い、マグル生まれ登録委員会は廃止され、ヴォルデモートを恐れ、外国に亡命していた魔法使いや魔女達は続々と帰国しだし……。

 それと共に、死喰い人による被害を受けた人々や地域の支援も同時進行で行われている。もちろんホグワーツもその中に含まれている。悪政で仕事を奪われた人々や、今こそ助け合うべきだとボランティアに名乗り出る人も少なくはなく、少しずつ元の魔法界へと戻っている。

 だが、そんな中でも、消えない傷を負った者は多い。

 ヴォルデモートの治世により、大切な者を失った人は数知れず。未だ傷が癒えず、聖マンゴ病院に入院するものは多数だ。毎日出入りは多いが、入院したままこの世を去った者もいる。

 セブルス・スネイプもまた入院していた。彼はフォークスの癒やしの涙によって、危険な状態からは脱したが、未だ目が覚めずにいる。一時、彼は死喰い人だとして闇祓いに拘束されそうになったが、ハリーとハリエットの証言もあり、彼は二重スパイをしていたのだということが明らかになった。とはいえ、まだ完全に無罪になったとは言えず、彼の意識が回復次第、詳しい事情を聞くのだという。

 聖マンゴに入院しているのは、何も重傷患者だけではない。精神的に傷を負った者も、病院の奥まった場所で入院生活を余儀なくされていた。不死鳥の騎士団団員のあぶり出しや、尋問のために磔の呪文を身に受けた魔法使いは多い。精神的なショックから、日常生活を送るのは困難と判断された者たちだ。

 ハリエットもまた、未だ過去のショックから立ち直れないでいる者の一人だ。フォークスの癒やしの涙によって、忌まわしい記憶は封じられていたが、ホグワーツの戦いの最中、その記憶を自ら掘り起こし、思い出してしまった。

 ベラトリックスの耳障りな笑い声と、ヴォルデモートの嘲笑、こちらを黙って見下ろす死喰い人、オリバンダーの心配そうな顔、泣きそうな声で語りかけてくるスネイプ、身体の中を駆け巡るありとあらゆる苦痛――。

 ハリエットは、眠るのが恐ろしかった。夢で以てして、あの忌まわしい記憶を想起させられるのが怖くて堪らない。次に目を覚ましたとき、今のこの幸せな一時が実は夢で、現実はまだあのマルフォイ邸にいるのだという事実に直面させられるのではないかという恐怖がいつもついて回った。

 ベッドの上に起き上がったまま、微動だにしないハリエットを心配して、フォークスが膝の上に止まった。ハリエットは笑みを見せてその羽を撫でたが、上手く笑えていたかどうかは自信がない。

 この美しい不死鳥のフォークスがハリエットを主人としたとき、ダンブルドアは、新しい名前を考えたらどうかと肖像画の中から提案した。だが、ハリエットはそれを断った。ハリエットにとって、フォークスはフォークスだったからだ。ダンブルドアとフォークスの絆はそのまま大切に残しておきたかったし、ハリエットとフォークスの絆も、別の形で作っていければと思った。

 とはいえ、主人がこんな調子では、フォークスもがっかりかもしれない。

 そう思うと、ハリエットはすっかり自信をなくしていた。ダンブルドアと自分では、何もかもが違う。ダンブルドアは偉大な魔法使いで、私達を導き、守ってくれて。

 それなのに、自分はどうだ。

 取り立てて優秀なところはなく、過去の記憶に怯え、殻に閉じこもり。

 そもそも、こんなことをうじうじと考えている時点で、ダンブルドアとは違うのだ。フォークスがなぜこんな小娘を主人としたのか、ハリエットには全く以て分からなかった。

 おまけに、折角フォークスがあの記憶を封じ込めてくれたというのに、ハリエットは自らそれを台無しにした。そのことが、後ろめたくてならなかった。

 暗い水底へと沈んでいく思考に、結局解決の活路見いだせなかったが、夜は明けた。眠らなくてはという強迫観念からは逃れることができたのだ。

 不審に思われないよう、ハリエットは階下から良い香りがしてくるまで部屋の中に居座った。そして誰かが階段を降りてくる足音を確認してから、自分も着替えて厨房へ向かった。

「おはよう」

 テーブルに腰掛けていたのはシリウスだった。足音から予想を立てていたハリエットは、足音を識別できるまでになったことに喜びを感じた。

「おはよう」

 新聞とコーヒーをそれぞれ手に持ちながら、シリウスは挨拶を返した。

「昨日はよく眠れたか?」
「ええ、まあ。シリウスこそ、昨日は随分遅かったようだけど、大丈夫だった?」
「昨夜は少し場所が遠かったからな。なに、問題は何もなかった」

 無罪となったシリウスは、不死鳥の騎士団団員として各地を周り、死喰い人の検挙をしていた。昨年もれなく成人となったハリーも、その活動に身を入れている。ハリエットは心配でならなかったが、将来闇祓いを目指すハリーとしては良い経験だとシリウスも乗り気だったので、ハリエットの心配はそれほど聞き入れられなかった。

 ホグワーツの戦いで、ヴォルデモート亡き後、闇陣営に未来無しと、すぐさま逃げ出した死喰い人は多い。ホグワーツの戦いには参加していないが、潜伏していた死喰い人もいたため、その検挙にシリウス達は毎日忙しかった。いつも夜は帰りが遅く、時には泊まりというときもある。折角無罪となったシリウスと、どこかへ出掛けたいとハリエットは時に思うものの、今の晴れやかな表情をした彼に我が儘を言えるわけもなく、ハリエットはいつもクリーチャーと共にお留守番だった。

 ハリエットがトーストをかじっていると、続いてハリーも降りてきた。その顔はまだ眠そうだ。だが、さすがに成人として、寝過ごすのだけは避けたいという意地はあったようだ。くしゃくしゃの髪はいつも以上に爆発しており、クリーチャーがこっそり魔法で髪をとかしてあげていた。

「気のせいかも知れないけど、ハリエット、朝方叫んでなかった?」

 挨拶もそこそこに、ハリーが尋ねた。ハリエットはピクリと肩を揺らす。

「最初夢かなと思ったんだけど、しばらく続いてたから、やっぱり夢じゃないなって」

 どこか舌足らずで要領を得ない話し方は、ハリーがこの話題にそれほど関心を寄せてないことを示していた。これ以上ハリーの注意をひかないように、ハリエットは慎重に答えた。

「虫が急に出て驚いたのよ」
「虫?」

 ハリーは訝しげに尋ねた。聞き返されるとは思わず、ハリエットは詰まったが、すぐにクリーチャーが答えた。

「クリーチャーめが退治いたしました」
「よくやった」

 シリウスは満足げに言ったが、クリーチャーの表情は晴れない。

「今日も騎士団の活動?」

 ハリエットは努めて明るい声を出して話題を変えた。

「ああ、まあそうだな。まだ見回ってない地域も多いから。ハリエットは何か予定はあるのか?」
「今日はハーマイオニーの家に呼ばれてるの」
「泊まるのか?」
「夜までには帰ってくるつもりよ。ハーマイオニーにも誘われたんだけど……」
「折角なんだから、泊まってくればいいのに」

 ハリーが何気なく言った。シリウスも同調して頷く。

「今夜、わたし達は家には帰らないつもりだ。屋敷にクリーチャーと二人きりなのも寂しいだろうし、泊まってきたらどうだ?」
「ううん、大丈夫」

 ハリエットは眉を下げて首を振った。

 ハリエットとしても、ハーマイオニーの家に泊まりたいのは山々だが、最近は、ただでさえ夢見が悪い。嫌な寝起きで、ハーマイオニーに迷惑をかけたくはない。

「クリーチャー、ハリエットを頼むぞ」
「はい、ご主人様」

 クリーチャーは不安げな顔で頷いた。板挟みの彼のこの状況をハリエットは申し訳なく思ったが、クリーチャーはハリエットの頼みを裏切ることはないので、有り難くも思った。

 その後、朝食を食べてすぐ、シリウス達は屋敷を出て行った。ハリエットも時間がもったいないので、軽く準備をして、クリーチャーの付き添い姿くらましで、ハーマイオニーの家のすぐ側に到着した。

 ハーマイオニーの家は、可愛いレンガ造りの家だった。庭にはこんもりと茂みや木々が生い茂っているが、どれも丁寧に整えられ、グレンジャー家の『庭師』が心を砕いてる様が見て取れた。

 また帰るときに呼んでください、とだけ言って、クリーチャーはグリモールド・プレイスに帰っていった。ハリエットは少しの興奮と緊張で、グレンジャー家のチャイムを鳴らした。

 ハーマイオニーはすぐに出てきた。ハリエットを見るや否や飛びつき、輝かんばかりの笑みを浮かべる。

「いらっしゃい!」
「久しぶりね、ハーマイオニー」
「入って! 今日はお父さんもお母さんも仕事は休みだから、少しうるさいかもしれないけど」
「うるさいとはなんだ、ハーマイオニー」
「私達に挨拶もさせないつもり?」

 ハーマイオニーの後ろには、目元がハーマイオニーそっくりの女性と、栗毛のくせっ毛の男性が立っていた。ハリエットは慌てて頭を下げる。

「こんにちは。ハリエット・ポッターです。ハーマイオニーには、いつもたくさん助けられてます。今まで何度命を助けて貰ったか――あっ」

 初対面の挨拶としては、いささか物騒だったかもしれないと、ハリエットはあわあわした。しかし、グレンジャー夫妻は、これをハリエットなりのジョークだと勘違いしたようだ。

「まさかそこまで言ってもらえるとは……。さてはハーマイオニー、この子に何か賄賂を渡したな?」
「失礼なこと言わないでちょうだい! ハリエットは本心で言ってくれてるのよ」
「そうよ。さすがにハーマイオニーが可哀想だわ」
「おお、おお、これは悪かったね。機嫌を直してもらえるかい? 可愛いハーミー」
「ハリエットの前で止めてよ!」

 顔を真っ赤にして怒るハーマイオニーは、すっかり年相応の娘だ。ハリエットは眩しい思いでその光景を見つめた。

 分霊箱探しの旅に出る前、ハーマイオニーは、自ら両親の自分に関する記憶を消したのだという。ハリエットはそのことを聞いて悲しくて堪らなかったが、この様子では、すっかり元のグレンジャー家に戻ったようだ。手紙でもそのことを聞いてはいたが、やはり自分の目で見るまではどうしても不安がつきまとっていた。

 しかし、今目の前にある光景は。

 幸せな家庭そのもので、ハリエットは心から安堵した。

 その後、ハリエットは居間に案内され、グレンジャー夫妻にもてなされた。ハリエットも手土産を持ってきてはいたが、ハーマイオニーの母親の手作りケーキはとてもおいしかった。きっとハーマイオニーの編み物や魔法薬学の手際の良さは彼女からの遺伝なのだろう。そう瞳をキラキラさせてハリエットが口にすれば、ハーマイオニーは気まずそうな顔になり、グレンジャー夫妻はカラカラ笑った。ハーマイオニーは、料理は超がつくほど苦手らしい。

 小一時間ほど夫妻と話した後は、ハリエットはハーマイオニーと共に外に出かけた。ダイアゴン横丁やホグズミードなど、魔法界はこれまでに何度もお出かけしたことはあったが、考えてみれは、マグル界はかなり久しぶりである。むしろ、マグル界の方が暮らしていた時期は長いというのに、ダーズリー家という特殊環境下にあったせいで、ハリエットはほとんどどこにも観光地らしい観光地はいったことがないのだ。

 とはいえ、時間は一日しかないので、二人は遠出はせず、近くのデパートに買い物に行った。魔法界にも可愛い服や小物はあるが、やはりマグルの比ではない。ああではない、こうでもないと言いながら、二人して友人達へのお土産をたくさん買い占めた。

 女の子の長ーい買い物に一区切りすると、近くのカフェで一休みした。

「じゃあ、そんなにハリー達は忙しいのね?」

 ハーマイオニーは驚いたように念を押した。ハーマイオニーには、ハリーは不死鳥の騎士団の活動で忙しいとは伝えていたが、まさかろくに手紙の返事も送れないほど、家にも帰れないほどとは思わなかったようだ。

「まだ潜伏してる死喰い人がかなりいるらしくて。怪我しないか不安なんだけど……」
「シリウスがいるんだから大丈夫よ。あのシリウスが、ハリーに怪我させるわけないわ」

 そのシリウスも、怪我をしないか、実のところハリエットは不安なのだが、そんなことを口にしても拉致があかないのは分かっていたので、ハリエットは暗くなりがちな気分を底に沈めた。

 折角のハーマイオニーとの一時なので、ハリエットは違う話題に切り替えた。

「そういえば、ロンとはデートしてるの?」

 何気なくハリエットが尋ねれば、途端にハーマイオニーは頬を赤らめた。

「そんな、急にどうしたのよ」
「急かしら? 私、ハーマイオニーに会ったら絶対に聞こうと思ってて。デートはしてるの?」

 ハリエットはまた尋ねた。もう逃げることはできないと悟ったのか、ハーマイオニーはカップをテーブルに置いた。

「まあ、時々。ほら、あの人まだ姿現しできないから、私が向こうの家に行く形で」
「そうなのね! どんなところに行ってるの!?」
「普通の所よ。ダイアゴン横丁とか、マグルの観光地とか。でも、あの人あんまり出掛けるの好きじゃないみたい。家まったりしてる方がよっぽど楽しそうよ」
「いいじゃない、人それぞれだもの。でも嬉しいわ。二人が付き合うようになって」

 突然目の前でキスを見せられたときは驚いたけど。

 そうからかうように口にすれば、ハーマイオニーは再び顔を真っ赤に染め上げた。

「あ、あれは! ちょっと感極まっただけなのよ!」
「分かってるわ。他でもないロンが、しもべ妖精のことを気にかけてくれたのが嬉しかったんでしょう?」
「ううっ……」

 ハリエットも、ハーマイオニーの気持ちはよく分かった。いつだったか、ドラコがハーマイオニーのことを褒めてくれたとき、胸の中が熱くなったのを今でも覚えている。

 遠い目をしてハリエットがニコニコしていると、ハーマイオニーは突然反撃の構えを取った。

「そういうハリエットはどうなの? 途中で合流したとき、マルフォイ……ドラコとは、随分仲が良さそうに思ったけど」
「えっ……いつ?」
「ほら、ロンが戻ってきたとき、すぐにあなた達二人も私達と合流したでしょう? その時よ」

 あまりにも鋭いハーマイオニーに、ハリエットは閉口した。確かに、あの時はドラコと想いが通じ合ったまさにその瞬間だった。だがまさか、ハーマイオニーにそれを見破られていたとは……。

「あれは……ちょっと……まあ……」
「付き合ってるの?」

 グイッとハーマイオニーは身を乗り出した。ハリエットは困り切った顔になる。

「付き合って、とは言われてないけど……。でも、お互いに好きって言って……」
「キスはした?」

 今度はハリエットが真っ赤になる番だった。まさか、ハーマイオニーとこういう話をするとは思いも寄らなかった。だが、こういった話題に舵を切ったのは紛れもなく自分自身なので、今更やっぱり止めたなんてのは言えなかった。

 言葉にする勇気はなく、ハリエットはただ何度も頷いた。ハーマイオニーはまあっと口元に手を当てた。

「おめでとう!」
「あ、ありがとう……?」
「私、すっごく気にしてたのよ、二人のこと! 特にドラコ! いつ告白するのか、冷や冷やものだったわ!」
「告白って……」

 ハリエットは視線を右往左往させた。勘の鋭い彼女のことだ、もしかしたら自分の気持ちもずっと前から気づいてたのかもしれないと思うと、ハリエットは恥ずかしくてならなかった。いつから彼女には筒抜けだったのだろうか?

「ねえ、いつ? いつそんな風になったの?」
「そ、それは……」

 いつの間にか、立場はすっかり逆転していた。しかし、もはや尋問モードに切り替えられたハーマイオニーに抵抗し、通常の航路に戻ることは今のハリエットにとっては到底無理な話だった。

「まさに、三人と合流したあの時よ。ルシウスさんが来て、居場所を知られたから、自分はここを出て行くってドラコが言ったの……」
「まあ」
「それで……私、何とかして引き留めたくて……その、感極まって」
「好きって言ったの?」

 ハリエットはまた頷いた。ハーマイオニーはニヤニヤする。

「それで?」
「そうしたら、ドラコも好きって言ってくれて……後は、ええ、まあ、その後に三人と合流したのよ」
「ふうん……」

 最後の方はあからさまに誤魔化されたが、学年一の頭脳を持つハーマイオニーには全てお見通しだった。彼女のニヤニヤが全てを物語っている。

「ねえ、じゃあデートはしてるの? もうどこかに行った?」
「いいえ」

 ハリエットは首を振った。努めて何でもないような声色を出す。

「まだ今は世間は死喰い人に敏感だから、自分は大人しくしておいた方がいいって」

 捕らえられた死喰い人は、皆一様に裁判にかけられた。だが、ドラコはすぐに無罪放免を言い渡された。死喰い人ではあり、彼もまたダンブルドア殺害とハリエットの拉致に関与してはいたが、両親の命を盾にされたこと、服従の呪文でハリエットを連れ去ったこと、それを悔い、ハリエットの奪還に力を貸し、更にはその後もずっと不死鳥の騎士団に力を貸していたことをハリー、ハリエット、そして不死鳥の騎士団団員が証言し、無罪となったのだ。

 ルシウス・マルフォイとナルシッサ・マルフォイの裁判は難儀だった。ヴォルデモートの忠実なしもべであり、第一次魔法戦争から容疑をかけられていたため、今回の罪はどう考えても免れなかった。

 しかし、今回の輝かしい勝利が、ナルシッサによる、ハリーの虚偽の死の宣告によってもたらされたこと、己の杖をハリエットに持たせたこと、ルシウスとナルシッサの二人共が、戦争の終盤一人息子を探すためにヴォルデモート陣営から離脱していたことをハリー、そしてハリエットが証言し、二人は執行猶予がつくこととなった。

 この裁判の結果は、日刊予言者新聞にも載ったが、全ての魔法使いが同じ気持ちだとは限らない。死喰い人に家族の命を奪われた者、職を奪われた者、虐げられた者……彼らの心情を考えると、いくら自身が無罪になったとは言え、身内も執行猶予付きであるため、出歩くのは良くないと言われたのだ。

 ハリエットも、誘った身ではあるが、この考えに同意していた。死喰い人に敏感な今の魔法界にうかうかと出て行って、ドラコが冷たい目で見られるのは耐えられないと思った。

「そう……」

 ハーマイオニーも少し暗い顔になった。この一年でドラコ・マルフォイは変わったと断言できるが、世間の目はそう簡単にいかないと分かっているのだろう。

「少しの間だけ、我慢ね。ホグワーツに戻れば、そういう目も気にすることはなくなるだろうし――って、そういえば、重要なことを聞いてなかったわ。あなた達はホグワーツに復学するの?」

 ハリエットはああと思い出した。数日前、ホグワーツからふくろう便が届き、それによれば、前年度、諸事情により休学や退学をした生徒――ヴォルデモートの体制下で、マグル生まれが退学になった生徒や、外国へ避難していた生徒のことだ――に関しては、復学が認められることになったとのことだった。もしも復学するのなら、七月三十一日必着で、ホグワーツに返信しなければならない。

「私はできれば復学したいわ。でも、ハリーは……まだ聞いてないわ。忙しそうで、聞くタイミングを逃してたの」
「ちゃんと話し合った方がいいと思うわ。ロンは迷ってるそうなの。時々騎士団の活動に参加してるらしくて、闇祓いにならないかって誘われたそうで……結構乗り気らしいわ。ほら、あの人、勉強好きじゃないでしょ? 闇祓いもいいかもってかるーい感じで言ってたわ」

 ハーマイオニーはふうとため息をついた。内心では複雑なのだろう。好きな人の道を応援したいが、でも、一緒に学園生活を送りたいという気持ちもある。

「ホグワーツには戻らないで、ハリーが闇祓いになるのなら、ロンもそうするだろうし、その逆も然り、でしょ? 今のうちにハリーと話し合った方がいいと思うわ」
「ハーマイオニーはどう思ってるの?」

 ハリエットは不安そうに聞いた。ハーマイオニーは難しい顔になる。

「私は、やっぱり皆でまたホグワーツに通いたいって思うけど……でも、難しいわね。だって、折角闇祓いにならないかって誘いがあるのに、それを蹴っちゃうと、来年も同じようにいくかは分からないでしょう?」

 ドラコはどうなんだろう、とハリエットはふと思った。彼は、無罪になった今でも、自分が死喰い人であることを気にしている。その彼が、復学できる権利を得ていたとしても、ホグワーツに戻ってくる選択をするだろうか?

 結局その後は、ハリエットとハーマイオニー、二人とも暗い表情のままカフェを後にすることになった。


*****


 その後しばらくハーマイオニーの部屋でお喋りの続きを再開し、夜になると、夕食までご馳走になった。本当は、ハリエットとしては、夕方には家に帰るつもりだったのだか、あれよあれよと言うままにグレンジャー夫妻に言いくるめられ、夕食を食べることになったのだ。

 ハーマイオニーの父親は、ユーモアがあって楽しい人だったし、母親は、言い合う夫と娘を見て困ったような笑みをハリエットに向けていた。

 夕食を食べ終えると、ハリエットはいよいよ帰り支度をし始めた。ハーマイオニーは珍しく拗ねたようにハリエットを引き留めた。

「いいじゃない、一日くらい。お父さんとお母さんもぜひ泊まってくれって言ってるわ」
「本当に駄目なのよ、私、帰らないと」
「でも、今日はハリーもシリウスも帰らないんでしょう? 一人は寂しいわ」

 ハリエットは言葉を濁した。ハーマイオニーは諦めが悪かった。

「じゃあ、ギリギリまでここにいてちょうだい。眠たくなったらクリーチャーを呼べばいいでしょう?」
「……ええ、分かったわ。十時には帰るから」
「やった!」

 可愛らしく微笑むハーマイオニーを見て、ハリエットは、彼女も寂しいのかもしれないと思った。

 未だ死喰い人が辺りに潜伏しているため、自由に外を歩けない状況下で、ロンと会うのも一週間に一度あるかないかだという。今度はハーマイオニーをグリモールド・プレイスの屋敷に呼ぼうとハリエットは思った。

 決して泊まる気はなかったが、ハリエットはソファに、ハーマイオニーはベッドに腰掛け、留まることのない女の子同士のお喋りを続けた。その時間はあまりにも居心地が良く、いつしかハリエットは気持ちの良い微睡みにたゆたっていた。ハーマイオニーが母親のように微笑んで、己に毛布を掛けたことにも気づかない。やがて電気は消され、穏やかな寝息が二つ、静寂の中にゆったりと響いた。

 突如その均衡が崩されたのは、深夜を少し過ぎた頃だ。ハーマイオニーは絹を裂くような悲鳴に飛び上がって目を覚ました。何が何やら分からないまま、慌てて電気をつける。

「ハリエット!?」

 悲鳴の正体は、考える間もなくハリエットだった。彼女はまるで誰かに助けを求めるように空中に手を伸ばしていた。ハーマイオニーはその手を掴み、ハリエットの肩を揺すった。

「ハリエット、起きて! ねえ!」
「どうしたんだ、ハーマイオニー?」

 グレンジャー夫妻も着の身着のままハーマイオニーの部屋の扉を開いた。寝汗をびっしょりかいたままうなされているハリエットと、その側に跪くハーマイオニーの姿が目に映った。

「分からないの……急にハリエットが……ハリエット!」

 ハリエットは、唐突に目を開いた。目は充血し、叫んだまま開いた口からは、短い呼吸が繰り返される。ハリエットは、ここがどこか分からないといった様子で、キョロキョロ周りを見回した。

「ハリエット、大丈夫? すごく……うなされてたわ」

 ハーマイオニーは言い辛そうに言った。ハリエットの目がハーマイオニーを捕らえ、そしてその後ろの心配そうな夫妻を捕らえた。

「すみ……すみません。怖い夢を見て」
「大丈夫かい?」
「お水を持ってくるわ」

 パタパタと出て行った母親を見送り、ハーマイオニーはハリエットに向き直った。

「ねえ、本当にただの怖い夢?」
「ええ……そうよ」
「尋常じゃなかったわ」

 並々と水の注がれたコップを受け取り、ハーマイオニーは、二人にしてもらえるよう両親に目で訴えた。グレンジャー夫妻はすぐに娘の意図を汲み、静かに部屋を出て行った。

「痛いって叫んでた」
「…………」

 俯くハリエットに、ハーマイオニーは手を重ねた。

「無理に聞こうなんて思わないわ。でも、一人で抱え込まないで欲しいの。その様子じゃ、きっとハリーにもシリウスにも言ってないんでしょう?」

 ハーマイオニーは手に力を込めた。

「私、誰にも言わないわ。ただ、力になりたいの」

 ポロリとハリエットは涙をこぼした。

「夢を、見るの」
「どんな?」
「あの時のものよ。ベ、ベラ……ベラトリックスに、磔の呪文をかけられる夢」

 ハーマイオニーはヒュッと息をのんだ。

「そんな……いつから?」
「ホグワーツの戦いの後」
「あれからずっと?」

 ハリエットは黙って頷いた。ハーマイオニーはしばらく何も言わなかった。

「フォークスは? フォークスの涙には、癒やしの力があるわ。前の時だって、あなたはそれで……」
「もう、効かないと思う」

 ハリエットは目を逸らして言った。

「私、わざとあの時の記憶を掘り起こしたの。だから、たぶんもう効かない」
「どうしてそんなこと……」

 ハリエットは小さく笑ってみせるだけで、何も言わなかった。

 あの時はああするのが最善だと思った。でも今は――それを後悔している自分もいる。

 そんな自分が、恥ずかしくて情けなくて嫌だった。トラウマを乗り越えられない弱い自分が嫌いだったし、自分が判断したことに後悔し始めている自分も嫌いだった。

 ハーマイオニーに、そんな自分に気づかれたくて、ハリエットは下を向き続けた。

「二人には、言わないの?」

 ハーマイオニーは躊躇いがちに言った。ハリエットは力なく首を振る。

「言えないわ」
「でも……」
「シリウスは、私の敵を討てたことを、誇りに思ってる」

 ハリエットは無意識のうちにハーマイオニーの手を握りしめた。

「シリウスは、何も言わないわ。でも、もう怖いものは何もないんだって顔で、私に笑いかけてくる。そうなの、もう怖いものは何にもないの。でも、私は未だにベラトリックスが怖い。それを知られるのが嫌なの。折角シリウスが……」

 守ってくれたのに。

 ハリエットの声は尻すぼみに消えた。

 ベラトリックスと相対している時、シリウスが言ってくれた言葉を、ハリエットは大切に胸の中に仕舞っていた。だが、時折それがハリエットに牙を剥くのだ。
『お前なんかに――二度と――ハリエットを傷つけさせてなるものか!』
 未だ、ハリエットが――おそらく、この先もずっと――ベラトリックスの影に怯えていると分かったら、シリウスはどう思うだろうか? 絶対にショックを受けるに決まっている。復讐する対象はもういないのに、どうやってその相手への恐怖を取り払うことができるというのか? あの優しいシリウスは、自分の無力を嘆くに決まっている。

「ハリーにだって、言えないわ……」

 ハリエットは、自分がマルフォイ邸に捕らえられていたときのハリーを知らない。だが、ネビルやコリン、ジニーから、話には聞いていた。
『まるで人が変わったみたいだったよ。本当に辛そうだった。それほど君のことが大切だったんだね』
 妹が拷問される様を、ずっと見ていたハリー。あの凄惨な光景を、ハリーには直で見られていたのだ。

 あの時の記憶はないとハリエットが断言したとき、ハリーは心からホッとしたような表情を浮かべていた。きっと、あの時の光景は、自分だけの胸の内に秘めておくつもりだったのだろう。

 ハリーには、もう同じ苦しみを与えたくなかった。このまま、当事者であるハリエットが口をつぐんでいれば、ハリーだってあの時の光景を忘れ去られるはずだ。

 吸魂鬼によって、母親の死の現場を見せつけられたハリエットは、妹の拷問の場面まで、ハリーに植え付けたくはなかった。

「大丈夫よ、ハーマイオニー。たぶん、時が経つにつれ、記憶も薄れていくわ。今はまだ敏感なだけ。きっと大丈夫……」

 ハリエットは自らにも言い聞かせるようにして言った。ハーマイオニーは唇を引き結び、ただ黙ってハリエットを優しく抱き締めた。