■謎のプリンス

26:マルフォイ邸


 アズカバンから俗世に舞い戻ったルシウス・マルフォイは、ヴォルデモートと対峙するのをひどく恐れていた。

 リーダーとして任された『予言』の強奪に失敗したばかりか、壊されてしまうという、永遠に取り返しのつかないことをしてしまったのだ。挙げ句の果てにはアズカバンに収容され、ヴォルデモートによって解放されるという二重苦。

 顔を合わせて早々、磔の呪文をかけられるのではと血の気を失うくらいにはかなりの失態だと自覚していた。

 だが、いざヴォルデモートと会うと、ルシウスは拍子抜けすることになった。機嫌が良い、とまではいかないが、ヴォルデモートはルシウスを責めなかったのだ。それどころか、彼の息子のドラコ・マルフォイを褒めた。

「正直なところ、お前の倅には期待はしていなかった。お前は身内にかなり甘い。だが、ドラコは上手くやり遂げた。とどめをさすところで怖じ気づいたのは失望したが……セブルスが代わりに成し遂げたから良しとしよう」
「セブルスが……」
「死喰い人を上手くホグワーツに手引きした手腕は見事だった。今宵は屋敷に帰って労をねぎらったらどうだ。お前達は息子に命を救われたようなものだ」

 ルシウスは安堵の息を吐き出した。

 自分の尻拭いとして、家族にしわ寄せが行くのではないかというのはアズカバンでもずっと恐れていたことだった。だが、ルシウスの長男ドラコは、それでもやりきったのだ。ダンブルドアの殺害という、ヴォルデモートですらできずにいた所業を。

「楽しみにしておくと良い。屋敷にドラコの土産がある」

 恭しく頭を下げて退室するとき、ヴォルデモートが最後に背にかけた言葉が嫌に不穏な響きを持っており、ルシウスは冷や汗を流した。

 久方ぶりに屋敷に戻ると、ルシウスの想像とは裏腹に、出迎えはなかった。華々しい――というと大袈裟だが、アズカバンから帰還したを、家族は一番に出迎えてくれると思っていたのだ。

 訝って客間へ入ると、そこにはベラトリックスがいた。つまらなさそうに誰かに杖を向け、痛めつけている。この光景は死喰い人にとってはもはや日常茶飯事だったので、ルシウスは特に気にしなかった。しかし、最高級の絨毯に点々とつく血の跡や、吐瀉物には眉を顰める。その流れで、長い赤毛が目に飛び込んで来、ルシウスは目を丸くした。

 ウィーズリー家を彷彿とさせる赤毛は、しかしかの一家の一員ではなかった。固く目を閉じたその娘は、以前何度か会ったことのあるハリエット・ポッターだった。

 ――なぜハリー・ポッターの妹が我が屋敷に。

「アズカバンからようやくのご帰還でちゅか?」

 ベラトリックスはようやくルシウスに気がついた。彼女のからかうような言葉に、ルシウスは眉を顰める。

 だが、咎めるようなことは口にせず、ハリエットに向けていた視線をベラトリックスに向けた。疑問を含んだその視線を受け、彼女は二イッと口角を上げる。

「お前の可愛い可愛い息子ちゃんのお土産だよ」

 ベラトリックスはハリエットを蹴り、絨毯の上を転がせた。

「ご主人様は、ドラコに二つの使命を課した。ダンブルドアの殺害と、この小娘の誘拐。ドラコは一応どちらも成し遂げた。殺害に至っては、その直前で怖じ気づいたし、誘拐に至っては、服従の呪文のせいだから、ドラコ自身の力ではない。それでも我が君は随分とご機嫌でいらっしゃる。ドラコにはお前なぞよりも期待をかけていらっしゃるようだ」
「だが、なぜハリエット・ポッターが……」
「それはねええ、ドラコちゃんが大好きな女の子だからでちゅよー」

 人の神経を逆なでるような喋り方だ。しかしルシウスは気にもとめなかった。

「何だと?」
「パパは知らなかったんでちゅか? ドラコちゃんは随分前からハリエットちゃんのことが大好きだったんでちゅよー」
「ベラトリックス、あまり私を怒らせるな。いくらお前とて――」
「ルシウス」

 その時、扉を開けてナルシッサが客間に入ってきた。寝間着の上にカーディガンを羽織り、今にも倒れそうな顔色で、彼女は立っている。

「ああ、ルシウス、戻ったのですか」
「シシー」

 二人は固く抱き合った。ベラトリックスはつまらなさそうに椅子に腰掛ける。

「無事で良かった……」
「あなたの方こそ」
「ドラコは?」
「部屋にいます」

 ベラトリックスのいる場所で会話を続けたくはなかった。

 ルシウスは、ナルシッサと共に廊下に出た。

「なぜベラトリックスとハリエット・ポッターが? なぜドラコはあの娘の誘拐を頼まれたんだ?」
「…………」

 ナルシッサは立ち止まった。

「……信じられないことですが」

 その唇から漏れる声は低いが、良く通った。

「ドラコは、あの娘を好いていると」
「……何だと?」

 ルシウスは聞き返した。ナルシッサの言葉の意味が、その一瞬では理解できなかった。

「それは……一体どういうことだ。なぜドラコが」
「私にも分かりません。闇の帝王がドラコに開心術をかけ、心を覗いたのです。それによれば、ドラコはあの娘に好意を持っていると」
「馬鹿馬鹿しい」

 ルシウスは一笑した。

「ドラコがそんなことあるわけがない。我がマルフォイ家の一人息子だぞ? ドラコは誰よりも純血を誇りに思っている」
「私もそう思っていました。闇の帝王に聞かされるまで」

 ナルシッサは囁くように言う。

「ですが……ですが、今のドラコを見ればあなたも分かります。ドラコはおかしくなっています」
「…………」
「あの娘が拷問にかけられているのを知って、ドラコはこの屋敷から抜け出そうと、私に向かって杖を向けました。私は咄嗟に失神呪文をかけて杖を取り上げ……今は部屋に閉じ込めています」
「シシーに……ドラコが?」

 信じられない思いで、ルシウスは頭を抱えた。

 ルシウスの知るドラコは、深く自分たちを敬愛していた。いついかなる時も、敬意と愛情を持って接していたのだ。そしてそれはルシウス達も同様。

 その均衡が、たった一人の娘のせいで、崩されようとしている。

 ドラコの部屋の前まで来たとき、ルシウスはその扉を開ける勇気が出なかった。ナルシッサに促され、ようやく扉を開けた。

「……ドラコ」
「父上……お戻りでしたか」

 ドラコは随分やつれていた。ひょっとしたら、アズカバン帰りの自分よりもひどい顔をしているかもしれない。

 ドラコは椅子から立ち上がり、ルシウスに近寄ってきた。

「父上、お願いです。闇の帝王に会わせてください」

 開口一番に出てきた言葉は、ルシウスの期待していたものではなかった。

「会ってどうする」
「…………」

 ドラコは何も言わなかった。それが答えだった。

「ドラコ……一体どうしたんだ。お前はいつも冷静だったはずだ。闇の帝王もお前のことを褒めていた。さあ、父にお前の顔を良く見せてくれ」

 ルシウスは両手を広げ、ドラコを胸で受け止めた。ルシウスがアズカバンにいる間に、ドラコは一七となり、立派に成人した。身長も、今ではルシウスと同じくらいある。体格もがっしりしてきた。

 ルシウスは彼の成長が誇らしかった。ヴォルデモートにも褒められ、身体的な成長も実感し。

 だからこその油断だったかもしれない。己のローブからそっと杖が抜き去られたことに気づかなかった。

「ステューピファイ!」

 間近で放たれた赤い閃光は、的を外すことなくルシウスの胸を打った。ルシウスは膝から崩れ落ちた。

 すぐ側で息子の所業を見ていたナルシッサは、杖を構えるのも忘れて表情を驚愕に染めた。

「ドラコ! 父上になんということを――」
「エクスペリアームス!」

 赤い閃光は、ナルシッサにも直撃した。ナルシッサはよろめき、その場に膝をつく。

「ドラコ……」
「申し訳ありません、父上、母上」

 ドラコは、ナルシッサのポケットから己の杖を取り戻した。そして自室を出て廊下を進む。

 客間に踏み込むと、ベラトリックスがドラコに気づいた。久しぶりに姿を見せた甥に、彼女は上機嫌に手を上げる。

「ポッターちゃんの様子を見に来たのかい?」

 ベラトリックスの足下にはハリエットが仰向けに倒れていた。激しく痙攣している。

「でも残念だったね。さっきまで意識はあったんだけど、また気を失った」

 血相を変えてドラコはハリエットの側に屈み込んだ。震えがドラコにまで伝わるほどの痙攣だった。

「ドラコー、今ならその子やっちゃえるよ? 反応がなくなってきて、私も飽きてきちゃってさあ。貸してあげるよ」
「…………」

 痙攣を抑えるかのように、ドラコはハリエットの手を握りしめていた。

 甥からの反応はなかったが、ベラトリックスは薄笑いを浮かべる。

「手伝ってやろうか?」

 ベラトリックスが杖を振るうと、ハリエットの制服のボタンがはじけ飛んだ。

「それとも意識がある方が良いか? 意識があっても、もうこの小娘は――」
「止めろ!」

 ドラコは振り向きざま、ベラトリックスに杖を向けた。反応はベラトリックスの方が早かった。

「アバダ ケダブラ!」

 緑の閃光が、ドラコの頬をかすめた。すぐ後ろにある花瓶が破壊され、粉々に砕け散る
「誰に向かって杖を向けてんのさ、ああ? この小娘は闇の帝王のものであって、お前のものではない。それをはき違えるんじゃないよ!」

 ドラコは杖を下ろしていたが、それでも瞳には憎悪の炎を宿していた。ベラトリックスは忌々しげに顎でしゃくる。

「さあ、分かったらさっさと行きな。それとも何か? この娘が拷問されるところを観察でもするかい?」
「ベラ」

 客間の入り口に、ナルシッサが立っていた。

「その子はもう気を失っているわ。それ以上やったら死んでしまう」
「シシー――」
「そうなれば、いくらあなたでも闇の帝王に殺されてしまうわ」
「…………」

 口元を歪ませ、ベラトリックスはまた椅子に腰を下ろした。

 ナルシッサは息子に近づいたが、ドラコはそれを避けるようにして立ち上がった。ナルシッサを警戒しながら、玄関ホールへと続く扉へ後ずさりする。

「無駄よ、ドラコ」

 ナルシッサはピシャリと言った。

「あの方に会いに行っても、この子はどうにもならないわ。無駄足になることでしょう」
「母上……申し訳ありません」

 ドラコは泣きそうな顔をしていた。にもかかわらず、視線が合わない。ナルシッサは一抹の不安を覚えた。

「ドラコ――」

 ドラコはそのまま急いで扉を開け、客間を出て行った。玄関ホールへ走って行く足音が響く。ナルシッサは、言いようのない不安に駆られていた。

 ――ドラコを、行かせても良かったのだろうか? あの方はドラコに目をかけている。もしドラコが粗相をしたとしても、一度くらいなら許してくれるはず。でも、この胸のざわめきはなぜ――。

 ナルシッサは、いつまでもドラコが出て行った扉を見つめていた。


*****


 ドラコは、ヴォルデモートが潜伏している屋敷に姿現しをした。まだ屋敷にすら足を踏み入れていないというのに、辺りは重苦しい威圧感を放っている。

 ドラコは、無意識的に短くなる呼吸に気づかないでいた。ただ訳も分からず襲ってくる息苦しさに恐怖を覚える。

 屋敷の戸を叩くと、伝令役の死喰い人が出てきた。

「何用だ」
「ドラコ・マルフォイです。闇の帝王にお話しがあって参りました」
「闇の帝王はお疲れだ。またにせよ」
「私が来たとだけお伝えください。それでもまたにということであれば、明日参上します」
「…………」

 死喰い人は、渋々と行った様子で屋敷の中に入った。それからしばらくして、彼は戻ってきた。

「案内する」
「感謝します」

 ドラコは、客間に案内された。ドラコが死喰い人にされたあの場所と同じ部屋だ。

 ヴォルデモートは、同じ場所に座っていた。

「わ、我が君」
「おお、ドラコか。どうした、こんな時間に」

 ヴォルデモートは、少しだけ機嫌が良さそうだった。アズカバンから死喰い人を解放することができたせいだろう。

 ドラコは、しばらくその場に立ち尽くしていた。しかしやがて決心が固まると、ヴォルデモートの目の前で、彼は跪いた。

「――我が君、どうかハリエット・ポッターをお助けください。あ……あいつは、落ちこぼれで、劣等生で、ハリー・ポッターからも守られてばかりで、何の情報も与えられていません。これ以上……これ以上時間をかけても、大した情報は得られません……。我が君の手を煩わせるだけです……」
「ドラコ、いじらしいことに、お前はまだあの娘に想いを寄せているのか。叶わぬ想いなど己が身を破滅させるだけだというに」

 ヴォルデモートはやれやれといった様子でため息をついた。

「良いだろう。ドラコ、お前に免じてハリエット・ポッターへの拷問は止めてやろう」

 思わずドラコは顔を上げた。だが、深い笑みを湛えるヴォルデモートの顔を見て絶望を知る。

「三日以内に、ハリー・ポッターを連れてくるのだ。妹がここにいることを伝えればすぐにでもやってくるだろう。ハリー・ポッターの身柄と引き換えに妹を帰してやろう。もしもできなければ――」

 ヴォルデモートは、自分の杖を一撫でした。

「良いな?」
「仰せのままに、我が君」

 ドラコは頭を垂れた。その瞳には、ほの暗い決心が宿っていた。