■死の秘宝

38:叫びの屋敷


 ヴォルデモートは、朽ち果てた屋敷のある一室に立っていた。――叫びの屋敷だ。

 そこからでは、城を襲撃する音はくぐもり、遠くに聞こえていた。板のないただ一つの窓から、城の建つ場所に遠い閃光が見えてはいたが、部屋の中は石油ランプ一つしかなく暗かった。

「ご主人様!」

 歓喜に打ち震えた声で、ベラトリックスが部屋に駆け込んだ。ヴォルデモートはゆっくり振り返る。腹心の部下の腕に抱えられている少女を見ると、僅かに目を見開き、そして満足そうに笑った。

「随分時間がかかったようだが……よくやった、ベラ、ドロホフ」

 そして彼の視線は、続いてドロホフの更に後ろのスネイプに注がれる。

「ところで、俺様の招集に応じなかったのは何か深い訳があるのか、セブルス?」
「スネイプは下手を打ったんです。まんまと騎士団の一味にしてやられたようで、自室で無様に縛られていました」

 口を挟んだベラトリックスに対して、ヴォルデモートはさして気にした様子もなく、歪んだ笑みを浮かべた。

「お前にしては珍しいな、セブルス。油断したのか?」
「申し訳ございません、我が君。不意を突かれました」

 ヴォルデモートのすぐ近くで、ナギニは海蛇のようにとぐろを巻いてゆっくり回っていた。星をちりばめたような魔法の球体の中で、安全にポッカリと宙に浮いている。

「まあいい。俺様は今からセブルスに話がある。ベラ、ドロホフは下がれ。先に森へ行っていろ」

 ねぎらいの言葉が思っていたよりも少なく、ベラトリックスは一瞬不満をその顔に過ぎらせたが、口答えはしなかった。ベラトリックスが再びハリエットを抱え上げたのを見て、スネイプが眉を上げた。

「我が君、その小娘はいかようにするおつもりで?」
「人質に。妹のためならハリー・ポッターも俺様の下にやってくるだろう」
「それならば、私めに小僧を探すようお命じください。私めがポッターを連れて参りましょう。我が君、小娘を盾にすればあやつはすぐにのこのこと出てくるでしょう。どうか」
「小娘を連れてきたのは私だ! 手柄を横取りするつもりか?」
「黙れ! 先に行ってろと言っただろう!」

 ヴォルデモートはベラトリックスを冷たく見据えた。ベラトリックスは震え上がり、ドロホフと共に、煙のような姿で窓から飛び出した。ハリエットは置いたままだった。ヴォルデモートの怒りに触れ、自分たちの身に被害が及ぶのを恐れたのだ。

 気を失ったハリエットを除けば、二人っきりになったその場所で、ヴォルデモートがスネイプに向き直った。

「報告によれば、抵抗勢力は崩れつつある。お前の助けも無しで。……熟達の魔法使いではあるが、セブルス、今となってはお前の存在も大した意味がない。我々はもう間もなくやり遂げる……間もなくだ。しかし、一つ問題が残っているのだ」
「我が君?」

 スネイプが問い返した。ヴォルデモートはニワトコの杖をゆっくり上げる。

「この杖はなぜ俺様の思い通りにならぬのだ?」
「わ――我が君? 私めには理解しかねます。我が君はその杖で極めて優れた魔法を行っておいでです」
「違う。俺様がなしているのは普通の魔法だ。この杖は約束された威力を発揮しておらぬ。この杖も、昔オリバンダーから手に入れた杖も、何ら違いを感じない」

 スネイプは無言だった。ヴォルデモートは部屋の中を歩き始める。

「俺様は時間をかけてよく考えたのだ、セブルス……俺様が、なぜお前を呼び戻したか分かるか?」
「いいえ、我が君。しかし、戦いの場に行くことをお許し頂きたく存じます。どうかポッターめを探すお許しを」
「お前もルシウスと同じことを言う。二人とも俺様ほどにはあやつを理解しておらぬ。わざわざこちらから出向かなくとも、あやつは妹を取り戻しに来る」
「しかし、我が君。あなた様以外の者に誤って殺されてしまうかもしれず――」
「死喰い人達には明確な指示を与えている。ポッターを捕らえよ、奴の友人達は殺せ――多く殺せば殺すほどよい――しかし、あやつは殺すな、とな。しかし、俺様が話したいのは、セブルス、お前のことだ。お前は俺様にとって、非常に貴重だった。非常にな」
「私めが、あなた様にお仕えすることのみを願っていると、我が君にはお分かりのことでしょう。しかし、我が君、この場を下がり、ポッターめを探すことをお許しくださいますよう――」
「言ったはずだ、許さぬ!」

 ヴォルデモートが振り向き、叫んだ。

「俺様が目下気がかりなのは、あの小僧とついに顔を合わせたときに何が起こるかということだ。疑問があるのだ。俺様の使った杖が二本とも、ハリー・ポッターをし損じたのはなぜだ?」
「わ、私めには分かりません、我が君」
「分からぬと?」

 ヴォルデモートは冷たくスネイプを見下ろした。

「俺様のイチイの杖は、何でも俺様の言うがままに事をなした。ハリー・ポッターを亡き者にする以外はな。オリバンダーを拷問したところ、双子の芯のことを吐き、別な杖を使うようにと言いおった。俺様はそのようにした。しかしルシウスの杖はポッターの杖に出会って砕けた」

 スネイプはもうヴォルデモートを見てはいなかった。暗い目は守られた球体の中でとぐろを巻く大蛇を見つめたままだ。

「俺様は三本目の杖を求めたのだ。ニワトコの杖――死の杖だ。アルバス・ダンブルドアの墓からそれを奪ったのだ。この長い夜、俺様は考えに考え抜いた。このニワトコの杖は、なぜ伝説通りに正当な所有者に対して行うべき技を行わないのか……そして俺様はその答えを得た」

 スネイプは無言だった。その目が、僅かに下を向く。ヴォルデモートの後ろ――地面にうつ伏せになっていたハリエットがぴくりと身体を動かしたのだ。

「おそらくお前は既に答えを知っておろう? お前は賢い男だ。お前は忠実な良きしもべであった。これからせねばならぬことを、残念に思う」
「我が君――」
「ニワトコの杖が俺様にまともに使えることができぬのは、俺様がその真の持ち主ではないからだ。ニワトコの杖は、最後の持ち主を殺した魔法使いに所属する。お前がアルバス・ダンブルドアを殺した。お前が生きている限り、ニワトコの杖は真に俺様のものになることはできぬ」
「我が君!」

 スネイプは抗議し、杖を上げた。

「これ以外に道はない。セブルス、俺様はこの杖の主人にならねばならぬ。杖を制するのだ。さすれば、俺様はついにポッターを制する」

 ヴォルデモートはニワトコの杖で空を切った。だが、スネイプには何事も起こらなかった。しかし、次の瞬間、大蛇の檻が回転し、スネイプは叫ぶ間もなくその中に取り込まれていた。頭も、そして肩も。ヴォルデモートが蛇語で呟く。

「殺せ」

 大蛇の牙が、スネイプの首を貫いた。悲鳴が二つ上がった。痛みにもがく悲鳴と、恐怖に囚われた悲鳴だ――。ヴォルデモートは緩慢な動作で振り返る。立ち上がったハリエットが視界に映った。

「先生!」

 スネイプの顔は血の気を失い、蒼白としていた。そのままがくりと床に膝をつく。ヴォルデモートが魔法の檻に杖を向けると、檻はスネイプを離れてゆっくり上昇し、スネイプは首から血を噴き出して横に倒れた。

「スネイプ先生!」

 ハリエットが駆け寄ると、瞳孔が広がっていくスネイプの暗い目と目が合った。スネイプの震える手がハリエットに杖を押しつけていた。ゼイゼイ漏れる細い息が、彼の死に際が近いことを知らせている。

「エピスキー……エピスキー!」

 杖を受け取り、ハリエットは何度も呪文を唱えた。しかし、患部は癒えても、既に流れ出たおびただしい量の血はもはや元に戻せない。

「無駄なことだ。直に毒で死に至る」

 ヴォルデモートは吐き捨てるように言ったが、ハリエットは何の反応も返さなかった。スネイプの震える手がハリエットの頬を、頭を撫でた。今にも眠りに落ちそうな、重たい瞼から黒い瞳が覗いている。やっと彼と目が合った気がした。

 決然としてハリエットは立ち上がり、振り返った。

「ダンブルドア先生は私を見捨ててなんかいなかったわ。スネイプ先生はあなたの味方じゃなかった」
「戯れ言を……」
「ダンブルドア先生の仲間だったの。あなたは、一度もそれに気づかなかった。――あなたは、スネイプ先生が守護霊を呼び出すのを見たことがないでしょう?」

 ヴォルデモートは答えなかった。

「スネイプ先生の守護霊は牝鹿よ。私達の母と同じ……。スネイプ先生はずっと母のことを大切に思っていたのよ。あなたはそれに気づかなかった」

 ヴォルデモートは静かに首を振った。

「スネイプはあの女が欲しかった。だから命乞いもした。だが、あの女が死んでからは、女は他にもいるし、より純血の、より自分にふさわしい女がいると認めた――」
「もちろん、あなたにはそう言うでしょうね。でも、スネイプ先生は母が死んだ後もずっと大切に思い続けたのよ。そして私達を守ってくれていた。手助けをしてくれた。あなたにはこの感情が理解できない?」

 ヴォルデモートは無言で杖を振るった。咄嗟にハリエットは盾の呪文を出したが、防ぎきれず、吹き飛ばされた。体勢を戻す間もなく放った武装解除は、呆気なくヴォルデモートの杖から飛び出した閃光に相殺された。続けざまに、逆に武装解除される。

「次に一度でも抵抗をしたら、死の呪文がお前の胸を貫く」

 ヴォルデモートの杖先は真っ直ぐにハリエットに向けられていた。もうハリエットに抵抗する術は残っていなかった。