■小話

03:父と息子


20.03.06
リクエスト

*ネタバレ?注意です*
ドラコがハリエットとの結婚を両親に許可して欲しい話です。

 マルフォイ家嫡男のドラコ・マルフォイは、現在聖マンゴ病院で癒者として働いている。彼の父、ルシウス・マルフォイは、始めそのことにかなり不服だった。

 マルフォイ家は、働かずとも悠々と暮らせるだけの膨大な財産はあったし、上流階級が汗水流して働くなどみっともないという考えを有していた。理事やスポンサーとしてここぞというときに己の家門にとって一番旨味が出るように口出しするのが、本来の上流階級のあり方なのだ。

 にもかかわらず、ドラコはなぜよりにもよって激務で責任の重い癒者などを志したのか、ルシウスには全く以て分からなかった。唯一分かるのは、息子は、忌々しいハリー・ポッターの妹と関わるようになって変わってしまったということだ。

 彼女の名は口に出したくもなく、マルフォイ家では一切その名は出て来ない。だが、時折休日にふらりと姿を消し、そして夜遅くに戻ってくる息子を見ていると、いやでも恋人の存在を認識し、そしてそれがあの赤毛の女だろうと見当をつけずにはいられなかった。

 とはいえ、ルシウスもそれほど将来を悲観してはいなかった。ドラコには、幼い頃から純血がなんたるか、マルフォイ家がなんたるかを丁寧に説いてきた。ホグワーツに入学する頃には彼も父の考えを理解し、嫡男に相応しい振る舞いを身につけていた。今はただ、一時の気の迷いで半純血の女なぞに惑わされていても、いつかは目覚めて帰ってくるはずだ。女遊びはいくらでもしていい。最後の最後にマルフォイ家の高貴なる純血を継ぐための、立派な家柄の女性と結婚すればルシウスももう文句は言わない。

 ――そう、ルシウスはもはや、そのことしか望んでいなかった。未だどことなく息子に壁を感じていようが、癒者として汗臭く働いていようが、穢れた血や血を裏切る者と仲良くしていようが目を瞑る。せめて、せめて純血の女性と結婚してくれれば。

 だが、そう祈るようにして願っていたのは、薄ら心の奥底で感じていた予感に見て見ぬ振りをしていたいだけだったのかもしれない。

 ドラコはその日、珍しく早くに帰ってきた。最近の彼は、癒者見習いとしての研修が明け、本格的に実務に駆り出されるようになった。そのせいか今まで以上に多忙を極め、夕方に帰ってくることなど一月に一度あるかないかくらいだ。

 今まさに夕食に手をつけようとしていたルシウスとナルシッサを見て、ドラコは軽く頭を下げた。そして緑色のローブを翻し、自室へと真っ直ぐ向かう。

 最初こそ、癒者として働くようになったドラコのことを不満に思っていたルシウスだが、研修が明け、初めて彼が緑色のローブを纏って帰ってきたとき、思いのほか似合っていると思ったのは、己の胸深くに沈めた純粋な感想だった。マルフォイ家は代々スリザリン寮出身で、スリザリンの象徴はグリーンである。ドラコにグリーンが似合わない訳がなかったが、それを差し引いたとしても、ドラコにはグリーンがよく似合った。

 軽く着替え、ドラコはすぐに居間に戻ってきた。テーブルの上の料理に全く手がつけられていないのを見て、彼は申し訳なさそうな顔をした。

「先に食べていても……」
「そんな訳にいかないわ。折角久しぶりに三人揃ったんだもの」

 ナルシッサの言葉を合図に、三人はグラスで乾杯した。昔からよく見られた、マルフォイ家三人だけの食事が始まる。

 その日のナルシッサはよく喋った。アルコールのせいもあったし、先程の言葉の通り、久しぶりに息子と食事を共にできるのが嬉しいのだろう。彼女はドラコによく仕事のことを尋ねた。ルシウスは癒者の話など聞きたくもなかったので、むっつり黙り込むのみだ。

 メインディッシュを終えた頃だろうか、ルシウスは不意に空気が変わるのを感じた。目を上げれば、ドラコは食事を止め、両手は膝の上に置いており、そしてナルシッサもまた、そんな息子を困惑したように見つめ、グラスをテーブルに置く。

「どうしたの?」
「お話があるんです」

 珍しくドラコは緊張しているようだった。一度言葉を切り、唇を結んだ後、またゆっくり開く。

「ミス・ポッターに会って頂きたいのです」

 ドラコがそう発したとき、ナルシッサはハッと顔に緊張を走らせ、ルシウスは訝しげに眉根を寄せた。

「何のために?」
「結婚の挨拶を……と」

 言い辛そうにドラコがそれを口にした瞬間、予想通りルシウスは怒気の籠もった目で息子を睨み付けた。

「何だと? お前はあの女と結婚すると言うのか?」
「はい」
「――っ」

 身体が沸騰したように熱くなり、ルシウスは一瞬言葉が出て来なかった。次に我に返ったとき、その口から怒濤のように言葉が飛び出してきたのは、単に反動だったのだろう。

「一時の気の迷いと目を瞑っていたのを良いことに、お前は一体何を言い出すのだ? 自分が何を言ってるのか分かっているのか? 半純血の女だと!? マルフォイ家の嫡男が何を血迷った! 私は絶対に許さない!」
「ルシウス」

 ナルシッサは夫の拳に手を添えた。怒りのあまり、彼はテーブルクロスを固く握りしめていたのだ。

「――結婚は純血の娘とでなければ許さない」

 妻の言葉に頭を冷やし、ルシウスはいつもの冷静さを取り戻した。

「もう相手も二、三人考えている。どれもお前と同じ年代で、聖28一族でもある名家だ。お前もきっと気に入る」
「半純血の何が悪いんですか?」

 ルシウスの言葉を無視し、ドラコは努めて落ち着いた声で彼に問いかけた。

「純血だからと何が勝っているのでしょうか? 魔法族の血が一滴も流れてないマグル生まれでも優秀な人はいます。父上もご存じでしょう。ハーマイオニー・グレンジャー。彼女には何度も命を救われましたし、そしてとても優秀です。僕は学生時代、結局魔法薬学以外は彼女に勝つことはできませんでした」

 それは恥ずべきことであるはずなのに、ドラコはどこか清々しく言ってのけた。

「純血だから、半純血だからと、もう血筋で人を判断する時代は終わったんです。そこには何の意味もありません。皆同じ人間なのですから。癒者として働くようになって、僕は以前よりもずっとそう思うようになりました。――父上も、もうそのことを認めるべき時です」
「……私は決して許さない」

 力拳を握ったまま、ルシウスは言い放った。ルシウスは、ドラコの言っていることが半分も理解できていなかった。まるで彼が遠い異国の言葉を話しているような気がしてならなかった。

「それでも、僕は彼女以外の人と結婚するつもりはありません」

 ドラコは静かに言った。ルシウスはキッと息子を睨み付ける。

「お前は――私達に折れろと言うのか!? 家族よりもあの女を取ると言うのか!?」
「父上も、息子の幸せよりも血の存続の方が大切だと――そう仰ってるようにしか聞こえません」

 ドラコはルシウスと目を合わせようとするが、父は頑なにテーブルを睨み付けたままだ。

「祝福して欲しいなんて言いません。ただ、せめて認めて欲しい……それだけなんです。考え方が違っていても、僕の父と母はあなた達しかいないんです。……僕は、あなた達が掲げる純血主義を、もう支持することはありません。それでも、あなた達のことはとても大切に思っています」

 悲しげに言うドラコに、ナルシッサは彼が何を決意しているのか悟った。唐突に立ち上がり、部屋を出て行くルシウスを慌てて追い掛ける。

「ルシウス、待って――どうするつもり?」
「どうもこうもない――ドラコの頭が冷えるまで、私は口を利くつもりはない」
「でもルシウス」

 ナルシッサは囁くようにして言った。

「もし結婚の許可が得られなければ……ドラコはきっともう私達と縁を切る覚悟を決めているのよ。不死鳥の騎士団に寝返ったあの時から、その気持ちは変わってないはずだわ」

 足を止め、ルシウスは驚愕の表情でナルシッサを振り返った。考えすぎだと一笑に付したい――が、それができない。ルシウスも薄々感じている不安だった。

「だが……そんな……ドラコが?」
「私達は今選択を迫られているのよ。息子を失うか、純血を失うか――私はもう、随分前から心を決めたわ」
「何を――シシー!」

 ルシウスは目を見開いてナルシッサを見た。長年寄り添ってきたはずの妻が、今は全くの別人に思えた。彼女が次に何を言うか、ルシウスは理解していた。

「私達の元からドラコがいなくなった後――私は、ドラコが死んでしまうかもしれないと、そう思うだけで心が押しつぶされそうだったわ。毎日が真っ暗で、心配で心配で堪らなかった……ルシウス、あなたもそうでしょう? あんな思いをするくらいなら――」
「だが――だが……」

 言葉が詰まり、ルシウスは片手で顔を覆った。

「どうしてあの子は、ドラコは変わってしまったんだ……」
「でも、あの子は毎日生き生きとしてるわ」

 ナルシッサは慰めるように夫の背中に手をやった。

「仕事にはやりがいがあるみたいだし、休日、外に出掛けて、そして帰ってきたとき、いつもより機嫌が良さそうなの。よく笑うようになったし……とても、幸せそうに見えるの」
「…………」
「私は……会ってみようと思うの。私は、純血を絶やさないことが使命だと考えていた……今でもそう思ってるわ。でも、あの子の幸せの前には、何者も勝てないと思うの」

 ルシウスは、それ以上妻の言葉に耳を貸すことはできず、そのまま自室へと足を速めた。ナルシッサは追い掛けてこなかった。

 部屋に一人きりになると、扉に背を預けたまま、ルシウスはその場に茫然と立ち尽くした。

 ――どうすればいいのか、全く分からなかった。息子は変わってしまった。その彼を、どんな言葉を以てして引き留めれば良いのか分からない。それどころか、引き留めるのに失敗すれば、ドラコは縁を切るかもしれないと妻が言うのだ。――それは、ルシウスも薄々肌で感じ取り、そして同時にひどく恐れていたことでもあった。

 両親へ杖を向けたドラコ。懸命に説得しても決して自分たちの元へ戻って来なかったドラコ。ルシウスの脳裏には、あの時の、自分たちと袂を分かつとはっきり宣言した息子の顔が浮かび上がっていた。あの時のことを思い出すと、今でもルシウスの胸はキリキリと痛み、絶望に突き落とされそうになる。

 ただ、絶望の淵に立たされたとき、ルシウスにはようやく一つだけ分かったことがあった。それは――何があったとしても、ドラコと縁を切ることなどできないということだ。――縁など切らせない。ドラコは大切な家族であり――大切な一人息子なのだから。


*****


 夜の帳が下り始めた頃を見計らい、ルシウスはダイアゴン横丁の外れに姿現しをした。そしてそのまま、人目を憚るようにして足早に奥地へと向かう。

 彼の目的地は、著名人やあまり素性を知られたくない人たちが利用する高級料理店だ。それなりに値段は張るが、その価値はある場所だ。

 実際、過去幾度となくルシウスはその場所を利用していたが、一度もその事実が周囲に漏れることはなかった。値段だけに、顧客の秘密保持に関しては厳格なのだ。

 とはいえ、そもそも秘密の会合をするならばノクターン横丁が最適だが、執行猶予が明け、まだ数年も経っていないうちにそんな所に姿を現せば、また良からぬ事を企んでいるのかと噂されること間違い無しだ。そんなことは本望ではなかったし、それに、ノクターン横丁を待ち合わせ場所にして『彼女』に警戒されても困る。ルシウスは、ダイアゴン横丁を選択するほかなかったのだ。

 贔屓にしているその料理店に着くと、ルシウスは、店の前でウロウロしている女性を発見した。長い髪を今はまとめているようだが、その目に眩しい赤毛は紛れもなくハリエット・ポッターその人だ。息子の髪色とは全く合わないだろうその派手な髪に、ルシウスは余計苛立ちを感じた。

「何をしている」

 短く声をかければ、ハリエットはビクリと大袈裟な程に肩を揺らした。おずおずと振り返った彼女は、不安と緊張をありありと浮かべた表情で頭を下げた。

「こ、こんばんは。ルシウスさん」
「何をしていると聞いた」
「あっ――えっと、初めて来る場所なので、ここで合ってるのかと不安に思って……」

 気恥ずかしそうに笑い、俯く彼女を見て、ルシウスはため息を漏らすのを堪えた。

 彼女の態度は上流階級のそれとは全く似つかない。確かに、この料理店はいかにも『一見さんお断り』という店だ。だが、待ち合わせ場所に指定された場所がどんな場所であれ、堂々と入らなければそれだけ相手に付け入る隙を与えることになる。事実、ルシウスのハリエットに対する印象はまた一つ悪くなった。

 ルシウスが無言で料理店の中へ入っていけば、ハリエットもまた慌てたようにちょこちょこ彼の後をついてくる。ウエイターにテーブルへ案内されるまで、ルシウスは一言も彼女と口を利かなかった。

 この店には、軽くお茶をするだけだと伝えていた。時分としては、少し早めの夕食といった所だが、彼女と二人きりでフルコースなど耐えられる訳もない。

 最初の注文が来るまで、気を遣ってか、ハリエットは話題を欠かそうとしなかった。だが、彼女が口にする話題は、ことごとくルシウスの好みではなかった。ドラコの仕事がどうの、自分の仕事がどうの。ルシウスはドラコの今の仕事が気にくわなかったし、ハリエット・ポッターのことなどもってのほかだ。興味すらない。今日彼女をここへ呼んだのは。

「――どうしてドラコなんだ?」

 不意に漏れ出た問いに、ハリエットは目をぱちくりさせた。ルシウスは早口で続ける。

「もっと他にいるだろう、君に合う男が。君とドラコは何もかもが違う。今や君は英雄の妹で、君自身も有名だ。なぜドラコを選ぶ?」

 嫌味に聞こえないよう、ルシウスはできうる限り声が刺々しくならないようにした。本当のところ、彼女の方がドラコに相応しくないと考えていたのだが、そんな態度は微塵も見せない。それだけの場数は踏んでいた。

「私は……そんな風に考えたことは一度もありません」

 ハリエットは困惑の表情を浮かべながら、きっぱりと言い切った。

「周りの人がどう思うかなんて関係ありません。皆は、私とドラコの間に何があったかなんて知らないでしょう? 私は何度もドラコに助けられましたし、これからの彼を、私自身も支えたいと思ってるんです。そのことに、周りの人は関係ありません」
「だが、あの男だってマルフォイ家との婚姻は嫌がるはずだ――君の後見人だ」

 ハリエットはハッとしたが、すぐに微笑を浮かべた。心から幸せだという顔だ。

「シリウスには許可をもらいました。とても喜んでくれています」

 意外に思って、ルシウスは一瞬顔を上げた。しかしすぐに納得した。あの後見人馬鹿のことだ。愛する『娘』に泣きつかれでもしたら、尻尾を振って許可を出すに違いない。――だが、自分は奴とは違う。ドラコは泣きつきもしなければ、怒りもしない。ただ無情に自分たちとの縁を切るだけなのだ。それを思い、ルシウスは再度己に活を入れる。

「そうか……だが、たとえ君の後見人が許可を出したとして、私も同じ判断ができるとは言えまい。そう――君はどう足掻いたって、私が認められるような結婚相手ではない。……純血にはなり得ない」

 ハリエットは黙ったままルシウスの言葉の先を待った。『血』について言われるだろう事は重々承知していた。

「血は、一度穢れたものが入ればもう後には戻れない。私はドラコの結婚相手には純血の女性を望む。それは第一条件だ。もしドラコが従わないというのであれば――私は縁を切るつもりでいる」
「そ、そんな――」

 思いも寄らない方向に話が進み、ハリエットは言葉を失った。

「どうして……そんなことをすれば、ドラコがどんなに悲しむか――」
「ドラコは君と出会って変わってしまった。私達のことも蔑ろにするようになってしまった。ドラコは既に一度私達と縁を切ろうとしている。それならば、どうして私達も同じことをしないと言える?」
「ドラコは、あなた方のことをとても大切に思っています!」

 何とかして考えを改めさせようと、ハリエットは必死になって叫んだ。

「不死鳥の騎士団に力を貸してくれた時だって、ずっとあなた方のことを心配していたんです。ずっと……ずっと。表には出さなかったけど、あなた方の名が記されたタペストリーを見て泣いていたんです!」

 ハリエットは胸が張り裂けそうになるのを感じた。自分たちの結婚が、まさか一つの家族を壊すことになるなんて、思いも寄らなかった。

「どうか考え直して頂けませんか?」

 ハリエットは両手を握りしめて切に訴えた。

 ドラコと彼ら両親の絆が途切れることを思うと、胸が苦しくて堪らなくなった。ハリエットですら、シリウスに縁を切れば良いと言われたとき、絶望を味わったのだ。もう自分と話してくれないかも――もう笑顔を見せてくれないかもと。

 ハリエットは、ドラコにそんな思いを抱いて欲しくなかった。

「ドラコが可哀想です。あなた方のことを愛しているのに――」
「なんと言われようと、私の考えは変わらない。大切に思っているのなら、私達の意向に従うはずだ。君との結婚に踏み切ろうとしている時点で、私達は君に負けたのだ。そんな息子はマルフォイ家にふさわしくない」
「――っ」

 ハリエットは、まるで自分が勘当を言い渡されたかのような顔になった。唇をわなわなと震わせ、顔は血の気を失い真っ白だ。

「後は君がどうするかだ」

 ハリエットの様子を見て、ルシウスは少し溜飲を下げた。もしかするとうまくいくかもしれないと思った。

「幸せになりたいなら、君の思うがまま道を突き進めば良い。血の繋がらない家族ごっこをしてな。だが、その幸福は一つの家庭を壊した上で成り立っているものだと自覚しなさい」

 それだけ言い渡すと、ルシウスは席を立った。結局頼んだ紅茶には手をつけないままだった。俯き、ポツンと座るハリエットだけがその場に残された。


*****


 窓のすぐ側まで引っ張ってきた椅子に腰掛け、ハリエットは夜空を見上げていた。いつもならばとっくに寝る準備を始めている時間だが、明日は休みなので、普段よりは悠々としていた。

「窓を開けていたのか? 風邪を引くぞ」

 不意に声がかかり、ハリエットは振り返った。全く気づかなかったが、シリウスが帰ってきていたらしい。ハリエットは微笑みを返す。

「もう子供じゃないんだから、これくらい大丈夫よ」
「わたしからすれば、まだまだ子供だがな」

 クリーチャーが慌ただしくシリウスの夕食の準備を始めた。それを横目に、シリウスはハリエットの側まで行き、窓枠に手をつく。

「結婚の準備はどうなってるんだ? 日取りは決めたか? わたしは、念入りに準備をすればいいと思うから、別に半年後でも……」

 もごもごとシリウスは話した。二人の結婚に承諾したとは言え、もう少し独身のハリエットと楽しく暮らしていたいというのが本音だったのだ。

 だが、サッと顔を暗くする名付け子を見て、シリウスは悟った。己も前を向き、睨むように夜空を見る。

「……ルシウス・マルフォイがうんと言わないのか? あいつは厄介な男だからな。ナルシッサはまだ話が分かりそうなものだが……。どうだ、わたしが直接話をつけてみようか?」
「大丈夫よ。気持ちは有り難いけど」

 微笑み、しかし首を振るハリエットに、シリウスは不満げだ。

「喧嘩になるとでも思っているのか? 大丈夫、きっと上手くやる」
「そうじゃないわ。だって、これは私達の問題だもの。今からシリウスに手伝ってもらってたんじゃ、この先が思いやられるわ」
「だが……」
「ご主人様、夕食の準備ができました」

 クリーチャーの出現に、シリウスは言葉を止め、息を吐き出した。そしてポンポンとハリエットの頭に手を乗せる。

「また後で話そう」
「ええ」

 シリウスを見送り、ハリエットはまた前を向いた。その顔は、始めは暗かったものの、夜空に何かを見つけて、パッと華やいだ。

「ウィルビー!」

 主人の声に呼応して、ふくろうは嬉しそうに鳴いた。そして一層速度を上げ、主人が広げる腕の中へ飛び込む。ハリエットはくすぐったくなって笑い声を上げたが、しかしすぐにウィルビーの足に括り付けられた手紙が、開封すらされていないことに気づく。

「ウィルトシャーにもいなかったの?」

 ハリエットが問いかければ、まるで言葉が分かるかのようにウィルビーはしょんぼりした。足の手紙を懸命に隠そうとするが、闇夜に白い封筒は目立った。

「そんなことしなくてもいいのよ。ご苦労様」

 ハリエットはウィルビーを撫でて労をねぎらった。だが、その顔は浮かない。

「ドラコ、一体どうしたのかしら……」

 ハリエットは不安げにため息をついた。ドラコと急に連絡が取れなくなって四日だ。いくら癒者という仕事が忙しいとはいえ、さすがに何かあったのではないかと不安で堪らない。

 ルシウスと話をしてから、二週間が経過していた。二週間経ってもなお、ハリエットはどうすべきか迷いあぐねていた。

 結婚は、ドラコ以外に考えられない。だが、彼と結婚すれば、彼は家族との縁を切られてしまう。そんなのはハリエットにとっても耐えがたい苦痛だ。

 自分には――自分たちには父も母もいない。亡くなったからだ。だが、ドラコにはそのどちらもいる。きちんと愛し、愛されている関係でもある。それが自分のせいで壊れるかもしれないなんて、考えたくもなかった。

 根気強く話し合ったとして、ルシウス・マルフォイに純血主義を改めさせることなど不可能に思えた。であれば、何とかしてドラコと縁を切らないよう説得するしかない。だが、このことは決して彼には話せない。話したら最後、彼は必ずショックを受けるだろう。愛する家族に縁を切ると宣言されただなんて。

 ドラコと連絡がつかないことも更にハリエットを不安へ追いやる。――もしかして家族と何かあったのだろうかと思わずにはいられない。何かの拍子で、ルシウスとの話が漏れ、ショックを受けてドラコが家を出た――。

 ハリエットは、込み上げてくる不安をどうすることもできなかった。


*****


 夕闇に紛れるようにして、ハリエットはウィルトシャーのマルフォイ邸に来ていた。我ながら自分が大胆だとは思ったし、家にまで押しかければ、ルシウス・マルフォイがどう思うかなんて嫌でも想像できる。だが、それを差し置いたとしても、ドラコのことが心配だった。風邪で寝込んでいるとか、そういう類いの話であればまだいい。だが、もし未だ蔓延る死喰い人の残党に襲われ、今なお行方しれずなのだとしたら――。

「目的を述べよ!」

 考え込みながら立派な門構えに近づくと、急に門が変形し、話し出したので、ハリエットは心臓が止まるかと思った。――そう言えば、すっかり忘れていたが、この門は話すことができるのだ。

「あ、あの、ハリエット・ポッターです。最近ドラコと連絡がつかなくて、何かあったんじゃないかって不安に思って……」
「…………」

 しばらく門は何の反応も示さなかった。門前払いを食らわせられるのではないかと不安に思ったとき、再び門の口が動き出した。

「――ドラコは、研修でしばらく海外に行くと聞いている」

 聞こえてきたのは、ルシウスの静かな声だった。ハリエットは緊張と安堵の思いで複雑な表情になった。

「あ……そうだったんですか。良かったです。何かあったのかと思って」
「君は知らされていなかったのか?」

 薄らせせら笑うような調子が含まれていた。ハリエットは俯き、両手を握りしめる。

「はい。でも、無事ならそれでいいんです。こんな時間に突然すみませんでした」
「待って」

 頭を下げ、そのまま帰ろうとした所で、今度は女性の声が門の口から響いてくる。

「あなた、本当に知らなかったの? 私達もしもべ妖精から突然知らされただけだったのよ。急にしばらく海外に行くとか何とかで……何だか嫌な予感がするわ」

 ナルシッサは声の調子を落とす。ルシウスはしばらく考え込み、そしてハッとした。

「お前は――ドラコに言ったのか!?」

 突然怒鳴り声が響き、ハリエットは困惑した。すぐに何のことか思い当たり、勢いよく首を横に振る。

「――言ってません! 何も!」
「ルシウス、何の話?」

 ナルシッサが訝しげに尋ねる。ルシウスは焦ったように頷く。

「とにかく――入ってこい。しもべ妖精にも話を聞く」

 ルシウスの言葉と共に、門がパッと開いた。ハリエットは一瞬戸惑らったが、すぐにまた門から声がする。

「いいえ、私達がそっちへ行くわ。あなたはそこで待っていて」
「シシー――」
「トニーもついていらっしゃい」

 プツンと音が途切れ、門の恐ろしい顔はぐにゃりと歪み、元に戻った。ハリエットはしばらくその場で一人佇んだ。

 それから、ルシウスとナルシッサ、しもべ妖精のトニーが現れたのは、僅か数分の出来事だった。

「ドラコが海外に行くっていう話を聞いたのは、丁度数日前よ。それも、直接じゃなくてこのトニーから伝え聞いて……」

 ナルシッサは厳しい目をトニーに向けた。

「トニー、ドラコは海外のどこに行ったの?」
「お、奥様……と、トニーは海外に行くとしか……」
「他にも何か聞いてるはずだわ。居場所も教えずに、連絡一つ寄越さないなんておかしいもの」

 ナルシッサがしもべ妖精に詰問する間、ルシウスは、未だハリエットがドラコにあの話を漏らしたのではないかと疑り深い顔だった。ハリエットは決して顔を下に向けなかった。

 ハリエットが毅然としているので、ルシウスの方も、仕方なしに矛先をしもべ妖精に向けるしかなかった。

「トニー、お前の主人は誰だ? 誰に命令されて黙っている? お前は私を第一として仕えるべきではないのか?」
「と、トニーはドラコ坊ちゃまに口止めをされていて……」
「トニー」

 今にも射殺さんばかりの視線でルシウスはトニーを睨み付けた。トニーは震え上がる。

「ど、ドラコ坊ちゃまは、聖マンゴ病院に入院なさっています!」

 その場の空気が固まった。ナルシッサは悲鳴のような声を上げて口を手で押さえる。

「な、なんてこと……一体どうして! 怪我をしたの? 何か病気なの?」
「トニーも詳しいことは……」
「ええい、役に立たないしもべが!」

 ルシウスがステッキを振り上げる。ハリエットは思わずトニーを抱き寄せた。

「トニー……聖マンゴに行けばドラコに会えるのね? 病室は分かる?」

 トニーは震えながらこっくり頷いた。ハリエットはナルシッサを見上げた。

「聖マンゴに行きましょう。ドラコに会わないと」
「ええ――そうね」

 血の気を失った顔で、ナルシッサは頷いた。ルシウスは納得のいかない顔で妻の腕をとった。今の状態であれば、彼女は一人で姿くらましができないかもと思ってのことだ。

 ハリエットは、トニーと共に聖マンゴ病院へ姿現しした。すぐ側にルシウスとナルシッサも現れる。トニーの案内によって、一行は一つの病室にたどり着いた。部屋の入り口には『ドラコ・マルフォイ』の字が描かれていて、紛れもなく彼がここに入院しているのだということが分かる。

 その文字を見て立ち尽くす夫婦を差し置き、ハリエットは意を決して扉を開いた。

 部屋にベッドは一つきりだった。その周囲にはカーテンが引かれている。

 病室としては至って普通の光景だが、周囲とを遮断したカーテンが、不穏な想像をさせずにはいられない。ナルシッサは駆け寄って思い切りカーテンを開けた。

「ドラコ!」

 ドラコは、いた。患者服を着て、ベッドの上に半身を起こし、羽ペン片手に何やら手紙を書いているようだった。その彼は、突然の侵入者に目をぱちくりさせていた。

「母上……どうしてここに?」
「それはこちらの台詞です!」

 ナルシッサは痛いくらいにぎゅうっとドラコを抱き締めた。だが、すぐに我に返ってドラコを離し、上から下までじっくり眺める。

「どこか痛い所は? 怪我をしたの? 何かの病気?」
「母上……落ち着いてください」
「これが落ち着いていられますか!」

 ナルシッサの肩越しに、父と、そして恋人の姿を認めたドラコは、ますます困った表情を浮かべた。一旦椅子に座るよう勧めても、誰一人として腰を落ち着けない。ドラコは観念して口を開いた。

「錯乱の呪文に掛けられた患者の手当てをしているときに、真正面から呪文を受けてしまったんです。特に怪我はなかったのですが、手に麻痺が残って、しばらく療養のために……」
「治るの? ちゃんと治るんでしょうね!?」
「ご覧の通り、もう今は何ともありません」

 ドラコは右手を動かして見せた。ナルシッサは心配そうにその右手を両手で包み込む。

「どうして私達に嘘をついたの? 海外に行くだなんて!」
「心配を掛けると思ったからです。それに――父上はあまり僕の仕事を良く思っていません。僕の不注意で怪我をしたと知れたら……その」

 ドラコが視線を外した先に、ハリエットの姿が映った。ドラコは申し訳なさそうに笑う。

「やっと手を動かせるようになったから、今夜にでも君にふくろう便を送ろうと……心配を掛けたようですまない」
「無事ならそれでいいのよ」

 ルシウスが視線を落とすと、書きかけの羊皮紙が目に映った。『愛してる』の文字が不可抗力にも視界に飛び込んできて、訳も分からず不快な感情が込み上げてくる。父の視線に気づき、ドラコは気まずそうに慌てて羊皮紙を丸めた。

「ドラコの無事が分かったんだ。君も早く帰らなければ、後見人殿が心配するんじゃないかね?」
「……はい、そうですね」

 ハリエットは躊躇いがちに頷いた。ルシウスの醸し出す空気を敏感に感じ取っていた。

「ドラコ、今日はもう帰るわ。いつ退院できるの?」
「明日か明後日にでも。また後でふくろう便を送る」
「待ってるわね」

 微笑み、軽く手を振って、ハリエットは病室を後にした。マルフォイ夫婦にも頭を下げたが、反応が返ってきたのはナルシッサだけだった。

 その後、ナルシッサは、今夜はここに泊まるといって聞かなかった。それに断固として反対したのはドラコの方だ。大怪我をした訳でもあるまいし、病気なわけでもない。もう子供でもないのだから、付き添いをされたらさすがに立つ瀬が無いと。

 息子にここまで言われれば、さすがのナルシッサも引き下がるしかなかった。渋々病室を出て行く妻を尻目に、ルシウスは頑なにその場に居座った。

「…………」

 ドラコは、父が母と同じ理由で病室に留まっている訳ではないと分かっていた。彼が言いたいのは、おそらく――。

「お前がどうしてもと言うから、癒者を目指すのに目を瞑ったというのに、危険がつきまとうだなどと聞いてない」

 ルシウスの口調には、静かな怒りがあった。

「お前が受けた呪文が死の呪文だったらどうするつもりだ? 笑いぐさだ! 人を治すはずが、自分が殺されるなどと!」
「今回のことは完全に僕の不注意でした。まだ杖を持っていたことに気づかなかったんです」

 ドラコは宥めるように言ったが、ルシウスは聞き入れない。

「今後も同じようなことがあるかもしれない。だから私は反対だったんだ! もし――お前が死んでしまったらと――」

 ルシウスは激しい怒りと共に、声を詰まらせた。

「もう……あんな思いは二度とごめんだ――」
「……僕も気が気じゃありませんでした」

 ドラコは静かに父を見つめた。彼が何のことを言っているのか、ドラコはすぐに分かった。今でも時折夢に見るくらいだからだ。

「僕のせいであなた達が殺されてしまうのではないかと……せめて安否だけでも知りたくて堪りませんでした」
「ならどうして戻って来なかった!」

 拳を握り、ルシウスは叫んだ。

「どうして私達を裏切った……」
「その理由はもうお分かりでしょう?」

 ドラコは淡々と告げる。ルシウスは薄く笑った。

「お前は――やはりそうなのだな。私達が彼女との結婚を認めなければ、縁を切るつもりでいるのだろう」
「…………」

 しばしの沈黙。

 ルシウスはそれで全てを悟った。この沈黙が答えだと――。

「父上、何を勘違いしてらっしゃるのかは分かりませんが、僕は、あなた達と縁を切るつもりは毛頭ありません」
「何を……」
「そんなことをすれば、彼女が悲しむから」

 ドラコはどこか遠くを見ていた。そしてその口元は緩く弧を描いている。

「彼女はミスター……シリウスのことをとても大切に思っています。そのことを僕はずっと前から知っています。そして彼女もまた、僕があなた達のことを心から愛していることも知っている。――そんな彼女は、僕が家族と縁を切ることを良しとしないでしょう」
「…………」
「もし僕があなた達との縁を切れば、彼女は自分のことのように辛く感じるでしょう。それどころか、僕が縁を切ったのは自分のせいだと考えるかもしれない。僕はそんなことしたくない」

 ドラコは、ようやくルシウスを見た。久しぶりに息子の顔を真正面から見たとルシウスは感じた。

「僕は――僕たちは、根気強くあなた達を説得していくつもりでした。何年かかったとしても」

 大人びた微笑を浮かべる息子は、驚く程若い頃の自分に似ていて、それでいてやはりルシウス・マルフォイとは決定的に違う何かを備えていた。


*****


 聖マンゴを退院して間もなく、顔合わせの話をナルシッサから切り出されたドラコは、突然の事態に反応できずにいた。加えて、何やら話はルシウスとナルシッサ、どちらも参加するという話で進んでいる。気が変わったと言われるのを恐れ、ドラコは深く切り込むことができずにいたが――どんな心境の変化か、とは訝しく思ったものだ。

 二人の心境を慮る時間も余裕もなく、ついに顔合わせの日はやってきた。ハリエットとドラコの両親を引き合わせるのは、ダイアゴン横丁にあるルシウス馴染みの料理店になった。だが、当日になっても、ルシウスはそのことに大層不服だった。足早に人混みを抜けながらぶつぶつ言う。

「顔合わせにもかかわらず、私達が出向けと? 普通は相手方がこちらへやってくるものではないか? 向こうにはそんな常識もないのか?」
「父上」

 ドラコは咎めるようにしてルシウスを見た。

「正気でそんなことを仰ってるのですか? 彼女が僕たちの家で何をされたか、お忘れなのですか?」
「ドラコ」

 ナルシッサは慌てて割って入った。今から顔合わせだというのに、こんな所で仲違いする訳にはいかない。

 母の声に頭が冷え、ドラコは幾分か調子を取り戻した。

「――彼女にとって、あの家はどこよりも最悪な思い出の場所です。僕はなんと言われようと、彼女を家に連れてくるつもりはありません。……正直、僕だって早くあの家を出たいくらいなんです」

 ルシウスは言葉に詰まり、そして目を伏せた。それ以上は何も言わなかった。

「ドラコ」

 わざと足を速めるようにして歩いて行く夫を見て、ナルシッサはフォローを余儀なくされた。

「あの人も、何も嫌がらせのつもりで言ってる訳ではないわ」
「分かっています」
「伝統を重んじているだけなのよ。お嫁に迎えるかもしれない女性に会うのだから、形式を大事にした方が良いと思っただけなのよ」

 こう言われてしまえば、もうドラコも何も言うことはできない。黙りこくる息子に、ナルシッサは小さくため息をついた。

 料理店に入ると、すぐに個室に案内された。聞けば、もうハリエットは到着しているという。

 予約室につくと、三人の姿を見て、ハリエットはすぐに立ち上がった。

「こんばんは」
「今日はよろしくね」

 ナルシッサが愛想良く挨拶し、それにハリエットが嬉しそうに微笑む。ハリエットはルシウスにも頭を下げた。

「お時間を割いて頂き、ありがとうございます」
「……ああ」

 素っ気ない父の反応を見ながら、ドラコは既視感を覚えていた。――過保護な後見人と一度目の顔合わせをするときも、確かこんな感じだったな、と。

 気まずい雰囲気を吹き飛ばすために、ドラコはハリエットに笑いかけた。

「まさか先に入ってるとは思いも寄らなかった」
「どうして?」
「君だったら、気後れして店の前でウロウロしているかと」
「……馬鹿にしないで欲しいわ」

 頬を赤らめ、ハリエットは反発した。その際、ルシウスと少し視線が交錯した。恥ずかしそうにすぐに目を逸らしたハリエットには預かり知らぬことだが、少しだけ愉快そうにルシウスは口角を緩めていた。我に返り、すぐにまたむっと不機嫌そうに口をへの字に曲げたのだが。

 食事の間中、主に話しているのはハリエットかナルシッサで、ドラコは時折それに相づちを打ち、そしてルシウスは傍観に徹していた。女性同士の話に入る気にはなれなかったし、話題はまたしても仕事の話ばかりだったのだ。ドラコの仕事が気にくわないというのは、依然として変わらなかった。

 その間、ルシウスはハリエット・ポッターの観察ばかりしていた。いや、決してしたくてそうしている訳ではなかった。彼女の声は、嫌でも耳に良く入ってくるのだ。

 彼女はよく笑う女性だった。マルフォイ家の食卓は、基本静かだ。ナルシッサは微笑を浮かべながら相づちを打つのみだし、ドラコもルシウスも、大声で騒いだりしない。だからなのか、ハリエットのことが奇異に映った。不快な訳ではない。ただ不思議な気持ちだった。

 その感覚は、ドラコを見ていて一層強まった。――眩しそうに目を細め、ハリエットを見つめる彼。そう、確か、妻がこんな顔をよくしていた。ドラコがホグワーツでのことを自慢げに話す様を、嬉しそうに、幸せそうな微笑を浮かべてじっと聞き入るのだ。

 もっぱら話す側だったドラコが、まさか聞く側に回るなどと、ルシウスは想像もしていなかった。

 食事が終わると、そのまま大した進展もなく、場はお開きになった。

 ハリエットは少しだけ落ち込んでいた。ナルシッサとの距離は縮まったかもしれないが、ルシウスとの距離は相変わらずの平行線だろう。

 ――ドラコが言ってくれたように、彼が大切に思う両親には、ハリエットとて認められたいし、仲良くなりたい。ただ、たとえ今日上手く前進しなかったとしても、まだいくらでも猶予はあるのだ。焦ることはない。

 四人で固まって廊下を歩いているときに、背の低い男とすれ違った。彼はジロジロと四人を観察し、その先頭にいるのが知り合いだと気づくと、パッと愛想笑いを浮かべた。

「おお、これはこれはミスター・マルフォイ」

 ルシウスに一番に呼びかけながらも、彼の視線は、マルフォイ家の面々をも値踏みするかのように油断なくジロジロ見回した。

「久方ぶりですな。お噂はかねがね。先だって、聖マンゴ病院にまたしても膨大な寄付をしたとか。……何でも、マルフォイ家が聖マンゴ病院を買い取るのだとか?」
「ご冗談を。あそこは息子の職場だ。息子が過ごしやすいよう環境を整えたまで」

 ドラコが気まずそうな視線をハリエットに送った。『僕は頼んでない』と弁解する目だった。

「それにしては――ん? こちらのお嬢さんはどちら様で? ――ああ、いや、ちょっとお待ちください。どこかで見たことのあるお顔だ……」

 男は眉間に皺を寄せ、上から下までハリエットをジロジロ見た。

「ああ、思い出した。確か、ミス・ハリエット・ポッター。そうですね? どうして彼女とこのような場所へ?」
「彼女は……」

 ルシウスの言葉はそれ以上続かなかった。だが、答えをもらわずとも、自ずと想像はついた。ハリエットとドラコのことは、ある意味では魔法界で有名だった。

「ただの噂だと思っていたのですが――まさか、息子さんは彼女とお付き合いされているのですか? ハリー・ポッターの妹と?」

 男の視線は、忙しげにマルフォイ家の面々の間を行ったり来たりした。その顔は、次第に下卑たものへと変わっていく。

「純血を受け継ぐことよりも、家門回復の方に目が眩んだのですかな?」

 カッと頭に血を上らせ、思わず前に出て行こうとするドラコを押し止めたのはハリエットだった。ハリエットですら、この場で騒ぎを起こすことが良くないことだと分かっていた。

 ドラコとハリエットのその様子を見て、ますます己の勘に確信を持った男は、一層見下すような顔になった。

 ヴォルデモートが永遠にこの世を去った今、純血のコミュニティはますます狭くなったが、同時に純血以外への反駁がより強固なものになったのだ。純血は純血同士、その血を純粋なまま後世に伝えていこうと。そんな風潮が蔓延る中、聖28一族の一つマルフォイ家が今まさにしていることは、今の治世に媚びを売る以外の何ものでもなく男に映った。そしてそのことは、他の純血名家にも通じることだろう。

 ルシウスもそれは分かっていた。分かっていたが。

「彼女は息子の婚約者だ。それ以外に何か言葉が必要かな?」

 やましさの欠片もなく堂々と言い返したのは、単に付け入る隙を与えられたくなかったプライドのためか、それとも――。

 一時期ヴォルデモートの右腕を務めるまでに至ったルシウスの威圧感は相当なものだった。こうも堂々と開き直られては、返す言葉も見つからず、男はそのまま愛想笑いをして店の奥へと消えていった。後に残るは、何とも言えない空気で佇むマルフォイ一家とハリエットのみ。

「……父上」

 なんと言ったものか、ドラコにはそう呼びかけることしかできなかった。感謝を伝えるべきか、嬉しさを素直に述べるか。

 しかしそれは父の方も同じなようで、息子の声など聞こえなかったかのようにローブを翻して店を出て行く。

「ええ……まあ」

 その空気に感化され、自分まで気まずくなったナルシッサ。彼女はコホンと咳払いをした。

「私達は先に帰っているわ。あなた達は――しばらくダイアゴン横丁を散歩でもしたらどうかしら。ルシウスは、しばらくあなたに顔を見られたくないと思うかもしれないから」

 それだけ言うと、ナルシッサも足早に店を出て行く。ハリエットとドラコは、嬉しいような、困ったような笑みでちらりと顔を見合わせた。二人揃って血色良く頬を赤らめ、俯くその姿に、ハリエットの赤毛はよく映えていた。