■死の秘宝

15:魔法省侵入


 暑い八月は、ずっと魔法省の観察に明け暮れた。透明マントを被り、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人が、日替わりで出入りする役人を観察したのだ。もちろん、魔法省に潜入し、そしてアンブリッジが持つ分霊箱を盗み出すためである。

 シリウスはこの無謀とも言える計画に難を示した。ポリジュース薬で魔法省職員に変身するとは言え、ハリーは第一級の指名手配犯だし、ロンは黒斑病に臥せ、隠れ穴で死にかけている設定だし、ハーマイオニーも尋問に出頭しなかったマグル生まれのリストに入ってしまっている。誰が見つかっても捕まることは必至だった。

 もし三人が潜入するのならば、わたしも。

 そう言うシリウスを、ハリーは一体どうやって宥めたのか、結局三人だけで魔法省に向かうことになった。九月二日の出来事である。

 魔法省に務める立派な『大人』に化けなければいけないので、三人は屋敷でそれらしい服装に着替えた。ハーマイオニーはシリウスの母ヴァルブルガの服を借り、ハリーとロンはレギュラスの服を借りた。シリウスの服は何というか……魔法省勤めには向いてない服ばかりだったのだ。

「ロンったら、ネクタイが曲がってるわ」

 クスクス笑ってハーマイオニーはロンのネクタイを締め直した。羞恥かそれ以外か、ロンは頬を赤くして大人しくなる。

「本当に気をつけてね」

 荷物の最終チェックをしているハリーにハリエットは声をかけた。

「大丈夫だよ。たぶん昼までには戻ってくる」
「お帰りまでには、ステーキ・キドニー・パイを用意しておきます」

 クリーチャーもどこかソワソワした様子だ。心配性のハリエットやシリウスに感化されたのだろう。

 居残り組になると決めた後も、シリウスはやはり落ち着かない様子だった。名付け子達が敵の懐に飛び込むのを、自分は黙って見送らねばならないのだ。その不安は行動にも表れていた。じっとしていることができないのか、昨日出たばかりの日刊予言者新聞『セブルス・スネイプ、ホグワーツ校長に確定』という記事をくしゃくしゃに丸めるだけでは飽き足らず、消し炭にしていた。

 三人を見送った後、ハリエット達は厨房で遅めの朝食をとった。ハリー達の準備を手伝うので手一杯で、自分たちの朝食までは追いつかなかったのだ。

 朝食後は、そのまま食後のコーヒーに移った。

「しかし……厨房も見違えたな」

 ティーカップをテーブルに置き、シリウスは厨房をぐるりと見渡した。

 レギュラスの一件があってから、クリーチャーは身を入れて屋敷を隅々まで綺麗にするようになった。厨房も見違えるようになっていた。何もかもが磨き上げられ、木のテーブルだってピカピカだ。

 クリーチャー自身も清潔にするように心がけ、真っ白なタオルを着て、耳の毛は清潔で綿のようにふわふわしている。レギュラスのロケットは、常に彼の胸の上でポンポン跳ねていた。

「クリーチャーが頑張ってくれたのよね」

 ハリエットがそう言って笑うと、クリーチャーは滅相もございませんとぶんぶん首を振った。

「自分たちの手で大掃除していたあの頃が嘘のようだ」

 皮肉か本心なのか、シリウスはカラカラ笑った。さすがのクリーチャーも気まずいのか、これには聞こえない振りだ。

「ねえ、クリーチャー。今から一緒に糖蜜パイを作らない? ハリーが大好物なの」
「ご命令とあらば、クリーチャーめが作りますが……」
「私も一緒に作りたいのよ。クリーチャー、とっても料理が上手だから」
「滅相もございません」

 耳をパタパタさせてクリーチャーは謙遜する。だが、ハリエットの台詞はきっと誰もが否定しないだろう。

 事実、クリーチャーは料理の腕も驚異的に上がったのだ。ご主人様やハリー達に喜ばれたい一心で――というよりも今まで故意に料理の質を落としていただけなのか――毎回食卓に上がる料理の数々は舌鼓を打つほどおいしい。両家の坊ちゃんであるシリウスやドラコが唸るほどなのだから、否定のしようもない。

 屋敷で缶詰状態になっていると、あまりに退屈なので、ハリエットは時々クリーチャーに料理を教わっていた。代わりにハリエットはロン達の好物も教えるのだ。

「そういえば、ドラコは何が好きなの?」
「えっ?」
「食べ物。何が好きなの?」

 急に話題を振られ、ドラコは口ごもった。シリウスはすかさず口を挟む。

「わたしはなんといってもチキンだな。あっ、ホグズミードにいたときに差し入れしてくれたミートパイもおいしかった」
「シリウスがチキンを好きなのは分かりきってるわよ」

 ハリエットはクスクス笑った。ハリエットの手伝いをしながら、クリーチャーは頭の中でチキンとミートパイ、と記憶した。

「でも、二人がそうしていると、ブラック家に嫁入りに来たみたいだな」

 ハッハッハとシリウスが陽気に笑う。

「君達が望むなら、ずっとわたしの屋敷にいていいんだからな」
「シリウスったら」

 ハリエットは嬉しそうに笑みを浮かべ、クリーチャーは微笑ましく聞き耳を立て、シリウスは上機嫌に笑い――ドラコは非常に居心地が悪かった。ハリエットがドラコに話しかけてきても、シリウスが蛇の如く素早い動きでその返答をかすめ取り、主導権を握るのだ。油断も隙もない牽制ぶりに、ドラコは戦々恐々としていた。

 だが、そんな中、その空気に突如乱入者が現れた。銀色の靄が壁をすり抜け、テーブルの中央に降り立ったとき、それは狼の姿を象った。

「今朝、ダイアゴン横丁で死喰い人数名が暴れてたの。マグル生まれでもないのに、魔法使いを魔法省に突き出すって」

 狼はトンクスの声で話し始めた。

「騒ぎは一旦落ち着いたけど、今後死喰い人の警戒について、話し合いをする予定よ。もしシリウスも手が空いていたらこっちへ来て」

 伝言を伝え終えると、狼は消え去った。しばらく誰も口を開かなかった。シリウスがなかなか動かないので、ハリエットは不思議そうに彼を見た。

「シリウス、行かないの?」
「行かない」

 即答だった。

「どうして?」

 反射的に尋ねたハリエットだが、すぐに思い当たる節があった。

「まさか、私のこと気にしてる?」

 シリウスは返事をしなかった。眉間に皺を寄せてあらぬ方向を見つめている。ハリエットは回り込んでシリウスと目を合わせた。

「屋敷にずっと閉じこもってるだけなのに、危険なんかないわ。私よりも、シリウスを必要としている人がいるのよ? 行ってきて」
「…………」

 シリウスはじっとハリエットを見つめた。ハリエットは頑として譲らなかった。自分の体力不足のせいでハリーについて行けないのは納得しているが、だからといって足手まといにはなりたくなかった。

 ずっと屋敷に缶詰状態だったときの、シリウスの心境が今ならずっとよく分かった。自分は何もせずに、ただ安全な場所で皆の帰りを待つ日々。

 しかし、今のシリウスは違う。今の魔法省はヴォルデモートが裏で支配している。ヴォルデモートにとって、もはやシリウス・ブラックはどうでも良い存在なのだろう。現在は指名手配をハリー・ポッターただ一人に絞り、今ではシリウス・ブラックのシの字も出てこない。皮肉なことに、ヴォルデモートが世を台頭し始めたことによって、シリウスは外に出て行けるようになったのだ。

 そんなシリウスの存在は、騎士団にとって確実に必要とされている。表向きの職によってキングズリーもアーサーもトンクスも思うように動けない。だからこそ、シリウスが必要なのだ。

 やがてシリウスは立ち上がった。どこか憑きものが取れたような顔をしている。

「両面鏡をここに置いていく。ハリー達から知らせがあったら、わたしにも伝言をくれ。いいね?」

 ハリエットはしっかり頷いた。シリウスは彼女の額にキスを落とす。ハリエットは驚いたように目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。

「クリーチャー、あー……屋敷を、よろしく頼むぞ」
「承知いたしました、ご主人様」

 シリウスはちらちらドラコとクリーチャーを見ながら言った。クリーチャーは深く頭を下げて命令を受ける。

 シリウスが出て行くと、一層屋敷はがらんとした。やがて昼食も糖蜜パイも作り終え、ハリエットは暇になってしまった。クリーチャーはというと、掃除をしてくると言って厨房を出て行ったし、ドラコもいつの間にかいなくなっていた。

 糖蜜パイが焼き上がるまで暇なので、ハリエットは厨房を出て階段を上がった。案の定、居間にはドラコがいて、ソファで本を読んでいた。ハリエットは彼の隣に腰掛ける。

「何を読んでるの?」
「応用戦闘呪文集。グレンジャーから借りた」
「難しそうな本ね」

 試しに覗き込んでみると、細かい字がズラーッと並んでいて、一番初めに目に入ってきた呪文も、ハリエットには見慣れないものだった。

「ここでも何か呪文の練習ができたらいいんだけど」

 ハリエットは呟くように言った。必要の部屋のような場所があれば、思う存分呪文の練習ができるのだが、生憎とこのブラック家の屋敷には広い部屋はない。庭もあるが、これもそれほどの広さはない。

「確かに、実践ができないというのは辛いな。グレンジャーみたいに、理論を知ってるだけで呪文を使えたら良いんだが……」

 嫌味なんて欠片もなく、ただただ尊敬を声に乗せるドラコに、ハリエットは小さく噴き出してしまった。

 ハーマイオニーを褒めてくれるのが嬉しかったし、それを素直に言葉にしてくれたのも嬉しかった。少し前のドラコならこうはいかないだろう。一体どんな心境の変化があったのだろうか。

 笑ったのを見咎めるような視線を隣から感じたが、ハリエットは何も言わなかった。ただ黙ってドラコが読んでいる本を覗き見する。

 頑張って理論を読み解こうとする意気込みとは裏腹に、ハリエットは次第にうつらうつらしてきた。そしてついには眠気に負け、コツンとドラコの肩に頭を乗せる。

 ドラコの身体はぴしりと固まった。顔を動かさずとも、ハリエットの寝息が己の肩に当たっているのが分かった。

 本に注意を戻そうとしても、もう一文も読むことができなかった。ただ目がスーッと字面の上を滑る。

 誘惑に負けて、ドラコはチラリとハリエットの寝顔を覗き見した。あまりにも無防備なその寝顔に、思わず口元は緩む。

「――ハリエット」

 試しに小さく囁くようにして言ってみると、ハリエットは返事をするかのように小さく身じろぎをした。頬にかかる彼女の滑らかな髪の感触がくすぐったい。

 眩しそうに目を細め、じっと見入っていたドラコだが、突然ゴホンとわざとらしい咳払いがして盛大に驚いた。遠慮なく肩を揺らしてしまったので、その拍子にハリエットの頭がガクンと落ちてしまった。

「あ……寝ちゃってたみたい」

 瞼を擦りながら、ハリエットはドラコと、扉近くに立つクリーチャーとを見比べた。

「クリーチャー? そんなところでどうしたの?」
「クリーチャーはご主人様の命令を実行せねば参りません。クリーチャーは今すぐにこのソファを掃除いたします」

 クリーチャーはそう宣言し、ソファに近づいた。ハリエットは目を丸くする。

「そんなに頑張らなくても良いのよ? ソファだって昨日綺麗に掃除してくれたばかりじゃない」
「ご主人様は綺麗好きでいらっしゃるのです。クリーチャーはご主人様が快適にお過ごし頂くために、掃除をしなくてはなりません」
「クリーチャーは頑張り屋さんね」

 ハリエットがにっこり笑うと、クリーチャーはおどおどと下を向いた。ドラコは咳払いをして立ち上がる。

「部屋で本を読んでくる」
「じゃあ私は糖蜜パイの焼き上がりを見てくるわ」

 ハリエットは再び厨房まで降りた。こんがりと焼き上がった甘いパイの香りが鼻腔をくすぐる。丁度焼けたばかりのようだ。糖蜜パイを出しながら、ハリエットは昼食の準備を始めた。もうそろそろハリー達も帰ってくる頃だろう。

 丁度その時、上で物音がした。ムーディがスネイプ避けにこしらえた仕掛が作動する音がした。

 迎えに行こうと思って、ハリエットは階段を上がった。丁度昇りきったところで、誰かと鉢合わせした。ただ――誰だったのかは覚えていない。ハリエットの記憶は、そこで途絶えていた。