■謎のプリンス

24:現実とまどろみ


 ハリエットは、ベラトリックスの付き添い姿現しで、どこか郊外の小道に着地した。眼前には、長い馬車道と、その入り口に両開きの鉄の門がある。

 ハリエットの首根っこを掴み、ベラトリックスは門に近づいた。すると、鉄が急に歪み、恐ろしい顔へと変わった。

「目的を述べよ!」
「ハリエット・ポッターに情報を吐かせるためだ」

 門がパッと開いた。ベラトリックスはハリエットを引きずりながら馬車道をずんずん進んだ。

 マルフォイ邸には鍵がかかっていたが、ベラトリックスの杖で難なく開錠した。肖像画の並ぶ玄関ホールを抜け、そことは対照的に明るい客間に出た。

 広々とした空間だった。天井からはクリスタルのシャンデリアが一基下がり、この部屋にも深緑色の壁に何枚もの肖像画が掛かっていた。

 ベラトリックスは、ハリエットを絨毯の上に放り投げ、自分は暖炉の側の椅子に腰掛けた。

「ハリエット・ポッター……。私は二回お前にしてやられた」

 長い足を組み、ベラトリックスは己の杖を指先で撫でた。

「一度目は私の死の呪文からシリウス・ブラックを退けさせ、二度目は予言を壊し……あの後私がご主人様に何をされたか、お前には想像も及ぶまいな?」

 ベラトリックスの鋭い視線に射貫かれ、ハリエットはその場から動けなかった。今から自分がどんな目に遭うのか、もう想像がついていた。

「誰の邪魔も入らない場所でお前をいたぶる機会が手に入るなど、なんたる僥倖か。――クルーシオ!」

 全身を激痛が貫き、ハリエットは叫んだ。耐えきれないほどの苦痛に、ハリエットはほんの僅かの間、気を失ったが、すぐにまた襲ってくる苦痛に目を覚ます。その繰り返しだった。


*****


 ヴォルデモートは、時々マルフォイの館にやってきた。そしてベラトリックスが拷問をかけている合間に、ハリエットに開心術をかけるのだ。弱った身体であれば、心を隠すのも難しいと考えてのことだろう。だが、ヴォルデモートの企みはうまくいかないようで、日に日に彼の苛立ちは高まっていく。すると、今度はハリエットが苦痛にのたうち回る様を、恍惚とした表情で眺めるようになった。ハリエットはしばらくこの行動の意味が分からなかった。磔の呪文にかけられている間は、気が狂いそうな痛みに、思考する余裕などないからだ。

 しかし、夜、ベラトリックスが休んでいる間、ハリエットはヴォルデモートの行動を思い返し――鳥肌が立った。一つの仮説に過ぎないが、彼はハリーに拷問の光景をわざと見せつけているのでないかと思った。そしていつかのシリウスの時のように、ハリーが無謀な行動に出るのを待ったり、今後の取引の材料にようとしているのではないか。

 その可能性に気づいたとき、ハリエットは極力声を上げないようにした。ヴォルデモートの目を通してハリーが覗いているかもしれないのだとすれば、彼に苦しんでいる姿を見られるのは嫌だった。ハリーならば、絶対に苦に思うことだろうから。

 ――私は大丈夫。痛くない。

 だが、ハリエットのこの抵抗は余計にベラトリックスを怒らせるだけだった。金切り声を上げて呪文の威力を上げる。ハリエットは絶望が目の前をよぎるのを感じていた。

「ハリー・ポッターよ……可哀想に、妹がこんなに苦しんでいるのに……」

 ヴォルデモートはハリーに語りかけていた。

「お前が俺様に反抗するばかりに……お前がホグワーツに隠れているばかりに……」

 ベラトリックスが杖を突きつけながら、耳障りの悪い笑い声を上げた。

「ハリー・ポッターちゃん! 現実から目を逸らすんじゃないよ! シリウス・ブラックの時と同じようにただの夢だったら良かったのにねえええ!」

 ヴォルデモートもぞっとするような低い声で続けた。

「ハリエット・ポッターは悲鳴を漏らすのを我慢している……。本当は泣き叫びたくて堪らないのに……。心の中では死にたいと叫んでいるのに……」
「違う!」

 叫んでいるのか、頭の中で反発しているのか、ハリエットにはもはや分からなかった。激痛が全ての感覚を麻痺させる。ヴォルデモートのこの声も、姿も、自分が見ている幻影なのかすら分からない。

「何度やっても無駄よ……」

 ハリエットは乾いた笑みを漏らした。

「ダンブルドア先生は……こうなることを警戒、していた……。私には一切……重要なことは話してないわ。私は全部蚊帳の外、だったの……」

 ベラトリックスが杖を下ろした。ヴォルデモートが片手を上げ、彼女の動きを制したのだ。

 ヴォルデモートとハリエットの目が合った。あり得ないことではあるが、彼の眼の奥に、もしかしたらハリーがいるんじゃないかと、ハリエットは一瞬ぼうっとした。

 突然降って湧いた息継ぎの時間は、ハリエットに思考を許した。先ほど、自分がヴォルデモートに放った言葉が、耳に引っかかった。

 ドラコの闇の印についてハリエットが告白しに行ったとき、ダンブルドアは奇妙なことを口にしていた。
『老いぼれの心配性を許しておくれ』
『万が一のことを考えて、情報を教えられぬだけじゃ』
『決して、君のことを信用していないとか、繊細だとか、そんな風に思っているわけではない』
『きっと君の身は守ってみせる。わしの代わりに守ってくれる人がいるじゃろう』
 ――誰が、私のことを守ってくれるというのだろう。

 ハリエットは頭の中に一つの疑問を浮かべた。

 守ってくれる人がいたのに、どうして私はここにいるんだろう。

 一度出てきた疑問は、根強くハリエットの中に居座った。ハリエットが導き出す答えは、暗く、どす黒いものばかりだった。

「ハリエット・ポッター、その通りだ」

 ヴォルデモートは満足げに頷いた。

 目を合わせたヴォルデモートにもこの思考が筒抜けであることは分かっていた。でも止められない。一度たがが外れた考える力は、今の弱り切ったハリエットでは制御できなかった。

「ダンブルドアに見捨てられたとお前は考えている。まさにその通りだろう。忌々しいことに、あやつはこの俺様を手こずらせるほどに洞察力が鋭い。きっとお前が俺様の手中に落ちることは予想していたのだ。だが、ダンブルドアはお前を守るようなことはせず、見捨てた。あやつにとって一番重要で大切なのは生き残った男の子、ハリー・ポッター……。お前は捨て駒にしか過ぎぬ」
「違う……」

 ハリエットの口から出た声は弱々しかった。

 違う、違うの。

 誰に向かって言っているのか、ハリエットには分からなかった。

 ダンブルドアにはどうしようもできないことだった……。私が狙われると分かっていても、助けられないものは助けられない……。万が一のことを考えて、情報を渡せなかっただけ……。そしてそれは正しかった……。

「そう思いたいのなら、そう思っておくがいい。ダンブルドアもあの世でお前の忠義に涙を流すだろう」

 ヴォルデモートは高笑いをして去って行った。ベラトリックスはまた磔の呪文を再開した――。


*****


 夜、ベラトリックスが寝ている間は、ハリエットは地下牢に閉じ込められる。ベラトリックスが休んでいる僅かな間だけが、せめてものハリエットの安らぎの時間だった。

 ハリエットの見た目に、目立った外傷はない。だが、磔の呪文は想像を絶する痛みだった。全身に焼きごてを押されたような、氷の刃を突き立てられたような、そんな感覚だった。あまりの苦痛に、自らの身体を傷つけることもあった。我に返ると、絨毯に点々と血の跡がつき、それが自分の腕を激しく掻きむしった痕だと気づいたのだ。

 ハリエットは隠れるように、いつも身を縮こまらせて地下牢の隅に丸まっていた。

 地下牢へと降りてくる足音が恐ろしかった。その時が来て欲しくない。苦痛の時間が始まって欲しくない。

 無理矢理にでも眠ろうと、ハリエットはぎゅっと目を瞑った。痛みはなくても、起きているだけで辛かった。朝が来れば、また苦痛の時間がやってくる。そんなことを考えたくなくて、せめて眠りにつきたいと祈る。

 ハリエットの頭に、薄い靄がかかった。どこからか、クリスマス・ソングの替え歌が聞こえ始めた。シリウスが上機嫌に歌っている。あれは確か――五年生の時のクリスマスだったか。

 ――ああ、目に浮かぶようだ。

 本当に楽しい日々だった。クリスマス当日よりも、準備の方が楽しかったくらいで。

 クリスマスツリーには本物の妖精が飾られ、天井から吊り下ろされているシャンデリアには、ヒイラギの花飾りと金銀のモールがかかり、カーペットには輝く魔法の雪が積もっていた。

 シリウスは頭にサンタクロースの帽子を被っていた。二人の分も用意したんだと差し出され、ハリーとハリエットは、戸惑いながら帽子をかぶった。少々恥ずかしかったが、シリウスとお揃いで、とても嬉しかった――。

「世のヒッポグリフ忘るな、クリスマスは――」

 ふっと我に返ると、ハリエットの口が動いていた。シリウスの歌声ではなかった。自分が歌っているのだと気づいた。

 ここは、マルフォイ邸の地下牢だった。ブラック家の屋敷ではない。シリウスもハリーも、ここにはいない。

「クリスマスは――」

 眠るようにハリエットは目を閉じ、再びクリスマス・ソングを再開した。現実から目を背けていれば、脳裏に楽しい日々が呼び起こされた。幸せだった。こんな一時を、ずっと味わっていたい――。

 その時、誰かに激しく肩を揺さぶられた。現実に戻りたくなかった。ハリエットはギュッと目を閉じたが、その人物はハリエットを揺さぶるのを止めない。

「ハリエット・ポッター……」

 悲しみに満ちた声を、ハリエットの耳が捉えた。こんな声は、聞いたことがなかった。ここ数日は、嘲りか、高笑いか、怯えた声しか聞いていなかった。薄ら目を開けると、黒い瞳と目が合う。

「このままではお前が死んでしまう……」

 ボソボソと彼は喋った。薄暗い中、土気色の顔を判別したハリエットは、ようやく彼がスネイプだと気づいた。

「情報を吐け。さすれば命まではとられん。我輩が命乞いをしてやる。だから、どうか、どうか……」

 スネイプはハリエットにしがみついていた。肩をがっしりと掴み、ハリエットの目を覗き込む。背中に回された手は、温かく感じた。

「先生……」

 ようやく絞り出された言葉に、スネイプは目を見開いた。悲しげに歪んだ顔は理性を取り戻し、スネイプは無表情になった。

「愚かな」

 彼は吐き捨てるようにして言った。

「我輩はとっくの昔にお前達を裏切っている。寝返ったのだ。ダンブルドアも我輩が殺した」

 スネイプは押しやるようにしてハリエットを地面に寝かせた。

「我輩は二重スパイだったのだ。我輩は、お前の拉致を闇の帝王が計画していると、ダンブルドアに報告した。ダンブルドアは、お前を見捨てると言い切った。ああ、そうだ、闇の帝王の言うとおりだ。ダンブルドアにとって大切だったのはハリー・ポッターただ一人だ」

 頭が重く、ハリエットは目を瞑った。そうはさせまいとスネイプはハリエットの肩を強く揺さぶる。

「情報を吐け。ダンブルドアは全て見通している。騎士団の本部ももう移した。団員の名前を漏らしても、あやつらはお前と違って大人だ。どうとでもなる。ハリエット・ポッター、我輩の言うことを聞け!」

 身体が震えるほどの大声だった。しかしハリエットは反応を返さなかった。

「リリー……」

 小さくスネイプが呟く。その言葉を最後に、ハリエットは気を失うようにして眠りについた。