■謎のプリンス

02:短いお別れ


 金曜の十一時少し前、プリベット通り四番地の一番小さい寝室で、双子は小さな鏡を覗き込んでいた。

 床には中途半端に荷造りされたトランクやら荷物やらが転がっている。檻に入れられたままの二羽のふくろうは、その窮屈さにホーッと鳴いた。

「良いことじゃないか」

 この小さく暗い部屋には、まだ若い少年と少女しかいない。どこからか響いた声は、落ち着いた男性のものだった。

「早くその家から抜け出したかったんだろう?」

 その声は、少年達が手に持つ鏡から聞こえていた。鏡は、双子の顔を映してはおらず、黒い髪の毛を肩程まで伸ばした男を映し出していた。整った顔立ちで、掘りが深く、若い頃はさぞ浮名を流したのだろうことが窺える。

「でも、シリウス。まだ二週間しか経ってないのに、もうダーズリーの家から離れられるなんておかしいよ。きっと駄目になる。ダンブルドアに急用が入って、あと一月くらいここにいなきゃならなくなるんだ」

 暗い思考を口から垂れ流すのは丸い眼鏡をかけた少年だ。顔の輪郭は幼さを抜け出し、青年へと移行しているというのに、愚痴を零す表情は子供そのものだ。まるで、親に慰められることを前提で話しているような表情に、シリウスと呼ばれた男は軽快に笑う。

「ハリー、君は時々本当にネガティブになるな。荷造りはもうしたのか?」
「ハリーはまだ全然よ。私が手伝うって言ってるのに、ハリーったら全然準備しないんだもの」

 怒ったように唇を尖らせるのは赤毛の少女。この一年で肢体はすらりと伸び、ぐっと大人っぽい雰囲気が漂うになったが、彼女もまた、シリウスの前では甘えた子供に戻る。

「それは困ったな。ダンブルドアが迎えに来たのに、ハリーだけ置いてけぼりになるぞ」
「ハリエット……告げ口しなくて良いから」

 ジトッとハリーが睨むと、どこ吹く風でハリエットはツンとして見せた。

「あっ、もうすぐ十一時になるぞ。わたしはもう行く」
「えーっ、まだ話したいのに……」
「ダンブルドアが来るんだぞ。悠長に後見人と話してるつもりか?」

 からかうように笑うシリウスに、双子は渋々おやすみの挨拶をし、鏡をしまった。

 と、その時丁度十一時になった。急に窓の外の街灯が消えたので、双子は窓に駆け寄った。

 背の高い人物が長いマントを翻して歩いていた。双子は飛び上がって驚き、顔を見合わせる。ハリーは床に散らばっているものを手当たり次第にトランクに詰め込み、ハリエットはというと、もう荷造りは済んでいるが、落ち着かなくなってふくろうの檻を意味もなく両手にぶら下げた。

「こんな夜遅くに訪問するとは、一体何やつだ?」

 呼び鈴が鳴ったと思えば、続いて家主のバーノンの声がした。

「こんばんは。ダーズリーさんとお見受けするが? わしがハリーとハリエットを迎えに来ることは、二人からお聞き及びかと存ずるがの?」

 階段下まで降りてきていた双子を見て、ダンブルドアはあごひげを揺らして笑った。

「あなたの唖然とした表情から察するに、二人はわしの来訪を前もって警告しなかったのですな」

 渋々といった様子で、バーノンはダンブルドアをリビングまで連れてきた。他の家族――バーノンの妻ペチュニアと、その息子ダドリーに挨拶をし、ダンブルドアは肘掛け椅子に腰を下ろした。

 双子は、すぐにでもこの家から離れる気満々だったが、ダンブルドアはそうではないようで、しばらく滞在した。

 ダンブルドアは、いかにもな好好爺という形で世間話を試みようとしていたが、バーノンとペチュニアは胡散臭いものを見る目つきで終始睨むので、早々に諦め、退散することとなった。

「さて、では最後にもう一つ。当然、お分かりのように、ハリーとハリエットはあと一年で成人となる。わしが十五年前にかけた魔法は、この家を二人が家庭と呼べるうちは、二人に強力な保護を与えるというものじゃった。二人がこの家でどんなに惨めだったとしても、そなた達は渋々ではあったが、少なくとも二人に居場所を与えた。この魔法は、二人が十七歳になったときに効き目を失うであろう。わしは一つだけお願いする。二人が十七歳の誕生日を迎える前に、もう一度二人がこの家に戻ることを許して欲しい。そうすれば、その時が来るまでは守りは確かに継続するのじゃ」

 ダーズリー一家は何も言わなかった。

「さて、ハリー、ハリエット。出発の時間じゃ」

 二人は慌てて二階へ駆け上がり、トランクと檻を手に持ち、また駆け下りた。

「さよなら」

 喜々としてダーズリー達に挨拶をし、三人は家を出た。庭の所で、ダンブルドアは双子に向き直った。

「手紙にも書いてあったように、ハリーにはわしの手伝いをしてもらいたい。ハリエットは、先にグリモールド・プレイスに送り届けよう」
「はい」

 ハリーとダンブルドアが何をするのか、ハリエットは気にならないわけではなかったが、深く追求はしなかった。

 ダンブルドアは杖を一振りし、トランクと鳥かごを二セットずつ、先に屋敷に送った。

「わしの杖腕は今多少脆くなっておるのでな、二人とも左腕に掴まってくれるかの」

 彼の言う通り、ダンブルドアの右腕は、黒く萎びていた。

「どうかなさったんですか?」

 ハリーが心配そうに見上げる。

「いや、ちょっと調子が悪いだけじゃよ。気にすることはない。ほれ、掴まるのじゃ」

 ハリーを前にし、ハリエットは後ろからダンブルドアの腕を掴んだ。

「さて、参ろう」

 気がつくと、全てが闇の中だった。四方八方からぎゅうぎゅう押さえつけられているような感覚があり、息ができなくなる。そして――目を開けると、プリベット通りが消え、目の前にブラック家の屋敷が建っていた。

 ハリーとダンブルドアが見守る中、ハリエットは石段を駆け上がり、杖で玄関の扉を一回だけ叩いた。カチカチッと金属音が続き、ギーッと扉が開く。最後にハリエットは振り返り、ダンブルドアに頭を下げて、屋敷の中に入った。

 扉を閉め、正面に向き直ると、暗闇からぬっと現れた何かに危うく悲鳴を上げそうになった。

「シリウス!」
「ハリエット! 先ほどぶりだな!」

 ハリエットを出迎えたのはシリウスだった。ハリエットは大きく手を広げ、シリウスの胸に飛び込んだ。

 初めはハグ一つに顔を赤らめたりしていたものだが、最近は少しずつ慣れ始めていた。

「ハリーはどうしたんだ?」
「ダンブルドア先生のお手伝いで、私だけ先に帰ってきたの」

 腕の中でハリエットが話すので、シリウスはくすぐったそうに身をよじらせた。

「疲れただろう。お茶でも飲むか?」
「そうね、ちょっと一息つきたいかも――」
「この塵芥! ブラック家の恥さらし!」

 騒がしい出迎えに、ブラック夫人の肖像画が叫びだした。シリウスは一気にげんなりした顔になる。

「感動の再会すら母は静かに見守ってくれないらしい」
「でも私、この声を聞くとようやく帰ってきたって感じがするわ」
「わたしとしては複雑な気持ちだが」

 ハリエットを厨房へと導きながら、シリウスは尋ねた。

「ダンブルドアは、お手伝いの内容について何か話していたのか?」
「いいえ、特には」
「聞かなかったのか?」
「必要があるのなら、話してくださると思ったから……」
「寂しくはないのか? その……仲間はずれみたいで」

 シリウスは気遣ったように声をかけた。ハリエットは少し戸惑って瞬きをする。

 シリウス自身、魔法省から追われの身で、騎士団の任務に実践力としては関われない。そういう意味でハリエットに共感を持ったのだろうか。

「……もし私が必要なら、ダンブルドア先生は私にも声をかけてくださると思うし……寂しいけど、どうにかできるものじゃないし……。でも、ハリー一人に背負い込ませるのはできれば止めて欲しいと思うわ。ハリーはただでさえ思い詰めるところがあるから、せめて私にも話してくれたら、辛い思いを二分できるかなって」
「その時は、わたしにも話して欲しい。仲良く三等分もできると思わないか?」
「ええ、私もそう思う」

 シリウスのことは、本当の家族のように思っていたし、彼もまた自分と同じように考えていてくれたことが嬉しかった。

 その高揚した気持ちのまま、ハリエットは厨房に入ったときから見つけていた卵を指さした。

「あの卵も飾ってくれてたのね」
「ああ。なかなか可愛いひよこだ」

 ハリエットが指さしたのは、数ヶ月前シリウスにプレゼントした悪戯グッズだ。卵をパカッと開けると、中からもしゃもしゃ毛が生えたひよこのような生き物が飛び出してきて、開けた本人をくすぐるというものだ。

「どうだった?」
「わたしとしたことが、一分間も何もできずにくすぐられた。この卵を開発した魔法使いはなかなかだな」

 間接的に自分が褒められた気になって、ハリエットは誇らしそうに笑った。

 しばらく厨房で話し込んでいると、玄関で物音がしたので、二人で出迎えた。予想通りハリーだった。シリウスはハリーとも抱擁を交わした。厨房でお茶でも飲むかという話になったが、ハリーが疲れた顔をしていたので、明日に持ち越しになった。おやすみの挨拶をして、それぞれ寝室に引き上げた。