愛に溺れる

ジョージが愛の妙薬を飲んで、ハリエットにメロメロになる







*炎のゴブレット『聖夜の決闘』以降、グリフィンドール寮にて*


 グリフィンドール寮談話室の隅――いつもの定位置で、フレッドとジョージは顔を突き合わせてコソコソ話をしていた。お騒がせな双子がこうしてニマニマと話をしているときは、大抵悪戯話だ。もはやこの光景は日常茶飯事なので、他のグリフィンドール生は気にも留めなかった。そのおかげで、ウィーズリー家の双子はのびのびと悪戯話――いや、実験について花を咲かせていた。

「やっぱり相手は一人しかいないな」
「ジニーもどうかと思ったが、バレたときの後が怖い。黙っていてはくれるだろうが、絶対に一生頭が上がらなくなる」
「同級生は気まずいし」
「商品にしようとしてるくせに、何言ったんだか」

 ジョージはニヤリと笑ってピンク色のガラス瓶を揺らした。並々と詰められた液体が中でたぷんと揺れる。

「とにかく、相手は決まりだな」
「バレたとしても黙っててくれる」
「むしろ協力してくれるかも」
「何しろお人好しだからな」
「そこにつけ込む俺たちはなんて悪い奴らなんだろう!」

 ちっともそう思っていない顔でフレッドは大袈裟に天を仰いだ。そのせいで皆の視線がチラホラこちらに向いたので、ジョージは慌ててフレッドの脇腹を小突く。

「それはそうと、ハーマイオニーには気づかれないようにしないとな」
「当然だ。ハーマイオニーはパーシーの後釜第一候補だ。決行はいつにする?」
「今だ、今しかない。大量に出された宿題をこなしに、ハーマイオニーはこの素晴らしい休日を図書室で過ごすと宣言したばかりなんだから!」

 フレッドはちらりと暖炉に目を向けた。そこには、ゆったりとソファに腰を下ろし、膝の上でクルックシャンクスを撫でているハリエットがいた。彼女の隣には、残骸のようにヒラヒラとしたリボンが無造作に置かれている。クルックシャンクスと遊ぼうとして持ってきたリボンは、残念ながら彼に見向きもされなかったらしい。だが、嫌がられもせず撫でることができているので、結局の所ハリエットは幸せそうだった。

 フレッドはジョージに視線を戻す。

「そろそろだ。ジョージ、準備は良いか?」
「俺が暴走しようとしたら、ちゃんと止めろよ?」
「分かってるって。俺に任せとけ相棒」

 ニヤリと笑う相棒に一抹の不安を抱えながら、ジョージは男らしくグイッとガラス瓶を仰いだ。固唾を呑んでフレッドが見守る中――ジョージの顔は、まるでお酒でも飲んだかのようにみるみる赤らんでいく。

「ああ……」
「ジョージ、どうだ?」

 ジョージの視線はハリエットの横顔に釘付けだった。

 嬉しそうに口元を緩めた顔も、クルックシャンクスを撫でる優しい手つきも、朝起きたときに気づかなかったのか、後ろでぴょこんと跳ねている赤毛も、その全てがジョージの胸を熱くする。挙げ句の果てには、彼女の隣で忘れ去られたリボンですら愛おしかった。本当はクルックシャンクスと遊びたくて持ってきたはずなのに、当てが外れてどんなにかがっかりしたことだろう――。

「ハリエットが……可愛い」

 思わずと言った様子でジョージが呟いた。フレッドはからかうように笑う。

「どれくらい可愛い?」
「世界中の女性を集めたって、ハリエットの足下にも及ばないさ。彼女は――そう、彼女は、座っているだけで絵になる存在だ。見ろよ、ハリエットの手にかかれば、クルックシャンクスのあの潰れた顔ですら高貴になって見えてくるぜ。さながら、あの猫を従えるハリエットは女王陛下か?」
「ジョージ、お前詩人になれるぜ」

 思っていた以上に熱が籠もって返ってきたので、フレッドは呆れて返した。しかし今のジョージには聞こえた様子もなく、花に吸い寄せられる蜂の如くフラフラとハリエットに近づいていく。

「ハリエット……」
「どうしたの?」

 突然横に腰を下ろしたジョージに、しかしハリエットはちらりと視線を向けるだけで応えた。相変わらず彼女の甘い視線はクルックシャンクスに向けられたままだ。ジョージにはそれが気に入らない。ムッとして彼女の手を強引に掴み、引き寄せた。当然ハリエットは体勢を崩し、ジョージの腕の中に飛び込む。彼女の膝の上にいた猫は抗議の鳴き声を上げた。

「じょ、ジョージ?」

 困惑の表情で、ようやくハリエットはジョージを見た。ジョージは満足げに微笑む。彼女の注意が己に向いたし、それどころか――名前を呼んでくれた。名前を呼ばれるなんていつものことなのに――何だか今日は、それがひどく特別なことのように思えて、ジョージはぶるりと身体を震わせる。

「ハリエット」

 熱を帯びた声でハリエットの名を呼び、そしてジョージは、もう片方の手で愛おしげに彼女の頬を撫でた。無言で。

 ハリエットはますます混乱に頭を悩ませるばかりだ。だが、やがてジョージの肩越しに、お腹を抱えて大爆笑しているフレッドを見て、その顔にカーッと熱が集まった。

「ジョージ! からかってるんでしょう! 冗談は止めて!」
「からかってなんかないよ」

 ジョージはすぐに真面目な顔で切り返した。誤解されるのは耐えられないと思った。

「君のことが好きなんだ。頭から離れない……」
「〜〜っ」

 顔を驚愕に染め、ハリエットは声もなく口をパクパクさせた。真剣な表情で見つめられ、ハリエットは一瞬大パニックに陥りかけたが――しかしまた、笑いながらテーブルをバンバン叩くフレッドの姿が視界に飛び込み、キッとジョージを睨み付ける。

「またそんなこと言って……私、騙されないわ!」

 まるで子猫が反抗してくるような抵抗で、ジョージは痛くも痒くもなかった。それどころか、ますますハリエットの可愛らしさに笑みを深くする。

 騙されないと自分で宣言する子がどこにいるだろう! ああ、ここにいた。そんな素直な所も可愛い。

 ジョージはゆるゆるに頬を緩めた。一方的に掴んでいた手を優しく解き、互いの指を絡める。

 ハリエットはハッとして顔を上げた。その頬は、限界なくらいに真っ赤っかだ。

 それがまるで熟れたリンゴのようで。

 ジョージは堪らなく愛おしくなって、ハリエットを強く抱き締めた。芳しく甘い香りがジョージの胸一杯に広がる。なんて幸福な一時だろう! 彼女の身体は柔らかく、ジョージの心を存分に癒やした。このままハリエットを抱き枕に一緒に昼寝をしたいくらいだ。人目なんて気にしない。狭いソファも気にならない。窮屈だからこそよりぎゅっと密着できるのだから、むしろ窮屈万歳!

「ジョージ、苦しいわ……」

 あんまりジョージが力を込めるので、その腕の中でハリエットがもがいていた。ジョージは僅かに力を緩めるが、それでもハリエットはその腕から脱出できずにいる。男の力に敵わない非力な少女を見て、堪らなく執着心やら独占欲やら征服欲やらが込み上げてくる。混乱と羞恥に、彼女の耳は真っ赤に染まっていた。サラサラな赤毛からちらちらとジョージを誘惑するかのように覗かせるそれを見て、ジョージは吸い寄せられるようにキスを落とした。途端に電流が走ったかのようにハリエットは飛び上がる。

「なっ――ジョージ!」
「おいおい、それはちょっとヤバいって」

 ハリエットの抵抗が一層強くなったのと、フレッドの呆れた声にジョージが腕の力を緩めたのは同時だった。その一瞬の隙を突き、ハリエットはどんとジョージを突き飛ばした。ジョージにとっては、ピグミーパフが体当たりしてきたような衝撃しかなかったが、それでも虚を突くには充分だった。呆気にとられるジョージを余所に、脱兎の如くハリエットは逃げ出した。あっと思ったときには時既に遅く、ハリエットの美しい赤毛は肖像画の向こうへ消えた後だった。

「フレッド……タイミングを考えろよな。良い所だったのに」
「それはこっちの台詞だぜ。周りを見て見ろよ。こんな所でおっぱじめたらマクゴナガルを呼ばれる。そうすればお前とハリエットは無理矢理引き離されちまうぜ」

 あくまで今の・・ジョージに寄り添った発言をするフレッド。ジョージは考え込むように顎に手を当てた。

「とにかく、一回目の試飲はこれくらいでいいだろ。ほら、これ飲めよ」
「いらない」

 フレッドが差しだした解毒剤を、ジョージは流れるような動作で振り払った。

「今の俺にはやるべきことがある。フレッド、邪魔しないでくれ」
「何言ってるんだ。よく思い出せよ。ハリエットは妹みたいなものだろう? 冷静になれ」
「俺は冷静だ。今までの俺がおかしかっただけで……あんな可愛い女の子を妹として見てただなんて信じられないよ」
「おい、ジョージ――」

 フレッドの制止も聞かず、ジョージはすたこら談話室を出て行く。まさか解毒剤すら拒まれるなんて想定もしておらず、フレッドは途方に暮れてしまった。

 惚れ薬の効果は二十四時間。解毒剤を飲まないのならば、その時間が過ぎるのを待つだけだが――しかし、予想以上に惚れ薬の効果は強いようだ。悠長に時が過ぎるのを待っていれば、ハリエットはジョージに襲われるかも知れない――。

 さすがにそれはハリエットが可哀想だと、フレッドは慌てて我に返って談話室を飛び出した。しかしその頃にはもう遅い。ハリエットは執着心の強すぎる『男』と化したジョージから死に物狂いで逃げている所だった。

「ハリエット! どこだ? こっちへ向かうのが見えたのに――」

 バクバクと激しく鼓動を打つ胸を押さえながら、ハリエットは扉を背にズルズルその場にしゃがみ込んだ。ジョージは足が速かった。ハリエットがどんなに必死に逃げてもすぐに追いつくし、どんな所に逃げ込んでもすぐに見つけてしまう。それが例え女子トイレであっても――。

「マートル、ハリエットを見なかったか? 赤毛の、とってもチャーミングな女の子なんだけど」
「オォォォゥ、チャーミングですって!? 私はチャーミングじゃないとでも言いたいの!?」
「そう怒るなよ。君もチャーミングだけど、ハリエットには敵わないってだけで」
「何よ! 結局あんた達は私のこと馬鹿にしてるんだわ! いいわ、さっさと連れて行きなさいよ! 私のトイレでイチャイチャするのだけは止めてよね!」
「やっぱりここか」

 ピチャリ、と水浸しの床を進み、ジョージは一つだけ閉めきられた個室の前に立った。

「ハリエット……隠れてないで出ておいでよ。こんな所にいたって仕方ないだろう?」
「こんな所ってどういう意味よ! ここは私の住処よ! 皆して――そう、皆そんなこと言って私を馬鹿にするんだから!」
「マートル、少し静かにしてくれ……。ハリエットの可愛い声が聞こえない」
「私の! トイレで! イチャイチャ! しないでったら!」

 むせび泣きながら、マートルは勢いよくトイレに飛び込んだ。バシャンとド派手に水しぶきが上がり、ハリエットとジョージは水浸しになる。

「ハリエット、お願いだから出てきてよ。寒いだろう? 温めてあげるから……」
「ジョージ!」

 うんともすんとも言わない個室に語りかけていたジョージは、突如背後から聞こえてきた声に振り向いた。そこに立っていたのは、見まごうことない片割れのフレッド。彼はジョージに杖を向けていた。

「悪く思うなよ。俺にはお前を止める義務がある」
「フレッド、冗談はよせ。お前なら俺の気持ちを応援してくれると思ってたのに」
「お前が正気ならな。――ハリエット、出て来い! 今のうちに逃げるんだ! ジョージは俺が引き留める!」

 ハリエットは散々に迷ったが、やがて意を決して恐る恐る扉を開けた。視界に飛び込んできたのは、杖を向け合う赤毛の双子。ハリエットがゆっくりトイレから出、そしてそろそろ入り口を向かうのを見て、ジョージが切ない声を上げた。

「ハリエット――行かないでくれ!」
「ハリエット、気にするな。ジョージは……実は惚れ薬を飲んだんだ」

 ついに明かされた事実に、ハリエットは目を丸くした。惚れ薬? ジョージが?

「そのせいで、私にこんなことを?」
「ああ。試飲のつもりでジョージに飲ませたんだが、まさかこんなことになるとは……ジョージを悪く思わないでやってくれ」
「ええ……」

 複雑な思いでハリエットは頷いた。フレッドとジョージはよく悪戯グッズを開発しては、実験ばかり繰り返している。おそらく今回のこともその一環だということは薄々気づいていた。その矛先が己に向けられることは思っても見なかったが――フレッドも必死になって止めようとしてくれる所を見ると、どうにも憎みきれない。ハリエットはため息をつきながらもトイレを飛び出した。

「二十四時間! 二十四時間経てばジョージも正気に戻るから! それまで逃げ切れば大丈夫だ!」

 フレッドの声に背を押される形で、ハリエットは談話室へ向かった。そして転がるようにして飛び込んだのは、ハリーの寝室だ。荒い息を整えながら、ハリエットはハリーによろよろ近づく。一方でハリーは、妹がずぶ濡れの息も絶え絶えな様子を見て仰天した。

「ハリエット!? 一体どうしたの!?」
「話は後よ! ハリー、透明マントを貸して!」

 返事も聞かずに、ハリエットは勝手にハリーのトランクを漁った。そして目的のものを見つけると、頭からそれを被る。

「ジョージがおかしいの……とにかく、私もう行くわ!」

 惚れ薬を飲んで理性を失っているなんて、男の沽券に関わるようなことは言えなくて、ハリエットはぼやかした。本当はハリーにも味方になって欲しかったが、今にもジョージの声が聞こえてきそうで、ハリエットは早々に切り上げ、談話室を飛び出した。間一髪、ジョージが曲がり角から走ってくるのを見てハリエットは息をのんだ。――フレッドの姿はない。

 嗚呼――フレッド。恋に盲目なジョージに敗れ、女子トイレで昏倒しているとは、勝者ジョージとマートルしか知らないことだった。

 頼れるものはもはや透明マントしかないと、ハリエットはギュッとマントを握りしめ、階段を降り始めた。

 一方で、談話室に飛び込んだジョージは、ハリエットの姿がどこにもないことに絶望しかかった。だが、すぐに彼の頭は一つのアイデアを思いつく。ジョージはスキップでもしたい気分でハリーの寝室まで押しかけた。

「ハリー!」
「ジョージ? 君までそんなにずぶ濡れでどうしたの?」
「やっぱりハリエットもここに来たのかい?」
「うん。ジョージが……ちょっとおかしいって言ってたけど……」

 言い辛そうにもごもごしながら、それでもハリエットの兄は全てをバラした。ジョージは内心にんまり微笑む。

「ハリエットは、ちょっとばかり素直になれないだけさ」
「うん?」
「ハリー、それよりも忍びの地図を貸してくれないか? 今の俺に必要なんだ」
「別に良いけど……」

 ハリエットが開けたままにしていたトランクを漁り、ハリーは忍びの地図を引っ張り出した。ジョージは笑顔でそれを受け取る。

「ありがとう! やっぱり持つべきものは義兄だな!」
「うん……うん? 今、なんて――」
「じゃあな、ハリー! 後でご報告は二人一緒にさせてもらうから!」

 ジョージはヒラヒラ手を振って颯爽と寝室を出て行った。後に残されたハリーは首を捻るが、やはりジョージが残した言葉の意味は分からない。

「義兄? ご報告……?」

 何はともあれ、忍びの地図を手にしたジョージは無敵だった。透明マントなんて目ではない。ハリエットがどんな所に身を隠していても、その居場所はジョージにとっては丸わかりなのだから。

「ハリエット? そこにいるのは分かってる。いい加減出ておいで」

 教室の隅に追い詰められながら、ハリエットは恐怖でぶるぶる震えていた。

 一体なんてこと! ジョージは――ジョージは、まさか忍びの地図を持っている!? ハリーの裏切り者! ジョージがおかしいって、ちゃんと言ったのに!

 ブレーズ・ザビニとの一件は、ハリエットにとっては思い出すだけで身が凍るような事件だが、しかし、今のジョージも似たり寄ったりだった! 知り合いならまだ何とか――どころではない。いつものジョージとは全くの別人だからこそ、余計に恐怖心を煽られる。今まで恋愛ごとに疎かったハリエットは、突然、しかも強烈にその対象として見られることに戸惑いと強い恐怖を感じていた。

「ジョージ……お願い、正気に戻って。今のあなたは普通じゃないわ」
「普通だよ。いつも通りだ。ハリエット、君と普通に話がしたいよ」
「私だって普通に話がしたいわ。でもあなた――へ、変なことするじゃない!」
「しないよ! 君が嫌だって言うのなら、もうしないって約束する。だから出てきてよ」

 あまりに哀れな声を出すので、ハリエットは少々絆されてしまった。どちらにせよ、追い詰められた以上、ハリエットに逃げ場はない。ハリエットは徐に透明マントを脱いだ。

「ああ、ハリエット……」

 恍惚とした表情でジョージはハリエットに近づく。ハリエットは怯えて横に数歩移動した。

「ま、待って! それ以上動かないで! 変なことはしないって言ったわよね? このままの距離で話しましょう……」
「確かにそう言ったけど、この距離じゃ君の可愛い声もよく聞こえない。もっと近づきたいよ」
「駄目よ!」

 ハリエットの制止も聞かずに、ジョージはジリジリ近づいてくる。ハリエットの背にはもはや壁しかなかった。

「ハリエット……」

 熱い吐息がついにハリエットの身体に触れた。ピクリと身体を反応させ、ハリエットは精一杯両手を突き出すが、それすらも愛おしそうにジョージが撫でる。

「可愛い……」
「ジョージ、お願いだから――」

 もはや杖を使うしかないのか、とハリエットがローブのポケットに手を突っ込んだとき、ガラガラと扉が開いた。二人だけの密室に、突如救世主が現れた。

「…………」

 三人はしばし見つめ合っていた。ジョージはすぐにハリエットに視線を戻したが、ハリエットと救世主の視線は長い間衝撃と混乱とで交わったままだ。

「校内で盛るとは、グリフィンドールも品がない……」

 現れた救世主は、全く救世主らしくない出で立ちだった。全身真っ黒で眉間には深い皺が刻み込まれ、唇は不愉快そうに歪められている。

「グリフィンドール二十点減点。未成年らしく節度のある行動を取ったらどうだ」
「す、スネイプ先生! 助けてください!」

 ハリエットは咄嗟に彼に助けを求めた。もはや頼れる人物は彼しかいなかった。惚れ薬のことはバレてはいけないが、せめてこの状況を脱することができれば――。

「ハリエット、他の男に助けを求めるなんて……」
「スネイプ先生!」

 ジョージの声は無視し、ハリエットは必死にスネイプに手を伸ばした。

「私も――本意じゃないんです! ジョージが……ちょっと……おかしくて! そう、熱があるんです! あの、ちょっと風邪気味で、正気じゃなくて!」

 もはや自分でも何を言ってるのかよく分からなかった。しかしこうしている間にも、ジョージはハリエットにキスしようとしてくるのだから必死にもなる。ハリエットがジョージの顔に手を当て、懸命にガードしているのを見て不憫に思ったのか――スネイプは軽く杖を一振りした。すると面白いくらい簡単にジョージはスルッと離れた。教室の隅と隅までハリエットと離され、ジョージは絶望の表情を浮かべた。

「あ、ありがとうございます! 私、このご恩は絶対に忘れません!」

 本当に泣きそうになりながら、ハリエットは何度もスネイプに頭を下げた。しかしなおもジョージが諦めずに近寄ってくるのを見て、ハリエットは脱兎の如く、またしてもその場から逃げ出した。ジョージは後を追おうと走り出したが、その前に立ちはだかったのはセブルス・スネイプ。彼は限界まで顔を歪め、不快感をあらわにしていた。

「嫌がる女生徒を無理矢理手込めにしようとはグリフィンドールが笑わせてくれる。君の寮が誇る勇気とは、どんな罰や法律も恐れない無鉄砲と同義なのかね?」
「人の恋路を邪魔する権利は誰にもありません」

 ジョージは毅然として言い放った。

「ハリエットは素直になれないだけだ……」
「これは……本格的に手遅れのようだな。このことはマクゴナガル教授にご報告申し上げよう。寮生が犯罪者になる前に……」

 スネイプはジョージに背を向けた。完全に油断していた。

 まさか――教授である自分に杖を向けるなど、誰が予想しただろう。

「ステューピファイ!」

 ジョージが高らかに失神呪文を叫んだとき、ハリエットはまだ地下をうろうろしていた。もう体力も限界で、しかもジョージは忍びの地図を持っている。どこに逃げたとして、結局彼に見つかる運命なのだ。もうどこに行けばいいかさっぱり分からなかった。途方に暮れてハリエットはへなへなとその場にへたり込む。

 一体どれだけの時間その場にいただろう。途中何人かのスリザリン生が横を通り過ぎていくのには気づいていた。おそらくこの辺りがスリザリン寮のある場所なのだろう。

 不意にハリエットの上に影が差した。もう追いつかれたのか、とハリエットは絶望する。だが、顔を上げた先にいたのはドラコだった。グリフィンドールの赤ではなく、緑色のネクタイを首に締めている。そのことがどれだけハリエットをホッとさせたか分からない。

 一方で、ドラコは仰天していた。談話室で廊下にへたり込んでいるハリエットのことが噂になっていたから、気になって来てみれば……。彼女と目が合ったと思った瞬間、突然ハリエットがボロボロと涙をこぼし始めたのだから!

「ドラコ……ドラコ……」
「な――一体どうしたんだ」

 辺りを憚るようにチラチラ窺いながら、ドラコはハリエットに近づいた。ハリエットは頬を拭ったが、次から次へと出てくる涙で一向にその行為は意味をなさない。

「男の人……怖い……」
「はあ?」
「もう嫌……」
「誰かに何かされたのか?」

 さすがのドラコもちょっと心配になった。つい数ヶ月前、ブレーズ・ザビニの一件があったばかりだ。誰か達の悪い男子生徒に、つきまとわれているのかもしれない。

 屈んだドラコを、ハリエットはがっしり掴んだ。縋るようにして彼を見上げる。

「お願い……私をスリザリン寮に匿って……。もうそこしか逃げられる場所はないわ……」
「何の話だ? 誰かに追われてるのか?」

 ハリエットは怯えながらこくこく頷いた。力なく透明マントを持ち上げる。

「透明マントも意味ないの。向こうは忍びの地図を持ってる。私がどんな場所にいても見つけ出すの……」
「相手は誰だ? 先生に言えば良い」
「駄目よ。ジョージは……惚れ薬で正気じゃないだけなの。もしマクゴナガル先生にこのことがバレたら、罰則を受けるかもしれない」
「ジョージ? ジョージ・ウィーズリーか?」

 ドラコは呆れて一瞬ポカンとしてしまった。

「そんな奴のことを心配してる場合か!? 何かあったらどうする!」
「二十四時間経てば元に戻るらしいの。だから、それまでスリザリン寮に匿って……。いくらジョージでも、そこまで侵入できないはずだわ」
「だからといって――」

 なおも説得しようとしたとき、ハリエットを怯えさせる諸悪の根源の声が響いた。

「ハリエット? どうしてマルフォイなんかと一緒にいるんだ? 何かされた訳じゃないよな!?」

 あからさまにビクつくハリエットに、ドラコはもう腹をくくるしかなかった。彼女を立たせ、むき出しの石が並ぶ壁を指差す。

「合言葉はサーペンス。壁に向かって唱えろ」

 ハリエットはハッと息をのんだ。

「僕の部屋は談話室を通って一つ階段を降りた右の部屋だ。クラッブとゴイルも同室だが、今は大広間で馬鹿食い中だ。そこで大人しくしてろ」
「――っ、ありがとう!」

 ハリエットはすぐにマントを被り、小声でサーペンスと唱えた。ハリエットの姿が石壁の向こうに消えるのと、曲がり角からジョージが現れたのは同時だった。

 ジョージはドラコを視界に入れると、素早く辺りを見回した。しかしすぐにハリエットがいないことに気づくと、焦った顔で地図を覗き込んだ。

「まさか――スリザリン寮!? ハリエットはスリザリンの所にいるのか!?」
「お前に追いかけ回された末の決死の判断だ」

 ドラコは杖を手に立ち上がった。

「一言言っておくと、僕を失神させたって寮への合言葉は分からないままだぞ」

 ジョージがピクリと眉を動かす。彼の右手がローブのポケットに突っ込まれたことを、ドラコは見抜いていた。

「マルフォイ……一体何を企んでるんだ? どうしてハリエットをスリザリン寮なんかに入れた?」

 ジョージはスルリと杖を抜き出し、警戒しながらドラコに近づいた。

「まさか……まさか、寝室に連れ込んで、ハリエットにあんなことやこんなことをするつもりじゃないだろうな!?」
「――っ、誰がそんなこと――!」

 一瞬想像してしまったドラコは、真っ赤になって言い返した。

「惚れ薬を飲んだって言うのはどうやら本当のようだな。いや、良かったよ。正気のままそんな低俗な考えをするなんて、いくら落ちぶれたウィーズリーでも想像したくないからな」
「俺のこの気持ちは本物だ。惚れ薬なんかのせいにしないでくれ。ハリエットが誤解したらどうしてくれる」

 ジョージは真面目な顔でのたまった。もはや末期だ、とドラコは顔を引きつらせた。

「なあ、だってそうだろう? 惚れ薬なんかなくたって、ハリエットが可愛いことは皆が知ってる。マルフォイもそう思うだろ?」
「はあ?」
「思い浮かべてみてみろよ。特に笑顔が可愛い。見てると心が安らかになってくるんだ」

 うっとりとジョージは胸に手を当てた。まるで恋する乙女のようだ。

「声も可愛いし、動物に優しい所も女の子らしくて良いよな。年寄りネズミのスキャバーズも可愛がってたし、潰れた顔のクルックシャンクスだって」

 お手上げだった。ドラコにはもうこの乙女を止める術などない。

「恥ずかしそうに顔を赤らめる所も可愛い。もっといじめたくなる」

 ジョージは相づちなどなくたってどんどん続けた。

「押しに弱い所も可愛い。押して押して押しまくれば、最後にはうんって頷いてくれるんじゃないかって――」
「お前――確信犯か!?」

 聞き捨てならない言葉に、ドラコは叫んだ。ジョージはきょとんとする。

「何が確信犯だって?」
「あいつが流されやすいのを分かってて――闇雲に迫ってるのかって言ってるんだ!」
「そりゃあ、使える手段は全部使っておかないと」

 ジョージはニヤリと笑った。

「ハリエットもいつか絆されるかもしれないだろ?」

 誰だこいつをグリフィンドールに入れたのは。よっぽどスリザリン向きじゃないか。

 ドラコは憤然とした面持ちで、再び杖を握りしめた。何があっても彼をスリザリン寮に行かせてはならないと、再度己に活を入れた瞬間だった。

 狡猾なグリフィンドール寮生ジョージは、更に夢見心地に続ける。

「なあ、知ってるか? ハリエットって、抱き締めるととっても甘い香りがするんだ」
「――抱き締めたのか?」
「羨ましいか?」

 反射的に聞き返したドラコを、ジョージはニヤリと切り返した。

「抱き心地は最高だったぜ。柔らかいし、良い匂いがするし……。かといって、手を出すのは禁止だぜ。ハリエットは俺のものだ」

 恍惚とした表情で、次から次へとハリエットへの愛情を口から垂れ流すジョージ。ドラコはしばらく前から気づいていた。そんな彼の後ろから、フレッドがそろり、そろりと歩いてきているのを。

「ああ、あの子は女神か? 天使か? 天国からの、俺への贈り物に違いない――」
「ジョージ、覚悟っ!」

 フレッドは背後からジョージの顎をがっしり掴むと、そのままグイッと上向きにし、手に持っていた小瓶を口へ突っ込んだ。ゴボゴボとジョージが苦しそうに喉を鳴らすのが聞こえる。

 やがて事が終わると、ジョージがドサリとその場に崩れ落ちた。フレッドは一気に何歳も老け込んだような様子で、ジョージを負ぶって去って行った。

 ――さながら、ドラコは犯罪現場でも目撃したような気分になった。


*****


 スリザリン寮へ戻ると、ドラコはまっすぐ寝室へと向かった。階段を降り、迷うことなく右の扉を開ける。中には誰もいなかったが、まだ彼女は透明マントを被っているのだろう。ドラコは己のベッドに腰を掛けると、深々と息を吐き出した。

「ジョージ・ウィーズリーは解毒剤を飲んだ。今頃正気に戻ってるだろう……」
「本当?」

 ハリエットはすぐにマントを脱いだ。なおも信じられないといった様子で不安そうに顔を顰めている。

「ドラコ、大丈夫だった? 何もされてない?」
「あいつの惚気話に付き合わされただけだ。ウィーズリーはもう一人の双子に連れて行かれた」
「良かった……」

 緊張の糸が切れたからか、ハリエットはその場にへたり込んだ。べちゃっと奇妙な音が響き、ドラコは彼女に視線を向ける。見れば、彼女はまだ尚ずぶ濡れのままだった。

「服は乾かさなかったのか?」
「だって、乾かす呪文を知らなかったんだもの。あ、ごめんね。濡らしちゃって……」

 ハリエットはすぐに立ち上がり、ローブを脱いだ。ローブは多分に水を含み、絨毯にポタポタと雫を垂らしていた。だが、ローブを脱いだとしても、その下もしっとり水を含んでいたため、あまり意味をなさなかった。それどころか――。

「……ドラコ?」

 シャツがピッタリ身体に張り付き、身体の線が浮き彫りになってしまっている。タイミング悪く、ドラコはジョージの言葉を思い出した。――まさか、寝室に連れ込んで、ハリエットにあんなことやこんなことをするつもりじゃないだろうな――。

 そんなことする訳がないだろう!

 サッと視線を外すと、ドラコは杖を取り出した。

「杖をこう振れ。風が出てくる」

 固い声でドラコは杖を振るった。すると、ぶわっと杖先から温かい風が飛び出してくる。

 ただ、あまりに素早く、複雑な振り方をするので、ハリエットが瞬きをするうちに終わってしまっていた。

「え……えっ、今のどうやったの? もう一回やって」
「これで最後だ」

 今度はゆっくりとやって見せた。ハリエットも見よう見まねでやってみたが――風ではなく炎が飛び出し、悲鳴を上げてしまった。ドラコはため息をつき、後ろからハリエットの杖腕を掴んだ。

「こう振るんだ」

 ドラコがゆっくり彼女の手を動かすと、杖先から温かい風が吹き出した。ハリエットは歓声を上げて杖先を髪へ当てる。長い赤毛が風に揺られ、殺風景な男子部屋に踊るように舞った。

 ハリエットのすぐ後ろにいたドラコは、前方からふわりとシャンプーの香りが漂ってくることに気づき、ピシリと固まった。またもジョージの言葉が脳裏に蘇る。――ハリエットって、抱き締めるととっても甘い香りがするんだ――。

「ありがとう、ドラコ!」

 ハリエットのはしゃいだ声に、ドラコの意識は現実に引き戻された。見ると、ハリエットはようやく髪を乾かし終えた所だった。続いて自分の身体に杖先を向け、制服を乾かしている。熱風が熱いのか、無防備にパタパタとシャツを動かすので、ドラコは険しい表情でそっぽを向いた。

 ようやく全身を乾かし終えると、ハリエットは湿ったローブを抱え、申し訳なさそうにドラコを見た。

「私、もう行くわね。助けてくれてありがとう……。迷惑かけてごめんね?」
「謝罪はウィーズリーの口から聞きたいものだな」
「それはちょっと難しいと思うけど……」

 ハリエットは困った顔で笑った。途端、ジョージの言葉がまたもドラコを襲いかけたが、すんでの所で首を振って回避する。

「本当にありがとう! ドラコには感謝してるわ!」

 眩しい笑顔を残し、ハリエットは頭から透明マントを被った。あっという間に彼女の姿はかき消える。ドラコは少しだけもの寂しい思いを感じた。

「じゃあね――」

 明るく笑い、ハリエットは扉を開けた――と思った。本当のところは、向こう側から扉が開いたのだ。

 突然ハリエットの二倍以上はある巨体がずんずん迫ってきて、ハリエットは唖然とした。それがクラッブとゴイルだと気づくにはそう時間はかからなかったが――だからといってどうだと言う。出入り口を塞がれ、ハリエットにはもう逃げ場はなかった。

 慌てて踵を返して部屋の奥へと逃げだそうとするが、残念なことに、そこにはまだドラコが立っていた。思い切り彼の肩口に頭をぶつけたハリエットは、体勢を崩し、そのままドラコを巻き添えに床に倒れ込んだ。何とか透明マントは死守したが、しかしあまりの痛みにハリエットはうめき声を上げる。

「マルフォイ、大丈夫か?」

 突然の乱入者、クラッブとゴイルは、目の前でドラコがひとりでに倒れたので、目を丸くしていた。助け起こそうと緩慢な動作で手を差したが、ドラコは茫然と宙を見つめるばかりだ。

 ドラコは、もう何度目か分からないジョージの言葉を思い出している最中だった。――抱き心地は最高だったぜ。柔らかいし、良い匂いがするし――。

 そういえば、前にも似たようなことがなかったか、とドラコは記憶を呼び起こす。そう、確かあれは三年生の時だ。ホグズミード村でマントを被ったハリエットに悪戯され、挙げ句の果てには一緒になって雪の上に倒れ込んだ――。

 あの時は――あの時も柔らかいとは思ったが、今回は、あの時以上に――柔らかい。どこがとは言わないが、柔らかい。

 無意識のうちに己の腕がハリエットの背中に回りかけたのに気づき、ドラコはみるみる顔を真っ赤にした。そして次の瞬間には、力強くハリエットを押しやって立ち上がっていた。

「クラッブ、ゴイル! 急にドアを開けるなといつも言ってるだろう! ノックくらいしろ!」
「誰もいないと思ったから――」
「そういう問題じゃない! そこに直れ!」

 激高してドラコはベッドを指差した。クラッブとゴイルは顔を見合わせ、大人しく指示に従った。

 二つの巨体が道を空けたのを見て、ドラコはハリエットがいるであろうその場所をギロリと睨み付けた。まさにビンゴ、その場所にいて彼の睨みを真正面から受け取ったハリエットは、慌てて寝室を飛び出した。最後の最後までドラコに迷惑をかけたことが申し訳なかった。

 息も絶え絶えにスリザリン寮から抜け出し、階段を上がり、住み慣れたグリフィンドール寮の談話室に飛び込み――ハリエットはようやく透明マントを脱いだ。折角服を乾かしたばかりだというのに、しっとりと汗をかいていた。

 ソファに深く腰を下ろし、一息つく彼女の前に立ちはだかる二つの人影。

「ハリエット……」

 ハリエットはピクリと身体を揺らした。今日は一日中敏感になっていた主の声だ。

「悪かった! 惚れ薬を飲んだ俺が、どうにもやり過ぎたみたいで……」

 ジョージはパンッと両手を合わせ、深々とハリエットに頭を下げた。もう惚れ薬は抜けているようだが、しかしそれでハリエットの怒りが収まる訳ではない。

「やり過ぎたどころじゃないわ!」

 ハリエットは声高々に叫んだ。

「私が今日どんな目に遭ったか――」
「本当に悪かったと思ってるよ……まさかあそこまで悪化するなんて思いも寄らなかったんだ。商品にするときは、ちゃんと上手い具合に効果を調節するからさ」
「そういう問題じゃないわ! もう――もう、フレッドとジョージなんて知らない!」

 思い切りそう宣言すると、ハリエットは足音も荒々しく女子部屋への階段を上がった。いくら謝ったからといって、ハリエットはしばらく二人を許す気など毛頭なかった。だが、今回の惚れ薬騒動でジョージに翻弄されたことを、ハリエットはこれ以上他の人に知られたくなく、そうなると長期間二人を無視し続けることなどできず――結局一週間でハリエットのつれない態度は幕を下ろした。

 ただ、ドラコもドラコで、同じくらいの期間ハリエットと目も合わせることもできなかった。フレッドとジョージを無視することに躍起になっていたハリエットは、そのことには全く以て気づかなかった。