愛に溺れる

ハリエットが愛の妙薬を飲んで、スネイプにメロメロになる







*炎のゴブレット『聖夜の決闘』後、スネイプの研究室にて*


 クリスマス休暇明け、スネイプに呼び出しを食らったのは、なかば想定していたことだった。ハリーには、『いよいよスネイプの毒牙がハリエットにも……』とひどく同情した顔で送り出されたが、ハリエットには呼び出しの心当たりはあったので、それほど悲観的になることはなかった。

 スネイプの研究室には先客がいた。ドラコの姿を認めると、いよいよハリエットの予想も現実味を帯びてくる。ハリエットが申し訳なさそうな顔でドラコの横に並び立つと、スネイプが軽く咳払いをした。

「我輩がご丁寧に説明せずとも、おそらく呼び出された心当たりはあるだろう……」
「はい。ジャスティンのこと……ですよね?」
「左様」

 ハリエットの返答にスネイプは頷いた。

「授業以外での魔法の使用はもってのほか、私闘も無論禁じられている。そのことでジャスティン・フィンチ-フレッチリーに罰則を与えようとした所、魔法を使ったのは自分だけではないのに理不尽だとの返答が返ってきた」
「先に杖を出してきたのは向こうです。それどころか、自分が負けたからって、背中を向けた彼女に魔法を――」
「掛けようとした所、茂みから現れた君に失神呪文を受けたと。ああ、左様。全て彼から聞いている」

 ドラコは苦々しい顔つきになった。だから自分もこの場に呼ばれたのか、とようやく理解に至る。要は、ジャスティンは自分の恥ずべき言動を曝け出してでも自分たちにも罰則を受けさせたかったという訳だ。いっそ清々しいほどの思考だ。

「とにかく、我輩としては喧嘩両成敗といった所か。一方にのみ罰則を与えるのは公平ではない」

 自分が先陣を切って公平ではない授業をしているというのに、何を平然とのたまっているのだろうとハリエットは閉口してしまった。とはいえ、まだ状況を把握しようとしてくれるだけマシだろう。聖夜のあの現場だけで判断すれば、どう見たって悪者は自分達の方なのだから。

「とにかく、ドラコ、君はこのテーブルで蛇の牙を砕くのだ。砕いたものはこの瓶の中へ」
「はい」
「そしてミス・ポッター、君はこちらへ。フィルチさんが、この古い書類の整理をする者を探していた」

 ハリエットが案内されたテーブル上には、蜘蛛の巣だらけの箱が積み上げられていた。お世辞にも綺麗とは言いがたいその箱に、ハリエットはひくりと頬を引きつらせる。

「ホグワーツの悪童どもと、その悪行に関する記録だ。インクが薄くなっていたり、カードがネズミの害を被っている場合、犯罪と刑罰を新たに書き写して頂こう。更に、アルファベット順に並べて元の箱に収めるのだ。魔法は使うな」
「は、はい」
「最初に取りかかるのは千十二番から千五十六番までの箱がよろしかろう。いくつかおなじみの名前が見つかるだろうから、仕事が更に面白くなるはずだ、例えば……」

 スネイプは一番上にある箱の一つから仰々しく一枚のカードを取り出して読み上げた。

「ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラック。バートラム・オーブリーに対し、不法な呪いをかけた廉で捕まる。オーブリーの頭は通常の二倍。二倍の罰則」

 カッと頬を紅潮させ、ハリエットはスネイプを見上げた。羞恥や困惑ではない。純粋な歓喜だ。スネイプはというと、父親と後見人の評判を下げに下げてやろうという愉悦に微笑んでいた顔を硬直させた。期待していた反応ではない。

「私、頑張りますね!」

 パアッと喜びに溢れた笑みで爽やかに言うと、ハリエットは早速スネイプおすすめの千十二番の箱を取り出し、羽ペンにインクを浸した。

「……良かろう。一言一句間違えずに写すように」
「はい!」

 スネイプはしばらく複雑な面持ちでハリエットを見つめていたが、やがてふんと鼻を鳴らして研究室を出て行こうとした。だが、すんでの所で思い出したように振り返る。

「最近ピーブズが我輩の研究室に忍び込もうと躍起になっている。間違っても奴を引き入れるな」
「ピーブズが?」

 ドラコが不思議そうに聞き返す。スネイプは嫌そうに答えた。

「ダンスパーティーの夜、我輩が会場から奴を閉め出したことが大層お気に召さないようだ。何とか我輩に悪戯をしようと無駄な努力を重ねている。――ここには貴重な材料がたくさん保管されている。くれぐれも気をつけるように」
「はい」

 ドラコは律儀に返事をしたが、ハリエットは一生懸命罰則を書き写すのに必死で生返事だ。スネイプは顰めっ面でハリエットを睨み付けたが、結局何も言わず、そのまま部屋を出て行った。

 彼が出て行ってから、研究室は至って静かな空間になった。ハリエットもドラコも根は真面目で、無駄話もせずに真面目に取り組む性分なのだ。とはいえ、突然二人きりにされて、何を話せば良いか分からなかったというのももちろんある。

 だが、ハリエットの方はそうではないようで、三十分ほど経過し、何故だか急に満足そうなため息をつくと、パッとドラコに顔を向けた。

「ドラコ、お父さん達って本当に仲良かったみたい! いつ見てもお父さんとシリウスの名前があるのよ! 一ページに一回は必ずあるわ!」
「……どう考えてもそれは不名誉なことだろう」
「でも、楽しそうな悪戯もしてるのよ。ハロウィンとかバレンタインとかクリスマスとか、イベントごとは必ず悪戯仕掛人の出番みたい! 私もこの場にいたかったわ。絶対に楽しかったに決まってる」

 まるで恋でもしているかのような表情でハリエットはカードに目を落とした。

 ジェームズとシリウスは、大抵二人でつるんで些細な悪戯をしていた。悪戯がバレた後は、その比重によって罰則が行われている。だが、きっと二人ならば、その罰則ですら楽しんでやっていたに違いない。

 ペティグリューの名前を見つけたときは複雑な気分になるが、しかしそれを含めたとしてもハリエットにとってこの罰則はむしろご褒美に近かった。

 きっとスネイプ先生も気を遣ってこの罰則にしてくれたんだわ、とハリエットは見当違いな感謝をスネイプに向けた。

 それからも穏やかに時間は過ぎていった。真面目に取り組んだおかげで、ドラコは蛇の牙の粉が詰まった瓶を三つも作り終えたし、ハリエットなんかは、父親とシリウスの名残を逃すものかと目を皿のようにしてカードを書き写していくので、あっという間に一箱完了させた。とはいえ、さすがに一時間も経つと身体が凝ってくる。

 ハリエットは羽ペンをテーブルに置き、ぐーっと伸びをした。

「そっちはどう? 順調?」
「あと一時間もあれば終わる」
「そう……」

 額にほんのり汗を浮かべているドラコを見ていると、少しだけ罪悪感が湧く。自分はご褒美のような罰則を受けているのに、ドラコは大変な力仕事だ。

「交代する?」
「遠慮しておく。君の父親達が受けた罰則なんて知りたくもない」
「……意外と面白いのよ」
「そう思うのは君だけだろう」

 つれない態度にしょんぼりし、ハリエットは研究室を見回した。集中力を一旦途切らせると、持ち直すのになかなか時間がかかるのだ。

 スネイプの研究室に気味の悪い材料が並べられているのはいつものことだが、ハリエットの注意を惹きつけたのは、奥のテーブルにドンと乗っている大鍋だ。正直に言うと、研究室に入ったときから気になっていた代物だ。とても良い香りがするので、なんの魔法薬か気になって仕方なかったのだ。

 立ち上がって大鍋を覗き込むと、真珠貝のような光沢のある液体がハリエットを出迎えた。鼻をくすぐるのは、いろんな香りがない交ぜになったようなかぐわしい香り。

 ハリエットはほうっとため息をついた。

「ドラコ、これ、とっても良い香りがするわ。何の香りかしら……花と、雨上がりの匂い。……ハリーみたいな匂いもするわ」
「どんな匂いだ」

 馬鹿にしたようにドラコは笑った。ハリエットはむっと唇を尖らせる。

「じゃあドラコも嗅いでみて。本当にそんな感じがするから」

 眉根を寄せながらも、ドラコは大人しく立ち上がり、鍋に顔を近づけた。彼もまた、鍋から漂う蠱惑的な香りに興味はあったのだ。目を閉じ、胸一杯香りを吸い込む。

「箒の匂いだ。クィディッチのピッチで嗅いだような匂いがする。あと……微かだが、甘い香りが……」
「花の香り?」
「いや、ちょっと違う気がする」

 目を開けたのは二人同時だった。瞳に互いの顔を映したが、すぐにその距離が数センチと離れていないことに気づき、慌てて飛び退いた。――まるで、キスでもするくらいの距離だった。

「――はっ、どうせポッターなんて汗臭い臭いしかしなかったんだろう?」
「違うわ! 別に……汗臭くは……」

 頬を染めながら、ハリエットはもごもご反論した。ドラコと近かった距離にも驚いたし、ハリーの香りを上手く言葉にできないのももどかしかった。

 その時、ゴンゴンと扉がノックされた。何だか足で蹴っているような音にも聞こえる。

「すみませ〜ん。荷物持ってて開けなくて〜、誰かここ開けてくれませんか〜?」

 間延びした若干高い声。男子生徒だろうか。

「今開けますね!」

 気まずかったのもあって、ハリエットはパッと立ち上がった。ドラコは一瞬扉に視線を向け、また顔を戻したが――やはり再度扉を見た。

 どこかで聞いたことのある声だと思った。そのすぐ後、その主にハッと思い至る。ドラコが待ったをかけるのと、ハリエットがドアを開けるのは同時だった。

「やり〜! 進入大成功っ!」

 扉から勢いよく入ってきたのは、派手な格好をした小男だ。彼はニマニマ笑いながら宙を飛び回る。

「ハリエットちゃ〜ん! 開けてくれてありがとうね〜! これで思う存分暴れられる!」
「ピーブズ!?」

 ポルターガイストのピーブズは、高笑いをしながら暴れまくった。材料を飛ばしてみたり、ガラス瓶を床に落としたり、羊皮紙をビリビリに破いたり……。

「ピーブズ! 止めて!」

 とりあえず杖を出したは良いが、ハリエットは上手く魔法を使えずにいた。狙いがはずれて更に被害を出したらと思うと、踏ん切りがつかないのだ。

「俺を入れてくれた良い子ちゃんには〜、これをプレゼントだ!」

 ピーブズは大鍋を持ち上げ、ハリエットの頭上でひっくり返した。間一髪、錫製の鍋はハリエットの頭を僅かに逸れて地面に転がったが、生憎と中の魔法薬は全身に被ってしまった。

「ぎゃはははっ! お似合いだよ〜! スネイプによろしく言っておいてくれ〜」

 思う存分暴れまくってようやく気が済んだのか、ピーブズは来た時と同じように騒がしくしながら研究室を出て行った。去り際、置き土産と言わんばかりドアノブを壊していった。

 信じがたい光景に半ば現実逃避していたドラコだったが、やがてぴちゃんと水滴が落ちる音に我に返った。

「ピーブズめ! あいつ――くそっ! スネイプ先生に怒られるのは僕達の方なんだぞ! おい!」

 反応しないハリエットを訝しんで、ドラコは振り返った。魔法薬を頭から被って茫然としているハリエットの腕を引いて歩き出す。

「スネイプ先生が戻ってくる前にあいつを捕まえるぞ! このままじゃ、これが僕らの仕業だって思われる!」
「スネイプ先生……?」

 どこか熱っぽい顔で、ハリエットはドラコを見上げた。とろんとした瞳と目が合い、ドラコは不可抗力にもドキッとした。

「あ――ああ、スネイプ先生だ! 早く行くぞ!」
「……駄目よ……私、ここでスネイプ先生を待ちたい。一分一秒でも早くスネイプ先生に会いたいから……」
「何言ってるんだ?」

 ドラコは不審に眉を顰めた。

「スネイプ先生に怒られてもいいのか!? いいか、ピーブズを見つけないと、先生の怒りの矛先は僕らに向かうんだぞ!」
「先生、私達に怒る?」

 まるで幼子のように不安げにハリエットは問いかけた。戸惑いつつもドラコははっきり頷いた。

「当たり前だ!」
「……分かったわ」

 渋々といった様子でハリエットは動き出した。すっかり濡れてしまったローブを脱ぎ、研究室を出る。

「私、忍びの地図を取ってくる。ドラコは先に近くを捜索してて」
「あ、ああ」

 急にテキパキしてきたハリエットにドラコは困惑したが、すぐに頷き、捜索を開始した。ピーブズは悪戯の達人で、逃げの達人でもある。手分けして探さないと、見つかるものも見つからないだろう。

 ドラコを地下に残し、ハリエットは一気にグリフィンドール塔まで向かった。

 早くピーブズを捕まえなければ、それだけスネイプ先生との時間が短くなるということだ!

 談話室に飛び込むと、チラホラ生徒の姿が見受けられた。暖炉のすぐ側には、頭を抱えながら課題をこなしているハリーとロン、そして二人の監督をしているハーマイオニーがいた。

 ハリエットが三人の傍に立つと、ハーマイオニーがすぐに顔を上げた。

「何かあったの? 頭、濡れてるわよ」
「ちょっとね。ハリー、忍びの地図を借りるわね」
「え――あっ、うん」

 ハリーの返事を聞くが早いか、ハリエットは男子部屋に飛び込み、兄のトランクから羊皮紙を引っ張り出した。杖で叩いて地図を表示させれば、ピーブズは二階の女子トイレ付近にいることが分かった。すぐ側にマートルがいるので、おそらくまた彼女をからかっているのだろう。

 慌ただしくまたも談話室へ降り立つと、ハリーがのんびり声をかけてきた。――課題の息抜きがしたいらしい。

「スネイプの罰則はどうだったの? もう終わった?」
「まだよ。ピーブズが先生の研究室に入り込んで悪戯をしたの。早く捕まえなくちゃ」
「ピーブズが? くくっ、ざまあみろじゃないか」
「ロン、なんてこと言うの? スネイプ先生が可哀想じゃない」

 ハリエットは憤慨して言い返した。

「スネイプ先生はとっても素晴らしい人よ。なのにそんなことを言うなんて……」
「素晴らしいだって? スネイプのどこをどう見てそう言えるんだよ?」
「全部よ! だってそうでしょう? 魔法薬の調合の腕は素晴らしいし、授業は分かりやすいし、私達を甘やかさずに厳しく接してくださるし、それに……とっても」

 ハリエットはポッと頬を赤らめた。

「い、い、色気があるわ」
「…………」

 ハリーは丸眼鏡を取ってレンズを拭いた。ハーマイオニーは羽ペンを置いてぐりぐりと眉間を揉み、ロンは耳が詰まったのではないかと耳を叩いた。

「アー、ハリエット? えっと、もう一回言ってくれる?」
「色気があるって言ったの……」
「…………」

 怖い顔でハリーが立ち上がり、ガシッとハリエットの肩を掴んだ。

「ハリエット、医務室に行こう」
「あなた、何か良くないものを食べたんだわ」
「それか頭を打ったんだ」
「別に何も変なものは食べてないし、頭も打ってないわ」
「でも君はおかしい!」

 ロンはピシャリと宣言した。

「何だって急にスネイプ信者になったんだ!? 僕らを甘やかさずにって、ただ依怙贔屓がひどいだけだろ! それに――何――色気があるだって!? どこが!? あの見た目じゃ、お世辞にも格好いいなんて言えないぜ!」
「ひどい――ロンったら言い過ぎよ! 先生だって人間なのよ! そんな言い方されたら傷つくわ!」
「僕らに何を言われたって、あいつは痛くも痒くもないだろうさ!」
「〜〜っ、ロンの馬鹿!」

 ハリエットは今にも泣きそうな顔で談話室を出て行った。ロンに、己の愛する人の素晴らしい所をこんこんと布教するのもやぶさかではないが、その分一緒にいられる時間が少なくなるのだと思うともったいないと思ってしまったのだ。

 ハリーは咄嗟に妹を捕まえようとしたが、脱兎の如く逃げる彼女の手を掴むにはあと一歩及ばなかった。

「ハリー、今はどうすればハリエットの目を覚まさせるかが問題だぜ!」
「とにかく、早く何とかしなきゃ!」
「もうすぐシリ――スナッフルに会いに行く約束してるんだろう? あんな状態のハリエットとスナッフルを会わせる訳にはいかないよな。スナッフル、きっと自ら吸魂鬼にキスされに行くだろうな」
「…………」

 あながちあり得ないと言い切れない所が恐ろしい。シリウスは心底スネイプのことが嫌いらしい。にもかかわらず、名付け子のハリエットが『スネイプ先生、色気があって格好いいの』なんて口を滑らせた暁には、きっと吸魂鬼に襲われたばかりの顔すること必至だ。

「とにかく、原因を突き止めなきゃ」
「スネイプに怪しい魔法薬の実験台にでもされたんじゃない?」
「いや、違うな。スネイプの、グリフィンドール寮生洗脳計画が始まったんだって――」

 兄と親友達によって、『ハリエットを正気に戻す会』が開かれていることも知らず、件のハリエットは、忍びの地図を駆使してドラコを回収していた。地図があればピーブズの居場所を突き止めることなど容易だが、だからといってそれが捕まえることに繋がるかというと話は別なのだ。

 『愛するスネイプ先生に会いたい!』というハリエットの熱く胸を焦がす思いは、顕著に行動に表れた。ホグワーツの教授陣ですら手を焼くような問題児ピーブズを、素晴らしいまでの杖捌きで戦闘不能にした後、圧倒的な実力差でぐるぐるに彼を拘束したのだ。

 そのあまりの隙のない華麗な戦い振りは、おそらく闇祓いにスカウトされるだろうレベルだ。屈辱に暴れ回るたピーブズを引きずりながらニコニコと廊下を闊歩するハリエットに、ドラコは珍しく気圧されていた。

 今の彼女に逆らってはいけない。

 ドラコの中の何かが警鐘を鳴らしていた。

 それから、二人は一目散にスネイプの研究室に向かった。まだ彼が戻ってきていませんように、と祈るようにして開けた扉の先は、もぬけの殻だった。

 ホッとして肩の力を抜いたドラコだが、すぐ後ろから降りそそぐ冷え冷えとした声に、またすぐに背筋を伸ばした。

「これは一体どういうことかね?」
「す、スネイプ先生……」

 振り返ったスネイプの目には、ありありと怒りの感情が見て取れた。

「ピーブズです! ピーブズが侵入してやったんです!」
「俺のせいにされても困るなあ〜。君達がド派手に喧嘩してやらかしたくせに」
「何をのうのうと……!」

 ドラコがピーブズに杖を突きつければ、彼はわざとらしく『ヒイッ』と悲鳴を上げて縮こまった。しかしその動作にはどこかおちゃらけた雰囲気があり、どう見てもからかっているようにしか見えない。

「我輩はピーブズに気をつけるように言ったはずだが……?」
「私が騙されてドアを開けてしまったんです。ドラコは悪くありません……」

 しょげ返ってハリエットが答えれば、スネイプはドラコと彼に拘束されているピーブズを見やった。

「良かろう。ドラコ、君はピーブズを血みどろ男爵に引き渡すように」
「ヒイイイッ」

 今度は演技ではなく、本気で怯えるピーブズ。スネイプは愉悦にニタリと笑った。

「君の愛しい血みどろ男爵に、楽しいお仕置きをされるが良い」

 『や〜め〜て〜く〜れ〜!』というピーブズの賑やかな悲鳴を聞きながら、スネイプはバタンとドアを閉めた。ハリエットはそんな彼の背中に近づく。

「先生……。私達、頑張ってピーブズを捕まえてきました。あの、ご褒美はありますか?」
「…………」

 一瞬固まり、スネイプはまじまじとハリエットを見つめた。何を言っているのかすぐには分からなかったのだ。

「何を……ふざけたことを言っている? ピーブズが侵入したのはお前のせいだというのに?」
「…………」

 ハリエットの期待に満ちあふれた顔はみるみる萎んだ。しょんぼりしながら彼女は上目遣いでスネイプを見上げる。

「じゃあお仕置きですか……?」
「――っ!?」

 目を見開き、スネイプはまるで信じられない者を見る目でハリエットを見た。くわっと開いた口から出てきた声は雷鳴かと聞き紛う程だった。

「人聞きの悪い言い方をするな! 罰則と言え!」
「罰則は――」
「まずは研究室を片付けるのが先だ! お前の罰則はそれから考える!」
「はい……」

 すっかり落ち込んだ様子で、ハリエットは床に落ちたガラス片を片付け始めた。魔法を使った方が早いだろうが、スネイプに許可されていないので、ここは大人しくマグル式の方が安全牌だろう。

 厳めしい表情で杖を振るうスネイプをちらりちらりと見ながらハリエットは掃除をしていく。黙っていられたのは始めの数分くらいだった。

「でも、私……ピーブズに感謝してるんです」

 ピンと眉を跳ね上げ、スネイプはハリエットに視線だけ向けた。

「だって、ピーブズのおかげで先生と一緒にいられる時間が増えたから……」

 花が綻ぶような満面の笑みを見せつけられ、スネイプは目を見張った。虚を突かれたせいで嫌味の一つも言えないまま目を逸らした。

「黙って仕事をしたまえ」
「はあい」

 何とも間延びした返事だ。スネイプは口を真一文字に結ぶ。

 スネイプから見たハリエット・ポッターは、大人しく真面目で、間違っても教師をからかったりするような生徒ではない。素直という面もあるが――これはそういったものとはまた違う気がする。

 ため息交じりに杖を振るい、床を掃除していたスネイプは、黒々としたものに目を留めた。もしかしなくても、椅子の上にある、裏地が派手な深紅のそれはグリフィンドールのローブで。

「なぜこんな所に?」

 小さく呟きながら、スネイプはローブもちあげた。所々しっとりと濡れており、鼻腔をくすぐるその香りは――。

「あ、すみません。濡れちゃったので、脱いだままにしてて」

 恥ずかしそうに笑ってハリエットはローブを掴んだ。が、スネイプは離さない。ローブを掴んだまま、ギロリとハリエットを見た。

「これは……ミス・ポッター、どういうことかね?」

 眉間の皺を深くしながら、スネイプはグッとハリエットに顔を近づけた。反射的にハリエットは身を仰け反らせたが、その表情に嫌悪はなく、むしろ戸惑いと羞恥、そして仄かな期待が入り交じっていた。

「せ、先生……?」
「――飲んだのか?」
「はい?」
「アモルテンシア――愛の妙薬を飲んだのかと聞いている!」

 突然の大声に驚きながら、ハリエットは不安げに瞳を揺らした。

「愛の妙薬って何ですか? 私は罰則中何も食べたり飲んだりしてませんが……」
「ローブと君の身体からアモルテンシアの香りがする。我輩が鍋で調合していた魔法薬だ!」
「あ……あの良い匂いがする魔法薬ですよね? あれは、ピーブズが鍋ごとひっくり返して、私が浴びちゃって――」
「その拍子に飲んだのだな?」

 念押しするスネイプに、ハリエットはこくこくと頷いた。スネイプは額に手を当て、空を仰ぐ。

「それで……念のため確認だが、君は……我輩のことを……」

 どう思っている、と口をひん曲げながら嫌そうに言うスネイプに、ハリエットはパアッと笑みを浮かべて答えた。

「大好きです!!」
「……解毒剤を調合する。君はそこで引き続き後片付けをしたまえ」


*****


 薄暗い研究室にもうもうとした白煙が一本上がっている。魔法薬学を極めたスネイプにとって、愛の妙薬の解毒剤なとお手の物で、後はもう十数分煮詰めるだけだ。じっと待っている時間がもったいないからと後片付けに精を出していたら、調合中は大人しかったハリエットが待ってましたとばかり質問をぶつけてきた。

「それで、スネイプ先生、愛の妙薬って何ですか?」
「君は教科書を予習しようという気はなかったのかね?」
「教科書を読むだけなんて味気ないです。私はスネイプ先生の口から聞きたいんです」

 アモルテンシアを口にしたからには、その満面の笑みには嫌味など欠片もないのだろう。だが、自分でも捻くれているという自覚のあるスネイプには、嫌味以外の何者にも聞こえなかった。

 スネイプはしばらく無視を心掛けていたが、それでも彼女からの熱視線は止むことがない。先に痺れを切らしたのはもちろんスネイプの方だった。

「世界一強力な愛の妙薬だ。口にした者は、一時的に強力な執着心や強迫観念を引き起こす。六年生の授業で使おうと思って調合していたものだ……」
「じゃあつまり、アモルテンシアは惚れ薬ってことですか? 私は、そのせいでスネイプ先生のことが好きになったと?」
「そうだ」
「そんな言い方……何だか悲しいです」

 しばらく俯いていたと思ったら、ハリエットがポツリと言った。

「私は、今はスネイプ先生のことしか考えられないのに、それが偽物だって思われるなんて」
「実際偽物だ」
「なぜそんなことが分かるんですか? 私――もしかしたら、アモルテンシアを飲む前もスネイプ先生のことが好きだったのかも!」

 名案だとばかりハリエットはパッと顔を輝かせた。対してスネイプは呆れたような、嫌そうな顔をする。

「そんなことはあり得ない。こうなる前も君が我輩に好意を示したことはなかった。それに、我輩は――君はドラコと仲が良いものかと」
「ドラコ?」

 思いも寄らない人物の名が出てきて、ハリエットはパチパチと瞬きをした。

「どうしてドラコですか?」
「君達は……ダンスパーティーの夜、一緒にいたようだし……」

 もちろん、あの場にはジャスティンの姿もあった。だが、ハリエットとジャスティンの決闘にドラコが助けに入ったというならば、なぜあの場にドラコがいたのかという疑問が当然湧き起こる。周りに彼のパートナーらしい姿はなかった。ならば、彼がハリエットのためにわざわざあそこまで後を付けて行ったとしか考えられない。

 あのドラコ・マルフォイがそこまでする人物というのであれば――あろうことか、それがハリー・ポッターの妹だということを差し引いても――友人か、恋人か、はたまた憎からず思っているだけなのか、とにかく仲が悪いという訳ではないだろう。

 ごく自然にそう推察したスネイプだが、愛に溺れたハリエットはとんでもない思考回路の末爆弾を投下した。

「もしかして、ヤキモチですか?」
「誰が!」

 反射的に言い返したスネイプは、思い切りハリエットにペースを崩されていることに気づいた。眉間の皺を揉むようにして俯き、ハリエットを睨み付ける。

「黙って仕事をしろ」
「でも、折角二人きりなのに、先生と話さないのはもったいないです」
「更に罰則を課されたくなかったら口を閉じるのだ」

 じわじわハリエットの口角が上がっていくのを見て、スネイプはしまったと思った。今の彼女には、これはご褒美にしか聞こえない文句だろう――。

「じゃあ、私たくさん話します! もちろん罰則も課して頂いて結構です! また先生と一緒にいられますね!」
「…………」

 何という悪循環。

 黙らせ呪文を使いたくなる衝動と戦いながら、スネイプはちらりと鍋に視線を向けた。もう白煙は収まっている。そろそろ頃合いだろう。

 適当なガラス瓶に解毒剤を詰め、スネイプはずいとハリエットに差しだした。

「飲め」
「……解毒剤ですか?」
「左様」

 ガラス瓶は受け取らず、ハリエットはじっと解毒剤を見つめた。

「たぶん、それを飲んだら私が私じゃいられなくなります」
「今の君がもう既に本来の君ではないのだ」
「……そうかもしれません。でも、それを寂しく思うこの気持ちは本物でしょう?」

 ハリエットは唇を噛みしめた。

「私、それを飲みたくないです」
「我が儘を言うな」
「スネイプ先生には迷惑をかけてないじゃないですか」
「かけている。現に、君のせいで後片付けが進まない」
「……ちゃんと大人しくしますから」
「信じられないな」

 すげなく言い放つスネイプに、ハリエットはギュッと手を握りしめた。

「どうせ――明日にでもなったら、アモルテンシアの効果は抜けてるんでしょう? せめて――その時まで、スネイプ先生のこと好きでいさせてください」

 ハリエットの濡れた瞳がスネイプを射貫く。

 その瞳はハシバミ色だ。だが、その容姿は――今もなお己の心に住み着いた彼女に瓜二つだった。赤い髪も、白い肌も、顔の造りも、何もかも彼女にそっくりだ。

 享年二十一歳だったが、おそらくスネイプの記憶に一番強く印象に残っているのは今のハリエットほどの年齢の彼女だ。

 ちょっかいをかけてくる忌々しいグリフィンドール生はいたが――紛れもなくあの頃が最も幸福だった。

「スネイプ先生」

 ああ、声すらもそっくりなのか――。

 スネイプはハリエットの頬に手を当てた。

「君は……罪作りな女だな……」

 一瞬、スネイプの表情が柔らかくなった。見間違いかとハリエットが固まった次の瞬間、彼はハリエットの顎をガシッと掴み、乱暴に解毒剤を飲ませにかかった。

 苦しそうに涙目で見上げられると、何となく犯罪を犯しているような気分になったが、スネイプは表情を変えず彼女の鼻を摘まみ、口元も押さえた。

 嫌が応にも解毒剤を嚥下したハリエットは、むせながらスネイプを睨み付けた。だが、次第にその瞳は険を失い、やがて瞼に視界が閉ざされた。

 地面に崩れ落ちそうになったその身体を抱き留めたのは、半ば反射的な行動だった。だが、すぐにむわっと全身を包み込むような香りにスネイプは眉をしかめる。

 この匂いを嗅いでいたくなくて、熱を冷ます間研究室を離れていたというのに。

 ハリエットの髪は乾き始めているのに、まだ匂いの取れる気配のないアモルテンシア。それは、容易にスネイプの記憶を掘り起こした。――疑いようもなく己の人生が一番輝いていたあの頃だ。

 匂いは記憶を呼び起こすとはよくいったものだ。彼女との日々は、何十年と昔のはずなのに、この香りはいとも容易くスネイプをあの頃へと連れ戻してくれる。

「リリー……」

 彼女にそっくりなその少女は、固く目を閉ざしていた。目を開け、自分だけを見てほしい欲求に駆られたが、しかしスネイプはすぐに思い出す。――この少女の瞳はハシバミ色だ。それに、この娘はどうあっても彼女本人にはなり得ない。

 ――決定的に仲違いをしてから、彼女のあの明るいグリーンの瞳が己に向くことは、ついぞなかった。だが、それまでは確かに幸福だったのだ。

 くらりと目眩を起こす程の芳香に包まれながら、スネイプはハリエットの頭に杖を当て、小さく呟いた。

「オブリビエイト」

 杖先から銀色の靄が飛び出し、そして空中に霧散する。夢かと見紛うほどの短い時間だった。


*****


 ノックの後、ドラコが研究室に入った来た時、既にあらかた室内は片付いていた。加えて紛失した材料や壊れた道具もリストアップしている。後でこの件も血みどろ男爵に報告するつもりだった。――もちろん己の手でお仕置きもするが。

「遅かったな」

 スネイプが声をかければ、ドラコはすまなそうに眉を下げた。

「すみません。なかなか血みどろ男爵が見つからなくて……」

 そのまま彼の視線は、部屋の隅に移った。暗がりで、本棚にもたれるようにして眠りこけているハリエットにだ。

「あ……えっと?」
「後片付けを頼んだのに、いつの間にか眠っていた」
「――っ」

 せめてもの意趣返しに意地悪くスネイプが言えば、ドラコは面白いくらいに青ざめた。つかつかハリエットに歩み寄ると、普段の紳士はどこへやら、気の毒なほど乱暴にハリエットを揺すった。

「おい! 何呑気に寝てるんだ! 状況は分かってるのか!?」
「ん……?」

 寝ぼけ眼のまま、ハリエットは目を開けた。目の前には、怒れるドラコと、その肩越しに見えるのは呆れた様子のスネイプ。

「ドラコ……いつ戻ったの?」
「さっきだ! お前、スネイプ先生の前で呑気に寝てたんだぞ!」
「私が……えっ?」

 ハリエットは意味もなくキョロキョロし、やがて慌てふためいて立ち上がった。

「す、すみません! 私、その……」
「君が寝ている間に後片付けは終わった。迷惑しかかけられていないが、今日はもう帰れ」
「あ……」
「ドラコ、君も」

 ハリエットは焦ったように周りを見たが、しかし、確かにスネイプの研究室はまさに元通りになっていて――ハリエットの出る幕はなかった。

「あの、本当にすみませんでした。私……また何かお手伝いすることがあれば……」
「猫の手を借りたいときでもミス・ポッター、君の手だけは借りないよう心に留めておこう」
「……すみませんでした」

 もはや返す言葉もない。ハリエットは黙って頭を下げることしかできなかった。

 しょんぼりしてハリエットが部屋を出て行こうとしたとき、思い出したようにドラコが振り返った。

「そういえばスネイプ先生、あの鍋で調合されていたのは、もしかしてアモルテンシアですか?」
「誰かさんと違って、よく教科書を読み込んでいるようだ」

 唇の端を歪め、スネイプはハリエットを見た。

 確かにあの魔法薬の正体は分からなかったが、どうしてそのことがスネイプにバレてしまっているのだろう。

 ハリエットは居住まいが悪くなって明後日の方向を向いた。

「アモルテンシア――世界一強力な愛の妙薬だ。口にした者は、一時的に強力な執着心や強迫観念を引き起こす」

 どこかで聞いたことのある説明だ。

 しかしどこで聞いたのかは分からず、ハリエットは首を傾げながらスネイプの説明に聞き入った。

「真珠貝のような美しい光沢に、螺旋を描く湯気が特徴だ。その者が惹かれているものによって、一人一人香りが異なる」
「自分の好きなものの香りがするってことですか?」
「端的に言えば」
「へえ」

 片眉を上げ、ドラコは意地悪そうにハリエットを見た。

「君はポッターが大好きって訳だ」
「べっ、別に、ハリーみたいな匂いってだけで、ハリーの匂いじゃないわ!」

 ハリエットは頬を赤くして言い返した。我ながら、どんな言い訳の仕方だとは思ったが。

「スネイプ先生は、どんな匂いがしましたか?」

 ドラコの興味を逸らすために、ハリエットは半ばやけっぱちにスネイプに尋ねた。彼が答えてくれる訳はない。だが、注意を逸らすだけでも良かったのだ――。

「幸福の匂いだった」

 低い声で、しかし別に不機嫌という訳ではない声色でスネイプは答えた。

 自分が聞いたくせに、まさか答えてくれるとは思いも寄らず、ハリエットはしばしポカンとして彼を見つめた。

 だが、見つめられていることに気づくと、スネイプは眉間に皺を寄せ、『もう行け』と言わんばかりシッシと手を振った。これ以上機嫌を損ねる前にとドラコはハリエットの腕を引いて部屋を出て行った。

 扉が閉まるまで、ハリエットはずっとスネイプを見つめていた。脳裏に浮かぶのは、先ほどのスネイプの表情。

 気のせいだろうか。いや、しかし確かに彼は――幸せそうな顔をしていたように見えた。