■謎のプリンス

18:素直な気持ち


 ハリエットは、ずっとドラコの側にいた。涙は止まっていたが、彼の血の気を失った顔を見ると、時々またポツリと涙を落とした。

 ――本当に、死んでしまうかと思った。

 おびただしい量の血が噴き出し、全身を赤く染めていた。顔は真っ青で、瞼はピクリとも動かない。
『でもすぐにやらないと、あの人は……父と母を殺すって……』
 ドラコの声が頭から離れなかった。よく考えれば分かることだった。

 ルシウス・マルフォイは、昨年神秘部で任務に失敗した。同じ立場のベラトリックスは、『私を罰しないでください!』と極度に怯えていた。それだけヴォルデモートは恐ろしいのだ。ベラトリックス程の信奉者でも、ヴォルデモートは失態を許さない。だが、肝心のルシウスはヴォルデモートの手が出せないアズカバンにいる。もしも、彼の尻拭いを息子であるドラコにさせるつもりだったとしたら? 父と母の命を盾に、ドラコにひどい命令をしていたら?

 ハリエットは、震える手でドラコの毛布を取り払った。魔法で綺麗にされた真っ白なシャツで覆われた、細い腕をとる。袖口のボタンを外し、シャツをまくり上げた。――それはすぐに見つかった。

 ――闇の印。

 ハリエットはドラコの腕を強いくらい握りしめ、その胸に抱き込んだ。何の助けにもなれなかった自分が不甲斐なかった。彼は――ドラコは、あんなにも追い詰められていたのに。

 ハリエットの涙がドラコの腕を伝い、流れる。

 ドラコの手がピクリと動いた。ハリエットはハッとしてドラコの顔を見る。彼は、ゆっくりと、眉をしかめながら目を開けた。

「ドラコ?」

 ドラコはしばらくぼうっと天井を見上げていた。

「具合はどう? 痛いところはない? 気分は?」

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、ドラコはハリエットの存在にようやく気づいた。そして、露わになっている己の腕――闇の印に気づいた。

「放せ!」

 ドラコは血相を変えてハリエットの腕を振り払った。そのままシャツを下ろしながら、よろよろとベッドから降りる。

「駄目よ、じっとしておかないと! 貧血で倒れるわ!」
「うるさい!」

 サイドテーブルに置かれた自分の杖を引っつかみ、ドラコは足早に医務室を出た。フラフラとしていたドラコに、ハリエットはすぐ追いついた。逃げられないようしっかり腕を掴む。

「ドラコ……あなたが心配なのよ」

 切り裂き呪文を受けたことも心配だったが、しかしそれ以上に不安なのは――。

「ねえ、ダンブルドア先生に相談しましょう?」

 これ以上ドラコを放っておくことなどできなかった。

「きっと手立てを考えてくださるわ。ご両親のことも見捨てたりなんかしない。ねえ、今から一緒に行きましょう?」
「僕はもう戻れない」

 ドラコは振り払おうと強くもがいたが、ハリエットは決して放さなかった。

「そんなことない! あなたはまだ戻れる! お願い、勇気を出して! 私があなたと一緒に――」

 ――いるから。

 しかしハリエットは最後まで言えなかった。

「ステューピファイ!」

 ドラコの脇腹から、反対側の手が覗いていた。そこから放たれた閃光は真っ直ぐハリエットに当たった。


*****


 次に目を覚ましたとき、ハリエットは医務室のベッドにいた。

「全く、あの血だらけの生徒はどこに行ったんです! あんな状態で勝手に出て行くなんて――」

 遠くからは、マダム・ポンフリーの怒った声が聞こえていた。ハリエットはまだ怠い身体に鞭打ち、起き上がった。ベッドからそろりと立ち上がり、カーテンを開ける。

「あら、大丈夫?」

 マダム・ポンフリーは、すぐにハリエットに気づいた。

「あなた、医務室のすぐ前の廊下に倒れていたんですよ。もしかして、あの血だらけの男の子にやられたんですか? だとしたら、罰則ものですよ」
「……違います。私が勝手に倒れたんです。少し気分が悪くて……」
「ならいいですが。あなたもお薬を飲んで休まなければなりませんよ。さあ、ベッドにお戻りなさい」
「私は大丈夫です。行くところがあるんです」

 ハリエットはベッドから降り立った。マダム・ポンフリーは目を吊り上げてハリエットの前に立ちはだかったが、ハリエットも頑として譲らなかった。

 医務室を出るとき、『本当に知りませんからね!』という声が聞こえたが、ハリエットは意に介さなかった。

 ハリエットが真っ直ぐ向かったのは、校長室だった。見張りのガーゴイルの前に立ち、息を吸い込む。

「糖蜜パイ、フィフィ・フィズビー、レモン・キャンディー」

 校長室の合言葉がお菓子だというのはハリーから聞いていた。ハリエットは思いつく限りのお菓子を挙げる。

「しゃっくり飴、杖型甘草飴、蛙チョコレート、かぼちゃパイ、百味ビーンズ、ナメクジゼリー」

 なかなか合言葉が当たらず、ハリエットは焦った。このままダンブルドアに会えなかったらどうしよう。ドラコはどうなるんだろう――。

「砂糖羽ペン、胡椒キャンディ、爆発ボンボン――」

 だが、ハリエットは正解を当てた。適当に言ったどれが当たりだったのかは分からない。そんなことはどうでも良かった。

 ガーゴイルは突然生きた本物になり、脇に飛び、その背後にあった壁が左右に割れた。壁の裏には螺旋階段があり、エスカレーターのように滑らかに上へと動いている。ハリエットはそれに飛び乗り、くるくるとらせん状に上へ上へと運ばれていった。ハリエットはそれでももどかしくて、階段を駆け上がった。やがて、その一番上に、樫の扉があった。扉にグリフィンを象ったノック用の金具がついている。

 ハリエットは、緊張の面持ちでドアをノックした。しばらく待ったが、返事はない。ダンブルドア先生、と声をかけたが、反応はなかった。

「――っ」

 ハリエットは、声もなくその場にしゃがみ込んだ。ここへ来ても、ダンブルドアがいないかもしれないという不安はあった。近頃、ダンブルドアは度々ホグワーツを留守にし、大広間の椅子はいつも空席だった。たまたま今日だけいるなんて、そんなのはただの希望的観測だった。

 どれだけ時間が経ったかは分からない。ただ、気づいたときには、後ろに気配があった。

「ハリエット?」

 その声に、ハリエットは弾かれたように立ち上がった。涙に濡れた目が、ダンブルドアの優しげな顔を映し出す。

「お話があるんです……」

 急に込み上げてきた安心感に、ハリエットはまた涙が出てくるのを感じた。慌ててそれを拭い、ローブを握りしめる。

「中にお入り。ここは冷えるからのう」

 固く閉ざされていた樫の扉が開いた。ダンブルドアの後に続いて、ハリエットも中に入る。

 ダンブルドアは、レモン・キャンディーはどうかと誘ったが、ハリエットは丁重に断った。不死鳥のフォークスが、まるでご機嫌を窺うようにハリエットに向かって一鳴きした。ハリエットは笑みを返したが、うまく笑えていたかは自信がない。

「それで、話というのは何かのう。そんなに思い詰めた顔をして……」
「ドラコのことです。ドラコ・マルフォイ……」

 どこから話せば良いのか、ハリエットは全く分からなかった。次から次へと言いたい言葉は浮かんでくるのに、それを上手くまとめることができない。

「――ドラコの左腕に、闇の印がありました」

 結局最初に出てきたのは、先ほどハリエットが見たばかりの光景だった。ダンブルドアは全てを見通すような目で、黙ってハリエットを見つめていた。

「八階のある部屋で、ドラコが何かしてるんです。とても切羽詰まった様子でした。たぶん、例のあの人から託された任務です。すぐにやらないと、父と母が殺されるって言ってました。きっと、ヴォルデモートに脅されてるんです! ご両親の命を盾にされて、何か――良くないことを……」

 ハリエットの声は尻すぼみに消えていった。ダンブルドアは、この話を聞いてどう思うだろう。ドラコを助けてくれるだろうか? それが何より不安だった。

「――わしもドラコのことは気にかかっておった」

 だが、ダンブルドアのその静かな声に、ハリエットはハッとして顔を上げた。

「ケイティ・ベルの一件も、毒入り蜂蜜酒の件も、おそらくはドラコの仕業じゃろう」

 ハリエットは唇を噛みしめたまま、それを受け入れる。

「じゃあ――」
「今はまだ動くときではない」
「でも、もしドラコのすることでもっと他に被害が出たら、ドラコはもう……」

 戻れないかもしれない、とその言葉をハリエットは押し込んだ。

「私に、何かできることはないんですか?」

 ハリエットは真っ直ぐダンブルドアを見た。

「ドラコと話そうとしても、聞いてくれなくて……。私、今までに何度もドラコに助けて貰ったんです。だから――」

 そこまで言って、ハリエットは言い訳を並べ立てている自分に気づいた。なんて情けない姿だろう。

「私……私……」

 気負っていたものを、ハリエットは肩から全て下ろした。

「ドラコが好きなんです……」

 それが全ての答えだった。ドラコが好きだった。好きだから、何とかしてあげたかった。助けてあげたかった。でも、自分だけの力じゃもうどうしようもないから。

「先生、私に何かできることはないんでしょうか? ドラコや……ご両親を、どうすれば助けられるんでしょうか?」
「……ドラコ・マルフォイが抱えるものについては」

 ダンブルドアが悲しげに見える瞳で口を開いた。

「随分根深い問題じゃ。一筋縄ではいかん。わしも前から気にはしておったが、今は大っぴらに動くことはできんのじゃよ」
「でも――」
「じゃが、安心してくれ。確かにすぐにはドラコの問題は解決できないが、その時が来たら、直接ドラコと話そうと思う。それまでは、どうかわしを信じて待っていてはくれんかのう?」
「私に、できることは……」
「君は今日わしの下へ来た。それで充分じゃよ」

 情けない思いでハリエットは俯いた。今日ダンブルドアの下にドラコを連れてくることができれば、何か進展があったかもしれないのに。

「さて、ハリエットや、一つ大切な話がある。ハリーからも再三言われていたことじゃ」
「何でしょう?」
「わしとハリーが密かにしていることについてじゃ」

 ハリエットは息をのんだ。そして、恥じらいから再び下を向く。

「それは……もういいんです。解決しましたから」
「本当に?」

 ハリエットは目を逸らしながら頷いた。自分のちっぽけなプライドや嫉妬がダンブルドアに見透かされるのが嫌だった。しかし、ダンブルドアはそれすらもお見通しだった。

「ハリエット、老いぼれの心配性を許しておくれ。君に黙っているようハリーに言いつけたのは、万が一敵に情報が渡ることを危惧して、情報を教えられぬと判断しただけじゃ。決して、君のことを信用していない訳でも、繊細だと思っているわけでもない」
「でも、どうして私だけが――」

 ダンブルドアの言葉を受けて、ハリエットは一つの答えにたどり着いた。信じられない思いで彼を見上げる。

「私は……誰かに狙われてるんですか?」

 ダンブルドアは何も答えず、ただ黙ってハリエットを見た。

「ヴォルデモート……?」
「君が心配するようなことは何もない」

 これにはダンブルドアはすぐに口を開いた。

「きっと君の身は守ってみせる。わしの代わりに守ってくれる人がいるじゃろう」

 ハリエットは不安で堪らなかった。予言のせいでヴォルデモートがハリーを執拗に狙うのは分かる。でも、どうして自分までもが――。

 ハリエットの胸は不安に駆られたが、あまりの恐怖に、それ以上聞くことはできなかった。同時に、ダンブルドアもこれ以上は何も言ってくれないだろうと何となく分かっていた。


*****


 談話室に戻ったハリエットは、気落ちしたハリーから報告を受けた。プリンスの教科書は必要の部屋に隠したこと、スネイプに問い詰められたが、何とか教科書は提出せずに済んだこと、しかし、その代わりスネイプによる罰則が、よりによってクィディッチシーズンの最後の試合の時に行われることになったこと――。

 ハリーはひどく気落ちしていたが、ハリエットは、一度もドラコの容態を聞いてこなかったことに失望した。確かに、先に杖を上げたのはドラコではあるが、明らかにドラコは一時生死の境を彷徨ったのだ。クィディッチの試合よりも、先に容態がどうなっているのかを聞くべきじゃないだろうか?

 ハリーを非難したくなる口を、ハリエットは必死になって抑えた。もうハリーとは喧嘩したくなかったし、ハリエットがどうこう言ったところで、ハリーの今の心配の行く先を変えることは不可能だと思ったからだ。

 それからクィディッチの試合まで、ハリーは、キャプテンでありながら、試合出場を禁じられるようなことをしでかしたということで、グリフィンドール生の怒りを直にぶつけられることとなった。

 ハリエットも、そんなハリーが心配ではあったが、もっぱら頭の大部分を占めるのはドラコの方だ。数日後、ちゃんとした姿を大広間で見かけたときは、ハリエットは心底ホッとしたものだ。相変わらず顔色は悪いが、見たところ後遺症はなさそうだ。話しかけて詳しい容態を聞きたかったが、ドラコが避けることは目に見えていたので、ハリエットは彼に近づくことはしなかった。

 クィディッチ最後の試合では、グリフィンドールが勝利を収めた。ハリーの代わりに、ジニーが出た試合では、四五〇対一四〇もの点差で勝利したので、結果的にグリフィンドールがクィディッチ優勝杯を獲得することになった。これにはグリフィンドール生も大喜びで、ハリーが出場停止になったことなどお構いなしに歓声を上げた。スネイプの罰則から戻ってきたハリーは、このお祭り騒ぎに面食らったようだが、しかし、駆け寄ってきたジニーに目を留めると、まるで引き合うかのように、彼女を抱き締め、キスをした。

 何時間にも思える時が過ぎ、二人が離れた後も、しばらく談話室はしんとしていた。それから何人かが冷やかしの口笛を吹き、あちこちでくすぐったそうな笑い声が沸き起こった。

 ハーマイオニーはにっこりしていたし、ロンは棍棒で殴られたような顔をしていた。

「まあな……仕方ないだろ」

 そう彼が言ったとき、ハリーはジニーの背中に手を当て、彼女と共に談話室を出て行った。再び二人を冷やかす声が上がった。