愛に溺れる

ハリエットが愛の妙薬を飲んで、フレッドにメロメロになる







*不死鳥の騎士団*


 薄らと兆候はあった。例えば、課題のレポートを手伝ってくれたとき、例えば、ハリエットの好物をわざわざ厨房から持ってきてくれたとき、例えば、ピグミーパフというふわふわした生物を触らせてくれたとき、例えば、携帯沼地にひっかかりそうだったのを助けてもらったとき――。

 決定的だったのは、ある朝食前の出来事だった。ハリエットが一人廊下を歩いていると、曲がり角の向こうからけたたましい叫び声が聞こえた。ギョッとして駆け出すと、そこにはフィルチがいた。だが、いつもの彼ではない。顔面泥まみれで、辺りにひどい悪臭をまき散らす男――見るからに何者かにクソ爆弾を投げつけられた光景そのものだった。

「だ、大丈夫ですか……?」

 恐る恐る声をかければ、フィルチは手でグイッとクソ爆弾を拭い取り、ハリエットをギロリと睨み付けた。

「――お前か? お前だな!?」
「え――」

 犯人にされるなんてとんでもない! とハリエットは慌てて首を振った。

「わ、私じゃありません! 私、こんなことしません!」
「じゃあ誰がやったと言うんだ! 爆弾はお前がいる方向から飛んできたんだぞ! それとも誰かとすれ違ったとでも言うのか?」
「い、いえ、誰もいませんでしたが――」
「ほら見ろ! 白状したな? お前しかいない!」
「そんな……」

 ハリエットは口をパクパクさせ、必死になって言い訳を考えたが、しかし焦れば焦るほど何にも思い浮かばない。空回りするばかりだ。

「どんな罰則を食らわしてやろうか……アンブリッジ先生に願い出て鞭打ち許可証をもらうか……」

 不穏なことを口にするフィルチに、ハリエットはサーッと血の気を失う。

 だが、その時だった。ハリエットに幸運が舞い降りたのは。

 フィルチの後ろで、見慣れない肖像画がパカッと開いたと思ったら、そこからウィーズリーの双子がひょいと顔を出した。目を丸くしていると、彼らはパチッとウインクし、そしてフィルチに向かって双子お手製の爆竹を投げつけたのだ!

 ハリエットは咄嗟に悲鳴を上げて顔を手で覆い、フィルチはというと、もろに爆竹の攻撃を受けた。激しい閃光に目が眩み、やかましい音に耳がつんざき――。

 悲鳴を上げて悪態をつくフィルチを尻目に、双子は素早く肖像画から降り立ち、そしてハリエットを回収した。

「さあ、逃げるぞ!」

 フィルチが足止めを食らっているため、その場から逃げ出すことは容易だった。悠々と談話室まで戻ってこられたとき、ハリエットは救世主二人に抱きつきたいくらいだった。

「ありがとう、フレッド、ジョージ! 本当に助かったわ、あなたたちは命の恩人よ!」
「大袈裟だな」

 フレッドはニヤリと笑った。

「でも、そう思われるのも悪い気分じゃない。俺たちは君のことを可愛い可愛い妹のように思っているからな」
「あ、ありがとう……」
「君の喜ぶ顔が見たいし」
「君が困っていたら助けてあげたい」
「兄として、そう思うのは当然のことだろう?」

 困惑しながらも、ハリエットはこくりと頷いた。

「だが、君はどうだ」
「君は俺たちのことを兄として慕ってくれてるかい?」
「ええ……とても……楽しい兄だと思ってるわ」
「困っていたら、助けてあげたいと思う?」
「……ええ……」

 誘導尋問のような質問に、ハリエットは嫌な予感がした。しかしもうハリエットは逃げられない。なぜなら、ずっと前から外堀を埋められてきたからだ。『楽しい兄達』によって。

「ありがとう、君ならそう言ってくれると思っていたよ」
「さすが、俺たちの妹だな!」

 真面目な雰囲気とは打って変わって、フレッドとショージの顔は途端にパッと華やいだ。戸惑いながらもハリエットにはそれを見ていることしかできない。

「ちょっと内緒話をしよう」
「そうだそうだ。俺たちの寝室へ」

 両側からがっしりと腕を掴まれ、ハリエットはされるがまま双子に寝室へと連れて行かれた。朝食前だったので、その行動を見咎めるような勇敢な生徒は誰一人としていなかった。

 寝室につくと、双子はハリエットをベッドに座らせ、彼らはその前に肩を並べて立った。

「早速なんだが……ハリエットにはぜひとも俺たちを助けて欲しい」
「これだ」

 そう言ってフレッドが取り出したのは、ピンク色のガラス瓶だ。拍子抜けしてハリエットは目を丸くする。

「これが何か分かるか?」
「可愛いガラス瓶ね。香水?」
「いいや、愛の妙薬さ」
「愛……?」

 きょとんとするハリエットに、双子は軽快に笑った。

「まだ授業で習ってないのか。愛の妙薬――いわゆる惚れ薬さ」

 一瞬遅れて、ハリエットはようやく理解が行き渡った。更に目を大きくして、双子とガラス瓶とを見比べる。

「これが、本当に?」
「ああ。ワンダーウィッチ製、正真正銘の惚れ薬さ」
「すごい……」
「君にはぜひともこれを試飲して欲しい」
「えっ?」

 冗談かと思ってハリエットは笑ったが、しかし目の前の双子は真面目な顔だ。大真面目だ。

「俺たちが悪戯専門店を経営したいってのは、ハリーからも聞いてるだろ? 俺たちはこれをその商品の一つにしたい」
「俺たちはこれを自分たちでも試してみた。でも、まだ女子で試してないから不安が残る」
「そこで白羽の矢が立ったのがハリエットさ」
「で、でも、やっぱり怖いわ。自分が自分でいられなくなるかもしれないんでしょう?」
「効果はたったの二十四時間だ、可愛いものさ」
「それに、俺たちで試せば外に秘密が漏れることもない」

 何とかして双子を諦めさせようとして、ハリエットは踏ん張った。

「それに……惚れ薬ってどういうものなの? 強制的に恋をさせるってこと? 私、恋ってよく分からないから、あんまり効かないかもしれないわ」
「なんと! 君は初恋もまだなのか!?」

 驚いたように聞き返されたが、ハリエットはうーんと首を傾げることしかできなかった。

 幼少期は周りの男子にはいじめられてばかりだったし、ホグワーツに入学しても、年単位で心配事が多すぎて恋愛をする暇も余裕もない。唯一シリウスのことはふっと頭に浮かんだ。ハーマイオニーには、彼の前だと恋する女の子みたい、と言われたが、しかしそれは『父親』に対する羨望や緊張からくるものだとハリエットは認識していた。

 目の前の少女が初恋もまだだと判明したフレッド、ジョージは、わざとらしく大きな動作で首を降った。

「何ということだ、我らがお姫様はまだまだ子供だなあ」
「ジニーですらもう何年も前から恋をしてるってのに」

 ジニーのことを引き合いに出されては、ハリエットにも立つ瀬がない。縮こまるように目を逸らす彼女に対して、双子はますますヒートアップした。

「お子ちゃまなハリエットには、この惚れ薬はちょーっとばかし刺激が強すぎるか?」
「うん……そうだな。もしこの件がハリーやシリウスに漏れたら、うちの箱入り娘になんてことしてくれるんだって怒られるかもしれない」
「いやはや、頼む相手を間違えたな。もう少し大人な女子に持ちかけるんだった」

 ピクッ、ピクッとハリエットが身じろぎする。聞き捨てならない台詞が一体どれだけ二人の口から出てきただろう!

 ハリエットの小さなプライドが刺激された。自分はお子ちゃまじゃないし、箱入り娘でもないし、もう立派な大人だ!

「――やるわ」

 小さくそう宣言したハリエットは、自分の頭上で双子がニヤリと視線を交わしあったのを知らない。

「本当に? 嫌だったらいいんだぞ。君は初恋もまだなんだから」
「別に――いつかはするものでしょう? それが早いか遅いかだけの話よ」
「君は十分遅い部類だけどな」

 フレットが茶化したが、ハリエットは聞えないふりをした。

「私はどうすればいいの? これを飲むだけ?」
「ああ。基本的には飲むだけでいい。最初に君が見た相手が、恋をする対象になる。もしもっと慎重にいきたいんだったら別の方法もあるけど、今回はスタンダードで大丈夫だ」
「どうする? 初恋の相手は君が選んでくれ。俺かジョージか」

 ハリエットはフレッドとジョージを見比べた。初恋と言っても、強制的に愛が生まれるだけなのだから、特に深く考える必要もない。ハリエットは口を開いた。

「フレッドがいいわ」
「俺か? てっきりジョージを選ぶと思った」

 フレッドは意外そうにニヤリと笑った。

「私も最初はそう思ったわ。でも、ジョージにはサポートして欲しいの。私が変な風になっちゃったときのために」
「おいおい、俺のことは信用できないのか?」

 ハリエットはにっこり笑ってフレッドの言葉を受け流した。フレッドに比べればまだ常識的に思えるジョージにサポートをしてもらいたいというのは、至って当然の感情だろう。

「はいはい、分かった分かった。じゃあジョージ。一旦部屋の外に出てくれ。一番にハリエットの視界に入るのは俺じゃないといけないからな」
「ジョージ、くれぐれもお願いね」
「分かってるって」

 念入りにお願いをして、ハリエットはフレッドに向き直った。そして彼から惚れ薬を受け取る。

「い……いくわよ」

 ハリエットは緊張の面持ちでガラス瓶を傾けた。ついで、冷たい液体が唇に触れる。思っていた以上に甘い液体だった。不味いわけではないが、その効果を想像してしまうせいか、無意識のうちに顔を顰める。

「ど、どうだ?」

 一度自分たちで効果は試しているはずなのに、フレッドは恐る恐る尋ねた。ハリエットはしばらく夢見心地でどこか遠くの方を見ていた。

「ハリエット?」

 フレッドが呼び、ハリエットはフレッドを見た。瞳が大きく見開かれ、そして。

「フレッド……」

 ぽうっと頬を赤らめ、ハリエットが囁いた。そして大きく腕を広げ、フレッドに抱きつく。

「うおっと」
「フレッド、フレッド!」
「こりゃちょっと効果が効きすぎたか?」

 ハリエットはクスクス笑いながらフレッドの胸に頭を埋める。フレッドはハリエットを抱きかかえながらジョージを呼んだ。

「見ろよ、ジョージ」
「うわー、また随分とメロメロじゃないか」
「だろ? こりゃ、俺の魅力が振り切れてるってことの現れみたいだな」
「対象が異性だと効果が絶大なだけかもしれないぜ」

 フレッドの冗談にもジョージはニヤリと笑って返した。フレッドとジョージは、まだ惚れ薬を自分たちでしか使ったことしかなかった。

「でも困ったな。まさかここまで効果があると思わなかったから、何も考えてないぜ。まだ休みだったから良かったものの」

 ハリエットはぎゅうっとフレッドにしがみつき、離れようとしない。立っているのもしんどくなったのでフレッドがベッドに座れば、ハリエットは当然のように彼の膝の上に腰を下ろす。

「これからどうする?」
「まずは腹ごしらえだな。朝食が食べたい」
「この状態で大広間まで行くのか?」
「そりゃあ、なあ。ジョージに食料を調達してもらうのも良いが、ちょっとスリルがないと思わないか?」
「うーん……」

 ジョージは唸り、考え込んだ。

 ――ハリエットは失念していた。フレッドに比べれば、確かにジョージは常識的だ。だが、彼もまたウィーズリー家の悪戯っ子としての名を馳せていることを。

 ジョージはやがて口角を上げた。

「いいぜ。大広間まで行こう。そっちの方が面白そうだ」
「言うと思ったぜ、兄弟!」

 フレッドはバンバンジョージの肩を叩いた。それに不満そうにするのはハリエットだ。

「フレッド……私ともお話しして」
「ああ、うん、してやる。今からデートだ」
「本当!?」

 ハリエットはぴょんとフレッドの膝の上から飛び降りた。

「どこに行くの!? 私、湖が良いわ!」
「湖も良いが……まずは腹ごしらえだ。お腹空いたろう?」
「私はそんなことないわ。フレッドを見ているだけで胸が一杯だもの」

 とろんと目を蕩けさせて言うハリエットに、これはいよいよ末期だと双子は顔を見合わせた。

「でも、フレッドがそう言うなら大広間に行きましょう! フレッドの好物は何? 食べさせてあげる!」

 ハリエットはぐいぐいフレッドの手を引いてグリフィンドール寮を出た。道中、すれ違うグリフィンドール寮生には、物珍しそうな顔をされる。それはそうだ。ハリエットがこんなに誰かにベタベタしている所など、今まで見たことないはずだ。

 幸か不幸か、ハリーたち一行には出くわさなかった。フレッドは少しだけ残念な思いだった。監督生であるハーマイオニーに勘づかれるのは痛いが、しかしいつもと全く様子の違う妹を見て、ハリーがどんな反応をするのかは見たかったのだ。

 朝食の時間にしては遅めのためか、大広間はまばらに人がいるだけだった。忌々しいアンブリッジの姿もない。双子は堂々とテーブルに着いた。もちろんハリエットはフレッドの隣をキープしている。

「フレッド、何が食べたい?」
「俺は……うーん、トーストかな」
「待ってて! 今作るわ。何が良い? マーマレード? バター?」
「バター」

 ハリエットはいそいそと焼きたてトーストの上にバターを塗り始めた。その隣で、ジョージは一人寂しく己の分のトーストにバターを塗る。

「はい、どうぞ!」

 ハリエットは笑顔でフレッドにトーストを差し出す。そのキラキラとした顔は、早く食べてと語っている。フレッドは苦笑してトーストに齧り付いた。

「おいしい?」
「ああ、おいしいよ」
「良かった! ミルクもどう?」
「欲しい」
「はい!」

 ハリエットはとても甲斐甲斐しかった。食べ物を用意し、飲み物を注ぎ、更には口元についたパンくずまでナプキンで拭く始末。

 フレッドはなかなかにご満悦だった。

「こんなに可愛い子に食べさせてもらえるなんて俺は幸せ者だなあ!」
「まあ、フレッドったら。でも嬉しいわ」

 ハリエットはにこにことフレッドの肩にもたれかかる。ジョージは小さくため息をついた。

「フレッド、ほどほどにしておけよ。我に返ったときハリエットがどれだけ怒るか、今から恐ろしいよ」
「ハリエットが怒ったって大したことないだろう。せいぜいピグミーパフが体当たりしてくるくらいだ――」

 ふとフレッドの声が途切れた。

「――ジョージ、スリザリンのテーブルを見ろ」

 急に真面目な声色になったので、ジョージは聞くよりも先に顔を上げ、スリザリンの方へと視線を走らせる。

「何だ? 何があるって言うんだ?」
「マルフォイがこっちを見てる」

 見ると、確かに二つのテーブルを挟んで座るドラコ・マルフォイがこちらを見つめていた。まるでふくろうが豆鉄砲でも食らったような顔だ。彼のそんな顔は珍しいので、フレッドとジョージは顔を見合わせる。

「何だあの顔? 羨ましいのか?」
「少なくとも、アンブリッジに言いつけてやるって顔じゃないことは確かだ」

 ボソボソ会話をする二人に、ハリエットは頬を膨らませた。

「私と湖に行くって約束はどうなったの、フレッド?」
「ああ、分かってるって。お腹も膨れたし、行くか?」
「ええ!」

 フレッドは恭しくハリエットに左手を差し出し、ハリエットもまた花がパッと咲くような笑みを浮かべ、右手をそこに乗せた。

「ジョージ、気を利かせろよ?」

 冗談交じりにフレッドが言った。ハリエットも便乗してクスクス笑う。

「ジョージ……私からもお願い」
「…………」

 ジョージは死んだ魚のような目になった。

「フレッド……お前、本当にどうなっても知らないからな」
「ハリエットが怒るのを怖がってるのか? これはあくまで親切心さ。いつまで経っても恋愛に初なままじゃハリエットに恋人ができるのはいつになることやら! だからちょーっと恋愛のあれやこれやを教えとこうってだけだぜ。安心しろ、手を出すつもりはない」
「二人で湖に行く時点で足を一歩踏み出しかけてるだろう!」
「そこのグリフィンドール」

 冷ややかな声が興奮気味の三人に降り注いだ。三人は揃って振り向いた。そこにいたのは、『I』のバッジを振りかざすドラコだ。

「三十点減点だ。今すぐ離れろ」
「なっ――」

 フレッドとジョージは言葉を失った。

 ダンブルドアがホグワーツを去ってからというものの、アンブリッジが校長に取って代わり、そしてドラコ含む幾人かのスリザリン生は『尋問官親衛隊』を名乗り、やりたい方だ。だが、それにしたって出会い頭にいきなり減点なんてのはない!

「おいおい、何に対しての減点だ? まさか僻みじゃないだろうな?」
「低俗な勘違いは止めてもらおう。男女は二十センチの距離に近づいてはいけない――そうアンブリッジ校長先生が取り決めたはずだ」
「――はっ、馬鹿らしい。そんなくだらない規則を俺たちに守れってのか?」

 双子の喧嘩腰な態度に、ドラコはますます頬を引きつらせる。

「校長先生を侮辱したな? グリフィンドールから更に二十点減点」
「アンブリッジの犬が」

 フレッドが吐き捨てた。ドラコは更に眉を吊り上げる。

「お前――」
「グリフィンドール二十点減点」

 甘ったるい声がその場に響き渡る。もちろんドラコの声ではない。ゲッとフレッドが顔を顰めたその先には、アンブリッジが立っていた。

「マルフォイにも減点されたばっかりなのに!」
「ミスター・マルフォイに減点されても尚ひっついているからですわ」

 アンブリッジがくいっと杖を振るうと、ハリエットとフレッドの距離は一メートルも離れた。ハリエットは至極悲しそうな顔になった。

「あなたたちはまだ懲りてないようですわね。いいでしょう。罰則です」

 もったいぶってアンブリッジはエヘンと咳払いをした。

「あなたたちは――今日は一階のトイレを全て掃除なさい。それもマグル方式で。ミスター・マルフォイはその監視です」
「校長先生!」

 途端にドラコが抗議の声を上げた。

「どうして僕が――」
「ミスター・マルフォイ、わたくしは忙しいのです。尋問官親衛隊としての働きを期待していますよ」

 ニタリと微笑んで、アンブリッジはそのまませかせかと去って行った。

「ったく、面倒なことになったな……」

 フレッドはうんざりと首を振り、横へちらりと視線をやった。だが、そこに相棒の姿はない。

「ジョージ? おい、どこへ行った?」

 辺りを見回してみても、ジョージの姿は欠片も見当たらない。ようやくフレッドは悟った。隙を見て自分だけ逃げ出したのだと。

「あいつめ……」
「フレッド、いいじゃない。私、あなたと一緒にいられるのなら、なんだっていいもの」

 胸に手を当て、うっとりと言うハリエットを、ドラコは信じられないものでも見るような顔で見ていた。


*****


 男子トイレの中で、一組の男女が向かい合って口論していた。その傍らで、フレッドは我関せずとやり取りを眺めていた。

「君は早く女子トイレを掃除しろ!」
「嫌よ! 私もフレッドと一緒にここを掃除する! 私たちがどうやって掃除をしようと私たちの勝手じゃない! ドラコに指図されたくないわ!」
「僕はお前たちを監督する義務がある! 僕の命令に従え!」
「いや!」

 ハリエットはますますぎゅっとフレッドの腕にしがみついた。ドラコはカッとなって吐き捨てた。

「好きでもない奴にベタベタして――はしたない!」
「好きよ」

 一部の躊躇いもなくハリエットが言い切ったとき、その場は静寂に包まれた。

「私、フレッドのこと好きよ」

 ドラコは、フレッドにとって、またしても不可解な表情を見せた。そう、大広間でも見た顔だ。ふくろうが豆鉄砲でも食らったような顔――。

「ドラコ、だからいいでしょ? 掃除くらい私たちの好きにさせて」
「ドラコだって?」

 いい加減フレッドも口を挟まずにはいられなかった。さっきから見ていれば、この二人はやけに親密に見える。

「ハリエット、マルフォイと仲が良いのか?」
「友達よ」

 これまたハリエットはきっぱり言いきった。ドラコは小さく身じろぎするだけで、これといった反論はない。まさか――事実だとでも言うのだろうか?

「本当に? ハリーとマルフォイは仲が悪いじゃないか。本当に友達なのか?」
「フレッド、まさかヤキモチ?」

 ハリエットはポッと頬を赤らめ、フレッドを見上げた。

 まさか! と言いそうになって、慌ててフレッドは口を噤む。不意に悪戯心が芽生えた。

 物憂げな表情を浮かべ、フレッドは微かに微笑んだ。髪をかき上げ、どこか遠くを見る。

「ちょっと……ショックだったよ。君は俺一筋だと思ってたからさ」
「ドラコとは何のやましいこともないわ!」

 甘えるような声を出してハリエットは首を振る。

「私はフレッドだけよ。フレッドもそうだと嬉しいわ……」

 ハリエットは不安げにフレッドを見上げた。切なげに細められたハシバミ色の瞳と目が合ったとき、さすがのフレッドも心臓をギュッと掴まれた気がした。

「んー、可愛いな」

 相好を崩してフレッドはハリエットの頬を撫でた。ハリエットは驚いたように目を見張り、そして顔を綻ばせた。幸せだという感情を隠そうともせず、フレッドの胸に顔を埋める。

「――っ、勝手にしろ!」

 フレッドが我に返ったのは、ドラコがそう叫んだときだった。更に彼は、不機嫌丸出しで近くのバケツを思い切り蹴飛ばす。ガラン、ガランと耳障りな音がトイレに響いた。

「血を裏切るウィーズリーとハリー・ポッターの妹……はっ、お似合いだな! せいぜい仲良くトイレ掃除でもしてろ!」

 そうして足音も荒々しくドラコは去って行く。ハリエットはしばらくポカンと彼の後ろ姿を見つめていたが、やがてフレッドと念願の二人きりだという事実に気づくと、再び彼の胸に身体を預けた。

「俺、ちょっととんでもないことに気づいたかもしれないなあ……」

 フレッドは茫然とした声色で呟いた。

 トイレの外では、ドラコが次々に生徒に減点を食らわす声が響いていた。


*****


 それから約二十時間が経過して、ようやくハリエットの身体から惚れ薬が抜けきった。我に戻ったとき、ハリエットは大層な怒りようだったが、それすらも双子にとっては、まさしく『ピグミーパフの体当たり』程度にしか思えず、大したダメージは与えられなかった。

 ただ、その代わりと言っては何だが、ハリーがシリウスと話したいと言うと、フレッドとジョージは快く力を貸してくれた。ハリーがアンブリッジの部屋でシリウスとコンタクトを取っている間、彼女の気を引いてくれたのだ。

 だが、さすがの双子もついにはアンブリッジとフィルチに追い詰められた。玄関ホールでは、双子が起こした騒ぎで既にほとんど学校中の生徒が集まっていた。

「校長先生、書類を持ってきました。鞭打ち許可証です。それに鞭も準備してあります……」

 人混みを肘で押し分け、フィルチが嬉しそうにアンブリッジに近づいた。

「良いでしょう、アーガス。そこの二人。わたくしの学校で悪事を働けばどういう目に遭うかを、これから思い知らせてあげましょう」
「ところがどっこい、思い知らないね。そろそろ学生稼業を卒業するときが来たみたいだ――アクシオ! 箒よ、来い!」

 どこか遠くでガチャンと大きな音がした。そう間を置かずに、フレッドとジョージの箒が、持ち主めがけて廊下を矢のように飛んで来る。一本は、アンブリッジが箒を壁に縛り付けるのに使った、重い鎖と鉄の杭を引きずったままだ。箒は双子の前でピッタリ止まった。

「またお会いすることもないでしょう」
「ああ、連絡もくださいますな」

 息ピッタリに双子は箒に跨がった。フレッドは集まった生徒たちを見回した。

「上の階で実演した『携帯沼地』をお買い求めになりたい方は、ダイアゴン横丁九十三番地までお越しください。『WWW店』でございます。我々の新店舗です!」
「我々の商品を、この老いぼれ婆を追い出すために使うと誓っていただいたホグワーツ生には、特別割引をいたします」

 ジョージがアンブリッジを指さした。

「二人を止めなさい!」

 アンブリッジはキーキー叫ぶがもう遅い。双子は箒に飛び乗り、生徒たちの間を飛んでいる所だった。

 歓声を上げる生徒たちの合間に、フレッドは目的の人物を見つけた。ニヤリと笑うと、その人物に一枚の紙を押しつける。

「あばよ!」

 ヒラヒラ手を振って、フレッドは空へ浮上した。ジョージも後に続き、二人のその姿は夕焼けの空へと吸い込まれていった。

 ――フレッドに一枚のチラシを押しつけられたドラコは、不快そうに眉を顰めながら、それに目を落とす。一番に目に飛び込んできたのは派手派手しいショッキングピンクだ。

『WWW店の目玉商品、「ワンダーウィッチ製惚れ薬」! 一日だけ大好きなあの子を虜にしちゃえ!(なお、試飲済みのため安全性には保証あり)』

 隅にはフレッドの走り書きまである。

『良い子にならないと、一生振り向いてもらえないぞ!』

 ドラコはチラシをぐしゃりと握りしめ、空を見上げた。だが、もうそこにフレッドの姿はなかった。