■死の秘宝

05:空中戦


 オートバイが離陸すると、早速サイドカーはぐらりと揺れた。ドラコは反射的にハリエットの身体を支えたが、ギリギリ身体が浮くことはなかった。ホッとしてドラコは杖を構え直す。

 周りを見渡すと、幾本かの箒と、セストラル、そしてバックビークの姿が見えた。一瞬ハリーと目が合ったような気がしたが、すぐに互いに目を逸らした。

 ドクドクと心臓が嫌な音を立てていた。油断はできなかった。情報が漏れていないとは限らないからだ。ドラコはヴォルデモートの怖さを身に染みて知っていた。

 上昇を止め、後は真っ直ぐ進むだけだと車体が正面になったとき、どこからともなくいくつもの人影が一行を包囲した。ざっと三十人はいる。フードを被り、その身は闇に溶け込んでいた。騎士団のメンバーは、彼らの真っ只中に飛び込んだのだ。

 叫び声と共に、緑色の閃光が辺りに走った。ハグリッドは慌ててバイクを一回転させた。突然だったが、ドラコはすぐに対応した。ハリエットの上に被さりながら、彼女ごとサイドカーにしがみついたのだ。上へ下へと続く衝撃に、ハリエットが被っていた帽子が外れる。スルッとほどけるゴムと共に、長い赤毛が夜空に散らばった。

「ハリエットだ――」

 誰かが叫んだ。

「ハリエット・ポッターがいた!」
『……捕まえろ!』
 恐ろしく低い声が響いた。ヴォルデモートだとすぐにドラコは気づいた。
『ハリー・ポッターを探せ! ハリー・ポッターも確実に捕らえろ!』
 ようやく車体が元に戻った。だが、安心したのもつかの間、すぐに死喰い人が周りに現れる。

「ステューピファイ!」

 すかさずドラコは呪文を放った。一人の死喰い人に当たったが、彼の後ろにはまた他の死喰い人が潜んでいた。彼は緑色の閃光を放ったが、ハリエットに当たらないようにした閃光は車体をかすっただけだった。

 ドラコはひたすらに失神の呪文を放った。空を飛んでいる敵にはこれで充分だった。呪文も短く、数を打てる。ドラコは前後左右油断なく視線を走らせた。

「つかまっちょれよ! これでも食らえ!」

 ハグリッドが叫んだ。と同時に、排気筒から堅いレンガの壁が現れた。壁を躱せなかった死喰い人はバラバラになった箒と叫び声と共に遙か下へ落下していく。ハグリッドは更にスピードを上げた。

 一瞬引き離せたオートバイは、数回瞬きをする内にまた追いつかれていた。

「またやるぞ! つかまっちょれ!」

 ハグリッドはボタンを押した。排気筒からは今度は巨大な網が飛び出したが、用心していた死喰い人達は引っかからなかった。ハグリッドの声は大きかった。

「そんじゃ、とっておきのやつだ!」

 ハグリッドは再び叫んだ。ハグリッドが紫色のボタンを押すと、排気筒から白熱したドラゴンの青い炎が噴き出した。まさに死の炎だ。とんでもないスピードで走るバイクは、後ろの死喰い人に炎の置き土産を食らわした。彼らは視界から消えたが、同時にサイドカーが不穏に揺れだす。バイクに結合している部分が、加速の力で裂け始めたのだ。

「心配ねえぞ。俺に任せちょれ」

 ハンドルから手を離し、ハグリッドは修理をしようとした。懐からピンクの花柄の傘を引っ張り出し、構える。ドラコには、その行動の意味が分からなかった。分かっていたならば、『レパロ』で自分が素早く直していたはずだ――。

「レパロ!」

 ハグリッドが呪文を唱えた瞬間、バーンという激しい音と共に、サイドカーは完全にバイクから分離した。

 咄嗟のことで、ドラコは一瞬動けなかった。一瞬で直るはずが、どうしてサイドカーが分離している――?

 ドラコは反射的に杖を構えた。

「ウィンガーディアム レヴィオーサ!」

 サイドカーはふわりと浮かんだ。少し下がった高度は変わらないが、かといってこれ以上下がることはない。舵は取れなかった。ドラコはすぐに後ろを振り向き、追いつかれた死喰い人に失神の呪文を放った。

「今行くぞ!」

 重さに耐えきれず、サイドカーがゆっくり沈む。

「ステューピファイ!」

 また一人敵を戦闘不能にしたが、ガクンとサイドカーが盛大に落下し始めた。手加減することに苛立ったのか、死喰い人がドラコ達のど真ん中に死の呪文を放った。ドラコは一瞬息をするのも忘れ、ハリエットごと宙に飛び出した。

「――っ!」

 ドラコは右手でハリエットを抱え、左手でかろうじて車体の縁を掴んだ。片側に重心がより、一層サイドカーが落下の速度を速める。どちらも長くは持ちそうになかった――。

「マルフォイ!」

 間一髪、ハグリッドが片手でハリエットごとドラコを持ち上げた。宙づりになったドラコの視界に、みるみる落ちていくサイドカーが映った。檻に入れられたままのウィルビーを乗せて――。

「すまねえ、自分で直そうとしたら失敗しちまった。座る場所がなかろう――」
「気にせず走ってくれ!」

 二人分の場所を空けるため、ハグリッドは前に詰めてバイクを運転していた。だが、それでも後ろはきつきつだ。ドラコは膝にハリエットを乗せていた。左手で座席にしがみつき、右腕でハリエットを支えながら杖を操作していた。自分とハリエットとを繋ぐベルトが頼みの綱だった。

 暗闇からまた新たに死喰い人が現れた。息つく暇も無い。

 ハグリッドは器用にジグザグに運転した。死喰い人達はハリエットのせいで余計狙いづらくなり、ドラコはその隙に矢継ぎ早に呪文を唱えていく。

「セクタムセンプラ」

 不意に横から声が聞こえた。いつの間にこんなに近くにいたんだとドラコはヒヤリとした――だが、その死喰いが放った呪文はドラコをかすめ、向こう側にいた死喰い人に当たった。一度その技を経験したことのあるドラコは思わずゾッとする。死喰い人は痛ましい叫び声を上げ、全身から血を吹き出しながら落ちていった。

「ステューピファイ!」

 切り裂き呪文を放った死喰い人に、ドラコは失神呪文を放った。しかし彼は速度を落としてそれを避ける。――フードの下の目と目が合った。ドラコはその死喰い人が誰か悟った。

「もうすぐ着くぞ!」

 ハグリッドの声で現実に引き戻される。ドラコは一層気を引き締めた。

 だが、それも束の間、またあの低い声が轟いた。
『ハリー・ポッターだ――』
「なっ」
『俺様のものだ――誰も手を出すな――!』
「ハリーが見つかっちまったのか!?」

 ハグリッドが動揺した声を上げた。先ほどの声は、どこか遠くから響いているようだった。本物のハリーが見つかってしまったに違いない。

「ハリー! 何としてでも逃げ切れよぉ!」

 ハグリッドは吠え、バイクは急降下した。ドラコの身体は浮いたが、必死で車体にしがみつく。ハリエットの赤毛が視界を覆った。

「セクタムセンプラ」

 またあの呪文だった。ドラコはハリエットと己の身体を支えるだけで精一杯だった。血の気を失った唇が、声にならずにハリエットの名をかたどった。

 閃光は、ハリエットの赤毛をかすめた。無残にも赤毛は半分に断ち切られたが、直撃はしなかった。またも狙いをかすめた切り裂き呪文は、向こう側の死喰い人に当たったのだ。

 一瞬、時が止まったように感じた。同時に、音も聞こえなくなった。自分と、狙いを外した死喰い人。二人だけの世界になったような気がした――。

 スイッチを切ったかのように、死喰い人の姿は消えた。瞬きをして辺りを油断なく見渡すが、彼も、そして他の死喰い人も姿を消していた。

「到着だ!」

 ハグリッドの歓喜の声と共に、ガタンと今までで一番の衝撃がドラコを襲った。舌をかみ切らないようにドラコは口を固く閉じる。ガガガと数メートル走った後、ようやくバイクは止まった。ドラコは、しばし茫然としてその場から動けなかった。

「ハリエット! マルフォイ! お前さんらは無事か!?」

 ハグリッドの大きな手がわしゃわしゃとドラコの顔を撫でる。ドラコの無事はすぐに分かったが、ハリエットは目を瞑ったままだ。

「ハリエット!」
「ハグリッド、落ち着いてくれ」

 冷静になったドラコが、ハリエットの呼吸を確かめる。――あった。ハリエットは、ちゃんと呼吸をしていた。

「……大丈夫だ。生きてる」
「ああ、マルフォイ!」

 感極まって、ハグリッドはドラコを抱き締めた。胸が押しつぶされ、ドラコは息ができなかった。

「ありがとう、ありがとう! よくハリエットを助けた! お前さんはようやった!」

 ハグリッドの声は辺りに響き渡った。すぐ近くの家の中から男性の声がした。

「誰かね? ポッターか? 君はハリー・ポッターかね?」
「テッド! 庭だわ! 庭に着陸したのよ!」

 続いて女性の声がした。どこか安心感がこみ上げる声だった。ドラコは泣きそうな笑みを浮かべ、ハリエットを抱え上げた。

 美しい長い赤毛は、途中でプツンと切れ、今は肩口で揺れていた。見れば見るほど痛ましかったが、ハリエットの命が助かったことを思えば、感謝しかない。ドラコはこみ上げる安堵と共にハリエットの額にキスをした。

「さあ、おいで。大変だっただろう。怪我はしてないか?」

 キスを目撃しても、テッドは動揺しなかった。親愛だと思ったし、ドラコがまだハリーの格好をしていたからだ。

 ドラコはリビングに通され、ハグリッドは別室で看病を受けた。ハグリッドはなんてことない顔をしてはいたが、その身は満身創痍で、切り傷、打撲、打ち身、何でもござれな状態だった。集中して治療を受ける必要があった。

「その子はハリエット・ポッターだね?」
「はい」
「その子の事情は聞いているが――怪我はなかったのかい?」

 ハッとしてドラコはハリエットを見た。呼吸はあった。だが、怪我がないとは言い切れない。すぐさまあちこち身体を触って怪我がないか見る。ドラコはともかく、ハリエットは上に下にと身体を揺らされていた。どこかに身をぶつけていてもおかしくはない。

 だが、見たところ怪我はないようだった。ホッとしてドラコはため息をつく。

「君の気分はどうだ? 怪我は?」
「僕は大丈夫です」

 全身傷むような気はしていたが、ずっと気を張り詰めていたせいだと思った。

「ところで、私はテッド。テッド・トンクス――ドーラの父親だ、ハリー」
「あの……」

 ドラコは慌てて声を上げた。

「ポリジュース薬でポッターに扮しているだけなので、僕はポッターではありません。ドラコ・マルフォイです」
「マルフォイ……」

 家名に反応したテッドが何を思ったのか、ドラコはすぐに気づいた。

「そうか、君が」
「あの」
「いや、そんなに警戒しなくても大丈夫だ。君のことはマッドーアイから聞いてるよ。開心術を受けたそうだね。マッドーアイが信用するなら、私も君を信用するよ」

 ドラコはホッとしたように頷いた。

「だが、聞きたいことがある。ハグリッドや君たちの怪我はどうしたんだい? バイクがおかしくなったのかね? アーサー・ウィーズリーがまたやり過ぎたのかな? 何しろ、マグルの奇妙な仕掛けが好きな男のことだ」
「違います」

 ドラコはすぐさま否定した。

「死喰い人が襲ってきたんです。大勢いました。例のあの人も」
「どういうことだ? あいつらは、ハリーが今夜移動することを知らないはずだ。連中は」
「知ってたんです」
「そうか……。じゃあ、我々の保護呪文が効いたというわけだね? 連中はここから周辺百メートル以内には侵入できないはずだ」
「マルフォイ!」

 ハグリッドが部屋に入ってきた。顔にはまだ血がこびりついていたが、見た目に分かる怪我は治療してもらったようだ。胸をなで下ろしたドラコだが、ハグリッドの後から部屋に入ってきた女性を見て言葉を失った。目を見開き、蒼白となる。

「叔母上……」
「私の妻だよ」

 テッドが安心させるように言った。咄嗟にテッドを見て、また夫人を見た。よくよく見れば、髪の色が全然違っていた。ドラコは恥じるように顔を下に向けた。まだ足が震えていた。

「娘はどうなったの?」

 夫人がドラコを見た。

「ハグリッドが待ち伏せされている言っていましたが、ニンファドーラはどこ?」
「分かりません」

 ドラコは二つの意味で答えた。

「他の皆がどうなったのか、僕たちには分からないんです」

 夫人はテッドと顔を見合わせた。ドラコは申し訳ない思いで続ける。家族の安否が心配なのは、自分も同じだった――。

「僕たちは、隠れ穴に戻らないといけません。そこで落ち合う約束をしてるんです。もしミス・ニンファドーラ・トンクスの安否が分かれば、すぐに伝言を送ります」
「ドーラは大丈夫だよ」

 テッドが夫人の肩を叩いた。

「あの子はどうすれば良いか知ってる。闇祓いの仲間と一緒に、これまでも散々危ない目に遭ってきた子だ。移動キーはこっちだよ。あと三分でここを発つことになる」
「行きます」

 ドラコはすぐに頷き、ハリエットを抱え上げた。そして頭を下げる。

「匿ってくださり、ありがとうございました。それに、治療も。ミス・トンクスの安否も確認次第、必ず伝言を送ります」
「ありがとう。お願いね。……ハグリッドから聞いたわ。あなたがドラコ・マルフォイだと。実感が湧かないかもしれないけど、私はあなたの伯母よ。もう少し時間があればあなたと話していたかったけど……武運を祈るわ」

 ドラコが頷くと、もう時間がないとテッドが急かした。彼に続いて、一行は寝室へ移動した。ハグリッドは身体を曲げて入った。

「さあ、あれが移動キーだ」

 テッドは化粧台に置かれた小さな銀のヘアブラシを指さした。

「ありがとうございます」

 移動に遅れないよう、ドラコは早々に左手を伸ばし、ヘアブラシに乗せた。そしてすぐに思い直し、ハリエットの手を上から握り、一緒にポートキーに触れた。

「ちょっと待った。ハリー……じゃなかった、マルフォイ、ウィルビーはどこだ? ほら、ハリエットのふくろうの……」

 マルフォイは苦い顔になった。ハグリッドの視線から逃げるように横を向く。

「ウィルビーは……落ちた。サイドカーと一緒に」
「なんちゅう……」
「檻の中に入れたままだったんだ。せめて出してあげていたら……」
「お前さんは悪くない。俺が悪かったんだ。俺が魔法なんか使ったばっかりに」

 ハグリッドは大きな手でドラコの肩を叩いた。

「良いふくろうだった。ハリエットに甘えん坊でな」
「ハグリッド!」

 テッドが気遣わしげに声をかけた。ヘアブラシが光っていた。間一髪で、ハグリッドは人差し指でブラシに触れた。

 ドラコは、ハリエットと共に、くるくると無抵抗に回転していた。気持ちの悪い感覚だったが、ハリエットだけは絶対に離さなかった。