■不死鳥の騎士団

18:閉心術


 スネイプによる閉心術の授業が終わった後、ハリーは慌てた様子で三人に自分が気づいたことを話して聞かせた。アーサーが蛇に襲われたときにいた廊下が、魔法省の裁判で通った神秘部に通じる廊下と一緒だというのだ。そして四人は神秘部の中に、ヴォルデモートが狙っている武器があると結論づけた。

 だが、スネイプの授業を受けたばかりのハリーの顔色は悪かった。おまけに、同じ日の夜、またしてもヴォルデモートの夢を見たという。ヴォルデモートはひどく上機嫌だったが、その原因については、次の日の朝に明らかになった。ベラトリックス含む脱獄囚十人がアズカバンを脱獄したのだ。

 その一大ニュースは、瞬く間に魔法界の全土に知れ渡った。そのせいもあって、ただでさえ落ち込んでいた気持ちが、ハグリッドがアンブリッジのせいで停職候補に追い込まれたことと重なって、更なるどん底に突き落とされた。

 その上、今日はハリエットがスネイプの課外授業を受ける日である。

 ハリーから閉心術の感想を聞いてからというもの、ハリエットは戦々恐々としていた。

「僕の秘密を全部見られたような気がする」

 そうげっそりとした顔で言われ、誰が楽しみにできるというのか。

 スネイプの研究室は、以前訪れたときとほとんど変わりないような気がした。相変わらず暗かったし、あるものといえば、実験道具や材料ばかりだ。だが、唯一机の上に置かれている石の水盤は目を引いた。これは何だろうとじっと見つめていると、暗がりから突然声がした。

「早くこちらへ来い」
「は、はい!」

 もう既にスネイプは中にいたのだ。急いで近づくと、彼は机の前にある椅子を示した。ハリエットが座ると、スネイプも腰を下ろす。スネイプの顔が真正面にあるので、何だか不思議な気持ちだった。

「さて、ミス・ポッター、今から閉心術を君に教える。厨房で言ったように、この分野の術は外部からの魔法による侵入や影響に対して心を封じる。闇の帝王は開心術に長けている」
「開心術?」
「他人の心から感情や記憶を引っ張り出す能力だ」
「人の心が読めるんですか?」

 ハリエットは驚いて聞き返した。スネイプは不快そうに眉をピンと張る。

「お前達はどこまでも双子だな。繊細さの欠片もない所がそっくりだ。ミス・ポッター、微妙な違いが理解できていないようだ。読心術は、マグルの言い草だ。心は書物ではない。思考とは、侵入者が誰彼なく一読できるわけではないのだ。心とは、ミス・ポッター、複雑で、重層的なものだ」

 何となく理解できたような気がして、ハリエットは頷いた。

「しかしながら、開心術を会得した者は、一定の条件の下で、獲物の心を穿ち、そこに見つけたものを解釈できるというのは本当だ。例えば闇の帝王は、誰かが嘘をつくとほとんど必ず見破る。閉心術に長けた者だけが、嘘とは裏腹な感情も記憶も閉じ込めることができ、帝王の前で虚偽を口にしても見破られることがない」
「スネイプ先生、ハリーが開心術を習うのは、例のあの人の夢を見させないためだって、ハー――」
ハーマイオニーと言いそうになって、ハリエットは内心慌てた。

「ハリーが言ってたんですけど、そういう効果もあるんですか?」
「ポッターの場合は特殊だ。ポッターを殺し損ねた呪いが何らかの絆を、ポッターと闇の帝王との間に作り出したようだ。ポッターの心が無防備な状態になると、ポッターは帝王と感情、思考を共有する。校長はこの状態が続くのは芳しくないとお考えだ」
「でも、それなら私は、どうして学ばないといけないんでしょうか? 私も、いずれ例のあの人の夢を見るようになるからなんでしょうか?」

 一旦言葉を切り、ハリエットは縋るようにスネイプを見た。

「先生、でも私、リドルの日記の影響は本当になくなったんですよね? また、再発するなんてことはありませんよね?」
「……リドルの日記はもう破壊された。君が案ずるようなことはない」

 表情を変えず、スネイプが言い切ったので、分かりやすくハリエットは安堵の表情を浮かべた。だが、すぐにまたスネイプを見る。

「では、どうして……?」
「我輩が推測するに、闇の帝王が狙っているのはポッターだけではないかもしれない、ということだ。何らかの不測でお前達が帝王の前に引きずり出されたとき、情報を漏らさぬよう、せめてもの抵抗を与えるべきだと校長はお考えかもしれぬ。……我輩が言えるのはここまでだ。閉心術に話を戻す」

 スネイプはローブのポケットから杖を取り出し、その先をこめかみにあてた。杖を引き抜くと、杖先から銀色のものが伸びており、石の水盤にふわりと落ち、気体とも液体ともつかない銀白色の渦を巻いた。

 ハリエットにはこの行動の意味がさっぱり分からなかったが、スネイプは説明することなく立ち上がった。

「立て、ミス・ポッター。そして杖を取れ」

 ハリエットの緊張は最大限まで高まった。杖で何をさせようというのだろう?

「杖を使い、我輩を武装解除するも良し、その他、思いつく限りの方法で防衛するも良し」
「先生は何をするんですか?」
「君の心に押し入ろうとするところだ。君がどの程度抵抗できるかやってみよう。ちなみに、お前の兄は駄目駄目だった。構えるのだ、行くぞ」
「ま、まっ――」
「開心! レジリメンス!」

 ハリエットがまだ杖もあげないうちに、スネイプは攻撃してきた。痛みのある攻撃ではない。ただ、自分の心に何かが侵入してくるという異物感は激しくあった。

 七歳だった。近所の女の子が両親に手を引かれて笑っている。ハリエットは隣を見た。ハリーも自分と同じ顔で三人を見つめていた……。

 九歳だった。ハリーはブルドックのリッパーに追いかけられ、木に登っていた。ハリエットが止めさせてとマージに縋っても、彼女は甲高く笑うだけで取り合ってくれなかった……。皆が自分を見ていた。帽子が、ハッフルパフの方が向いていると言っていた……。暗がりから黒い犬が現れた。ベーコンを置くと、嬉しそうに食べてくれた……。抵抗するハリエットの上に、ザビニが馬乗りになっていた。嫌な目つきで、ハリエットのボタンを外していた……。

 侵入者が引いていくのを感じた。

 気づけば、肩で息をしていた。もうそこは記憶の渦ではなく、冷たい現実だった。ハリエットは地面にへたり込み、両手で顔を覆っていた。

 スネイプが僅かに躊躇しているのが分かった。それでも、ハリエットは動けなかった。開心術が恐ろしかった。ここまで何もかもを曝け出されるとは思っていなかった。

「……あれはスリザリンのザビニか」

 ハリエットはピクリと肩を揺らし、そして小さく頷いた。

「相応の、処罰が必要なら……」
「……ドラコが助けてくれました。大丈夫です。……何もされてません」
「……そうか」

 ハリエットは杖を手に持ち、立ち上がった。

「――では、行くぞ」

 スネイプの声に、最初ほどの張りはなかった。

「開心術は、お前の全てを暴く。まずは抵抗しろ。そこからだ」
「どうやって抵抗すれば良いんですか?」

 ハリエットは頼りなげにスネイプを見上げた。心を暴かれた状態で、それでも侵入者を跳ね返すなんて無理に決まっている。

「目を瞑れ」

 ハリエットは大人しく目を瞑った。杖をギュッと握りしめる。

「心を空にするのだ。全ての感情を捨てろ……集中しろ、さあ……」

 スネイプの声は、意外なことにハリエットを落ち着かせた。ザビニの嫌な記憶も頭から吹き飛ぶ。

「もう一度やるぞ。三つ数えて、一、二、三――レジリメンス!」

 ――ロンが呪文を唱えていた。トロールの巨大な棍棒が宙に浮かぶ……。ドラコと一緒に箒に乗っていた。背中越しに見た夕暮れの景色はとても綺麗だった……。モリーおばさんが力強く抱き締めてくれた。お別れの挨拶だ……。バックビークの背に乗って空を飛んでいた。前にはハリーがいて、後ろにはシリウスがいる……。ハリーがスニッチを取った。グリフィンドールの歓声が痛いくらいだ……。

 またスーッと何かが引いていくのを感じた。その瞬間、鼓膜が震えるほど怒鳴られる。

「お前はいつになったら抵抗するのだ! お前はまだ一度たりとも抵抗していない! ポッターは大声を上げてエネルギーと時間を無駄にしていたが、それでも一応抵抗はしていたぞ! 立て、立つんだ!」

 スネイプの台詞に、またしてもハリエットは地面に座り込んでいるのに気づいた。杖も手から離れている。ハリエットは膝に力を入れて立ち上がった。

「感情を無にしろ! 行くぞ、レジリメンス!」

 アルバムの中で、両親が手を振っていた。隣にはシリウスもいる……。スリザリン生がバッジを光らせていた。それにハリーが顔を歪めていた……。ハーマイオニーが背を向けて立っていた。鏡越しに目が合ったと思ったら、次の瞬間には、彼女は石になっていた……。

「いやああああ!」

 またしてもハリエットは両手で顔を覆い、地に膝をついていた。誰かが脳みそを頭蓋骨から引っ張り出そうとしたかのような頭痛がした。

「立て!」

 スネイプが叫んだ。

「立つんだ! やる気がないな。努力していない。自分の恐怖の記憶に、我輩の侵入を許している。我輩に武器を差しだしている!」
「私……私、でも」
「このままだと、やすやすと闇の帝王の餌食になることだろう! ミス・ポッター、敵はいとも簡単にお前の心に侵入するぞ!」
「分かりません……どうすれば良いか分かりません……」
「己を支配するのだ! 何でもいいから身体を動かせ! もう一度やるぞ、レジリメンス!」

 あらゆる隙間から手紙が舞い込んでいた。自分たちへの、初めての手紙だ……。ダンブルドアが羊皮紙を手にハリーの名を読み上げた。ハリーは茫然として立ち上がった……。ドラコがケナガイタチに変身させられていた。苦痛に満ちた鳴き声を上げている……。汽車の中でロンとハーマイオニーと別れた。胸元には監督生バッジが光っている……。

「もう良い」

 急にスネイプの声がした。ハリエットは地面に四つん這いになっていた。

「今日はこれ以上続けても成果は出ないだろう。木曜の同時刻にまたここに来るのだ。続きはその時に行う」
「……分かりました」

 失望している、という声色が滲み出ているような気がして、ハリエットはスネイプの目を見ることができなかった。

「毎晩寝る前、心から全ての感情を取り去るのだ。心を空にし、無にし、平静にするのだ、分かったな?」
「はい。……ありがとうございました」

 ハリエットは、最後までスネイプの顔を見られずに研究室を出て行った。