愛に溺れる

スネイプが愛の妙薬を飲んで、ハリエットにメロメロになる







*不死鳥の騎士団『DAと密告者』後*


 スネイプは、近年まれに見る最高潮の不機嫌さをにじみ出しながら、とある魔法薬を作っていた。一度にたくさんのものを煮出しているため、ぐつぐつと沸騰する音がうるさい。だが、スネイプはそんなこと気にも留めずに、ただただ早く魔法薬が出来上がることを願った。そして同時に、今日の己の失態を思い出し、一層ギリギリと歯ぎしりを立てる。

 あれくらいのものを避けられなかったとは。

 そもそも、元はといえば手順をしっかり確認していなかったあの生徒が悪い。

 我輩がなぜこのような目に遭わなければならない!

 心の中でブツブツと最大限に悪態をつくスネイプの耳は、何の音も拾っていなかった。控えめにドアをノックする音も、小さな声も、ガチャリとゆっくり開く扉も――。

「あっ、スネイプ先生」

 呼ばれた名に、スネイプは反射的に顔を上げた。申し訳なさそうに眉を下げた女生徒が視界に飛び込んでくる。

「勝手に入ってすみません。何度かノックしたんですが、もしかして聞こえてないのかと思って……」
「…………」
「今お忙しいですか? 閉心術を教えて頂きに来たんですけど……。手が離せないようでしたら、また後日にしますか?」

 スネイプは、呆けたような表情で、今まさに鍋に向かって杖を振るおうとしていた腕を、止めた。最後の行程、ほんの一振り、杖を振るうだけで完成した解毒剤・・・だったのに、それを口にすれば、全てが丸く収まったのに。それを、全て彼女が台無しにしたのだ――。

 カラン、と転がる杖の音に見向きもせず、スネイプは足を踏み出した。


*****


 夕食後のスリザリン寮は比較的落ち着いている。課題をこなしたり、静かに談笑したり。だが、唯一場違いな咀嚼音を鳴らしているのがホグワーツ五年生のクラッブ、そしてゴイル。夕食を食べたばかりだというのに、まだ足りないのか、大鍋ケーキを息つく暇もなく口に放り込んでいる。

「アモ……?」

 みなまで言えず、クラッブが聞き返した。ろくに聞きもせず、加えて口の中にケーキが詰まっているせいで、もごもごとしか聞こえない。スリザリンの監督生は呆れつつも再度同じ説明をした。

「アモルテンシア。愛の妙薬って言えば分かるか? 今日の授業はそれを調合することだったんだけど、一人ハッフルパフの奴が調合に失敗して鍋を爆発させたんだ。それをまともに被ったのがスネイプ先生」
「大丈夫だったの?」
「湯だってはいなかったから火傷はしなかった。だけど、問題はその成分の方さ。調合も終わりかけだったから、おそらくは惚れ薬の効果ももちろんある」
「スネイプ先生が、誰かを好きになったってこと?」

 パンジーが好奇心旺盛に身を乗り出す。スネイプを気の毒に思う以上に、面白そうな話題に身体が飛びついてしまったのだろう。

「いや、それはたぶん何とかなった。スネイプ先生もすぐに状況がまずいことに気がついて、その日の講義は全部取りやめになったんだ。僕達は急いで撤収させられて……」
「でも、惚れ薬を被ったんでしょう? 効果があったんじゃないの?」
「調合途中のアモルテンシアだったから、たぶん、誰かを見ただけでも危ないって、スネイプ先生はずっと目を閉じてたよ。だから被害はなかったと思う。不幸中の幸いだ」
「なーんだ。面白いことがあると思ったのに」

 唇を尖らせ、パンジーは身体を元に戻した。

「これだからハッフルパフは嫌なのよ。それで、お願いって?」
「ああ、ドラコにお願いしたいんだが、この後スネイプ先生の様子を見に行ってくれないか? 大丈夫だと思うけど、ちょっと心配で。でも僕はこの後見回りもあるしで」
「ドラコ、一緒に行きましょうか!」

 二人きりのデートだと、パンジーがドラコに手を降った。ドラコが言葉を返す前に監督生が首を振る。

「駄目だ。スネイプ先生は惚れ薬を被ったんだぞ。たぶん、もうずっと前に解毒剤を完成させてピンピンしてるかもしれないけど、それでも女の子を行かせる訳にはいかない」
「はーい」

 女の子扱いされて気を良くし、パンジーはすぐに引き下がった。ドラコも徐に立ち上がる。首席の監督生ということで、彼には一目置いていたし、もちろん尊敬するスネイプのことが気になったというのもある。

「今日のことでスネイプ先生も虫の居所が悪いかもしれない。気をつけてくれよ」

 そんな忠告を背中に受け、ドラコは談話室を出た。

 スネイプの受難を知ってか知らずか、寮の外へ出れば、ひとたびホグワーツは騒がしくなる。噂に寄れば、ウィーズリー兄弟が、何やら騒がしい花火を打ち上げたせいで、その後始末にアンブリッジが奔走しているという。消失呪文でも使おうものなら更に分裂してしまうし、かといってそのまま放っておくこともできない厄介な代物だ。

 こうなっては、呑気にホグワーツを歩くよりは、一番安全な談話室で静かに過ごすに限る。

 帰りに図書館でも寄っていこうと思いながら、ドラコはスネイプの研究室の戸を叩いた。

「スネイプ先生、ドラコ・マルフォイです。今日の授業でお聞きしたいことがありまして――」

 スネイプは、その性格柄、今回のことが、たとえ自寮の生徒と言えど、広まることを良しとしないだろう。そう思って、表向きの理由は全く違うものにした。彼も彼で、きっとドラコの思惑は理解しているに違いないが、あくまでこれは礼節をわきまえるためだ。スネイプもこれに乗ってくれるだろう。

「…………」

 だが、待てども待てども返事は来ない。むしろ、ちょっと小さな声で助けを求める声が聞こえるような――。

 思い切り戸を引き開いたドラコは、目の前の光景に固まった。スネイプがいる。それは当たり前だ。だが、彼の黒いローブに隠れるようにして、女子生徒のスカートがちらりと見える。スネイプの身体で彼女の顔は全く見えないが、あのローブの色は、まさしくグリフィンドールのもので。

「どっ、ドラコ!」

 引きつった声にドラコは現実に引き戻される。ドラコはますます混乱した。自分の名をファーストネームで呼ぶ者は限られる。それが、グリフィンドールに更に限定されるとなると――。

 半ば無意識的にドラコは二人の元へ駆け寄った。ドラコの予想は当たり、スネイプに壁際に追い詰められていたのはハリエット・ポッターだった。戸惑ったようにスネイプを押し返しながら、ハリエットはスネイプとドラコとを泣きそうな顔で見比べている。スネイプはそんな抵抗などものともせず、ぐいぐい身体を近づけようとしている。

「ドラコ、邪魔をするな。何の用だ?」

 ドラコの敬愛するスネイプの声は、いつも通りだ。にも関わらず、この光景は非日常だ。アモルテンシアが頭を過る。

 ドラコは懸命にスネイプを引き剥がしにかかった。だが、大人の男相手では、非力なドラコではてんで敵わない。焦ったドラコは、普段なら考えられないような暴挙に出た。あろうことか、スネイプにタックルをかましたのだ。

 さすがにいち男子生徒の全体重をかけたタックルには堪えられず、スネイプはドラコもろとも床に転がった。ハリエットは何が起きたのかわからず呆然とした様子だ。

「早く行け!」

 舌打ちと共にドラコが叫んだ。

「で、でも、スネイプ先生の様子がおかしくて……」
「お前のせいだ!」
「え――えっ? でも、私、何もしてな――」
「いいから行け!」

 危機迫った顔でドラコが吠えれば、ハリエットはおろおろしながら研究室を出た。扉が完全に閉まったのを見て、思わずドラコは息を吐き出したが、まだことが収まったわけではない。信じられないほど不機嫌な様子で身を起こしながら、スネイプがじっとりドラコを見た。

「これは一体どういうことだ。なぜ我輩の邪魔をする?」
「単刀直入にお聞きします。アモルテンシアを浴びた後、解毒剤を飲まないうちに、ハリエット・ポッターと接触してしまったんですね?」
「左様」

 まだ理性は残っているらしい――。

「分かっているのであれば話は早い。我輩はミス・ポッターの元へ行く。そこを退け」
「…………」

 ドラコは一息ついた。アモルテンシアの効果は抜群だ。だが、ここで引くわけにはいかない。何しろ、我が寮監の沽券に関わることなのだから。

「ご自分が何を仰っているのか分かってらっしゃいますか? 先生がポッターの所に行きたいと思うのは、アモルテンシアのせいなんです」
「そのようだな。だが、どうにもこの気持ちは抑えることができない。ミス・ポッターと会って話がしたい」
「会ってどうするんですか」
「親交を深めたい。我輩はどうやら彼女に苦手に思われているようだ」
「…………」

 無表情な顔で一体何を言っているのか。

 ドラコは黙って頭を抱えた。

「そう思うこと自体アモルテンシアのせいなんです。普段の先生であれば、むしろポッターのことは嫌っていたでしょう」
「兄の方は。だが、我輩は妹の方は嫌ってはいない」

 埒が明かない。

 同じことをスネイプも思ったようで、颯爽とドラコを押しのけ、ドアの方へ行こうとする。慌ててドラコは彼を引き止めた。

「スネイプ先生、待ってください。ポッターの所に行くんですか?」
「当然だろう」
「今から行っても、もう就寝準備に入ってるかもしれません。それよりも、明日はまた魔法薬の授業があるでしょう」
「それがどうした」
「明日の授業に向けて、念入りに準備をした方が良いんじゃないでしょうか? もし先生が完璧な授業をして見せれば、ポッターも見直すかもしれません」

 あまりにお粗末な誘導だ。普段のスネイプであれば、鼻で笑って無視しただろう。だが、今日のスネイプは少し違う。考えるようにして押黙り――やがて頷いた。

「そうだな。それが良い。彼女が寝る前にもう一度顔を見て話がしたかったが――あまりに節操がなくては嫌われる。むしろ明日の授業に向けて準備を欠かさないほうがより好印象だろう」
「……そうですね」

 もはや多くは言わない。ドラコは力なく頷いた。

 やたらと張り切って大鍋を出してくるスネイプを尻目に、ドラコは静かに暇を告げた。うかうかしていられない。迅速に行動をしなければ。我が寮監最大の危機だ――。

 駆け込むようにして談話室に戻ってきたドラコを一番に出迎えたのはパンジーだ。クラッブとゴイルも、未だお菓子を食べながら、目だけはドラコの方へ向いている。

「ドラコ、どうだったの?」
「……大変なことになった」

 それだけしか言えない。どこから話したものか。

 呼吸を整えているうちに、首席の監督生が戻ってきた。ドラコを視界に入れると、すぐさま近寄ってくる。

「問題なかったか?」
「大ありです。解毒剤を完成させる前に、スネイプ先生がある女生徒を見てしまいました。それで……おそらくは、その生徒のことを好きになってしまったんだと……」
「……なんてことだ!」

 監督生は頭を振って嘆いた。

「頭が痛いが……分かった。解毒剤は僕がなんとかしよう。スネイプ先生が今から魔法薬の調合を許可してくださればいいんだが、もし今日中に用意できなかった場合、明日に持ち越しになってしまう」

 監督生は決意を込めて顔を上げた。

「監督生は、至急談話室に生徒を集めてくれ! 一年生も、皆だ!」

 こういうときのスリザリン生の行動は迅速だ。仲間内のことに関しては、こと結束力が強いのが要因だろう。それどころか、今回は我らが寮監に関わることだ。

 あっという間に談話室にスリザリン生がひしめき、首席監督生は、声が通りやすい位置に移動し、ことの経緯を説明した。

「これは、スネイプ先生の沽券に関わることだ!」
「何が何でも、このことは隠し通さなくちゃならないわ!」

 あちこちで声が上がる。監督生が片手を上げ、一旦は静寂を待つ。

「皆にしてほしいことは、スネイプ先生の気を引くことだ。対象の女子生徒に近づこうものなら、すぐに引き止めて欲しい。世間話でも、授業の質問でも、何なら魔法を使ってもいい。僕が許可する。これは緊急事態なんだ!」

 彼の言葉に、スリザリン生は重々しく頷く。きっと減点は免れない。だが、それ以上に守るべきものが今はあった!

「可能であれば、フォローもして欲しい。スネイプ先生の様子がおかしいなんて声があったら、調子が悪いとか、機嫌が悪いんだとか、とにかく誤魔化してほしい。今回の件が周りに漏れることは、何があっても避けなければならない」

 不意に監督生が顔を上げてドラコを見た。

「それで、ドラコ。一番大切なことを聞くのを忘れていた。スネイプ先生は、誰を好きになったんだ?」
「あー……」

 ドラコはまごついた。珍しいその姿に、皆が注目する。

「ハリエット・ポッターです」
「…………」

 水を打ったように静かになった。誰もがしばし言葉を失う。

「……これは、嵐が来るぞ」

 誰かが呟いた。それを機に、爆発的にあちこちで声が上がる。

「よりにもよってグリフィンドール!?」
「おまけにハリー・ポッターの妹だと!?」
「なんてこと! スネイプ先生が可哀想だわ!」

 ざわめきは留まることを知らない。監督生がパンッと手を打ち鳴らして静かにさせた。

「相手がハリエット・ポッターだというのは、我々にとっても非常にまずい。グリフィンドールだし、先生は誰よりハリー・ポッターのことが嫌いだ。正気に戻ったときに、自己嫌悪に陥ってしまうかもしれない。そうならないためにも、スリザリン生一同、明日一日はどうか気を引き締めてくれ!」
「はい!」

 生徒は一斉に返事をした。明日は波乱の一日になることが、誰の目にも明らかだった。


*****


 さすがスリザリン寮といったところか、こういった不測の事態での結束力は他に類を見ない。

 翌日、生徒はまずいくつかのグループに分かれ、スネイプにぴったりくっつく者たちと、逆にハリエットを近くから観察する者たち、はたまた何かイレギュラーが起こった場合にすぐ動けるようにつかず離れずの位置で待機する者達など、皆何かしらの役目を担った。

 特に朝は、スネイプ組の大勝利と言えるだろう。朝からわらわらスネイプの研究室を訪れ、あれやこれや授業に関する質問を投げかける。早くハリエットに朝の挨拶をしたいスネイプは大層不機嫌だったが、伊達に何年もスネイプの寮生をやってない高学年生たちは、彼の嫌味も絶対零度の視線もものともしなかった。

「僕達はもうすぐNEWT試験なんです! 時間がないんです! ぜひ今教えて頂きたいんです!」
「授業後に聞くと言っているだろう! 我輩は早く大広間に行かなければ――」
「授業の後じゃ、聞きたいことがまた増えて頭がパンクするでしょう!」
「パンクしてしまえ! なぜ昨日来なかった!」
「昨日は昨日で忙しかったんです!」

 普段であれば絶対にできない物言いをしながらスネイプと口論を続ける男子生徒。だが、おかげで盛大な足止めは完了。

 ハリエットが大広間を出たという報告を受けたスネイプ組は、『じゃあもういいです』とあっさり引き下がり、スネイプを見送った。

 大広間にて、焦がれたハリエットの姿がないことに気づき、絶望するスネイプの姿が見受けられるのは、そう遠い話ではない。絶望と混乱、怒りに打ち震えるスネイプを見て、他寮の生徒は、『今日の魔法薬学は荒れる』と思ったとか思わなかったとか。


*****


 さて、一致団結したスリザリン生だが、その日一番の難関は、午後に実施される、五年生の魔法薬学――グリフィンドールとスリザリンの合同授業である。こればかりは、他学年の生徒も助けに入ることができず、歯痒いばかりだ。

 今回の責任者となったのは、監督生でもあるドラコとパンジーだ。二人を中心に、事前に会議をしていたスリザリン生は、授業が始まる十五分前には席につき、布陣を敷いた。

 皆、これからが今日一番の山場だと緊張の面持ちだ。授業開始五分前になって、ようやく嫌そうにグリフィンドール生がぞろぞろ入ってくる――。

「一体何の嫌がらせだよ」

 そう声を上げたのはシェーマス。困惑するのは当然だった。スリザリン生が、互い違いに席についているのだ。いつもであれば、暗黙の了解のうちに、真ん中から綺麗に分かれるはずが、これは一体――。

「たまには良いだろう?」

 掴みどころのないザビニが気怠げに答える。

「ちょっとした気分転換さ。早く座れよ」

 ハリーやロン、ハーマイオニーは、何か策があるんじゃないかと視線を交わし、そして最終的にそれはドラコに行き着く。グリフィンドールに喧嘩を売ってくるのは、大抵はドラコ主体だからだ。

 だが、当の彼は一言も口を開かない。いっそ不気味なくらいに視線すら合わない。ハリーたちはますます訝る。――むしろ逆に、今日だけは喧嘩したくないがために、ドラコやパンジーが静かにしているというのは、もちろんスリザリン生一致の思惑である。

「グリフィンドール十点減点。授業開始の合図が鳴ったのに何を突っ立っている。更に減点されたくなければ早く席につきたまえ」

 いつの間に入ってきたのか、入り口にはスネイプが立っていた。彼はサッと教室内に視線を走らせハリエットに目を留めると、ほんの僅かに――おそらくスネイプの今の状態を知っているスリザリン生しか分かり得なかっただろう――口元を緩めた。一方で、目が合ったハリエットはピシッと背筋を伸ばした。何か言われると身構えたのだ。そう思ったのは彼女だけではない。

 スネイプをこれ以上怒らせないよう、ひとまず近くの席に座ろうとハーマイオニーが彼女の腕を掴みかけたが、その手は空を切る。ハーマイオニーと同じく危機感を抱いたドラコが、いち早くハリエットの腕を引いたのだ。

 その勢いのまま彼女に座らせたのはドラコの隣。もちろん真ん中の席だ。反対側にはパンジーが座っている。そうして前後にはクラッブとゴイルの大きな身体が。――グリンゴッツもびっくりの厳重な警戒態勢である。

 ドラコの涼しげな視線に阻まれたスネイプは、眉間の皺を深めながら、結局は何も言わなかった。代わりに八つ当たりと言わんばかりにグリフィンドールから更に十点を減点する。

 その他のグリフィンドール生も、ハリエットが座ったのを皮切りに、渋々席についていく。ハリー、ロン、ハーマイオニーも同じくだ。ただ、まるで仕組まれたかのようにハリエットが一人ドラコの隣へと拉致されたので、放っておけるものかと、意地でも彼女の斜めの席にそれぞれ腰を下ろした。

 その光景を眺めながら、これで理想の強固な要塞が完成したと、ドラコはほくそ笑んだ。ハリーやロン、ハーマイオニーが、敵陣に一人ハリエットを置いておく訳がないというのは、半ば予想していたことだった。もしハリエットを囲うように彼らが座れば尚好都合。スネイプはハリーが嫌いだというのは周知の事実。多少なりとも、ハリーの存在が、ハリエットに近づかんとするスネイプの牽制になれば良いと思ってのことだ。

 ドラコの考え得る最高の布陣で、魔法薬学は始まった。見た目には、スネイプはいつも通りである。しかしその視線はどこか落ち着かなく、いつも最後の最後にはハリエットに向けられる。

 板書のときはまだ良かった。長文を書き終えるたびにスネイプがくるりと振り向き、一生懸命書き写すハリエットの姿を微笑みを浮かべながら眺めている様は、書くのが早いスネイプに追いつくために必死に羽根ペンを動かすグリフィンドール生には知り得もしないことだったのだから。

 問題は実習だ。スネイプは、材料を取りに来たハリエットに対し、『こっちの方が良かろう』とか、『こっちの方にしなさい』とか、よく効果が出る部位や切りやすいものを強引に押し付けた。しかしながら、おそらくハーマイオニー以外全員魔法薬学が苦手なグリフィンドール生には、ただ嫌がらせされているとしか見えなかったことだろう。

「ハリエット、何かスネイプを怒らせるようなことしたの?」

 結果的に一番効果の出にくい部位を押し付けられたハリーは、そうとは知らずに妹に同情していた。

「わ、分からないわ……。でも、昨日先生の研究室を訪れたとき、随分様子がおかしかったの。そのせいかしら? 私、あの時何か気に触るようなことしたのかしら?」

 ハリエットが恐る恐る視線を上げれば、無表情のスネイプとバッチリ目が合う。親交のあるスリザリン生にとっては、まれに見る上機嫌な表情だったが、ハリエットからして見れば、調合の失敗を願っているようにしか見えなかった。

「ドラコは心当たりある? あの時、スネイプ先生の様子がおかしいのは私のせいだって言ってたじゃない」
「知らない」

 ドラコはすぐに返答した。ハリエットは内心がっかりだ。原因が分からなければ、対処方法だって分からない。直接聞く勇気はまだなかった。

 それから、スネイプの咳払いと共に調合が始まった。まるで呼び寄せ呪文にでもかかったかのように、スネイプはハリエットのすぐそばを行ったり来たりした。身を乗り出してテーブル中央に座るハリエットに助言を与えようとするが、両側のドラコやらパンジーやらがさり気なく阻もうとする。苛立ったスネイプに難癖をつけられ、二人は減点を受けた。これにはさすがのグリフィンドール生も震撼した。自寮の生徒――その上特にお気に入りのドラコから減点するほど、今のスネイプの機嫌は最悪なのだと。

「ミス・ポッター、あー、前の席へ来るように」

 ハリエットに思うように接触ができないスネイプは、とうとう最終手段に出た。教授としての権力行使である。

「君の材料を切る手際の良さは、ぜひとも皆が見習うべきだ。前の席の方が皆も見やすいだろう」
「なんて嫌がらせだ!」

 思わずディーンが叫ぶ。

「こんなの公開処刑じゃないか! ハリエットがお手本になるなんて!」

 ロンも叫ぶ。ハリエットは顔が赤くなるのを感じた。スネイプの仕打ちにもだが、同僚生の悪気のない言葉だっていたたまれない。

「早く前へ」

 ロン達の批判の声など耳に入ってないのか、スネイプは無表情で続けた。ハリエットは渋々席を移動するほかなかった。

 とはいえ、お手本と口にした割には、スネイプはハリエットの調合を見るようにとは言わなかった。何故だか、恍惚とした表情で――例によって、グリフィンドール生からは獲物を捕らえた蛇のように見えた――ハリエットの調合を眺めるばかりだ。あまりにもじっと見つめるので、ハリエットは手が震えて失敗ばかりだった。それなのに、スネイプが口を開いて言うことには。

「グリフィンドールに五点。鍋のかき混ぜ方が非常に丁寧だ。皆も見習うように」
「グリフィンドールに十点を。カノコソウの根の効能をよく理解した切り方だ」
「友人に不明な点を尋ねるその学習意欲に五点」

 もはや何でもありだ。これが嫌がらせじゃなくて何だと言うのか。

 ハリエットは羞恥に打ち震えた。ロンの言葉が嫌ほど身にしみる。――公開処刑。まさにこれほどピッタリな言葉はない。

 ハリエットより調合が上手な人などよっぽどいる。なのに、なぜよりにもよってハリエットが手本として挙げられるのか。

 勇気を振り絞り、声には出せないまでも、批難の意味を込めた目でスネイプを見上げれば、彼はゆっくり口角を上げた。――ハリエットはすぐに下を向いた。完全に怒らせたと思ったのだ。

 その後も、スネイプの不可思議な贔屓は続く。結局、授業が終わる頃には、ハリエットは五十点の加点を稼いだ。どんどん増えていく寮の点数と対照的に、どんどん下降していくのはハリエットの気分だ。

「……私、何かしたかしら?」

 ハリエットはもはや泣きそうだった。スネイプの考えが全く読めない。何が彼をこうさせているのか。

 スリザリン生からブーイングが起こることもなかったのが余計に不気味だ。きっと寮生を巻き込んでの新手の嫌がらせに違いない。これが単なる予兆にしか思えないのは、ハリエットの気のせいではあるまい。授業後、ハリエットはスニッチと競えるほどのスピードで後片付けをした。これ以上この場にはいられない。何よりも、怒れるスネイプに更なる嫌がらせを受けないよう――。

「ミス・ポッター、この後教室に残るように」

 水を落としたように地下牢教室が静まりかえる。ハリエットの顔は血の気を失い、もはや真っ白だ。一体何を言われるんだろう? どんな罰則が待ち受けているんだろう? 何よりも恐ろしいのは、スネイプの雷が落とされるとき、ハリエットはたった一人でそれと対峙しなければならないということ――。

「ハリー……」

 ハリエットは心細く兄の名を呼んだ。これがスネイプの癇に触れ、彼は不機嫌そうに口元を歪める。それが更にハリエットを絶望の淵に追い詰める。

 あまりにも妹が切なる表情を浮かべるため、ハリーはうっと思わず胸を押さえた。そう、ハリエットは、近年こそ逞しくなってきたが、小さい頃はいつもハリーの後ろをくっついてきて、口を開けば『ハリー』ばかりで、とてもとても可愛らしい妹だったのだ! その彼女が、今目の前に帰ってきている! まるであの頃に戻ったかのように、不安で不安で堪らない目をしている! ここで引く奴は、兄じゃない!

「スネイプ先――」
「ポッター、フィルチさんがお呼びだ。この後すぐ事務室に来るようにと」
「えっ! な、何の用かお聞きしても……」
「廊下がクソ爆弾だらけになっていた件について、詳しく聞きたいそうだ」

 意地悪くスネイプが唇の端を歪める。ハリーは目を剥いた。

「僕、何もしてません!」
「我輩に言ってどうにかなるものではない。ご自分でフィルチさんにそう主張したらどうですかな?」
「でも、先生――」
「これ以上我輩の貴重な時間を無駄にするようならグリフィンドールから十点減点する。折角ミス・ポッターの素晴らしい調合で稼いだ点を失いたいのか?」
「――っ」

 見事に撃沈だ。今のハリーには、心配そうにこちらを見つめる妹に対し、『何てことないよ』と強がりな笑みを返すことしかできなかった。

 ロンとハーマイオニーも、何とかハリエットの罰則・・を無しにしようと奮闘したが、結局虫の居所の悪いスネイプに五点減点されただけに終わった。

 飛び火する前にと、他のグリフィンドール生も皆いそいそと教室を出て行く。スリザリン生だけは、いやに静かに撤退していく。その場に残ったのはスネイプと、ハリエット、そして――。

「スネイプ先生。今日の授業で分からなかった所があるんですが」

 ドラコ・マルフォイだけだった。

 この時ばかりは、お気に入りの生徒だとか、親交のある人の息子だとか、そういったことは全て頭から吹き飛んでいたスネイプは、遠慮なく表情を歪めた。

「後にしたまえ。我輩はミス・ポッターに用がある」
「ですが、聞きたいときにいつでも聞きに来ていいと仰ったのはスネイプ先生ではありませんか」

 あのドラコが、スネイプ先生に楯突いている。

 ドラコに、まるで守られるかのように後ろに追いやられたハリエットは衝撃を感じていた。兄や親友達も手が出せなかったにもかかわらず、ドラコが、自分のためにスネイプに食ってかかっている――。

「邪魔だ」

 だが、そんな彼は、スネイプのたった一振りの杖で追いやられた。それどころか、一瞬にして素早く開いた扉の向こうまで追い立てられ、そしてドラコが抗議の一つをあげる暇もなく扉は固く閉ざされた。瞬きをする間もない一連の流れだった。ハリエットは呆気にとられてスネイプを見上げた。

「す、スネイプ先生……何もそこまでしなくても」
「この時間を邪魔する権利はあやつにはない」

 熱の籠もった目――否、ハリエットには怒りを湛えた目に見える――で見つめられ、ハリエットはとうとう白旗を揚げることにした。

「私、何かしましたか? スネイプ先生の、お気に障るようなこと」
「何の話だ?」
「今日の先生、何だかおかしいです」

 どこが、とは言わない。『おかしい』とオブラートに包んだだけまだハリエットの危機意識は働いている。

「どこか体調がお悪いんですか?」
「ああ、悪い」

 即答だった。素直に答えられるとは思っていなかったので、ハリエットは面食らってしまった。

「ど、どこがお悪いんですか?」
「胸が痛い。締め付けられるようだ」
「む、胸?」

 ハリエットは困惑した。熱があるとか、てっきりそういう類いの不調だと思っていたのだが。

「マダム・ポンフリーには診て頂きましたか?」
「いや」

 一歩、スネイプが距離を詰める。胸が痛むというのに、この状況で近づいてくる意味が分からない。ハリエットは一歩引いた。

「それなら……医務室に行った方が良いと思います。お連れしましょうか?」
「必要ない」

 二歩、スネイプが歩み寄る。ハリエットは後ろに下がろうとしたが、すぐに壁がハリエットの背中を押し返した。昨日と同じような状況に、ますますハリエットは混乱する。

「ミス・ポッター……ハリエット・ポッター」
「は、はい」

 距離が近い。どことなくスネイプの顔が赤いように見える。これは、本人が気づいていないだけで、実は風邪を引いているのではないだろうか。

 熱を測ろうとして、ハリエットは右手を出し――これには、些か近すぎるスネイプを押し返すという意図も孕んでいたのだが――逆に掴まれる。そのまま壁に押しつけられたが、驚いて手指をパッと開いた拍子にスネイプの指が絡んだ。まるで恋人繋ぎのような形に、ハリエットの頭は真っ白になってしまった。

「あっ……あ、えっ?」
「どこを見ている?」

 当のスネイプは、近い距離にも、未だ繋がれたままの手にも全く頓着せず、むしろハリエットの意識が散漫していることに気づくと、彼女の顎に手を添え、視線を絡ませた。

 真正面の、それもごく至近距離からスネイプの顔を見るに至り、羞恥やら混乱やら戸惑いやらでハリエットは居たたまれない。普段スネイプの顔を見る機会はあまりないのだから、それも当然だ。スネイプと目が合えば減点されるというのは、グリフィンドール生の中で蔓延っている噂話の一つだが、妙に信憑性があり、ハリエットもあまりジロジロ彼の顔を見ることはしなかった。それなのに、なぜその件の顔が目の前にあるのか。

 真っ黒な瞳を直視することができず、ハリエットはせめてもと彼の眉間を見据えた。いつもは羽根ペンでも挟めそうなくらい深く刻まれている皺が、今は、ほんの少し和らいでいるような気がしなくもない――。

「アロホモーラッ!」

 怒鳴るような声と共に、教室の扉が破られた。ハリエットが驚いてその方向を見やれば、肩でゼイゼイ息をしているとドラコと、スリザリンの監督生が立っているのが見えた。

 監督生はハリエットとスネイプの状況を目にした途端顔色を変え、慌ててスネイプに詰め寄った。対するドラコは、紳士にはほど遠い乱暴な動作でハリエットを入り口まで追い立てる。

「スネイプ先生、ひとまずこれを」
「必要ない。邪魔をするな」
「そんなこと仰らずに――」

 何やら監督生は怪しい色合いのガラス瓶を押しつけ、スネイプは嫌そうな顔を隠そうともせずにそれを押し返している。

「スネイプ先生……あの、本当に調子が悪いみたいだから」
「そんなの知ってる!」

 風邪薬だろうかとハリエットはドラコに話しかけたが、何が癇に触れたのか、ドラコは激しく怒鳴ってハリエットを部屋の外まで追い出した。

「ちょ、ちょっと、本当に大丈夫? 私も心配で――」
「いいからお前は出て行け! 寮に帰れ!」

 全くひどい言い草だ。スネイプの不調を知ったからには、はいそうですかと帰れる訳もないのに、何をそんなに焦っているのか。

 一人だけ締め出されたあと、ハリエットはしばらく外でウロウロしていたが、中からは全く何の知らせも来ないので、やがて諦めて寮へ帰ることにした。スネイプの様子は、また明日になれば分かるだろう。

 談話室に戻ると、血相を変えてハリー達が駆け寄ってきた。

「大丈夫だった!?」
「何があったんだ?」
「何もされてない?」

 矢継ぎ早に繰り出される問いに、ハリエットは思わず苦笑する。

「ええ、大丈夫。何も……」

 されてない、のだろうか。

 ふとハリエットは右手を見下ろす。

 男の人の手だった。ハリーよりもずっと大きくて、節くれ立っていて、体温は低かったが、それが余計に自分とは違うものだと認識せざるを得なかった。

 急にまざまざとその感触が思い出されて、ハリエットは声もなく顔を赤くした。その様子を見て、やっぱりスネイプがハリエットにひどい罰則をしたんだとハリー達は怒り、ハリエットは宥めるのに非常に苦労した。