■謎のプリンス

137:残された人々


 ハリエット・ポッターの行方について、不死鳥の騎士団は何の情報も得られずにいた。分かったことと言えば、スネイプが完全に裏切ったこと、ハリエットがどこかの屋敷にいること、そして――ハリエットが磔の呪文にかけられていることだ。

 ハリーは気が狂いそうだった。始めはハリエットについて何の手がかりも得られず、苛立ちを隠せずにいたが、しばらくして、額の傷を通して、ヴォルデモートから拷問の映像を届けられるようになってからは、シリウスでさえ手がつけられなくなった。

 ものに当たり散らし、魔法を使えば簡単な呪文でも暴走させてしまうので、ハリーは魔法を使うことを禁じられた。それでもハリーの煮えたぎる怒りと憎悪は収まらない。

 映像は憎たらしいほど鮮明にハリエットの状況を伝えてきた。ヴォルデモートは悲鳴すらあげないハリエットの心情を事細かに伝え、直接ハリエットを痛めつけるベラトリックスは、上機嫌に甲高く笑い声を上げる。二人の間に身を横たえているハリエットはちっぽけで、今にも消えてしまいそうだった。

 日刊予言者新聞もハリーを苛立たせる原因の一つだった。ハリエットが拉致されたというのは、瞬く間に世間に広がった。どこから漏れたのかは分からないが、この事件は世間を震撼させた。ダンブルドアが殺されただけでも重大なのに、ハリー・ポッターの妹が拉致されたのだ。憶測は憶測を呼び、あることないこと囁かれた。曰くハリエットは無残に殺されたとか、ダンブルドアを殺したのはハリエットだとか。

 中には、秘密の部屋のことまで言及し、ヴォルデモートに魅入られたハリエットは、死喰い人になったのだと噂する者もいて、ハリーは怒りに打ち震えた。

 一週間経っても一向に得られない情報に、ハリーは焦りと絶望を感じていた。ヴォルデモートから何か接触が欲しいとすら思った。自分の身柄と引き換えでも良いと思った。

 ハリーが一番恐怖したのが――このまま、ハリエットが拷問の末殺されてしまうこと――。それだけは何としてでも避けたかった。早く救い出したかった。なのにヴォルデモートからは何の音沙汰もない。まるで、ハリーのこの絶望を楽しんでいるかのように。

 ハリーは、今や全てのことがどうでも良くなっていた。来年度からホグワーツが閉鎖するかもしれないとか、ホグワーツから親に連れ出される生徒がいるとか、ダンブルドアと苦労して手に入れたものが偽物だったとか、そんなの全てがどうでも良い。

 殺伐とした空気を出すハリーに、ホグワーツの生徒は皆彼を遠巻きにした。ロンやハーマイオニー、ネビルやジニー、ルーナは、彼に寄り添うようにしてハリーの痛みを分かち合おうとしたが、ハリーは一人心の奥底で怒りをくすぶらせていた。

 授業は全て中止になり、試験は延期された。ハリーはずっと寝室に閉じこもり、ヴォルデモートから送られてくる映像を食い入るように見入った。何か少しでも手がかりが得られればと思ってのことだった。食事はロンやハーマイオニーから届けられたが、ほとんど口にしなかった。

 時々、マクゴナガルの部屋で団員同士会議が行われることがあるので、そんなときだけはハリーは寝室から出てきた。ハリーのあまりの変貌振りに、生徒たち皆が避けるようにして歩いた。中には、ハリエットを心から心配する者もいる。だが、今のハリーに迂闊に声をかけることはできなかった。

 その日、ハリーは珍しく大広間に姿を現した。このところろくに食べ物を口にしていないハリーを心配して、半ば引きずるようにしてロンとハーマイオニーが連れ出してきたのだ。騎士団の会議を口実に、まだ時間に余裕があるからと説得して。

 ハリーはのろのろとスープを口にした。口にした側から吐き出しそうだった。何度もえずきながらも、無理矢理胃の中に押し込む。

 ハリエットは、胃の中のものを全部戻していた。いつも吐瀉物の中にいた。自分だけ温かいスープを食べていることが腹立たしく、もどかしく、悔しかった。

 涙が溢れた。周囲のざわめきは耳に入らなかった。聞こえてくるのは、ベラトリックスの笑い声と、ハリエットの漏らすうめき声。

 ハリエットのことを思い出そうとしても、恐怖と痛みに顔を歪める顔しか出てこなかった。ハリエットがどんな顔で笑うのか、もはや思い出せなかった。

 額の傷が痛んだ。それがやけに腹立たしくて、ハリーは傷を掻きむしった。誰かが背中を撫で、誰かがハリーの右手を掴んだ。

 もうハリーの目は眼前を映していなかった。どこか遠くにある屋敷の一室を見ていた。

 ハリエットが磔の呪文にかけられていた。ハリエットは気を失っていた。にもかかわらず、ベラトリックスはなおも呪文をかけ続けている。ベラトリックスの耳をつんざくような笑い声が頭の中に響き渡る。

「殺してやる! ヴォルデモート! ベラトリックス!」

 自分の怒鳴り声が、ハリーの意識を現実に引き戻した。皆が驚いたような、怯えた顔で自分を見ているのに気づいた。

「殺してやる、マルフォイ!」

 ハリーは杖を握りしめていた。ロンがハリーの腕にしがみつき、ハーマイオニーは泣き叫んでいた。

 その時、赤い閃光が視界にちらついた、と思ったら、その閃光はハリーの胸を直撃した。ハリーは力なくその場に崩れ落ちる。

「マクゴナガル先生……」

 杖を持って現れたマクゴナガルに、ハーマイオニーは庇うようにハリーの前に立った。

「ハリーは気が動転してただけなんです。魔法を使うつもりは――」
「ミス・グレンジャー、ウィーズリー……」

 マクゴナガルは目に涙の膜を張っていた。

「ポッターが次また額の傷が痛むようなことがあれば、失神呪文の許可を与えます」
「先生――」
「ポッターには辛すぎる現実でしょう……。妹が苦しんでいるのを見せられるなんて……」
「でも……でも、先生」

 ハーマイオニーは涙ぐんだ。

「私達もそう言ったんです。でもハリーは、何か手がかりがあるかもしれないからって、見るのを止めようとしないんです」
「それでも、です。もうこれ以上ポッターに負担をかけるわけにはいきません。いいですね?」
「はい……」
「今から私の部屋で会議を始めます。ポッターは私が連れて行きます」

 マクゴナガルは魔法で担架を出し、その上にハリーを寝かせた。

「あの、僕たちも?」
「もちろんです」

 控えめに尋ねるロンに、マクゴナガルはすぐに頷いた。

「ミス・ポッターを心配する気持ちは皆一緒でしょう。ついてきなさい」

 不気味なほど静まりかえる大広間を抜け、三人はハリーを連れてマクゴナガルの部屋へ向かった。

 部屋には、シリウス、ルーピン、モリー、トンクスがいた。

 騎士団は、時折メンバーを入れ替わり立ち替わり、会議をしていた。全員が集まることは決してなかった。誰かが必ず情報収集のために奔走しているのだ。

「ハリーはどうしたんだ?」

 担架ごと入ってきたハリーに、シリウスがすぐに声をかけた。

「ポッターがヴォルデモートからの映像を見たんです。私が気絶させました。もし今後も同じようなことがあれば、二人に失神呪文をかけるようお願いしました」
「……そうだな、それがいい……」

 シリウスはまた力なく椅子に腰を下ろした。

 シリウスは一気に老け込んで見えた。双子と会うときの快活な表情はそこにはなく、まるでアズカバンから脱獄したばかりの頃を彷彿とさせた。

「リナベイト 活きよ」

 マクゴナガルが杖を振るうと、ハリーは担架の上で目を覚ました。

 ハリーはぼうっと天井を見上げていた。もう額の傷に痛みはないようだ。瞬きをした時に、彼の頬を涙が伝った。

「具合はどうですか?」
「……最悪です」
「食欲がなくても、今は食べなくてはいけません。体力をつけなければ」
「…………」

 ハリーは黙りこくって返事をしなかった。マクゴナガルは皆に向き直る。

「会議を始めましょう」

 ルーピンは頷いた。

「まずは報告を。キングズリーからの情報だ。死喰い人がアズカバンから脱獄した……。ヴォルデモートの仕業だろう」

 ハリーとロン、ハーマイオニーが息をのんだ。その情報はまだ新聞にも載っていないものだった。

「神秘部で捕らえられた死喰い人達も?」

 ロンが尋ねた。

「ああ、そうだ」
「ルシウス・マルフォイ……!」

 ハリーは吐き捨てるように言った。

「ダンブルドアの死後、死喰い人の動きがやたら沈静化したと思っていたら……きっとこれを計画していたからだろう」
「これから本格的に奴らは動き出すだろう。仲間集めも、本腰を入れ始めている。マルフォイ邸と見られる辺りに、続々と人が集まっている」
「騎士団の本部はどこになったんですか?」

 ハーマイオニーが尋ねた。

「隠れ穴だ。グリモールド・プレイスの屋敷は完全に放棄した」
「ヴォルデモートは、ハリエットから情報を引き出すのをほとんど諦めてる」

 唐突にハリーは割って入った。

「開心術にかけても、騎士団本部の場所も、団員の名前も、ヴォルデモートには一つも分からなかった」
「ハリエットは閉心術を会得していたのか?」

 シリウスは驚いたように聞いた。

「閉心術としては完璧じゃない。でも……スネイプは、ハリエットが本当に漏らしたくない情報はきちんと隠せてるって言ってた」

 スネイプの名に、皆が顔を強ばらせる。

「ハリエットは磔の呪文でも口を開こうとしない。だからベラトリックスが余計に怒って……。早く……早く助けないと……ハリエットは死にたいって……」
「――っ、ハリエットがそんなことを!?」

 ハーマイオニーの声に、ハリーは眉を釣り上げて叫んだ。

「ハリエットは言わない! 僕に心配をかけるから、そんな、そんなことは絶対に言わない! でも、あいつが、ヴォルデモートが、ハリエットに開心術をかけて、僕に囁いてくる! ハリエットが死にたいって思ってるって!」
「ハリー……ハリー、落ち着きなさい……」

 ルーピンが囁いた。モリーは唇を噛みしめてハリーの背中を撫でる。

「ハリーと二人で話をさせてくれ」

 この状態では会議は続けられないかもしれないと、シリウスが声を上げた。マクゴナガルは頷き、ルーピン達と共に退室した。

「ハリー……」

 シリウスはハリーの肩を叩いた。

「ハリエットはどんな風だった?」

 ハリーはじっと足下を見つめていた。

 ――ハリーの口から言わせるのは酷だろう。それはシリウスにも充分分かっていた。しかし、それ以上に、一人で抱え込むには辛すぎる映像を、シリウスはせめて二人で分かち合いたかった。

「ハリエットは……」

 ハリーは鼻をすすった。

「ハリエットは、もうほとんど正気を失ってる……。起きてるときは、ずっと誰かに話しかけてる。壁に向かって笑ってるんだ……」

 シリウスはハリーを抱き寄せた。やがて腕の中で嗚咽が漏れ始めた。