■死の秘宝

36:戦いに向けて


 作戦会議の途中で、スネイプ達三人をどうするかという話になった。その最中、ハリエットはふとウィルビーがいないことに気づいた。キョロキョロ辺りを見回すと、彼女の小さな鳴き声が途切れ途切れ聞こえてくる。

 導かれるようにしてその場所へ行くと、そこにはスネイプがいた。後ろ手にローブに縛られたまま、されるがままウィルビーにつつかれている。

「ウィルビーにも嫌われてるようだな」

 シリウスが皮肉げに言った。とはいえ、ハリエットから手紙が届けられるたび、自分もウィルビーに噛まれているので、内心複雑な心境なのだ。

 しかし、ハリエットはシリウスの言葉など耳に入っていなかった。ただスネイプとウィルビーだけを見つめ、思案していた。

 一見攻撃しているようにしか見えないウィルビーのその行動は、実は愛情表現だ。しかし、ウィルビーがスネイプに懐くような出来事は今までにあっただろうか? 確かに、二年前、一度怪我したウィルビーを手当てしてもらったことはあるが、それ以降関わりはなかったはずだ。たった一度で、こんなに懐くものなのだろうか――。

「ハリエット、ドラコ!」

 深い思考に陥りかけたハリエットを、アバーフォースの声が現実に引き戻した。彼は、大広間の扉から、大股でこちらに近寄ってきていた。

「俺のパブを何人もの生徒が次々に姿現ししてるぞ。お前達の仕業か?」
「避難してるんです、すみません」

 少しだけ申し訳なくなってハリエットが言った。

「まあいい。一言言ってもらえると助かるがな」

 そういうアバーフォースも、臨戦態勢だった。杖は油断なく右手に収まっている。

「追加の人員も連れてきた。ニンファドーラ・トンクスに、オリバンダーとロングボトムの祖母だ」

 開け放たれた扉から、驚くべき速さでミセス・ロングボトムとトンクスが姿を現した。ミセス・ロングボトムは、ハリー達に挨拶した後、キビキビとした動作で孫の下へ走って行く。トンクスの方も、気もそぞろに挨拶をし、すぐさまルーピンの下へ駆けつけた。互いを心配するあまり、ちょっとしたいざこざが勃発していた。息子のテディはトンクスの母親が面倒を見ているという。

 最後に現れたのは杖作りの老人だ。ハリエットは目を丸くする。

「こんにちは、ハリエットさん」
「オリバンダーさん……」

 オリバンダーは、にこにこ近寄ってきた。今からホグワーツは戦場になるというのに、その顔にかつての恐怖はなかった。

「ここは危険です。どうしてホグワーツに――」
「皆さんの力になりたかったからじゃ。何でも、自分の杖がない人もいるとか」

 オリバンダーは懐からいくつかの箱を取りだした。中には新品の杖が入っていた。

 杖が折れたハリーや、奪われたままのハーマイオニー、ルーナが喜んでやってきた。

「以前わしの店で買われた時にも伝えたと思うが、杖の方が魔法使いを選ぶんじゃ。今回は誰でも使いやすいような杖を作ってきたが、また戦いが終わった後にわしの店に来てくれると嬉しい。きっとまた皆さんにピッタリの杖が手に入ることじゃろう」

 三人が杖を選び終えると、オリバンダーは大広間中に大きな声で呼びかけた。

「誰か他に杖を持ってない人はおらんかね? 杖はまだたくさんあるぞ!」

 スネイプ達は、地下牢の研究室に閉じ込めることになった。人質にすることもできるが、人質の有無によって、ヴォルデモートが言動を変えるわけがないので、その案は却下された。

 アーサーとビルによって三人は引っ立てられていった。その後ろ姿を見ながら、オリバンダーがハリエットに近づく。

「どこかで見たことがあると思ったら、あの人じゃよ。ハリエットさん」
「何がですか?」
「地下牢で、ハリエットさんに声をかけていた男がおると言ったじゃろう? セブルス・スネイプ――黒檀にドラゴンの心臓の琴線。確かにあの人じゃ」
「……スネイプが?」

 ハリエットは囁き返した。オリバンダーは確かに頷いた。

「わしも信じられんが……あなた達は親しかったのかのう? それだったら、あの男があなたを救おうとした説明もつくが……」
『まるでハリエットさんのことを助けたいと思っているような口調だったものじゃから――』
 オリバンダーが以前言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。ハリエットはもう一度スネイプの方を見たが、彼はもう大広間から出た後だった。

 また作戦会議が再開されたが、ハリー達はそれから抜け出し、手をこまねいてロンとハーマイオニーを近くに呼んだ。空席になっていた席に座り、顔を突き合わせる。

「僕たちは皆と別行動だ。――残る分霊箱はナギニ。ナギニをやっつけないと」
「ハッフルパフのカップも破壊しないとね」

 ロンが声を上げた。

「それは君たちに頼むよ」

 ハリーは額を押さえながら言った。

「傷が痛むの?」
「もう何時間も前からずっとだ。大丈夫。ヴォルデモートがずっと怒りに駆られてるから――」
「名前を言っちゃ駄目だ!」

 ロンが大きな声で叫んだ。ウィルビーが驚いたように羽ばたく。

「ロン、あいつを何と呼ぼうが、もはや同じことだよ。あいつはもう、僕がどこにいるのか知ってる」
「そうね。ヴォルデモートはもうこっちに向かってるのかしら? 大蛇はあの人が連れているんだから、私達はあの人の居場所を見つけないといけないわ。さあ、ハリー、あの人の頭の中を見るのよ!」
「見たいときに見れるわけじゃないんだ。さっきからやってるけど――」

 ハリー達の声を聞きながらも、ハリエットはどこかぼんやりしていた。ウィルビーはまたいつの間にかハリエットの肩に戻っており、指を噛んでいる。

「大丈夫か?」

 ハリエットが思い詰めたような顔をしているので、ドラコが小さく尋ねた。ハリエットは曖昧に頷いた。
『ハリー・ポッターを俺様に差し出せ』
 何度も聞いたことのある声だ。ヴォルデモート。以前、すぐ側でその冷たい声を耳にしたことがある。

 絶対に間違えてはいけないと分かっていた。だが、見誤ってもいけない。

 ハリエットは、深い思考の海に沈んでいった。自分ですらそのその全貌を知らない、暗くて冷たい深海――。

「どうした?」

 額に手を当てたまま、動かなくなったハリエットを視界の隅に捉え、シリウスが寄ってきた。

「具合が悪いのか?」

 シリウスがハリーとドラコの間で目線を行ったり来たりさせた。

「分かりません。急に静かになって……」
「ハリエット、無理をするな。安全なところにいてくれ。いいな?」

 シリウスはハリエットの背を優しくさすり、また騎士団の輪の中に戻っていった。

 当のハリエットは、微動だにせず、俯いたままだ。心は己の記憶の底にいた。

 ――きっと、この記憶は永遠に閉じておいた方が良い。おそらく、ハリエットが後遺症に苦しまないように、フォークスがわざわざ記憶を閉じてくれたのだろう。その方が、一生苦しまないで済むから。

 でも、それではいけない気がする。何かを思い出さないといけない気がする。

 ベラトリックスの耳障りな笑い声がする。ヴォルデモートが、ハリエットに何か語りかけている。誰かが、ハリエットの耳元で囁いている――。
『ハリエット・ポッター……』
 なんて悲しみに満ちた声だろうと思った。絶望と悔恨と、この世の全てを恨むかのような声色にも聞こえる。
『このままではお前が死んでしまう……。情報を吐け。さすれば命まではとられん。我輩が命乞いをしてやる。だから、どうか、どうか……』
 靄と共に消える言葉尻は、最後にその名前を口にした。
『リリー……』
 最後に小さく聞こえたその声を思い出したとき、ハリエットは徐に立ち上がった。立ちくらみがして、思わずよろめいたが、誰かがそれを支える。

「大丈夫か?」

 ドラコが下からハリエットを覗き込んだ。

「気分が悪いなら、ホッグズ・ヘッドに――」
「スネイプ先生のところに行きたいの」

 ポツリとハリエットが呟いた。

「なぜ?」
「聞きたいことがあるの」

 ハリエットは口早に言った。

「どうしても、どうしても今が良いの。話を聞いたら、私も戦いに参加するわ」

 席を立ち、歩き出したハリエットを見て、ハリーは声をかけずにはいられなかった。

「ハリエット? どこに行くの?」
「スネイプの所に行ってくる」

 ドラコが代わりに答えた。ハリエットはもうテーブルの端にいた。

「なんで――」
「聞きたいことがあるそうだ。すぐに戻ってくる」
「気をつけてよ!」

 ハリーが叫んだが、ハリエットの耳には届いてなかった。

 ホグワーツ城内は、敵を迎え撃つため、教師や生徒、騎士団員が奔走していた。

 玄関では、ネビルと他に六人ほどの生徒を連れて嵐のように走り去るスプラウトとすれ違った。全員が耳当てをつけ、大きな鉢植え植物のようなものを抱えている。

「マンドレイクだ!」

 走りながら振り返ったネビルが大声で言った。

「こいつを城壁越しにあいつらにお見舞いしてやる! きっと嫌がるぞ!」

 廊下の端まで来たとき、城全体が揺れた。大きな花瓶が、爆弾の炸裂するような力で台座から吹き飛ばされたのを見て、ハリエットは、死喰い人達の破壊的で不吉な呪いが城を捉えたことを悟った。

「スネイプに何を聞きたいんだ?」

 歩きながらドラコが尋ねた。ハリエットはまだ考えをまとめていなかったので、答えあぐねた。

「もしかしたら、スネイプ先生がウィルビーを助けてくれたんじゃないかって思うの。グリフィンドールの剣がどこにあるか、ハリーに知らせてくれたのも。ウィルビーは先生に懐いてるようだったし、先生の守護霊は牝鹿よ。もしかしたら、グリモールド・プレイスの屋敷にいたとき、私達を助けてくれたのもスネイプ先生かもしれないわ。どう思う?」
「どうって……」

 唐突にも思える推理に、ドラコは面食らったようだった。しかし、すぐに熟考するように沈黙する。やがて、充分に考えがまとまり、口を開く。

「僕も、そう言われると、一つだけ気になったことがある。ずっと前――プリベット通りからポッターや君を移送させた時、僕達を襲ってくる死喰い人の中に、スネイプがいたんだ。切り裂き呪文はスネイプの十八番だったらしいが――二度、失敗してた。近距離だったけど、スネイプは二度とも失敗し、その二度とも他の死喰い人に当たった」
「二度も? スネイプ先生が?」

 ハリエットは驚いて聞き返した。

「やっぱりおかしいわ。スネイプ先生が見逃そうとしてたって考えられない?」
「仮にもしそうだとして、どうやって聞き出すんだ? 大人しく答えてくれるとは思えない」

 ハリエットは押し黙った。しかしドラコは、答えを求めていたわけではなかった。

「何のために僕がいると思ってる? 狡猾なスリザリンに任せろ」

 ドラコが、らしからぬ悪戯な笑みを見せた。ハリエットも思わず苦笑を零す。

「期待してるわ」

 再び歩き出したところで、またしても城中が揺れた。どこかで爆発音のような音と、叫び声が聞こえてくる。思っていた以上に近くから聞こえてきた怒号に、ハリエットは反射的にドラコに身を寄せた。ドラコはそれを拒まず、むしろ力強く抱き締めた。

「戦いが始まったら、きっと混戦状態になる。誰がどこにいるのかも分からなくなるだろう。それでも、僕から離れないでくれ」

 懇願するようにドラコが囁いた。

「君を失うのは――耐えられない」

 声が詰まって、ハリエットは返事ができなかった。代わりに、抱き締め返すことで精一杯気持ちを伝える。

 あっと小さく息を呑む声が聞こえた。ハリエットとドラコはすぐに離れた。振り返ると、男子トイレからひょっこり顔を出した生徒が見えた。彼はすぐにまたトイレに引っ込んだが、ハリエットの目は見逃さなかった。

「コリン?」

 そして男子トイレに近づく。

「コリンでしょ? どうしてこんな所に? 未成年の生徒は皆、とっくの昔にホグワーツから避難したわ」

 コリンはトイレからゆっくり出てきた。気まずそうに顔を俯かせている。だが、ハリエットの前まで来ると、パッと紅潮した顔を上げた。

「でも、僕も皆と一緒に戦いたいんです! DAのメンバーとして、僕もホグワーツを守りたいんです!」
「それでもよ。お願い、分かって。あなたに何かあったら、デニスやご両親は悲しむわ。ホグワーツを守るために、DAのメンバーとして立ち上がってくれた。それだけで充分なの」

 コリンは、俯いたまま小さく頷いた。今や、コリンはハリエットよりもずっと大きくなっていた。つい数年前までは、カメラを持ってハリーとハリエットをパタパタと追いかけ回していたというのに。

「そうだわ、コリン。ウィルビーも一緒に連れて行ってくれない?」

 そう言って、ハリエットはウィルビーをコリンに差しだした。

「私についてきちゃったの。お願い」
「分かりました……」

 コリンはおずおず手を伸ばした。ウィルビーはいやいやとその手から逃げ回ったが、ハリエットが叱ると大人しくなった。

 コリンはしっかりとウィルビーを抱えた。彼の手の中の小さなふくろうを撫でると、彼女は不満たらたらに一鳴きした。

「コリン、気をつけてね」

 軽く背伸びをしてコリンの頬にキスをすると、彼はぶわっと顔を真っ赤に染め上げ、何度も首を縦に振った。

「い、い、行ってきます。お、お二人ともお気をつけて!」

 バタバタと慌ただしくコリンは階段を駆け上がった。その後ろ姿が、昔のコリンを彷彿とさせて、ハリエットはクスッと笑った。

「じゃあ行きましょう」

 だが、数歩と歩き始めたところで、ドラコがぐいと腕を引っ張り、引き留める。

「僕にはしてくれないのか?」
「何が?」
「……キス」

 一瞬、何を言われたのか分からなくて、ハリエットはきょとんとした。だが、みるみる羞恥や非難、困惑など、いろいろな感情のこもった目でドラコを見つめ返した。

「今は戦いの真っ最中よ……。これ以上無駄な時間を過ごすわけには――」
「無駄じゃない」

 あくまで真面目な顔のドラコに、無駄よ、とは言いきれなかった。

「――ウィーズリーの言うとおり、今っきりしかないかもしれない」

 どちらかが死ぬかもしれない――それを暗に示唆していた。ハリエットはそれ以上言い返すことができなかった。

 力を抜き、ハリエットはドラコと向き直った。怒られた後のようにしょんぼり肩を落としたドラコは、先ほどのコリンよりもずっと小さく見えた。ハリエットはドラコの腕に手をかけ、伸びをして――少し冷たいその頬に唇を押し当てた。ハリエットはすぐに離れようとしたが、ドラコはハリエットの腕を掴んだまま離さない。そのまま強く腕を引かれ――気づけば唇が塞がれていた。一瞬驚き、ハリエットは目を見開いたが、細められたグレーの瞳と目が合い、またすぐにギュッと瞑る。

 息ができなくなる前に、唇は離れた。しかし依然として二人は抱き合ったままだった。ドラコが掠れた声で囁く。

「――行こう」

 彼の腕の中で、ハリエットはこっくり頷いた。