■死の秘宝

25:ルシウスの来訪


 ある朝居間を掃除していると、窓をコツコツと叩く音に気づいた。一瞬ウィルビーかとも思ったが、彼女は昨日ハリーに遣いを出したばかりなので、それにしては早すぎる。

 窓辺に近寄ると、足に手紙を携えたワシミミズクがいた。しばらく困惑して見つめたが、じっと窓を開けられるのを待つその姿に、ドラコのふくろうだと思い出した。

「この子、ドラコのふくろうじゃない?」

 ハリエットが窓を開けると、ワシミミズクは一直線にドラコの方へ飛んでいった。彼を受け止めてすぐ、ドラコは血相を変えた。

「ここにいることがバレたんだ……!」
「でも、どうして急に……」
「きっと、今までずっとふくろうをホッグズ・ヘッドに送ってたんだ。でも、僕達は必要の部屋にいたからたどり着けなくて……」

 ドラコはサッと窓辺に近寄った。視界の隅に、何か黒いものが姿を消すのが見えた。カーテンを閉め、ドラコはふくろうの足から手紙を紐解く。

「相手は?」
「たぶん父上だ……」

 手紙には宛名も差出人の名前もなかった。だが、上質な羊皮紙であることは一目で分かった。

 ドラコは険しい顔つきで封を切り、ざっと手紙に目を通す。

「な……なんて?」
「話がしたいと」

 読み終えると、ドラコは疲れたようにソファに身体を預けた。

「ホッグズ・ヘッドで。もし応じなければ、強制的に踏み込むと」
「危険よ」

 ハリエットはすぐに言った。

「本当にそれはお父様からの手紙なの?」
「間違いない。筆跡は父上だ」
「……無理矢理書かせたというのは?」
「もし誰かの思惑だとしても、こんな回りくどい方法はとらないだろう」

 ハリエットはローブの裾を掴み、落ち着きなくその場を歩き回った。

 父が息子を心配するというのは分かる。きっと、ルシウスはドラコを連れ戻すつもりなのだろう。ドラコが言う通り、わざわざ話し合いを提示してきたということは、ルシウスがヴォルデモートの前に息子を引き出すつもりはない……とは思う。だが、ないとは言えない。もしそうなってしまったら、ドラコは終わりだ。間違いなく殺されてしまう。

「クリーチャーを連れて行って」

 ハリエットはドラコの前に立った。

「もし何かあったら、クリーチャーが助けてくれるわ」

 しもべ妖精なら、杖も呪文もなく魔法が使える。姿くらまし防止呪文を張られたとしても、姿くらましできる。これほど心強い存在はない。

「……分かった」

 ドラコも不安そうな面持ちで頷いた。


*****


 ルシウス・マルフォイは、息子が現れたことにホッと息をついていた。だが、すぐに眉をしかめる。他でもない息子が、汚らしい屋敷しもべ妖精などと手を繋いで歩いてきたからだ。

 不快そうな表情を取り繕いもせず、ルシウスは息子をじっと睨み付けた。

 ドラコが席に座るのも待たず、ルシウスは話の口火を切った。

「マルフォイ家嫡男としての立ち居振る舞いをお前に叩き込んだと思っていたが、しもべ妖精と仲良く肩を並べて現れるなど」
「クリーチャーはハリエットを助けてくれました。僕にとっても大切な存在です」

 ルシウスは目を剥いた。信じられない者を見る目つきで息子を見る。

「本気か? 本気で言っているのか?」
「本気です」

 ルシウスは、喘ぎながら呼吸をした。額に手を当て、何かを堪えるように息を整える。

 長い沈黙に、ドラコは口を開いた。

「今日は嫡男としての振る舞いを指導するために来たのではないのでしょう?」

 ふてぶてしい物言いだ。それすらもルシウスは信じられず、込み上げてくる困惑を何とか押しとどめた。

「あのお方は、お前が下手を打ち、騎士団に捕まったとお考えだ。私も最初はそう思っていたが……シシーが、それは違うと」

 ルシウスは、まるでこの世の終わりのような顔をして続けた。

「お前が……お前が、あの小娘のために事を起こしたと。自ら騎士団に寝返ったのだと考えている。それは本当か?」
「本当です」

 一瞬の迷いもなく、一分の隙もなく、ドラコは頷いた。ルシウスは重苦しいため息をつく。

「なぜだ……なぜ、そんなことを? お前は何をしたのか分かっているのか? あのお方に反旗を翻したのだぞ」
「分かっています。全部覚悟の上で、騎士団に寝返りました」
「お前は……お前は……本当にシシーの言う通り……あの娘のために……裏切ったと言うのか? あの娘を好いていると?」
「はい」

 ドラコは再び頷いた。そして、その時初めてクリーチャーの存在を意識した。頼むからシリウス・ブラックには何も報告しないでくれと祈りながら。

「ハリエット・ポッターを愛してるんです」
「愛……」

 ルシウスは放心したように呟いた。

「愛……愛……そんなもののために、お前は私達に杖を向け、しもべ妖精と手を取り合い、敵と手を組み、あのお方を裏切ったと、そう言うのか?」
「もし母上が純血でなかったのなら、父上は母上を愛さなかったのですか? あの人の敵だったら、愛さなかったのですか?」

 ドラコは逆に問い返した。

「それならば、父上の愛は本物ではなかったのかもしれませんね」
「小童が何を言う!」

 ルシウスは唸り、今にも射殺さんばかりの視線でドラコを激しく睨み付ける。

「僕は、家を――あなた達と袂を分かつ覚悟でこちらに来ました」

 ピクリとルシウスが反応する。

「僕は……もう、『例のあの人』に忠義を尽くす意味が分かりません。両親の命を盾に取り、ハリエットを拷問し、逆らう者は皆殺しにし……。あの人が何を目指しているのかが分かりません」
「全ての魔法使いの頂点に立たれるお方になるのだ」

 ルシウスは即答した。

「この世界から役立たずのマグルやスクイブを排除し、世界を支配なさるのだ。我々純血は、今度こそ尊ばれ、その高貴なる血を後世に受け継いでいくだろう――」
「そのために人を殺すと?」

 ドラコは悲しげに問いかけた。

「僕は、人を殺したくありません。傷つけたくもないです。こんな僕を、あなたは臆病だとおっしゃいますか?」

 ドラコの声は震えてはいなかった。だが、その瞳は、嫌われることを恐れるかのように揺れている。

「僕は……僕は、ダンブルドアを前にしても、殺せなかった。どうしても殺したくなかった。そこまでしないと、僕は気づけなかった。たとえ両親の命を盾にされても、してはいけないことはあった……」
「私達を見捨てるべきだったと言うのか!?」

 ルシウスはいきり立ってテーブルを叩いた。ドラコはそれ以上の迫力で言い返した。

「いいえ、見捨てはしません、絶対に! でも、もっと抗うべきだった! あなた達の命を救って、ダンブルドアも殺さずに済む、そんな方法をなりふり構わず探すべきだった!」

 ルシウスは今や肩で息をしていた。頭に血が上り、顔が真っ赤だった。

 何度も深々と呼吸を繰り返し、必死に心を落ち着かせようと努力する。

「私達の所へ戻ってこい」

 そしてルシウスは端的に言い放った。

「それは無理です」

 ドラコはキッパリ言った。ルシウスは息子を睨み付ける。

「なんと言おうと、私は引きずってでもお前を連れて行くつもりだ」
「僕が捕まれば、開心術で全てを暴かれることでしょう。僕があの人を裏切ったことも、白日の下にさらされます」
「お前は閉心術が使える。ベラトリックスに学んだだろう」
「心は明け渡します。その覚悟です」
「父を脅すつもりか?」

 父の睨みにも、息子は怯まなかった。

「僕は……ハリエットの側にいたいんです」
「お前はあの女に欺されている!」

 ルシウスは激昂して立ち上がった。

「あの性悪の……醜い赤毛の……女狐! 惑わされたんだ! 愛の妙薬でも仕込まれたか!」
「愛の妙薬だったら、こんなに辛い思いはしなくても済んだでしょう」

 ドラコは静かに言った。

「彼女との立場の違いに苦しむことも、己の家のしがらみに苦しむことも、両親を取るか彼女を取るか苦しむことも、全てなかったことでしょう」

 自分が臆病でなかったら――愛の妙薬を飲んでさえいたら、ドラコは全てをなげうち、ハリエットの元に駆けつけることができていただろう。

「愛の妙薬だったら」

 ドラコは続けた。

「僕が彼女を拉致することも、彼女が拷問で苦しむこともなかったでしょう」

 全ては自分のせいだ。

 ハリエットが心身に消えない傷を負ったのも、ハリーやシリウス、ロンやハーマイオニーが苦しんだのも、全部、自分のせい。

 ルシウスは、力なく椅子に座り込んだ。顔を手で覆っていた。覆い切れていない眉間には、深い皺が刻まれている。

「……分かった……」

 そして絞り出したような声で言った。

「分かった……分かったから、あのお方の前には出なくていい。私が隠れ家を用意するから、せめてそこにいてくれ。連中と一緒にいたら、お前まで殺されてしまう……」
「ご心配は有り難く思います。ですが、お気遣いは無用です。彼女を守ると誓ったんです」
「……一緒にいても良い……」

 その言葉が、父の最大限の譲歩に思えた。

「娘と、一緒にいても良いから……せめて私の目の届くところにいてくれ……」
「それはできません」
「なぜだ!」
「あの人に忠義を尽くすあなた達とは一緒にいられません。今の僕とあなた達は、何を大切にするかも、何を見捨てるかも、何もかもが違うんです」

 父は苦しそうに喘いだ。皺が顔のあちこちに刻まれては消え、刻まれては消えを繰り返し、何歳も老けて見えた。

「ドラコ……ドラコ……」
「先に行ってください」

 ドラコは目を伏せ、静かに言った。

「今のあなたに背中を向ける気はありません」
「ドラコ……」

 父は目を見開き、縋るように息子を見たが、ドラコはその視線に応えなかった。

 何分も、何時間も経ったような気がした。

 やがて父はガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、力なく歩き出した。扉から出て行くその後ろ姿が、やけに小さくなって見えた。