踊る羽根ペン

ーいつかは訪れる日ー






「今……なんて……?」

 好物のチキンをポロリと口から零し、シリウスは震える声で聞いた。ハリエットは恥じらうように隣のドラコと視線を合わせ、微笑む。

「私達、結婚します」

 それは、シリウス・ブラックの幸福な生活を根底からぶち壊す何よりも強烈な一言だった。


*****


 始めから違和感はあったのだ。たまには夕食を一緒に食べたいからと可愛いことを言うハリエットに非番の日を告げ、じゃあドラコも誘うわねと自然な流れで衝撃の一言を残し、去って行くハリエット。嫌な予感を抱きながら当日を迎えれば、やけに気合いの入った格好をしている若人二人。

 夕食の席には、シリウスの好物のチキンがずらりと並び、私が作ったのとハリエットに微笑まれ、気をよくしたのも束の間、給仕にと現れたクリーチャーまでもが綺麗な服を纏い、かしこまって給仕をするので更に不信の念を抱き。

 メインディッシュが近づくにつれ、ソワソワしだすハリエットとドラコに、そうはさせまいと野性の勘がシリウスの口を息つく暇もないほどに動かし。メインも終盤に近づき、少々油断していたのか、ワインで乾いた喉を潤そうとほんの少しシリウスが口を閉ざした途端、好機とばかりハリエットが鋭く切り込んだ。

「シリウス、話があるの」

 そして話は冒頭に戻る。そこからの記憶は、正直言ってない。シリウスは終始放心状態で、その後自分がどんなやり取りをしたのか、全くもって覚えてないのだ。ただ、ハリエットには嫌われたくないからと、自分の感情には蓋をして、反対するのだけは堪えたように覚えている。現に、翌朝挨拶を交わしたときにハリエットは笑顔だったために、どうやら粗相はしてないらしい。――いや、問題はそこではない。

「いい加減子離れしたらどうだい?」

 学生時代からの親友に相談を持ちかければ、彼は呆れたように返すだけだっだ。

「ハリエットももう立派な社会人だ。学生時代からのドラコとの付き合いを考えれば、結婚だってちょっと遅かったくらいなのに」
「だが――なぜ――ハリエット!」

 シリウスの心情は非常に複雑だった。ハリエットには結婚してほしくない。いつまでも家にいてほしい。いつまでも自分と一緒に暮らしてほしい。そもそも相手がドラコというのが気に食わない。不承不承ドラコとの付き合いは許したが、まさか結婚までこぎつけるなんて、なんて抜け目のないスリザリン野郎だ!

 次第に沸々とドラコへの怒りが芽生え始め、シリウスの鼻息は荒くなる。ルーピンは遠い目でため息をついた。

「話し合いでもしたらどうだい?」
「話し合い? ハリエットとか?」
「いや、ドラコと」

 シリウスは固まる。思いもよらない提案だったらしい。

「なぜあいつと話し合わなければ――はっ、結婚を止めるよう脅すのか!?」

 素晴らしいアイデアだ! と続きそうになったシリウスを、ルーピンは慌てて止めた。誰かに聞かれでもしたら、そしてそれがハリエットの耳に入りでもしたら、この親友は間違いなく嫌われる。それだけは避けなければとルーピンの良心が訴えた。

「違うよ、そんなことじゃない。まずは君がドラコのことを好きになれるよう努力したらどうかって話だよ」
「マル、フォイ……?」

 突然ルーピンが蛇語でも話したかのように不可解な表情をするシリウス。ルーピンは根気強かった。

「そうだ。君がなんと言おうと、あの二人はどうしたって結婚するだろうさ。それなら、君が一人で意固地になるよりは、いっそのことドラコのことも好きになれれば幸せだと思わないかい? ハリエットとドラコと君。三人で仲良くすればいいじゃないか」
「三、人……?」

 相変わらずシリウスの耳は英語を聞き取れていないらしい。ルーピンは辛抱強く頷いた。

「君がドラコと仲良くすればハリエットも嬉しいだろうさ。自分達にとって何が一番良いのか、よく考えてみるといい」
「…………」

 思いつめた表情でシリウスは押し黙った。ようやくと頭にルーピンの言葉が行き渡り始めたらしい。良かった。

「朗報を待ってるよ」

 そんな言葉を残し、ひとまずルーピンはこの話題を終わらせることにした。大丈夫、この親友は、直情的なところもあるが、時間をかければちゃんと自力で答えを見つける。今回は、ただ自分でも薄ら分かっていたことを、誰かに後押しして欲しかっただけで。

 とはいえ、この時のルーピンのシリウスへの信頼は、分不相応だったというのは後に発覚する。後日、とんでもないお土産話と共に――。


*****


「という訳だ」

 何もない原っぱ。爽やかな風にローブを煽られながら、シリウスは機嫌良さそうに言葉を締めた。長い時間じっと黙って聞いていたドラコは、それでも彼の言葉を整理できず、おずおずと彼を見上げる。

「あの……ですから……つまりは……?」
「どうしてもハリエットと結婚したいならわたしを倒してからにしろ!」

 いっそ憎らしいほど爽やかに繰り返すシリウス。ドラコは頭を抱えた。この状況、確かに既視感を覚える。

「話を整理させてください。ルーピン教授から、僕のことを好きになればいい、とアドバイスを戴いたんですよね?」
「ああ」
「そして、好きになるには話し合いが必要だと思った、と」
「ああ」
「男の話し合いは、決闘だと思った、と」
「ああ」

 自分で言ってても意味がわからないのに、当の本人シリウスは、こんな明快な答えは他に存在しないとばかり堂々としている。もしや、これが魔法界の常識なのかと一瞬ドラコの方が今までの己の常識を疑いそうになったくらいだ。既のところで踏みとどまったのは、今目の前にいるのは、名付け子のことになるととことん親馬鹿になる人だったということをかろうじて思い出したからだ。

 ドラコは一つ深呼吸をする。そもそも、シリウスから呼び出しがあった時点で嫌な予感はしたのだ。待ち合わせ場所が人里離れた草原だなんて。その上たった二人きりで会うだなんて――。

「もちろん、決闘だなんて、性急だということは理解している。だが、君は強くならなければならない。君は――別に嫌味ではないが――元死食い人だ。こちら側に寝返った……。その上、ハリエットと結婚することになるんだ。どんな理不尽な恨みを買うかも分からない。君だけでなく、ハリエットにまで恨みの矛先が向かう可能性だって大いにある」

 ドラコも想像しなかった訳ではない。重々しく頷いて相づちを打つ。

「そんな中、君は自分の身を守れるようにならなければならないし、ハリエットのことだって守ってあげて欲しい。ハリエットは少々危機感に欠けているし、いざという時、相手を攻撃することに躊躇いが出てくるかもしれない……」

 また一つドラコは頷いた。ドラコも、その点は気にはなっていた。DAで実力をつけてはいるが、対人戦となると話は別だ。その気性から、つい攻撃が躊躇いがちになってしまうことだってあるだろう。

「だからこそ、君には二人分の命がかかっているんだ。いや、子供が生まれたらその子達をも守らなければならない。せめてわたしを倒せるくらい強くなってもらわなければ困る……」
「…………」

 シリウスの言いたいことは、分かる。だが、どうにも納得しきれないのは気のせいだろうか?

 その中に、本当に彼の私情が含まれていないと言い切れるのか? ドラコの実力を高めるということ以上に、ドラコをぶちのめしたいという思いが微塵も含まれていないと、そう言い切れるのか?

「準備は良いか?」

 だが、本意がどうであれ、ドラコとてここで退く訳にいかない。血は繋がってないにしろ、彼はハリエットの後見人で、彼女の大切な人だ。彼に認められなければ、ハリエットとの本当の幸せは手にできないだろう。

 静かにドラコが杖を構えたのを見て、シリウスは好戦的に口角を上げた。それがまるで獲物を狙い定めた獅子のように見えて、ドラコは人知れず杖を握る手に力を込める。

「どこからでもかかってくるといい」

 これが闇祓い屈指の実力者の余裕か。

 身構えているようには見えないのに、シリウスには隙が見当たらなかった。――だが、それでも。

「エクスペリアームス!」

 小手調べと放った呪文は、シリウスの盾の呪文により容易に防がれた。呪文すら紡がない無言呪文だ。初っ端から飛ばす気満々のシリウスに、ドラコは冷や汗を流す。

 手加減をして欲しい訳ではない。だが、それでも途方もない実力差から来る圧倒的な力を前に、少々気後れする。それがシリウスの付け入る隙となった。

 好戦的なシリウスは、ドラコが様子を見ていることに痺れを切らしたのだろう。一気に距離を詰めながら激しく杖先から閃光を迸らせる。ドラコは防戦するだけで精一杯だった。歴戦の闇祓い相手に、魔法の威力や閃光を避ける身のこなし、的確なタイミングで呪文を繰り出す判断力など、そのどれもが格段にレベルが違った。

 とてつもなく長い時間が流れた気がした。だが、シリウスからしてみればほんの一瞬の出来事だっただろう。実際に、激しい戦闘音がなりを潜めたとき、彼はほとんど息が上がっていなかった。

「こんなザマでは、わたしは君にハリエットを任せられない!」

 ドラコを見下ろし、シリウスが堂々たる風格で言い放った。

 ことの成り行きはどうであれ、自分の実力が足下にも及ばなかったのは事実で、ドラコは不甲斐なさに唇を噛みしめた。シリウスの言うことは事実だ。自分は元死喰い人で、ハリエットは英雄の妹で。――死喰い人の残党に狙われる可能性は充分にあるのだ。

「……そうですね、僕は、弱いです」

 そう告げると、シリウスは小さく嘆息した。だが、ドラコの話はここで終わりではない。

「一人なら、守り切れないでしょう」
「……何を?」

 いつ言おうか、いつ言おうかと迷っていたが、まさかこんな形で申し出ることになろうとは――。

「二人なら――あなたと僕となら、ハリエットを守れると思うんです」

 言い訳をするつもりはない。しかし、己の弱さからこんなことを言っているのではないことは確かだ。二人で彼女を守るのも、良いと思ったのだ。

「だから、一緒に住んでくれませんか?」
「……は……?」

 ポカンとしたシリウスを置いてけぼりに、ドラコは堰が切れたように続けた。

「あの時、あなたはどこかぼうっとした様子だったので、また改めて言おうと思っていたんですが……。僕とハリエット、そしてミスター・ブラック、あなたと三人で暮らしたいんです」
「三、人……?」

 ドラコが蛇語でも話したかのように不可解な表情をするシリウス。ドラコは忍耐強かった。

「確かに、僕は弱い。あなたに鍛えられたとしても、いずれ限界が来るでしょう。ですが、あなたがいれば。もう何も怖くない」
「…………」

 珍しく、シリウスはポカンと気の抜けた顔を晒していた。だが、ドラコは真面目だった。一人で立ち上がり、シリウスに向かって頭を下げる。

「ハリエットを僕にください。そして、あのブラック邸に、ハリエットと二人で一緒に住む許可をください」

 随分と長い時間が流れた。どれだけでも待てると思っていたドラコは、あまりにも長い沈黙に不安が過ぎり、そうっと顔だけ上げた。

 シリウスは、未だ茫然としていた。だが、ドラコと目が合うと、そのポカンと開いた口の端が、みるみる上がっていくのが見えた。

 自分でも威厳のない顔になりつつあることは自覚しているのか、シリウスは片手で必死に口元を覆ったが、残念ながら隠し切れていない。

「だ、だが、君達は新婚になるんだぞ。わたし……わたしが一緒に暮らせば」
「僕がぜひと思ってハリエットに提案したら、すごく喜んでくれました。ただ、あなたは嫌だと思うかもしれませんが……」
「そんなことはない!」

 声高々に叫び、同時に、シリウスはこの状況に既視感を覚えた。以前にも、同じようなことを口にした気がする。この、同じような状況で――。

「わたしは、家族が欲しかった」

 そう、あの時だ。あの、眩しいほどの満月の夜。

 不意に目頭が熱くなった。あの時はどんな気持ちだっただろう。裏切られ、親友を失い、冤罪をかけられ――復讐することしか頭になかったのに、自分には、ジェームズとリリーの愛しい子供達がいた。その子達が、一緒に暮らしたいと言ってくれたとき。

「――君たちと一緒に暮らせたら、こんなに幸せなことはないだろう」

 一瞬にして名付け子と暮らす夢が潰えたあの後、数年越しにその夢は叶ったが、実際に三人で暮らしたのはほんの数年だった。ハリーが結婚し、家を離れ、そしてついにはハリエットまでも。

 また、独りぼっちなのだと思った。あの屋敷に、一人で。クリーチャーと共に。

 それが、三人で暮らせるとなるとどうなるだろう。家族になるのだ。二人には子供だってできるだろう。明るい笑い声が絶えない屋敷になる。

 あの屋敷は、シリウスにとって苦い思い出しかない。選民意識がこびりついた陰鬱な屋敷。徹底した方針で押しつけられた純血主義。脱獄囚という肩書きと共に閉じ込められた強固な檻。

 それが、もしも、楽しい思い出で上書きできるのであれば。

 嫌わずにいられるかもしれない、あの屋敷を。レギュラスと共に育ったあの家を。

 シリウスは長く息を吐き出した。それと同時に、肩に乗っていた重圧が全て吹き飛んでいくようだった。

「……今日の夕食」

 気づけば、シリウスはドラコの背中を叩いていた。

「一緒にどうだ」
「……えっ?」
「ハリエットの帰りは遅いそうだが……君と酌み交わしたい」

 ようやく二人の視線が交わる。ドラコは驚いた顔をしていたし、シリウスは優しい顔をしていた。

「――ぜひ」

 短くも意志のある返答に、シリウスは落ち着かない気持ちになった。

 我ながら単純だと思っていた。

 一緒に住もうと言われただけで、自分からハリエットを奪う憎い男だと今まで恨んでいたのが嘘のように晴れやかな気持ちになるだなんて。

 だが、嫌ではない。リーマスの言う通りだった。自分のドラコへの感情が変わるだけで、こんなにも気が楽になるなんて。

 これからあの屋敷は騒がしくなるだろう。そして、きっと好きになれるだろう。


*****


 魔法省のアトリウムでシリウスとすれ違ったとき、『後で部屋に行く』と声をかけられ、ハーマイオニーは意外に思ったことをよく覚えている。

 ハリー、スネイプと続き、シリウスの番外編も書き記したのだから、何らかの反応はあるだろうとは思っていたが、まさかあんな神妙な面持ちで声をかけられるとは。

 やがて、約束通りやって来たシリウスをハーマイオニーは出迎えた。そうして、出された紅茶に口も付けずに静かな声で言うことには。

「……わたしは、あそこまで情けなくはなかったはずだ」
「……はい?」
「君のあの本は、レグもアルバスも、アリエスだって楽しく読んでる。それなのに、わたしのあの情けない部分を読んでしまっては、これからどんな顔で接すれば良いのか分からない」
「はあ」
「ちょっと誇張しすぎだと思う」

 ジトッと恨ましげに言うシリウスに、ハーマイオニーは居住まいを正した。

「でも、状況証拠は揃っているのよ。シリウスに話をするって言ってから、ハリエットが落ち込んでたのは知ってるし、結婚を延期するかもしれないことだって聞いてた。あなた達――厳密に言えば、あなたが何か言ったからでしょう?」
「そりゃあ、何も言わなかったとは言わない。だが、あんな感じでは……」
「私は、ドラコから話を聞いて事実を書くのでも良かったのよ。でも、ハリエットが、どうしてもあの時のことは、シリウスとの秘密にしておきたいって言うから……。私だって、詳しいことは知らないの」

 嘆息混じりにハーマイオニーが呟けば、シリウスは至極嬉しそうな顔をした。『二人だけの秘密』なんてニュアンスを持ち出せば、後見人馬鹿の彼のことだ、途端に全ての怒りが吹っ飛ぶに違いないと思ってのことだ。

 ――ハーマイオニーは元学年主席、現魔法大臣の、とびきり頭の良い策士だった。

「……それなら仕方ないな」

 嬉しそうな顔が隠し切れていない。開心術士でなかったとしても、彼の感情を見誤る者は一人といないだろう。

「じゃあこれで解決ね」

 ハーマイオニーは笑顔でカップを置いた。その言葉に、シリウスは何だか誤魔化されたような気もしなくはなかったが、『今日ハリエットは早く帰れるそうよ』という彼女の言葉に、この部屋を訪れた目的ごとすっかり頭から吹き飛んでしまった。