■死の秘宝

39:生き残った男の子


 ハリエットは、ヴォルデモートに抱えられながら空を飛んでいた。遙か下のホグワーツで、目の眩むような閃光があちらこちらで飛び交っている。ヴォルデモートの高笑いが、耳元をよぎる激しい向かい風をかき消すまでに響き渡っていた。

「お前達は戦った」

 ヴォルデモートの声が一層轟いた。すぐ側からではない。地面からせり上がってくるような響きだった。ホグワーツと周囲一帯の地域に向かって話していることがハリエットには分かった。

「勇敢に。ヴォルデモート卿は勇敢さを讃えることを知っている。だが、お前達は数多くの死傷者を出した。俺様にまだ抵抗を続けるなら、一人、また一人と全員が死ぬことになる。そのようなことは望まぬ。魔法族の血が一滴でも流されるのは損失であり浪費だ。ヴォルデモート卿は慈悲深い。俺様は我が勢力を即時撤退するように命ずる。一時間やろう。死者を尊厳を以て弔え。傷ついた者の手当をするのだ」

 いつの間にか、目の眩むような閃光が止まっていた。

「さて、ハリー・ポッター、俺様は今直接お前に話す。お前は俺様に立ち向かうどころか、友人達がお前のために死ぬことを許した。俺様はこれから一時間、『禁じられた森』で待つ。もし、一時間の後にお前が俺様の下に来なかったならば、戦いを再開する。その時は俺様自身が戦闘に加わるぞ、ハリー・ポッター。そして見せしめにお前の妹を殺す。その後でお前を見つけ出し、お前を俺様から隠そうとした奴は、名付け親も親友も、恩師も学友も、最後の一人まで罰してくれよう。――一時間だ」

 言い終えると、ヴォルデモートはぽっかりあいた森の空き地に向かって急降下を始めた。空き地の中央にはたき火がごうごうと燃えさかっている。

 たき火の近くにヴォルデモートが降り立つと、死喰い人が一斉に頭を下げた。まだ仮面とフードをつけたままの死喰い人もいれば、顔を晒しているものもいる。ベラトリックスもグレイバックも、ドロホフもヤックスリーもいた。ルシウス・マルフォイは打ちのめされ恐怖に怯えた表情をし、ナルシッサは目が落ち窪み、心配で堪らない様子だった。

「我が君……スネイプは?」

 ドロホフは恐る恐るといった様子で問いかけた。

「奴は死んだ」

 短い言葉だったが、だからこそ死喰い人達へ恐怖はいち早く伝わった。恐れおののき、互いに恐怖に引きつった顔を見合わせる。

「俺様のために……。セブルスもさぞ名誉に思ったことだろう」
「ハリエット……!」

 その時、森の奥地から押し殺すような声が響き渡った。聞き覚えのあるその声にハリエットが顔をそちらに向ければ、その視線の先にはハグリッドがいた。彼の大きな身体が、近くの木にギリギリと縛り付けられている。

「ハグリッド!」
「どうしてお前さんがこんな所に……ハリエットまで殺すつもりか!」

 ハグリッドは目を剥き、ヴォルデモートに向かって吠えた。ベラトリックスがニヤニヤしながら彼に近づく。

「我が君、小娘を殺す前に、私が痛めつけても?」
「ベラ、それはならぬ。殺す前にまた正気を失ってもつまらん」

 ベラトリックスはしごく残念そうな顔でハリエットを見た。

「もしもハリー・ポッターが来なければ、妹はお前にやろう。奴の目の前で、お前が殺すのだ」

 ベラトリックスは二イッと口角を上げる。ハリエットは毅然としてその視線を受け止めた。もう彼女は恐くなかった。

 ヴォルデモートは、それから死喰い人達からホグワーツの状況を聞き出した。ハリー側にどのくらいの被害があったのか、どこの守りを破ったのか。

 尋ねられたドロホフが、続けて犠牲になった死喰い人の名を告げようとしても、ヴォルデモートはどうでも良さそうに遮って他の質問をした。

 ハリエットはヴォルデモートから離れ、たき火に寄り添うようにして立っていた。

 夜の森は寒かった。――否、気温が低いわけではない。ヴォルデモートが醸し出す、恐ろしいまでの殺気とこれから予感される行く末にハリエットは身体を震わせていたのだ。

 ――誰が犠牲になったのか。誰が死んでしまったのか。ロンやハーマイオニー、ドラコは大丈夫だろうか。シリウスは?

 そして何より。

 ハリーがここに、たった一人で来てしまうのではないかと思うと恐ろしくてならなかった。

 悔しいが、ヴォルデモートの言うとおりだ。ハリーは、必ずここにやって来る。自分のせいで、他の誰かが傷つくのを黙ってみていられるような人ではないのだ。

 チラリとヴォルデモートに目を向ける。最後の分霊箱であるナギニは、彼のすぐ側で巨大な球体に守られながら、宙を浮いていた。残念ながら、ここにはグリフィンドールの剣もなければ、バジリスクの牙もない。こんなに近くに分霊箱があるのに、ただの人質として指をくわえてみていることしかできないのが腹立たしかった。

 サクッと地面を踏みしめ、誰かがハリエットの近くに寄ってきた。顔を不安で曇らせたナルシッサだった。彼女はヴォルデモートを気にしながらハリエットに近づき、そして耳元で囁いた。

「ドラコは……ドラコは、生きていますか? 城にいるのですか?」

 ほとんど聞き取れないほどの微かな声だった。縋るような色を含んでいる。

「はい」

 ハリエットは囁き返した。ドラコとは、スネイプの研究室で別れたきりだ。だが、ベラトリックスの様子から、殺されていないだろうことは分かっていた。あの場にはスネイプもいた。きっとドラコが殺されないよう――もしくはうまく逃げ出せるよう力を貸してくれたはずだ。

 ハリエットの返答にナルシッサは息を呑み、そして安堵の吐息を漏らした。温かい息が、ハリエットの首をくすぐる。

 死喰い人は、ほとんど私語もせずウロウロとその場に立ち尽くしていた。ただ時折たき火がはぜる音だけが暗い森に響き渡る。

「ドロホフ、ヤックスリー、偵察に行ってこい。すぐ側まで来ているかもしれん」

 名を呼ばれた死喰い人が、徐に動き出し、地面を踏みしめながら暗い森へと姿を消した。二人はなかなか帰ってこなかった。もしややられたのでは、と死喰い人がざわめく中、二人は空き地に戻ってきた。

「我が君、あいつの気配はありません」

 ドロホフが言った。ヴォルデモートは表情を変えなかった。ゆっくりとニワトコの杖を長い指でしごく。

「あいつはやってくるだろうと思った。あいつが来ることを期待していた」

 誰もが無言だった。誰もが恐怖に駆られているようだった。赤い蛇のような瞳が、ハリエットに向けられる。

「寸前で怖じ気づいたようだな。あいつはお前を見捨てた。ダンブルドアのように……。お前は、皆の前で見せしめに殺されるのだ。その後で兄も後を追わせて――」
「見捨ててないぞ」

 どこからか、意志の強い声がした。間違えようもない、ハリーの声だった。ほぼ同時に、暗闇から突然ハリーが現れた。たちまち巨人が吠え、死喰い人達が一斉に立ち上がる。叫び声、息を呑む音、そして笑い声まで沸き起こった。

「ハリー! 止めて!」

 ハリエットは力の限り叫んだ。まだ間に合う。マントを持っているはずだ。マントを取り出して、それを被れば、今ならまだ――!

 力なく笑って、ハリーがハリエットを見た。ハリエットは硬直し、そしてすぐに駆け寄ろうと足を踏み出したが、ナルシッサに強く腕を掴まれ、たたらを踏む。

 ――そんな顔が見たいわけじゃなかった。どうして、杖も持たず、諦めたような顔で私を見るの――!

「止めろ、駄目だ! ハリー、何する気――」
「黙れ!」

 ハグリッドも叫んだ。だが、ベラトリックスが叫び、杖の一振りでハグリッドを黙らせた。

「ハリー・ポッター」

 ヴォルデモートは囁くようにその名を口にした。

「生き残った男の子」

 死喰い人は、誰も動かずに待っていた。ハリエットは、もはやナルシッサに抱き締められるようにしてその場に縫い止められていた。この細い身体のどこにそんな力があるのだとハリエットはもがく。だが、その戒めからは決して抜け出せなかった。

 ヴォルデモートは、ゆっくり杖を上げた。

「アバダ ケダブラ!」

 ヴォルデモートの杖先から、眩しい緑の閃光が放たれた。それは真っ直ぐ飛び、ハリーの胸に確かに直撃した。

「いやああああ!」

 ハリエットの悲鳴が森中に響き渡った。ハリーは、ゆっくりゆっくり、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

 ――動かない。微動だにしない。ハリーは、うつ伏せになって地面に倒れていた。左腕は不自然な角度に曲げられ、口はポカンと開いている。まるで、今にも話し出しそうに――。

「ハリー!!」

 だが、何度その名を呼んでも、彼は返事をしない。ハリエットはその場に崩れ落ちた。

「ハリー……」

 空き地は、騒然としていた。慌ただしい足音と、囁き声や気遣わしげに呟く声が満ちる。虚ろな瞳で視線をずらせば、ヴォルデモートが地に伏しているのが視界に入った。

「あいつは……死んだか?」

 ヴォルデモートは誰の助けも得ず、自らの力で立ち上がった。ハリーに死の呪文を放ったとき、何かが起こったようだが、今のハリエットにはそんなことどうでも良かった。

 ただ……ヴォルデモートが生き延び、ハリーが死んでしまった。

 その事実だけが胸にぽつんと残った。

「お前」

 ヴォルデモートの声と共にバーンという音がして、痛そうな小さな悲鳴が聞こえた。

「あいつを調べろ。死んでいるかどうか、俺様に知らせるのだ」

 ハリエットの背後から、そろそろとナルシッサが出てきた。誰一人としてハリーに近づかない中、彼女は彼の側に膝をついた。彼女の手が、ハリーの顔に、瞼に、胸に触れる。

 やがてナルシッサは手を引っ込め、身体を起こした。

「死んでいます!」

 ナルシッサの宣言に、歓声が上がった。死喰い人達が勝利の叫びを上げ、足を踏み鳴らす。

 ハリエットは、とめどなく涙が頬を伝うのが分かった。堪えきれない嗚咽が、一瞬遅れて耳に入ってくる。

 ――死んだ。死んでしまった。ハリーが死んでしまった。

 ずっと一緒にいた。両親がいないことも、互いを抱き締めることで慰め合ってきた。魔法学校に入学するのだと、ダーズリーから逃れられるのだと手を取り合って喜んだ。ロンとハーマイオニーという、かけがえのない親友もできた。シリウスという名付け親とも出会えた。

 ハリーとの大切な思い出が、目まぐるしく脳裏を駆け回る。でもしまいには、ハリーの最後のあの諦めたような笑顔が浮かび、ハリエットの胸を焦がす。

「ああ……ああ……」
「分かったか?」

 ヴォルデモートが歓声を凌ぐ甲高い声で叫んだ。

「ハリー・ポッターは俺様の手にかかって死んだ! もはや生ある者で、俺様を脅かす者は一人もいない! よく見るのだ! クルーシオ!」

 ハリーの身体は宙に持ち上げられた。だらりとした身体が空中に放り投げられる。

「止めてええっ! お願い! ハリー!」

 ハリエットは走り寄ろうとしたが、突然身体が硬直し、その場にもんどり打って倒れた。誰かに呪文をかけられたのだ。

 ――ハリーの身体が汚されていた。辱められていた。

 宙に浮いた身体は、一度、二度、三度と地面に打ち付けられた。眼鏡が吹っ飛び、身体は土にまみれる。それでもハリーの身体はぐったりと動かなかった。最後にもう一度地面に打ち付けられたハリーを見て、空き地全体に嘲りと甲高い笑い声が響き渡った。

「さあ」

 ヴォルデモートが言った。

「ハリー・ポッターは充分生を全うした。最後に妹の命を救ったのだ。奴も本望だろう」

 ヴォルデモートがハリエットを見据える。金縛りは解けていた。だが、ハリエットにはもう動き出す力が残っていなかった。

「城へ行くのだ。そして奴らの英雄がどんなざまになったかを見せつけてやるのだ。死体を誰に引きずらせてくれよう? いや――待て」

 改めて笑いが起こった。

「貴様が運ぶのだ。貴様の腕の中なら、嫌でもよく見えるというものだ。ハグリッド、貴様の可愛い友人を拾え。眼鏡もだ――眼鏡もかけさせろ――奴だと分かるようにな」

 ドロホフがわざと乱暴に眼鏡をハリーの顔に戻した。だが、縄を解かれたハグリッドは、優しくハリーを持ち上げた。ハグリッドの両腕は、激しいすすり泣きで震えていた。

「行け」

 ヴォルデモートの言葉で、ハグリッドは絡み合った木々を押し分け、森の出口に向かってよろめきながら歩き出した。死喰い人は歓声を上げ、その後を追う。動けないハリエットを、誰かが助け起こした。

「行くのです――」

 ナルシッサの声だった。彼女は、ハリエットの肩に手を置き、前へ導いた。ハリエットはそれに沿ってただ機械的に足を動かした。何度も転びそうになったのを、ナルシッサが支えた。

 騒がしいまでの歓声の最中、ナルシッサが何度か囁いた。しかしそのどれも聞き取れなかったし、聞く気力もまた残っていなかった。杖を持ったナルシッサの手が、ハリエットのローブのポケットに差し込まれた。すぐにその手は引っ込められたが、その時、彼女の手に杖は握られていなかった。

「ハリー・ポッターは――」

 彼女が何か言いかけた。

「ベイン!」

 しかしそれは、ハグリッドの突然の大声に遮られる。

「満足だろうな、臆病者の駄馬どもが。お前達は戦わんかったんだからな? 満足か、ハリー・ポッターが――死――死んで――?」

 ハグリッドは言葉が続かず、新たな涙にむせた。ケンタウルス達は、皆黙って彼の腕の、固く目を閉じたハリー・ポッターを見つめていた。群れの側を通り過ぎると、やがて森の端にたどり着いた。

「止まれ」

 ヴォルデモートは、ハグリッドの側を通り過ぎ、前へ進んだ。そして魔法で拡大した声でホグワーツ中に話し始める。

「ハリー・ポッターは死んだ。お前達が奴のために命を投げ出しているときに、奴は自分だけ助かろうとして逃げ出すところを殺された。お前達の英雄が死んだことの証に、遺骸を持ってきてやったぞ。勝負はついた。『生き残った男の子』は完全に敗北した。もはや戦いの手は収めなければならぬ。抵抗を続ける者は誰であっても虐殺されよう。その家族も同様だ。城を棄てよ。俺様の前に跪け。さすれば命だけは助けてやろう。そしてお前達は、我々が共に作り上げる、新しい世界に参加するのだ」

 校庭も城も、静まりかえっていた。

「来い」

 ヴォルデモートを先頭に、再び死喰い人達は歩き始めた。ナルシッサに押されるようにして、ハリエットも足を踏み出した。