■死の秘宝

26:熱に溶ける


 ドラコはしばらくして立ち上がった。そしてクリーチャーの手を離す。

「クリーチャー……ありがとう……」
「ハリエット様の、頼みですから……」

 クリーチャーは、その大きな瞳を動揺で目まぐるしく動かしていた。

 カウンターで品出しをしていたアバーフォースに目を伏せて挨拶をし、ドラコは階段を上った。

 そして自分が寝泊まりしている居間へ到着すると、大してない自分の荷物をまとめ始めた。物音を聞きつけたのか、アリアナの肖像画がギイッと開く。

「……ドラコ?」

 そこから赤毛の少女が姿を現した。念には念を入れて、ハリエットはこの場所に隠れていたのだ。

「終わったの?」
「……ああ」

 ハリエットは困惑しながら穴を降りてきた。

「どうして……荷物をまとめてるの?」
「僕……僕は、ここを出る」
「どうして?」

 思わずハリエットはドラコの腕に触れた。

「もしかして、お父様と一緒に行くの?」
「いや」

 ドラコは小さく首を振る。

「父上とはもう決別した。でも、あの人はまた来る。僕はここにいるわけにはいかない」
「どこへ行くの?」
「どこへでも」

 途方に暮れた顔でドラコは呟いた。ハリエットは手に力を込めた。

「私も連れて行って」
「――それは駄目だ」

 ドラコは即答した。

「君は……安全なところに行くべきだ。死喰い人が来るかもしれないから、騎士団の人たちの隠れ家へ。ミスター・ブラックと連絡を取って」
「嫌よ。私もドラコと行く」
「危険なんだ! 君は安全な場所にいるべきだ!」
「それはドラコだって同じでしょう!? 外は人さらいが横行してるって言ってたじゃない。そんなのに捕まったらどうするの!」
「僕は――僕なら安全だ!」

 ドラコは左腕を出し、シャツをまくり上げた。禍々しく浮かび上がる闇の印が、そこにはあった。

「奴らは死喰い人を恐れる。奴らの中に死喰い人がいたとしても、仲間には何もしない!」
「だからって――あの人に見つかったら、報告されたらどうするの!」
「例のあの人は、僕がヘマをして騎士団に捕まってると考えてる」

 父上から聞いた、とドラコは付け加えた。

「だから、すぐに殺されることはない」
「でも、殺されないとは限らないわ!」

 ハリエットは叫び、一層ドラコにしがみついた。

「どうしてわざわざ危険な方に行こうとするの?」

 ハリエットの頬を涙が伝った。

「私を置いて行かないで……」

 ドラコは怯んだ。だが、すぐに立ち直り、ハリエットの腕を外そうともがいた。

「僕は――君とは相容れない存在なんだ!」

 これ以上、自分に彼女が触れていて欲しくなかった。闇の印から染み出る何かが、触れたところから彼女に侵食していくような気がして、振り払おうと躍起になった。

「僕は――僕は、死喰い人だ!」

 そう宣言したとき、はっきりと彼女と自分との間で、線が引かれたと悟った。もう後戻りはできない。――いや、何を血迷ったことを言っているのか。もうずっと前から、彼女と自分との間には越えられない壁があった。この印が腕に刻まれたときに、そう理解したはずだったのに。

「ドラコはドラコよ……」
「――っ」

 ハリエットはゆっくり動いた。ドラコは動けなかった。ハリエットの言葉が、身体を麻痺させたかのようだった。

 ハリエットはドラコの左腕を取り、何を思ったのか――信じられないことに――ドラコの闇の印にキスを落とした。優しく……甘く……まるで慈しむように。

 ハリエットのハシバミ色の瞳がドラコを射貫いた。

「私……私、ドラコが好き」

 溢れる想いを声に乗せ、ハリエットは微笑んだ。

 その微笑みを見たとき、ドラコの頭は真っ白になった。彼女の一言が、出口のない思考の渦をぐるぐる回り続けた。喉がカラカラに渇き、動悸が速くなる。

 聞き間違いだろうか? いや、そんなわけはない。彼女は今、確かに――。

 越えられないと思っていた壁を、彼女はたった一言でぶち壊した。ドラコはもう何を頼りにすれば良いか、何を信じれば良いか、さっぱり分からなくなっていた。自分の中で必死に一線を引いていたのに、その指針がなくなり、ドラコの頭は思考を停止した。

「……僕……」

 ドラコは、呼吸の仕方を忘れたかのように、無意味に口をパクパクさせた。

「僕……」

 急激に衰えた頭を必死に回転させ、ドラコは言うべき言葉を必死で探した。

「僕も、君が好きだ」

 ――探していた言葉が、ようやく見つかった。

 気がついたとき、まるで服従の呪文にかけられたかのように、ドラコはそう口にしていた。彼の理性は、懸命に警鐘を鳴らした。そんな言葉は口にすべきではないと、必死に押さえようとしていた。だが、本能がそれを拒む。今は――今だけは、この痺れるほどの幸福に浸っていても良いんじゃないかと、妖しく本能が囁くのだ。

「本当? 本当に?」

 ハリエットは、ハシバミ色の瞳を大きく見開いた。そんな些細なことですら、ドラコの胸は一杯になる。

「嬉しい……」

 ――ハリエットが微笑んだ。ハリエットが僕に微笑みかけた。

 ドラコの頭から、ネジが一つ飛んだ。感極まり、もはや全てのことがどうでもよく感じられた。

 今なら、ハリー・ポッターもシリウス・ブラックも恐くないとさえ思った。

 熱を帯びた瞳が、ハリエットをじっと見つめた。ハリエットもまた、じっとドラコを見つめ返していた。

 その時になって初めて、ドラコは彼女との距離が近すぎると気づいた。いつもならば、距離が近すぎると己を律していた場面だが、今はもうどうにでもなれと思えた。熱で浮かされた頭が、理性を放棄する。

 想いが通じ合った興奮と熱は、なかなか冷めなかった。冷めるわけがなかった。その熱いくらいの余韻に背を押され、二人の距離は更に近づく――。

 バシッと大きな音が今に響いたとき、二人は文字通り飛び上がった。いきなり冷水を浴びせられたような気がした。冷や汗がダラダラと流れ、サウナ状態のこの部屋の侵入者は一体誰だと視線が辺りを這う。

「クリーチャーはご主人様の命令を果たしに参りました!」
「く、クリーチャー……」

 心臓がバクバク音を立てていた。

 乱入者はクリーチャーだった。今なら視線でクリーチャーをやれるとドラコは思った。

「な、何か用?」

 ハリエットがぎこちなく尋ねた。クリーチャーは戸惑ったようにハリエットを見、ドラコを見、そして俯く。

「……ですが、ですが……ハリエット様の命令もご主人様と同じくらい重要だとご主人様に言われました。もしハリエット様がお命じなら、クリーチャーは……」

 ドラコの顔は期待で輝いた。だが、下心があるとも思われたくなくて、ドラコは一生懸命下を向いた。ハリエットも同じ気持ちでありますように、とドラコは祈った。

「あ、あの、クリーチャー……」

 ドラコはギュッと目を瞑った。

「私……今……ちょっと都合が悪くて……。しばらくシリウスの所に行ってもらえると有り難いんだけど……」

 ドラコの呼吸が速くなった。チラリと顔を上げると、ハリエットと視線が合った。双方顔を赤くしてあらぬ方向を見る。

「承知いたしました……。クリーチャーはしばらくご主人様の下に行っています」

 来たときと同じような音を立てて、クリーチャーは姿くらましをした。

「…………」

 相手の出方を窺うような、緊張感の漂う沈黙が流れた。

 ドラコはすぐにでもハリエットの所に行きたかったが、節操がないと思われるのも嫌で、動けずにいた。しかし身体はムズムズしていた。クリーチャーの乱入ですら、高ぶった気持ちは抑えることができなかった。

「……ここにいてもらった方が良かった?」

 やがて、ハリエットがそう切り出した。恥ずかしそうな声色に、ドラコはぶんぶん首を振る。

「いや……それはこっちの台詞……」

 そして顔を上げれば、ハリエットと目が合った。

「私は……二人っきりが良かったから……」

 戻りかけていた理性が、またはじけ飛んだ。ドラコはゆっくり彼女に近づいた。緊張のあまり距離感を図りかねたドラコは、気づけば先ほどと同じくらいの距離になった。ハリエットは、今度は恥じらうように下を向いていた。震える手でドラコは、彼女の頬に手を添えた。彼女はハッとして顔を上げる。

 ジリジリと視線が熱を持っているようだった。少しずつ……本当に少しずつ、ドラコは彼女に顔を近づけた。どちらからともなく目を瞑り、そしてすぐ後――唇が重なった。

 ドラコはその間、何も考えられなかった。ふわふわとした浮遊感に、もしかしたら自分は今箒で飛んでいるのかもしれないと思った。

 しかし、突如その幸せな夢は終わりを告げる。――息苦しさを感じたのだ。ドラコは真っ赤な顔で、名残惜しさと共にハリエットから離れた。

 深々と息を吸いながら、どうやら、とっくの昔に理性を放棄したドラコは、鼻で呼吸をするという本能すら忘れかけていたのだと気づいた。

 そんな格好悪いところには気づかれたくなくて、ドラコは取り繕ったような咳払いをした。

 自分が呼吸を忘れるなんて間抜けなことをしなければ、あの幸福な時間はまだ続いていたのだ。

 チラリとハリエットに視線を向ければ、彼女は、頭のてっぺんが見えるほど下を向いていた。表情が見れなかったのは残念だが、しかし、艶やかな赤毛の合間から垣間見える耳がほんのり赤く染まっているのを目撃して、また気分は浮上した。

「ハリエット……」

 ドキドキしながら彼女の名を呼べば、彼女はゆっくり顔を上げた。しかし視線は合わない。彼女の注意を引きたくて、ドラコはハリエットの手を取った。

「夢みたいだ……」

 ドラコは小さく呟いた。ハリエットは恥ずかしそうにはにかんだ。またしてもドラコの胸が高鳴る。

「抱き締めても……?」

 躊躇いがちにドラコが尋ねると、ハリエットはこくんと頷く。

 おずおずと両手を広げ、ドラコはその腕にハリエットを閉じ込めた。ふわりと鼻腔をくすぐる香りにドラコは目を閉じる。

 熱くもなく、冷たくもなく、そんな人肌が心地良かった。ハリエットの柔らかさが、よりドラコの心を安らかにしていく。

「ドラコ……」

 ハリエットが切なそうに呟いた。ドラコはビクッと肩を揺らした。

 自分の名が、これほどまでの攻撃力を持つとは思わなかった。しかし動揺したことを悟られたくなくて、ドラコはじっと我慢した。

 やがて、ちょっとした衝動を抑えられなくなって、ドラコはおずおずと手を伸ばし、ハリエットの頭を撫でた。サラサラとした髪の感触で思いのほか心安まり、ドラコは表情を緩ませてなで続けた。すると、もしかしてハリエットも気に入ってくれたのか、ドラコの方へ、そうっと頭を寄せた。思わず彼女を抱き締めるもう一方の手に力が入る。

 今なら空をも飛べそうな気がした――もちろん箒無しでだ――。

 しかし、そろそろドラコは焦り始めていた。ハリエットの熱に直に触れていたせいで――もちろん己の熱も相まって――自分は汗をかいてるんじゃないかと危惧した。これほど近ければ、きっと汗の臭いだって分かるはずだ。汗臭いと思われたら、もう一生彼女に触れられないほど自分の中の幼気な部分が挫かれそうな気がして、ドラコは後ろ髪引かれる思いで渋々彼女から離れた。

 しかし、それでもドラコの手は、まだ名残惜しげにハリエットの肩に置かれている。そこだけドラコの理性の声が届かなかったようだ。

「座らない?」

 ドラコのローブをくいっと引っ張り、ハリエットが言った。

 久しぶりにハリエットの声を聞いた気がした。可愛い声だと思った。

「ああ」

 対して、ドラコの方は掠れた声が出た。なんて声だと思った。

 ドラコとハリエットは、機械仕掛け人形のように、ぎこちなくソファに腰を下ろした。先ほどまで互いの息がかかるほど側にいたくせに、今は拳一つ分の距離が空いていた。

「ねえ、ドラコ……」

 緊張した声でハリエットが言った。

「出て行くって話は……」

 ドラコは一瞬正気に返った。己が宣言した言葉を、今の今まで忘れていた。

「い……」

 ドラコは葛藤した。自分の立場は分かっている。だが、想いが通じ合った今、それがそんなに大切なことかとも思った。難しく考えなくても良いのでは?

 今やドラコの理性は、ふくろうの涙ほどしかなかった。

「今は、忘れることにする……」

 ドラコは理性から目を逸らした。

 今は……今は、一旦忘れても大丈夫だ。折角――折角の――。

「今だけじゃなくて……これからもずっと忘れて……。側にいて……」

 ハリエットの言葉は、強力な忘却呪文だった。そんな考えは最初からなかったと言わんばかり、ドラコの頭から跡形もなく消え去った。

 絶対に『オブリビエイト』を唱えただろう彼女の唇は、赤く色づいていた。ドラコの視線はそこに釘付けになる。

 不自然に空いた空間に手をつき、ドラコはハリエットに顔を近づけた。ハリエットもまた、ドラコの方に身を寄せ、少しだけ顔を上向きにする。

 とろりと柔らかい唇が合わさった。ドラコはハリエットの腰に腕を回し、引き寄せた。一瞬唇が離れたが、またその距離はゼロになった。

 互いの熱で蕩けそうなくらい暑い一時だった。