■死の秘宝

06:隠れ穴


 ヘアブラシに触れた数秒後、両脚が固い地面についた。と思ったら、バランスを崩して地面に倒れ込んだ。なんとかハリエットの下敷きにはなれた。ドラコはうめき声を漏らしながら身体を起こす。

 三人はどこかの裏庭に到着したようだった。ここが隠れ穴だろうか、とドラコは辺りをキョロキョロする。その視界に、勝手口から階段を駆け下りてくる女性が三人映った。

「ハリー? あなたが本物のハリー? ハリエットは本物よね? 何があったの? 他の皆は?」

 一人はジニーだった。矢継ぎ早に訊ねる。

「他は誰も戻ってないんですか?」

 ドラコは胃がきゅっと締まるのを感じた。ジニーの奥のモリーを見たが、彼女は答えなかった。それが答えだと悟る。

「死喰い人達が待ち伏せしてたんです」

 ドラコは、自分がハリーの見た目をしていることを忘れていた。だが、丁寧な口調から、ハリーではないと二人は当たりをつけていた。

「飛び出すとすぐに囲まれました。今夜だってことを知ってたんです。他の皆がどうなったのかは分かりません。……逃げるので精一杯でした。でも……ただ」

 ドラコは口ごもった。最後に、ヴォルデモートがハリーを見つけたようだ、という情報を伝えようか迷った。結局口に出せないまま、モリーはハリエットごとドラコを抱き締めた。

「ああ、でも無事で良かった」
「モリー、ブランデーはねえかな。気つけ薬用に」

 ハグリッドの足はよろよろしていた。モリーは小刻みに頷いた後、顔を隠すようにして家の中へ走って行った。ドラコは己の肩口が湿っているのを感じた。

 ドラコはジニーを見た。彼が言いたいことを、ジニーはすぐに察した。

「ロンとトンクスが一番に戻るはずだったけど、移動キーの時間に間に合わなかったの。キーだけが戻ってきたわ」
「トンクスって、ミス・トンクス?」
「ええ、そうよ」

 トンクスのことを知らない――。

 ジニーは改めてドラコを見た。

「あなたは誰なの?」
「……ドラコ・マルフォイだ」

 沈黙が辺りを支配した。ジニーはじっとハリエットを見つめていた。

「ハリエットは大丈夫?」
「眠ってる。一度目を覚ましたきりだ」
「怪我はないかって聞いてるの」
「ない」
「……そう」

 モリーがブランデーの瓶を持って戻ってきた。ハグリッドはそれを一気飲みした。

「ママ!」

 ジニーが少し離れた場所を指さして叫んだ。

 暗闇に青い光が走り、次第にそれは大きくなった。そしてビルとハリー――中身はジョージだ――が現れた。ジョージは血だらけだった。

「ハリー!」

 動揺してジニーが叫んだ。

「妹よ……俺が誰か分からないのか? こんなにイケてる顔なのに?」
「フレッド? ジョージ? こんなときに冗談は止めて! 怪我をしたの? ねえ!」
「ちょっと呪文がかすっただけさ」

 ジョージはウインクをした。ジニーは泣きそうだったが、それで少し微笑んだ。

「ビルは怪我はなーいでーすか?」

 フラーはビルの反対側からジョージを支えた。

「ああ、大丈夫だ。ありがとう」

 ビルとフラーの二人に抱えられるようにしてジョージは家の中に入っていく。ジニーは涙ながらに後に続いた。

 しばらくして、また庭に青い光が灯った。瞬きをする一瞬の間に、シリウスと中身セドリックのハリーが立っていた。見たところ、外傷はない。モリーはすぐに駆け寄った。

「ああ、あなたは本物のハリー?」
「いえ、セドリックです」
「セドリック……無事で良かったわ。怪我はない?」
「はい、大丈夫です」
「モリー、セドリックは勇敢だった。安定感のある戦い方だった。きっとご両親も鼻が高いだろう――」

 そう話ながらも、シリウスは怖い顔でドラコに近づいてきた。抱えられているハリエットを気にしながらも、ドラコに杖を突きつける。

 ――ジョージは、ついに名付け親がイカれたのだと思った。彼は、この混乱に乗じて気にくわないドラコ・マルフォイを八つ裂きにするに違いない――。

「ハリーから聞いた。お前とハリエットは、こっそり何かの練習をしていたそうだな。どこで何をしていた?」

 ドラコは、なぜシリウスがこんな質問を投げかけてくるのか理解していた。していたが――答えても答えなくても、シリウスに八つ裂きにされそうな気がした。

「……ホグワーツ城の裏で、箒の練習をしてました」
「裏!? あんな人気のない場所で!?」
「元々は僕の練習の場だったんです。そこにミス・ポッターがやってきて――」
「ハリエットのせいにするのか!」
「そんなつもりは――」

 シリウスの一方的な説教はしばらく続いた。ようやくそれが落ち着くと、シリウスは傍らに膝をついた。

「ハリエットに怪我はないだろうな?」

 そしてハリエットに手を伸ばしかけ――固まった。

「この髪はどうした!」
「切り裂き呪文を受けました」

 言おうか迷ったが、ドラコは続けた。

「スネイプ先生でした」
「ちっ!」

 シリウスは盛大に舌打ちした。

「セクタムセンプラはあいつのお得意の呪文だ。あいつ――絶対に許さない。ハリエットに杖を向けただと!」

 ドラコから奪い取るようにシリウスはハリエットを抱え上げようとした。が、すぐにドラコとハリエットとを繋ぐベルトがピンと張り、それは適わない。忌々しげにシリウスは魔法でベルトを外した。

 少しもの寂しい気持ちになったが、ドラコはされるがままハリエットを見上げた。シリウスは、ずんずんと家の中へ入っていった。

 ハリエットのことが気になって、ドラコも彼の後に続いて隠れ穴の中に入った。家の中は非常に興味をそそられたが、疲れと心配で周りを見る余裕はなかった。

 シリウスは、ソファにハリエットを横たえた。そして自分は番犬のようにすぐ側に立つ。ドラコは、しばらくリビングの入り口で所在なげに立っていたが、やがて心配が勝ってハリエットの近くに腰を下ろした。すぐにシリウスの貧乏揺すりが始まったが、ドラコは気にしないことにした。

 外で何かがゴソゴソ動き回る音がした。シリウスは勝手口に飛び出し、杖を構えて外に出た。

 裏庭には二人の影があった。ハリーとキングズリーだ。シリウスはハリーには目もくれず、キングズリーに杖を突きつけた。キングズリーもまた杖を構えていた。

「アルバス・ダンブルドアが、我ら三人に残した最後の言葉は?」
「ハリーこそ我々の最大の希望だ。彼を信じよ」

 シリウスが力強く答えた。二人は同時に杖を下ろした。

「ハーマイオニーだな? 無事で良かった」
「ハリーは? 皆はもう戻ってきたの?」
「まだだ。ビルとジョージ、セドリック、ハグリッド、ハリエットと……あいつが戻ってきた」

 ハーマイオニーは家の中へ入った。シリウスとキングズリーは肩を並べて庭を監視する。

「誰かが裏切った。あいつらは知っていた。今夜だということを知っていたんだ!」
「八人のハリーがいるとは知らなかったようだがな」

 シリウスの瞳は落ち着きなく辺りを窺った。本物のハリーはまだ帰ってこない。ヴォルデモートの声が頭の中に余韻として残っていた。

「奴は飛べた」

 キングズリーの言葉に、シリウスは驚いて彼を見た。

「例のあの人も目撃した。あいつは途中から追跡に加わったが、たちまち姿を消した。どうやってかは分からないが、本物のハリーのことに気づいたんだろう。それに、ハリエットのことも。ハリエットはかなり序盤で気づかれていたな」
「ハリエット――あいつ!」

 ドラコが何かヘマをしたに違いないと、シリウスは足音も粗々しく中へ入っていった。

「やれやれ」

 疲れたようにキングズリーはため息をついた。

 しばらくすると、アーサーとフレッドが現れた。偽ハリーは未だ誰一人として薬が抜けきっていないので、リビングはちょっとした混乱が起こっていた。

「ハリー、本物のハリーはいるか?」
「まだだ。まだ戻ってきていない」
「ええい、ややこしい。一体誰と誰が戻ってきたんだ!」

 混乱が収まる前に、また裏庭が光った。

「油断大敵!」

 その声で、皆が皆誰が戻ってきたのか悟った。

「両手を上げ、一人一人庭に並べ! 偽物が潜んでないか確認する!」
「マッドーアイ、既にわたしとキングズリーが一人一人確認した」
「お前は誰だ!」
「見て分かるだろう……わたしだ、シリウス・ブラック。まるで双子の番犬だとお前が称したシリウスだ」
「お前は!」
「キングズリー・シャックルボルト。この前魔法の目の効率的な洗い方を教えてやった」

 ムーディが気の済むまで確認し終えて、ようやく一息ついた。とはいえ、まだ安否確認は済んでいなかった。

「誰か命を落とした者はいるか? ポッターは無事か! ミス・ポッターは!」
「幸いなことに、死んだ者はいない。まだ来てない者はいるが。ハリー、リーマス、ロン、トンクスの四人がまだだ。ハリエットも無事だ」
「そうか。まだ安心はできんな」
「……マンダンガスは?」

 大勢ハリーがいるのでしばらく皆気づかなかった。マンダンガスがいなかった。

「あいつは逃げた。ヴォルデモートはやはりいち早くわしの所に来た。マンダンガスは動転して――姿くらましをした。わしとヴォルデモートはしばらく戦っていたが……突然奴の動きが止まった。そしてすぐ後姿を消した。その後に、ミス・ポッターを見つけたという奴の声が聞こえたんだ。わしとしたことが、ミス・ポッターに助けられたんだ」

 ムーディの言葉を受けて、皆が静かになった。ムーディの無事に安堵する一方で、全員が全員、ヴォルデモートの『ハリー・ポッターを見つけた』という言葉を耳にしたと確信したのだ。

「わしがここで見張っている。皆は疲れただろう。中で休め」
「そんなわけにいかない」

 キングズリーが首を振った。

「皆心配なんだ」

 シリウスも頷いた。そんなとき、またもや青い光が出現した。皆が瞬きを忘れてその光を見つめた。そこから現れたのは、ロンとトンクスだ。

「ハアイ……皆さんお揃いで」

 まさかこんなに大勢で出向かえられるとは思ってもみなかったのだろう。いつもカラッとしているトンクスが当惑していた。

「誰だお前は!」

 例によってムーディの洗礼を受けた後、二人と情報交換をした。

「――でも、マッドーアイが無事で良かった」

 視界の隅に、ヴォルデモートとムーディが戦っているのが見えたトンクスは微笑んだ。

「わしの力で乗りきったわけじゃない。ミス・ポッターのおかげだ」

 その意を問おうとして、ビルは口を開きかけたが、また庭が光り出したのをみて口を閉じた。

 全員が全員、固唾をのんでその光を見つめた。

「ハリー! リーマス!」

 そこから現れたのは、ハリーとリーマスだった。皆が歓声を上げて一斉に二人に駆け寄ろうとしたが、ムーディの『油断大敵!』に急停止を余儀なくされた。

 洗礼を終えると、二人は皆に迎えられた。『誰か死んだ者は!?』と一番聞きたいことを聞き、そして返ってきた答えが期待していたものだったと分かると、一気にお祭り状態になった。誰が情報を漏らしただとか、ヴォルデモートの恐怖だとかは、ひとまず頭の片隅に追いやり、今はただ今日を無事に生き抜いたことを祝った。

「マッドーアイ、ポリジュース薬の効き目は一時間じゃなかった?」

 グラスを片手に水を飲みながら、一番聞きたいことをトンクスが尋ねた。

「そのはずだが……」

 ムーディは肩をすくめた。

「皆、予定よりも早くついたから、まだ効き目が残ってるんだろう。もうすぐ解けるはずだ」
「それを聞いて安心したぜ」

 フレッドが肩をすくめた。

「色男がこんなにいたんじゃ、女の子達は目移りして困っちまう!」

 リビングはぎゅうぎゅう詰めだった。だが、それは嬉しい誤算だった。誰か一人が欠けて空いた空間など欲しくもない。

 皆の笑い声を聞きながら、ハリーは一人ハリエットの側までやってきた。ドラコと目が合った。ハリーは力なく微笑みを返し、ハリエットの髪を撫でた。

「っ、これ……」
「スネイプの呪いだ」

 無残な姿になったハリエットの髪に、ハリーは茫然とした。シリウスは苦々しい顔でやって来る。

「あいつめ、得意の切り裂きでハリエットの髪を切り裂いた。もとはハリエットを狙った呪文らしい」
「なんて奴だ」

 吐き捨てるようにハリーは言った。拳は力強く握られている。

「ところで、あー、ハリエットを護衛していたお前」
「俺か?」
「ハグリッド、君じゃない。お前だ」

 シリウスは顎でしゃくってドラコを示した。どうあっても名前を呼びたくはないらしい。

「ハリエットの髪をこんなにした奴に、何か仕返しはしたのか?」
「……いいえ」
「情けない。わたしだったら苦痛という苦痛を与えた後に墜落死という名誉を与えてやったのに」

 なぜかシリウスは勝ち誇ったように笑った。彼の他には誰も笑わなかった。

「マルフォイ」

 ハリーはポツリとその名を呼んだ。

「……ハリエットを助けてくれて、ありがとう」

 ドラコは目を見開いた。戸惑ったようにその瞳はハリーを見上げる。

「……ああ」

 二人は黙してハリエットを見つめた。本当に、今にも目を覚ましそうな寝顔だ――。

 ふわっと睫が動いた。赤みを帯びた睫は、一本一本が繊細で、長かった。瞼の奥から覗いたハシバミ色の瞳は、キラキラと輝いている。

 眠そうに、一回とろんと瞼が落ちる。だが、生まれたての子鹿が立とうとするように、瞼はもう一度震えながらゆっくり開かれた。すぐにまた眩しそうに目は細められるが、もう瞼が閉じることはなかった。

「ハリエット……」
「ハリエットが……」

 それ以上言葉が続かなかった。ハリーとドラコはそれしか言葉を知らないかのように、ただハリエット、ハリエットと口にする。やがて皆もその異変に気づいた。

「ハリエット……!」

 シリウスもその現象に巻き込まれた。ついでに、涙を溢れさせる事象も追加だ。

「ね、寝坊だぞ、ハリエット!」

 ハリーもぐすりと鼻をすする。ドラコは、ハリエットの頬に手を伸ばした。

「良かった、君が無事で、本当に」
「ハリー……」

 ハリエットは微笑んだ。そうしてゆっくり身を起こす。ハリーとドラコが慌ててそれを支えた。

「あなたの声……聞こえていたわ。ずっと私の名前を呼んでくれてた……。ありがとう――」

 目を細めてハリエットは笑った。そして『ハリー』の頭を優しく自分に近づけ、その頬にキスを落とす。

「ハリー?」

 頬に柔らかいものが触れたドラコは、真っ赤になって放心していた。ここにいるハリエット以外の皆が、『彼』がハリーでないことを知っていた。

「ハリエット……」
「あれ……?」

 少しずつ頭がはっきりし始めたハリエットは、ようやく違和感に気づいた。

「あれ……どうして? ハリーが一人、二人、三人……? は、ハリーがたくさんいる……どうして……?」

 くらっとハリエットは目眩を起こした。倒れかけたハリエットを慌ててハリー達は支える。

「なっ……なっ」

 シリウスは口をパクパクさせたまま、しばらく何も言えなかった。だが、口が動かずとも手は出せる。無言のまま、シリウスはドラコに杖を突きつけた。

「お前――!」

 周囲の大人はシリウスに飛びついて、必死になって彼を押さえた。シリウスは激怒したままぶんぶん杖を振り回す。杖の先から炎が飛び出し、タペストリーを焦がした。

 一気に騒然とした大混乱を置き土産に、ポリジュース薬の効き目は、ようやく少しずつ抜け始めていた。