■謎のプリンス

17:切り裂き呪文


 ロンとハーマイオニーは、午後の遅い時間に帰ってきた。ハーマイオニーは嬉しそうに姿現しの試験に合格したと報告した。ロンは、片方の眉が半分だけ残ってしまい、残念ながら不合格となった。

 ハリーも、スラグホーンの懐柔には失敗したと伝えた。夕食を終えると、三人は寝室に戻り、隅に集まる。

「それじゃ、ハリー。いよいよやるのか?」
「うん。全部使う必要はないと思う。十二時間分はいらない。一晩中はかからない……一口だけ飲むよ。二、三時間で大丈夫だろう」

 禁じられた森の梢まで太陽が沈んだとき、ハリーは小瓶を傾け、慎重に量の見当をつけて一口飲んだ。

「どんな気分?」

 ハーマイオニーが小声で聞いた。ハリーはしばらく応えなかった。やがて、無限大の可能性が広がるようなウキウキした気分が、ゆっくりと、しかし確実に身体中に染み渡った。今なら何でもできそうな気がした。

「よーし、これからハリエットの所に行く」

 ハリーはにっこり笑って宣言した。

「ええっ?」

 ロンとハーマイオニーはとんでもないという顔で言った。

「違うわ、ハリー。あなたはスラグホーンの所に行かなきゃならないのよ。覚えてる?」
「うん、覚えてるさ。でも、その前にハリエットと仲直りしなきゃ」
「ハリー、一体どうしちゃったんだい?」

 ロンは呆れかえった。

「そりゃ、ハリエットと仲直りするのは大切だけど……今はスラグホーンだろ?」
「いーや、ハリエットだ」

 ハリーは言い張った。

「心配ないよ。自分が何をやってるのか、僕にはちゃんと分かってる」

 ハリーは透明マントを頭から被り、階段を降り始めた。ロンとハーマイオニーは急いで後に続く。

「そんなところで、その人と何をしてたの?」

 ロンとハーマイオニーが男子寮から一緒に現れたところを、ラベンダーが目撃していた。ロンがしどろもどろに口ごもるのを聞きながら、ハリーは談話室を横切り、その場から遠ざかった。

 肖像画の穴では、ジニーとディーンに遭遇した。穴をすり抜けるとき、ハリーは誤ってジニーに触れてしまった。

「押さないでちょうだい、ディーン」

 ジニーが気分を害したように言った。

「あなたって、いつもそうするんだから。私、一人でちゃんと通れるわ……」

 肖像画はハリーの背後でバタンと閉まったが、その前にディーンが怒って言い返す声が聞こえた。ハリーの高揚感はますます高まった。ハリーはそのまま、八階の廊下を歩き、すぐ近くにある空き教室に迷うことなく入った。

 たくさんあるうちの椅子の一つに、ハリエットが座っていた。両手で両面鏡を持っている。誰かが入ってきたのを見て、ハリエットは慌てて鏡を伏せた。

「ハリエット」

 ハリーは、急に内面の高揚感が萎み、ただのハリーとして立っていることに気づいた。ハリーの中の、フェリックス・フェリシスはおそらくまだ有効だ。しかし、ハリエットと対面するのにその幸運はしばらくなりを潜めるようだ。

「自分でマルフォイを見張るのを止めるって言っておきながら、君に黙って行動してたことを謝るよ。本当にごめん」

 ハリエットはずっと顔を俯けたままだった。

「内心、戸惑ってたんだ。僕の知らないところで、ハリエットが思っていた以上にマルフォイと関わってるみたいだから……。だから、もしかしたら、土壇場でハリエットは思いも寄らない行動するかもしれないって思って、どうしてもマルフォイと関わらせたくないって思っちゃったんだ。本当にごめん。独りよがりだった」

 ハリーもまた、ハリエットの顔が見れなかった。

「ダンブルドアからの頼みごとについてだけど……僕は、どうしてハリエットに話しちゃ駄目なのか、詳しいことは分からない。説明されなかったから。でも、ハリエットのことを話すとき、ダンブルドア、本当に悲しそうな顔をしてたんだ。だから、ダンブルドアがハリエットを信用してないとか、そんなんじゃ絶対にないと思う」

 そして、ハリーは気恥ずかしそうに笑った。

「僕たち、今までほとんど喧嘩なんてしたことなかったけど、今年に入って何回しただろうね……」

 照れくさくて、ハリーは早口で言った。

「仲直りの仕方はよく分からないけど、またハリエットと前みたいに話したい。僕は、ハリエットのこと信頼してるし、大切だよ」

 ハリエットは、結局最後までハリーの方を見なかった。ハリーは寂しげに笑った。

「……じゃあね。僕、もう行かなきゃ。邪魔してごめんね」

 教室を出て、ハリーは廊下を歩いた。ハリーの中のフェリックス・フェリシスが、どこかへ行くべきだと警鐘を鳴らしていた。だが、どこへ行くべきか、それが分からない。

 突然、ハリーの目の前に、銀色の靄が現れた。よくよく見れば、銀色のミニチュアスナッフルだった。彼はハリーの前に立ち、そして、パカッと口を開いた。

「ハリー、私の方こそごめんなさい。私、あなたの役に立ちたかったの。だからダンブルドア先生から頼みごとされてるって聞いて、私は頼りにされてないんだなって、頭が真っ白になってしまって……。意地になってたの。ハリーの気持ちも分かってたのに……」

 スナッフルがふわっと消えた。ハリーは踵を返し、また空き教室へ飛び込んだ。ハリエットが泣きそうな顔で出迎えた。

「私ね、シリウスに教えてもらって、守護霊に伝言を乗せられるようになったの。何かできることはないかと思って」
「充分だよ」

 ハリーは微笑んだ。

「鏡がなくても、これでいつでも連絡を取り合えるね」

 ハリエットは目を伏せて頷いた。シリウスに褒められたときより、今が幸せだと思った。

「ハリー、スラグホーン先生と話がしたいのよね?」

 ハリエットも気恥ずかしくなって早口で言った。

「私、これから野菜畑でスラグホーン先生のお手伝いをするって約束してるの。代わりに行ってみて」
「いいの?」

 ハリーは驚いて尋ねた。

「こっちの台詞よ。お手伝い、少し時間かかるって言われてたけど」
「願ったり叶ったりだよ」

 ハリーは心から幸せそうに微笑んでいた。笑いながら幸福を噛みしめていた。しかし、この感情は、決してフェリックス・フェリシスによって生み出されたものではないという確信があった。

 最後の仕事をするべく、ハリーは野菜畑へ向かった。


*****


 翌日、嬉しい出来事ばかりが待っていた。ロンはラベンダーと別れ――もちろんラベンダーにとっては嬉しくないだろうが――ハーマイオニーは機嫌が良さそうにしていたし、ケイティは聖マンゴから退院したというし、ジニーもディーンと別れたという。

 このことをハーマイオニーが報告すると、ハリエットはハリーをチラリと見た。ハリーは極力無表情を心がけているようだったが、ハリエットには内心のウキウキ加減が丸わかりだった。

 ハリーは、ダンブルドア先生からの頼みごとがうまくいったと、それだけを教えてくれた。ハリエットもそれ以上の情報は望まなかった。もう気にしないことにしたのだ。

「あー、ハリエット?」

 あるとき、ロンとハーマイオニーと談話室で宿題をしていると、ハリーが声をかけてきた。彼は確か、シリウスと話してくると寝室へ上がったはずだったが。

 ハリーはどこか気まずそうな顔だった。手には両面鏡を持っている。

「シリウスが三人で話したいって」
「三人? どうして?」
「一応シリウスには仲直りしたって伝えたんだけど、信用してもらえなくて。三人で話せば信じるって」
「過保護だね、シリウスも」

 ロンは口を挟んだ。

 このところシリウスを間に挟んで喧嘩ばかりしていたので、双子はこれに反論したくとも反論できなかった。実際は、双子がシリウスを頼りにしていただけなのだが。

 第三者のロンにこうまで言われて、双子はようやく事態の気恥ずかしさに気づいた。この年になって、二人は喧嘩の仲裁を親代わりのシリウスにしてもらっていたのだ。なんたる情けなさ。

 絶対にロンとハーマイオニーにはシリウスとの会話を聞かれたくないと、双子はいそいそと寝室へ向かった。幸いネビル達はまだ戻ってきていない。

 双子が揃って鏡に顔を映すと、シリウスは何も言わずに破顔した。

「心配かけてごめんなさい」
「僕も……色々迷惑をかけて」
「いや、そんなことはない。良かったよ。仲直りできたみたいで」

 双子はきゅうっと身体を縮めた。冷静になって考えてみれば、一体どれだけの醜態をシリウスに晒しただろうか? 泣いたり怒ったり、時には急に会話を打ち切ったり。

「本当にごめんなさい。もうシリウスに心配をかけるのは止めるわ」
「いや、そんなことは気にしなくていい。わたしも冷や冷やしていたが、でも、頼られるのは嬉しいからな。鏡越しではあっても、君たちの成長ぶりをこの目で確かめられるのはとても幸せなことだ」

 仲直りを成長と言えるのは、せいぜい十三、十四歳ぐらいまでじゃないだろうか。

 双子はまたしても恥ずかしくなった。


*****


 あれから双子で話し合ったのが、協力してドラコが何をしているのか突き止めるということだ。

 一応は仲直りをしたハリーとハリエットだが、本当に心の底からスッキリするためには、ドラコが何を企んでいるのかということをはっきりさせる必要があった。

 ドビー達に尾行させた結果、ドラコが必要の部屋で何かしているようだ、ということを聞かされて以降、ハリエットもいよいよドラコが何か計画しているようだと確信し始めた。それがもしかしたら良くないことかも、というのも薄ら気づいている。もし事前に食い止めることができるのであれば、とこっそり思っていたし、ハリエットのそんな思惑もハリーは気づいていた。しかし、一人で突っ走られるよりは、協力して互いに目の届く場所で行動する方が安心すると思ったのだ。

 話し合いの末、二人は交代で忍びの地図でドラコを見張ることになった。ハリエットがドラコに接触を図るという案も出したが、危険だということでハリーに却下された。ハリエットは不満だったが、もうこの件でハリーと喧嘩する気にはなれなかった。

 忍びの地図には必要の部屋が載っておらず、ドラコが必要の部屋にいるときは彼の姿も地図上から消えていた。双子は何度か必要の部屋に足を向けたが、結局『ドラコが必要としている部屋』として部屋を出すことはできなかった。

 ドラコが何か不可解な行動をしていれば、と地図を調べはするものの、別段これといって異変はない。双子が諦めかけた頃、随分と珍しい場所にドラコの名が記された点があるのを見つけた。三階の男子トイレだった。

「嘆きのマートルのトイレだ!」
「嘆きのマートル?」
「そう。秘密の部屋の時、ポリジュース薬を作ったのがこのトイレなんだ。そして秘密の部屋の扉も、このトイレにある」

 ハリーは早口で説明した。

「僕一人で行く」

 地図をしまい、ハリーは歩き出した。ハリエットも慌ててついていった。

「私一人だと行かせないくせに、自分は一人で行くつもり?」
「でも――」
「あなたとドラコが二人っきりで会ったら口論になるに決まってるわ。私も行く」

 ハリエットのキッパリした物言いに、ハリーはそれ以上の説得を諦めた。

 男子トイレにつくと、ハリーはまずトイレのドアに耳を押しつけたが、何も聞こえなかった。ハリーは音を立てないようにしてドアを開けた。

 ドラコ・マルフォイがドアに背を向けて立っていた。両手で洗面台の両端を握り、プラチナ・ブロンドの頭を垂れている。

「止めて」

 女の子の声がした。嘆きのマートルだ。

「困ってることを話してよ……私が助けてあげる」
「誰にも助けられない」

 ハリエットは息を詰まらせた。ドラコの声は絶望に満ちていた。

「僕にはできない……できない……。うまくいかない。やりたくない。でもすぐにやらないと、あの人は……父と母を殺すって……」

 ドラコは声を震わせて泣いていた。本当に……泣いていた。涙が青白い頬を伝って、垢じみた洗面台に流れ落ちている。

 ドラコは喘ぎ、ぐっと涙を堪えて身震いし、顔を上げてひび割れた鏡を覗いた。そして、肩越しにハリーとハリエットが自分を見つめていることに気づいた。

 ドラコはくるりと振り返り、杖を取り出した。ハリーも反射的に杖を取り出す。ハリエットは二人の間に割って入った。

「止めて!」

 ドラコの呪いは僅かに双子を逸れ、側にあった壁のランプを粉々にした。ハリーはハリエットの腕を掴み、脇に飛び退いた。続いて『足縛りの呪い』を飛ばしたが、ドラコの耳の後ろの壁で跳ね返り、斜め下の水槽タンクを破壊した。水が一面に溢れ出し、ハリーが滑り、腕を引っ張られたハリエットも転んだ。

「ステューピファイ!」
「プロテゴ!」

 失神呪文を放ったドラコに、ハリーはすかさず盾を出した。跳ね返った赤い閃光をドラコは紙一重で避け、背後のドアに穴を開けた。

「お願い、止めて!」

 脇から飛び出し、ハリエットはドラコにしがみついた。

「ねえ、話をしましょう! あなたのことが心配で――」

 ドラコは何も言わなかった。彼の答えは、一目瞭然だった。

 ドラコがハリエットに杖を振り上げたのを見て、ハリーの頭に血がのぼった。

「セクタムセンプラ!」

 咄嗟にハリーが口にした呪文は、ハリエットには聞き慣れないものだった。気がついたときには、ハリエットの顔や手や身体は、血まみれになっていた。しかしそれ以上に血に溺れていたのはドラコだ。ハリエットの血は、全て彼からの返り血だったのだ。ドラコは、まるで見えない刀で切られたように血を噴き出しながら、己の血の海に倒れ込んだ。だらりと垂れ下がった右手から杖が落ちる。

「あ……あっ」

 ハリエットは蒼白としてドラコに手を伸ばした。顔や首に手を伸ばし、どんどん冷たくなっていくことに茫然とする。ハリエットは無心で傷口を押さえ、何とか失血するのを防ごうとした。

「ど、ドラコ……ドラコ?」
「人殺し! トイレで人殺し! 人殺し!」

 嘆きのマートルが耳をつんざく叫び声を上げた。そしてほぼ同時に、トイレのドアがバタンと開いた。目を上げたハリーはゾッとした。スネイプが憤怒の形相で飛び込んできたからだ。

 スネイプは荒々しくハリーを押しのけ、ドラコの上にかがみ込んだ。杖を取り出し、ハリーの呪いでできた深い傷を杖でなぞりながら、呪文を唱える。少しだけ出血が緩やかになった。再度呪文を繰り返すと、今度は傷口が塞がっていく。

 スネイプが三度目の反対呪文を唱え終わると、ドラコを半分抱え上げて立たせた。

「先生……先生……ドラコは?」

 ハリエットは泣きじゃくってスネイプを見上げた。

「医務室に行く必要がある。多少傷跡を残すこともあるが、すぐにハナハッカを飲めばそれも避けられるだろう……来い」

 スネイプはドラコを支えてトイレのドアまで歩き出した。ハリエットも慌てて反対側を支えた。

「ポッター……お前はここで我輩を待つのだ」

 スネイプの声に、ハリーは愕然と立ち尽くしていた。

 ハリエットは医務室に行くまで、嗚咽混じりにスネイプに状況を説明した。スネイプは終始眉間に皺を寄せていた。

 医務室につくと、スネイプはドラコをマダム・ポンフリーに託し、すぐに出て行った。