■賢者の石

12:衝突事件


 その日、ハリエットは一人で外を歩いていた。金曜日の午後は授業がないので、もっぱら談話室で過ごしたり、ハーマイオニーと共に図書室で勉強したりするのだが、その日はハグリッドの所へ行く約束をしていた。

 最後の授業は魔法薬学で、ハリーとロンは、いつも通りスネイプから嫌がらせじみた減点を受けていたので、一秒たりともこんな所に長くいられるかと二人はサッサと教室から出て行った。ハーマイオニーはというと、図書館に寄ってから行くということで、ハリエットは一人でハグリッドの小屋へ行くことになったのだ。

 ハリエットは、未だハグリッドの小屋の具体的な位置を知らなかった。外にあるということくらいは知っていたので、とりあえずとすぐに外に出てみたのだが、家らしきものは見当たらない。ぐるりと城を歩いていれば、いずれ家に行き着くだろうと、ハリエットは楽観的に歩いていた。

 城の外は随分と人気がなかった。それもそのはず、ハリエットが歩いていたのは城の裏側で、教室移動や夏に人気のある湖などは、全て表側にあった。今日もハグリッドの小屋にはたどり着けないかもしれない、とハリエットが思いながら曲がり角を曲がると、突然ガクンとした衝撃があった。ついで、ふわりとした浮遊感も――。

「うわっ!」

 誰かの声がした。だが、そんなことは今はどうでもよかった。問題は――自分が宙づりになって空を飛んでいること、である。

 ハリエットは、誰かの箒の先端部分にローブを引っかけ、空中に浮かんでいた。ようやく事態を把握し、ハリエットは真っ青になって手足をバタバタさせた。だが、今の彼女にはどうすることもできない。せめてもと、ひしっと箒の柄の部分を両手で握りしめる。

「――止めてっ!」
「う、動くな!」

 必死になって絞り出した声を、これまた慌てた声が迎え撃つ。ハリエットは目をギュッと瞑って、ますます箒にしがみついた。頼れるものが己の両手だけなのに、動くなという方が無理である。ハリエットは半泣きになってうめき声を漏らした。

 早く早くと念仏のようにひたすら唱えていると、ようやく箒は降下した。ハリエットはブラブラした両脚がしっかり地面を捉えたのでホッとした。だが、箒の主が乱暴に着陸したせいで、ハリエットは無様に地面に転がることとなった。

「痛い……」

 薄ら涙も出ていた。誰がこんなこと想像しただろう。箒が大の苦手なハリエットが、誰かの箒にぶら下がって宙づりを体験するなんて。

 カッと目を見開き、箒の主を見据えたハリエットは、そのまま固まることになる。見慣れたプラチナブロンドのその人物は、間違いなくドラコ・マルフォイその人だった。

「な……なっ」
「突然出てきてなんだお前は!」

 明らかに被害者はハリエットの方なのに、ドラコが自信満々に攻勢をかけてきて、ハリエットは怯んだ。

「こ、こっちの台詞よ! なんでこんな所で箒に乗ってるのよ! 危ないじゃない!」
「こんな所を呑気に歩いていた奴はどこのどいつだ。僕はわざわざ人の少ないところで練習してただけだ。『こんな所』を彷徨い歩く自分の品のなさを嘆いたらどうだ!」

 パクパクとハリエットは口を開け閉めした。怒りがこみ上げてくるのは確かだったが、うまい具合に言い返すことができない。悔しくなって、ハリエットは捨て台詞を吐いた。

「馬鹿!」

 冷静になって考えてみると、なんとも虚しい語彙力だが、しかしこの時のハリエットは冷静ではなかった。足音をわざと大きく立てて去るくらいしかできることが浮かばなかった。

 ハグリッドの小屋にはしばらくしてたどり着くことができたが、その日一日ハリエットの機嫌は最悪だった。


*****


 とはいえ、もっと最悪だったのは飛行訓練の授業だった。この頃になると、ハリエットはようやく十メートルほどまで上昇することができていた。なおかつスピードも駆け足くらいなら出せる。このままなら、皆と一緒に箒で競走ができるだろうとワクワクしていたはずだった。

 だが、ドラコとの箒事件が勃発して初めての授業で、ハリエットは一メートルしか浮くことができなかった。出せる速度は目も当てられないくらいで、せいぜい老人が歩く程度だろう。マダム・フーチは頭を抱えた。

「ミス・ポッター……一体これはどういうことです。私の勘違いでなければ、あなたはもう少し高く飛んでいたような気がするのですが」
「〜〜っ」

 情けない顔でハリエットは俯いた。マダム・フーチは返答を待っていた。ハリエットは仕方なしに打ち明けるしかなかった。

「あ、あの……ちょっとした事故で、箒に乗るのが恐くなってしまって」

 マルフォイのせいで、マルフォイのせいで、マルフォイせいで!

 その言い訳を何回心の中で繰り返しただろう。しかし、それを声に出して言えば、皆に伝わることは必至。恥ずかしいやら、情けないやらで、そんなこと口が裂けても言えなかった。

 思わずドラコの方を睨み付ければ、偶然にも彼もハリエットの方を見ていた。慌ててドラコは視線を外し、箒に乗って遠くへ飛んでいった。

「いいでしょう、簡単に計画を立てましょう。あなたのペースで進めば、また飛べるようになりますから」

 マダム・フーチの声は優しかった。いつもキビキビしているのに、急に温かさが垣間見えて、ハリエットは涙が出そうになった。

「まずは、来週までにもっとスピードを出せるようにしましょう。高さはそのままで良いです。駆け足程度の速度ですよ。速度だけを出すんです。箒の貸し出しも特別に許可をします。空いた時間に練習をなさい。ミスター・ポッターのような、箒の上手な人に教わると良いでしょう」
「はい……」
「ミスター・ポッターの妹なんですから、あなたも飛べるようになります」

 こっくり頷くと、マダム・フーチはそのまま箒に飛び乗って他の生徒の指導にいった。


*****


 箒の練習として、ハリエットは毎週金曜の午後をその時間に充てることとした。この時間、ハリーはいつもクィディッチの練習をしているし、ハーマイオニーは図書館、ロンは一週間のたまりに溜まった宿題をこなすことが多いからだ。

 箒を教わる相手は、まだ見つからずにいた。ハーマイオニーは……残念ながら、そんなに箒が上手とは言えなかったし、彼女の楽しみともいえる図書館通いの時間を潰すのは申し訳なかった。ロンに頼むことも考えたが、彼は毎週宿題でいつも忙しそうにしていたし、彼に頼めば、すぐにハリーにも情報が伝わってしまい、練習相手になるとハリーが立候補するのは目に見えていた。

 三人の中でも、ハリーには一番頼みたくない相手だった。クィディッチの練習やら学校の宿題やらでただでさえ毎日ボロボロなのに、ちょっとした休憩時間も妹の箒の先生だなんて可哀想だ。

 困りに困って、しかし、練習しないことには上達しないので、とりあえずは一人で頑張ってみようと、ハリエットは一人箒を持って城の外を歩いていた。前回気づいたことだが、城の外は本当に人気がなかった。だからこそ、練習にはうってつけの場所なのだ。

 ハリエットは、できるだけ箒の練習をしているところを誰にも見られたくなかった。ハリエットが箒下手だということは、既にホグワーツ中の皆が知っていることだろうが――ハリエット自身はあまり目立たないが、彼女の兄は大の有名人なので、自然とハリエットも噂の的なのだ――それを自ら下手だから練習してますなんて宣言して歩きたくなかった。

 ハリーがグリフィンドールのシーカーだということもすでに皆が知っていることで、彼の初試合はいろんな意味で注目されている。ハリーの武運を祈る生徒と、失敗を期待する生徒、校内を歩けばやんややんやとハリーはいつもはやし立てられる。そんな中、『お前の妹は落ちこぼれ〜』なんて揶揄する台詞まで追加されたら、初試合を目前とするハリーに更なる負担がかかることは想像に容易い。

 考えれば考えるほど思考が暗くなってしまうので、ひとまずこの辺りで一度練習してみようと、ハリエットは立ち止まった。箒に跨がり、少しだけ浮上する。とりあえずは一メートルまで上がった。ここまではできる。問題はこの先だ。

 マダム・フーチには、今週はスピードを出すことを課題にされた。高さのことは考えずに、ハリエットはするするとスピードを出した。あまり飛んでいるという感覚はなかったが、むしろ良い傾向かもしれない。飛んでるということを意識するから、恐くなるのだ。ハリエットはだんだんスピードを上げ、ゆっくり歩くくらいの速度を出した。

 城の西端までやってきて、スッと角を曲がった。ふとハリエットは気づいた。そういえば、前回はこの辺りでドラコと衝突したのだ。ここは、彼の秘密の練習場だったらしい。

 順調に進むと、視界の隅に、緑色のローブが畳まれているのを目撃した。ゲッと思って顔を上げると、案の定そこにはドラコがいた。遙か上の方で、箒に乗って旋回している。

 あまりに優雅に旋回するので、ハリエットはその場にピタリと止まってその光景に見とれた。本当に綺麗だった。まるで箒が自分の身体の一部のように、自由自在に操っている。

 ハリエットは、ドラコが降りてくるまでずっとその場にいた。ドラコは、ハリエットの存在に気づくと、ギョッとした顔で見つめ返した。ハリエットはぎこちなく笑みを浮かべ、ドラコに近づく。

「ハアイ、マルフォイ」
「なぜこんな所にいる」
「見れば分かるでしょ、箒の練習よ」
「はっ、聞いた僕が悪かったな。グリフィンドールシーカー殿の妹は、一メートルしか飛べないんだから、そりゃ練習も必要になるよな」
「誰のせいだと思って!」

 ハリエットが想像通りの喧嘩をふっかけてきたので、ハリエットは呆れを通り越してもういっそ清々しく思った。

「飛ぶの、上手だと思って見てただけよ」

 本心を伝えたが、ドラコは信じた様子はなく、鼻で笑った。

「そんなことを言うためにわざわざ話しかけてきたのか?」

 嫌味でも言いに来たんだろう、喧嘩なら買うぞ、とドラコが胸を反らす中、ハリエットは内心首を傾げた。

 確かに、どうして私はここにいるんだろう。ドラコが飛ぶ姿に見とれていたのは確かだが、何も行儀良く降りてくるのを待たなくても良かったのに――。

 その時、ふっと頭に思い浮かぶものがあった。そしてそれは、反射的にハリエットの口から飛び出す。

「マルフォイ、私に箒を教えてくれない……?」

 思いも寄らない言葉に、ドラコはしばしポカンと口を開けた。あんまりその顔が面白いので、ハリエットは思わず噴き出した。それを機にようやく石化が解けたドラコは喚き始めた。

「冗談じゃない! どうして僕がそんなことを!」
「ただでさえ箒が苦手なのに、私が一メートルしか飛べなくなったのはあなたのせいよ、マルフォイ」

 ハリエットは腰に手を当て、果敢に言い切った。

「フーチ先生に聞かれたわ。十メートル飛べてたのが、どうしてこんなことになったのかって。あなたのことは話さなかったわ」
「それがどうした。僕に恩を売ってるつもりか? あれは事故だった。前方不注意のお前にだって問題はある!」
「ええ、そうね。私も悪かったわ。でも、まさか、こんな城の影で、箒の所持を認められてない一年生が、練習の許可もされてないのに箒の練習をしてると誰が思うでしょうね!」
「うっ……」

 面白いくらいにドラコは怯んだ。

「ぼ、僕を脅す気か……?」
「いいえ?」

 ハリエットは清々しい笑みを浮かべた。

「あくまで頼んでるの。私、ここであなたが飛んでるの見ていたけど、本当に上手だったわ。だから教わりたいって思ったの」
「ポッターに教われば良いじゃないか」
「ハリーはクィディッチの練習で忙しいの」
「兄はシーカーで、妹は落ちこぼれか。面白い双子じゃないか」
「…………」

 ハリエットは笑みを浮かべたままドラコに近づいた。

「言うわよ?」
「……やっぱり脅してるじゃないか」

 ドラコは視線を逸らした。勝った、とハリエットは思った。