■死の秘宝
08:束の間の平穏
それから、束の間の穏やかな日々が流れた。ハリエットの体調は万全ではなく、一度眠りにつくと、長らく目を覚ますことがなかった。その反動のせいか、起きているときはハリエットはすこぶる元気だった。まだ立ち上がることはできなかったが、目を覚ませばハリーかシリウスが抱えてリビングまで連れて行ってくれ、ソファで一日を過ごした。
ハリー達が、ホグワーツに行かず、ダンブルドアに託された使命を果たしに行くというのは、ハリエット以外の皆が知っていた。皆ハリエットの体調を心配して、あと数日もしたらハリー達三人がいなくなることを言えずにいたのだ。このような穏やかな日々が永遠と続くとは、ハリエットも思っていなかった。しかし、片割れが危険な旅に出、しかもそれがすぐ数日後のことだというのは、さすがに想像もしていなかった。
ハリエットは一人何も知らずに日々を過ごしていたのだ。
それとは別に、ハリエットには一つ悩みがあった。ドラコと一度も面と向かって話ができないことだ。
日中は、ドラコはいつもビルとフラーの結婚式の準備に駆り出されていた。結婚祝いの品を選り分けたり、庭小人駆除をしたり、目まぐるしく働いている。それでも、起きているときはハリエットはいつもリビングのソファにいるのだ。ドラコだって、何度かハリエットの側を通りかかるが、声をかけても忙しいからと生返事を返される。無理矢理捕まえても、どこからかハリーやシリウスが飛んできて二人っきりにはさせまいとするので、ドラコはまたスルッとハリエットの手をすり抜けていくのだ。
あんまりドラコが捕まらないので、夕食の時、テーブルの席でハリエットは言い放った。
「ドラコ、後で二人きりで話があるの」
一瞬テーブルがシンと静まりかえった。ハリエットは、テーブルの反対側に身を隠すようにしているドラコに声をかけたのだから、それなりの声量になったのだ。
シリウスは眉間に皺を寄せ、ハリーは眉をピンと跳ね上げ、他の面々はソワソワしたり、興味ない表情を取り繕いながら、実は耳をそばだてたり、忙しいことこの上なかった。
「……夜は、カトラリーを磨かないといけない……」
ドラコは小さく呟いた。モリーは『あら』と声を上げた。
「いいのよ。一人くらいいなくたって。私の家には子供がたくさんいますからね」
「甘やかすのはどうかな」
素知らぬ顔を装いながら、シリウスは何とか二人っきりになるのを阻止しようと踏ん張った。
「居候の身だ。仕事は皆に平等に分けなければ」
「マルフォイは充分働いてくれましたよ。少しくらいなんです」
モリーとシリウスの視線がかち合い、睨み合う。その間も、ハリエットはじっとドラコを見つめていた。
「いいでしょう?」
「……分かった」
これ以上逃げることもできず、ドラコは渋々といった様子で頷いた。シリウスは不機嫌そうにイライラし、ハリーはため息をついた。
食事が終わると、ハリエットはドラコを引き連れてロンの部屋まで向かった。この頃になると、ハリエットはもう一人で歩けるようになっていた。とはいえ、さすがに六階まで上がるのは息が切れた。部屋に入ると、ハリエットはすぐハリーのベッドに腰掛けた。
ドラコは、居住まいが悪そうに立ったままだった。座るように促しても、生返事を返すばかり。
ハリエットは床を見つめながら、どこから話そうかと思い悩んだ。ずっと話したいとは思っていたが、何を話そうとまでは考えていなかった。沈黙が続く。
「ありがとう……助けてくれて」
結局、ハリエットの口から出てきたのは、感謝の言葉だった。それが今の素直な気持ちだった。しかしそれが、ドラコの感情を激しく揺さぶったようだ。
「なぜ礼なんて言う? 僕はお前を裏切ったんだぞ!」
突然怒鳴られて、ハリエットの肩は跳ねた。
「ダンブルドアを殺害しようとして、死喰い人も手引きして、お前も誘拐して! お人好しにも程がある!」
「でも、それでも助けてくれたわ。私を助けたら、ドラコのご両親は……」
ハリエットの言葉はそれ以上続かなかった。ドラコが分かってないわけがなかった。苦しそうに肩で息をしている。
ドラコは、心から両親を敬愛し、とても大切に思っていた。にもかかわらず、その両親を裏切り、更にはその裏切りによってヴォルデモートが両親に制裁を加えるかもしれないのに、それでもハリエットを助けた。今のドラコの心境を思うと、嬉しいと思うことが、ひどく残酷なことだと思った。
床に膝をつくドラコに、ハリエットは駆け寄った。
「ごめんね……ごめんなさい」
ハリエットは譫言のように続けた。
「私のせいで……本当に……」
「違う……僕のせいだ。僕が悪いんだ……」
ドラコは力なく首を振った。その衝撃で床にポタリと染みを作った。
「でも私、何もできなかった……あなたは何度も助けてくれたのに、私は何も……」
「違う! 君は何度も手を差し伸べてくれた。僕が突っぱねたんだ。ダンブルドアを殺すしか方法がないと思った……そして……君を……」
ドラコは両手に顔を埋めた。そこから嗚咽が漏れる。
「ずっと気が狂いそうだった。君の叫び声が聞こえていた。それなのに、僕には何もできなかった……」
「いいの、本当に」
ハリエットは堪らなくなってドラコの頭を強く抱きしめた。
「私、あの時のことほとんど覚えてないから。記憶が曖昧なの」
「本当に記憶がないのか……? 本当に一切、何も?」
ドラコが縋るように手を伸ばした。ハリエットは笑ってその手を取る。
「フォークスのおかげかしら。あの時のことは靄がかかったように思い出せないの。だから本当に気にしないで」
「本当にごめん……」
ドラコは俯き、嗚咽を堪え、さめざめと涙をこぼした。ハリエットはその頭を優しく撫でる。
ドラコが泣き止むまでに時間がかかった。嗚咽が次第に小さくなり、止まったと思ったら、今度は急に恥ずかしくなったのか、下を向いたまま動かなくなった。ハリエットは微笑んでまたドラコのサラサラな髪を撫でた。
「ドラコがこんなに泣くの初めて見たわ」
「……うるさい」
小さくドラコが言い返したので、ハリエットはクスクス笑った。
「ねえ……」
ハリエットは、呟くようにして言った。
「私達――もう一度ちゃんとした友達になれないかしら」
そして、自分の感情は押し殺してそう言った。
ハリエットは、自分という存在に、ひとえに負い目を感じて欲しくなかった。
自分の感情に素直に涙をこぼすドラコを、ハリエットは愛おしいと思った。大切にしたいと思った。しかし、今この感情を告白すれば、ドラコは負い目から受け入れてしまうのではないかとも思った。そんなのは嫌だった。ドラコとは対等な関係でいたかった。
「もう一度、やり直せない?」
ハリエットは真っ直ぐドラコを見た。グレーの瞳はすぐに伏せられた。
「僕は……ふさわしくない」
「友達に資格なんていらないと思うわ」
ハリエットは憤慨して言い返した。
「だって、正直なところ、最初に私達が友達になったのも、一方的に私が宣言したからだもの」
そこまで言って、ハリエットは言葉を切った。
「でも、だからこそ、ずっと思ってたの。もしかして、友達だと思ってるのは私だけだったかもって……。だから、今度はドラコの返事が聞きたいの。私と友達になってくれる?」
本当は、ハリエットは想いをドラコにぶつけたかった。でも、彼の両親の生死が危ぶまれるこの状況で、そうするのは酷なことに思えた。ならせめて、以前のような――いや、もっと信頼した関係になりたいと思った。それに――友達から始まるものだってある。
ハリエットはドラコの顔をじっと見つめて待った。彼は考え込むように自分の拳を見つめていたが――やがて、首を縦に振った。ハリエットはパアッと笑みを浮かべてドラコに抱きついた。
「ありがとう! 嬉しい! これからもよろしくね!」
もしかして、普通の友達は抱きついたりしないかもと思ったが、しかし、ハーマイオニーがハリーやロンに抱きついているのは時々見たことがあったので、深く考えないようにした。
「困ったことがあったら何でも言ってね。私、絶対に助けるから!」
「いや……それは僕の台詞だろう……」
「ドラコも助けてくれるの?」
無邪気に問い返せば、いらないことを口走ってしまったと、ドラコは頬を赤くした。ハリエットはおかしくなって、また笑い声を上げてしまった。
「ねえ、じゃあ、これからは普通に話してね。忙しいからって突っぱねないでね」
「ああ……いや……でも、周りの目があるから……」
「どうして周りの目を気にするの? ドラコだってハリーと私のために作戦に参加してくれたじゃない。ドラコを受け入れてない人なんていないわ。もし何か文句言ってくる人がいたら、私が言い返す!」
主にそれはシリウスだ、とドラコは言いたくて仕方がなかった。だが、女の子に庇われては立つ瀬がないので、言い出せなかった。
「そうだ、確か夜はカトラリーを磨かないといけないって言ってたわよね? 折角だから一緒にやりましょう! もう終わってるかもしれないけど――」
言いながら、ハリエットは扉を引いた。途端にドタドタッと部屋に雪崩れてくる者達の姿が目に飛び込んでくる。
「…………」
ハリーにロン、ハーマイオニーにジニー、フレッドにジョージ……。
目が合うと、六人はにへらっと取り繕うような笑みを見せた。彼らの手には『伸び耳』があった。ハリエットは一瞬で状況を察し、ドラコはと言うと、伸び耳の、見た目から想像される利用用途と、ニヤニヤした面々の顔を見て理解した。
「やーい」
怒りか羞恥か、何も言えない二人を前に、フレッドは棒読みではやし立てた。
「泣き虫お坊ちゃんの登場だ」
そこには一切の後ろめたさもない。ドラコの怒りが振り切れた。
「さすが、ウィーズリー家は躾け方もひと味違うな。盗み聞きをするなんて」
「何だって!?」
これに憤慨するのはロンだ。羞恥を押し殺すための嫌味をそのままに受け取る。
「ハリエットに変なことをしないか、僕たちは伸び耳で見張ってただけだ――!」
「こんなに大勢で見張る必要があるのか? 野次馬根性丸出しじゃないか」
「……ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げたのは、ハーマイオニーだった。
「野次馬根性丸出しだったっていうのは認めるわ。ハリエットも本当にごめんなさい」
ハリエットは謝罪を受け入れる意味でこくこくっと頷いた。ハーマイオニーが思い詰めた顔をしているので、そっちの方が気になった。
「だって、本当に気になったのよ。二人が……どうなるか。もし――そういう雰囲気になったらって――」
ハーマイオニーが濁した言葉の意味が、ハリエットは分からなかった。しかし、ドラコは充分よく分かった。
この場にいる面々は、おそらく――いや確実に――自分の気持ちを知っている。だからこそ、この機に乗じて、ハリエットに告白するのではと勘ぐったのではないか。
わなわなと震え出すドラコを見て、ハリーはしまったとハーマイオニーの口を押さえた。しかし、着火剤は彼女だけではなかった。
「まあ、良かったじゃないか。友達になれて」
「いやいや、ドラコ坊ちゃんにとっては良くないかもしれないぞ。線引きされたわけだからな」
カッとドラコの怒りに火がついた、と思ったら、もう彼は行動を開始していた。
「アクシオ! 伸び耳!」
目にもとまらぬ速さで杖を抜き、伸び耳を三つ全てその手に収めた。そして何が起こったのか分からない六人の間を縫って階段を駆け下りる。
「これは没収だ!」
「おい! 止めろ! それは俺たちの――」
「マルフォイ! ママにバレたら、僕らただじゃ済まされないんだよ!」
バタバタと慌ただしくウィーズリー三兄弟が後を追った。ハリエット達も、顔を見合わせて後を追う。しかし、一階に降りたときにはもう時既に遅かった。ドラコとロン、フレッドとジョージの四人が、まるで犯人を追い詰めたような顔をしたモリーに詰め寄られていた。
「私にバレたら……何ですって?」
「い、いや、何でもないよ、ママ」
ロンが冷や汗を流しながら首を振る。フレッドも援護した。
「そうだよ! 俺らはドラコ坊ちゃんと親睦を深めようとしていただけさ、な?」
そしてドラコの肩に腕を回しながら、フレッドは囁いた。
「なあ、取引をしようぜ。俺らは、上で君たち二人が何を話していたか、何をしてたか、一切シリウスには言わない。だから今回のことは水に流して、それを俺たちに返してくれ、な?」
ドラコはフレッドを睨み付ける。だが、彼の肩越しに、こちらを不審そうな顔で見ているシリウスを視界に映した途端、みるみるその視線は鋭さをなくした。ドラコにとって、シリウス・ブラックは、ヴォルデモートの次に恐ろしい人物だった。
ドラコは、後ろ手にフレッドに伸び耳を渡した。フレッドの顔が歓喜で打ち震える。
「ありがとな、泣き虫坊ちゃん!」
余計な言葉を付け足したフレッドに、ドラコはカッと怒鳴った。
「ウィーズリー!」
ビクッと身体を動かしたのは、その場に何人いただろうか。それは、その場に何人ウィーズリーがいたかで判断できる。
フレッドは苦笑を零した。そしてバンバンと痛いくらいの強さでドラコの背中を叩く。
「俺たちのことはフレッドとジョージで良いぜ、な?」
フレッドはジョージを見た。ジョージもニヤニヤしながら頷く。
「もちろんだ。ドラコ坊ちゃん!」
*****
それから、少しだけ隠れ穴の雰囲気は変わった。今まで、ドラコのことは腫れ物を触るかのような扱いだったのが、何というか……遠慮がなくなってきたのだ。フレッドやジョージを筆頭に、ドラコをからかったり、怒らせたり、からかったりの毎日が続く。夕食頃になると、いつも息切れしているドラコの姿が見受けられた。
ドラコの方はというと、照れ隠しかどうかは分からないが、いつもの嫌味が炸裂するようになった。とはいえ、一口に嫌味と言っても、昔のハリーに対するような嫌味ではなく、ハリエットに向かって言うような嫌味である。ロンにはその違いが分からず、『あいつずっと大人しかったのに、ここ最近また調子に乗るようになってきたな』なんて言っていたが、ハリエットにはドラコの心境の変化がよく分かった。
そしてまた数日が経ち、いよいよ明日をハリーとハリエットの誕生日に控えたとき、ハリエットは真剣な表情をしたハリーに部屋へ呼ばれた。そこには、ロンとハーマイオニーの姿もあった。
「ハリエット」
ハリエットをベッドに座らせて早々、ハリーは重い口調で切り出した。
「僕たちは、ビルとフラーの結婚式の後、旅に出る」
「旅って、どこへ?」
ハリエットは驚いて聞き返した。
「分からない。ある目的があるんだ。ダンブルドアから託された」
「ハリーとダンブルドア先生の個人授業に関すること?」
「そう。もうハリエットには話しても良いと思うんだ」
そう言うと、ハリーは長々と語った。
ハリーとダンブルドアの個人授業というのは、ヴォルデモートの過去を探るためのものだったこと、そして、ヴォルデモートが死を克服するため、魂を七つに分け、分霊箱を作ったこと、分霊箱の一つはダンブルドアが壊し、一つはリドルの日記で、これもすでにハリーが破壊していること、ホグワーツに死喰い人が現れたあの夜、ハリーはダンブルドアと共にもう一つの分霊箱を探しに出掛けていたが、苦労して持って帰ってきた分霊箱は、R・A・Bと名乗る人物がすり替えた偽物だったこと――。
「分霊箱を壊さないと、また何度でもヴォルデモートは復活するんだ。だから、僕たちは分霊箱を見つけ出して破壊する」
「三人だけで旅に出るの?」
ハリエットは信じられない思いで聞いた。
「シリウスは? ルーピン先生や、マッドーアイ……騎士団の皆には手伝ってもらわないの?」
「ダンブルドアは、僕にやらせたがったんだ。誰にも話すなって言われた」
ハリエットは黙ってロンとハーマイオニーを見た。この場に二人がいることの意味が分かっていた。
「二人は、ハリーと一緒に行ってくれるのね」
二人は同時に頷いた。
「私、お父さんとお母さんの記憶を消したの」
そうハーマイオニーが口にしたとき、ハリエットには始めその言葉の意味が分からなかった。
「私に関する記憶よ。だって、もし私がハリーと行動を一緒にしてるってバレたら、二人を拷問して情報を吐かせようとするかもしれないから。……でも安心して。戻ってきたら、ちゃんと元に戻すつもり。それまでの間、二人はオーストラリアに居住してもらうだけなのよ」
ハーマイオニーの瞳が潤んだ。ハリエットは何も言えなかった。ロンはハーマイオニーに片腕を回した。
「僕は、黒斑病になってホグワーツには行けないって設定にすることにしたんだ。天井に屋根裏お化けがいるから、それを僕に扮させて、もし誰かがうちに調査しに来ても、黒斑病は伝染るから、誰も側に寄りたがらない。良い案だろう?」
ハリエットは力なく微笑んだ。
ロンとハーマイオニー――二人とも、危険な旅になることを覚悟で、ハリーと共に行くのだ。
ハリエットは、ハリーが自分も一緒に連れて行ってくれないことは分かっていた。我が儘は言えない。自分が足手まといになることも理解していた。
「……分かった」
長い沈黙の後、ハリエットは押し出すようにして言った。
「私……私は、ずっと待ってるわ。三人のこと。無事だけを祈って。ねえ、でも、時間があるときで良いの。両面鏡で時々報告をして欲しい。ちゃんと無事かどうか――」
「もちろん」
ハリエットが泣きそうになっているのに気づくと、ハリーは妹を抱き締めた。ハリエットは彼の肩に顔を埋めた。
ハリーを守ると、ハリーを助けると誓ったのに、今の自分は何もできないことが、腹立たしくて、後ろめたくて、悲しかった――。