■秘密の部屋

12:戻った記憶


 その日は、絶好のクィディッチ日和だった。にもかかわらず、ハリエットは医務室に向かい、ハーマイオニーは調べることがあると図書室へ向かった。折角のハリーの勇姿なのに、とロンはぶうたれていたが、ハリー含む選手達が入場してきたときには、すっかりそんなことを忘れて手を叩いて歓迎した。

 だが、選手達が箒に跨がったところで、マクゴナガルがメガファンを使ってアナウンスした。

「この試合は中止です!」

 一斉に野次が沸き起こる。それはそうだ。これからというときに中止だなんてあり得ない。

「先生、そんな!」
「全生徒はそれぞれの寮の談話室に戻りなさい。そこで寮監から詳しい話があります。皆さん、できるだけ急いで! 固まって動くのですよ、さあ、早く!」

 マクゴナガルは、着替えようと更衣室へ向かうハリーに声をかけた。

「ポッター、私と一緒にいらっしゃい」

 そして、ハリーに駆け寄ってきたロンにも痛ましげな顔を向ける。

「そう、ウィーズリー、あなたも一緒に来た方が良いでしょう」

 ハリーとロンは嫌な予感がした。秘密の部屋に関する事件が起こったとしか思えなかった。ハリーとロンに共通する人物――ハリエットかハーマイオニーだ!

「少しショックを受けるかもしれませんが……。また襲われました。二人一緒にです」

 医務室の前でそうマクゴナガルに言われたとき、心臓が止まる思いだった。ハリエットとハーマイオニーだ……。

 マクゴナガルの後に続いて、二人は医務室に入っていく。マダム・ポンフリーが、長い巻き毛の六年生の女子学生の上にかがみ込んでいた。そして、その隣のベッドには――。

「ハーマイオニー!」

 ハーマイオニーは、悲しそうな顔で石化していた。

「二人は図書室の近くで発見されました。床には手鏡が落ちていました」

 マクゴナガルは丸い鏡をハリーの手に置いた。

「グリフィンドール塔まであなた達を送っていきましょう。私も、いずれにせよ生徒たちに説明しないとなりません」

 医務室を出たところで、ハリー達はハリエットと遭遇した。

「あの……あの、ハーマイオニーが……」

 ハリエットはひどく取り乱していた。相変わらず顔色が悪い。

「ええ、誠に残念なことに、ミス・グレンジャーが被害を受けてしまいました。ミス・ポッターも私たちと一緒に寮に戻りますよ」
「でも……私、ハーマイオニーに……」

 おどおどしながら、ハリエットは唇を噛みしめ、下を向いた。今にも気を失ってしまいそうな様子だった。ハーマイオニーの心配故か、それとも積み重なった不調か。

「いいでしょう。あなたも顔色が良くないようですし、医務室に泊まりますか?」

 ハリエットは何度も頷いた。

「分かりました。マダム・ポンフリーには私から説明しましょう。今日は絶対に医務室から出てはなりませんよ。分かりましたね?」
「はい」

 ハリーは、最後にハリエットに声をかけたが、彼女の耳には届いてないようだった。

 彼女の横顔を見て、ハリーはふと不思議に思った。ハリエットは、医務室に行くといっていたのに、今でどこに行っていたのだろう。それに、ハーマイオニーが犠牲者だというのは、誰も知らないはずだ。寮生は、談話室に戻ってから寮監に説明を受けるはずだったのに。

 ――ハリエットは、一体誰からハーマイオニーのことを聞いたのだろうか?


*****


 ハーマイオニーのベッドの側の椅子に座りながら、ハリエットは茫然としていた。

 ハーマイオニーが、石になってしまった。彼女の手を握っても、固く冷たい感触が押し返してくる。もう彼女はハリエットの名を呼んでくれない。悲しげな顔が、胸を締め付けた。

 ハリエットには、微かな記憶があった。ハーマイオニーの声だ。
『ハリエット……目を覚まして! 誰かに……そう、誰かに操られてるのよ!』
 その時の自分が何をしているのかは分からない。ただ、怯えたように震えるハーマイオニーの後ろ姿だけが記憶に残っている。

 何か……忘れている。それは以前からあった感覚だ。ポツポツと空白の時間があり、意味も無く癇癪を起こした時期もあったし、原因も分からない不調に悩まされた時期もあった。

 二年生にはいって、何か変わったことといえば、ハリエットにはリドルの日記しか思い当たらない。それはもう確実だった。ドラコによってどこかに捨てられた日記はなぜかハリーの手にあり、どうやって返してもらおうと画策していたら、いつの間にか自分の机の上にあったのだ。そして、戻ってきたのをみると、安堵のあまり、またひどく日記にのめり込んでしまうのだ。

 日記……日記が捨てられないのならば、壊さなくては。

 何を……何で? 火で燃やしても日記は燃えなかった。じゃあ、何なら日記を壊せる?

 カサリ、と手の中で何かが音を立てた。見ると、ハーマイオニーが何か紙のようなものを握っているのが見えた。石になった手から紙を取り出すのは一苦労だった。ようやく取り出した紙は、図書室の、とても古い本のページを千切ったものだった。

 そこにはバジリスクについて説明が書かれてあった。

 バジリスクは、怪獣の中でも最も珍しく、最も破壊的であること。毒牙による殺傷とは別に、バジリスクの一睨みは致命傷で、直接見たものは即死すること。バジリスクは蜘蛛の天敵なので、蜘蛛が逃げ出すのはバジリスクが現れる前触れであること。バジリスクにとって致命的なものは雄鶏が時を作る声であること。

「あ……あ」

 目を見開いて、ハリエットはよろめいた。体勢を崩して、椅子から転がり落ちる。痛みはなかった。痛みなんかどうでも良かった。

「そう……そうだったの」

 いや、本当は自分でも分かっていたのかもしれない。ただ、恐くて恐くて、気づかない振りをしていただけで。

「私が……継承者だったのね」

 口角が上がる。自嘲の笑みだった。

 覚えている。思い出した。

 雄鶏をこの手で絞め殺したことも。秘密の部屋を開いたことも。そこからバジリスクを連れ出したことも。ミセス・ノリスを襲わせたことも。コリンを、ジャスティンを、首無しニックを、ペネロピーを……ハーマイオニーを石にしたことも。

 よく……よく、覚えていた。自らの手で下したのだから、それも当然だ。

 雄鶏の苦しそうな声が耳から離れない。

 ミセス・ノリスの逆立った毛も忘れられない。

 ハリエットが声をかけて嬉しそうな顔をしたコリン。ハリエットを見て訝しげな顔になったジャスティン。具合の悪そうな顔をしたハリエットを見て心配そうに声をかけた首無しニック。ハリエットが声をかけても、決して振り向かなかったペネロピー。鏡越しに目が合ったハーマイオニー。

 全員この手で石にした。石になってしまった。物言わぬ石に。

 ハリーは皆から継承者だと疑われていた。パーセルマウスだというだけで、怯えられ、避けられた。ハリーの苦悩はすぐ近くで見ていた。にもかかわらず、ハリエットは何も知らない顔をして、平気な顔をして、彼の側にいたのだ。継承者は、ハリーのすぐ側にいたのだ。

 日記を……このままにしてはおけない。

 元凶はハリエットだ。だが、日記を野放しにしておいたら、また新たな被害者が出てしまう。

 ――日記を、壊さなくては。

 でも、どうやって?

 絶望するハリエットの肩に、誰かが手を置いた。痛いくらいに、その誰かはハリエットの肩を掴む。

「日記はどこだ」

 ドラコの声だった。ハリエットは思わず安堵して、堰が切れたように涙をボロボロ流した。ローブの中に手を突っ込み、日記を差し出す。

「壊さないと」
「でも……どうしても駄目なの。捨てようとしても、壊そうしても駄目。いつも私の手元に戻ってくる」

 ドラコは杖を取り出し、思いつく限りの呪文を唱えた。だが、日記は傷一つつかず、ドラコの手の中にあった。

「……僕が持ってる」

 ドラコはローブに日記を突っ込んだ。ハリエットは縋るようにドラコの腕を掴んだ。

「駄目よ、駄目。そんなの駄目……。あなたが……」
「こういう闇の魔術の品にはそれ相応の処分の仕方がある」

 ドラコは日記をローブの上から押さえ、踵を返した。ハリエットは慌てて椅子から立ち上がり、彼を追う。

「待って、駄目よ。止めて、危険なの!」
「医務室に戻れ。顔色が悪い」

 ドラコはハリエットの制止も聞かず、ハリエットもまた、ドラコの言うことを聞かなかった。

 ドラコは階段を目指して歩いていた。もうすぐ夏休みだ。それまで日記を手元に置き、休暇になったらすぐにボージン・アンド・バークスに行き、日記を処分してもらおうと思っていた。

 ドラコの足は迷いがなかったが、しかし、ふと後ろからシューシューと空気の漏れ出るような音が耳に飛び込んできた。どこかで聞いたことのある音に、ドラコは足を止め、振り返る。しかし、そこにはハリエットしかいない。ハリエットは、ドラコと目が合うと首を傾げた。

「どうかした?」
「いや……」

 急に寒気を感じ、ドラコは身震いした。無意識のうちに日記がまだそこにあるかポケットを押さえて確認する。

「ドラコ……」

 ハリエットはドラコに近づいてきた。そして彼の頭を両手で固定する。

「何だ、急に……?」
「振り向かないで」

 何か重たいものがドサッと地面に落ちる音がした。シューシューと先ほどと同じ音がし、『それ』がこちらに近づいてくる。

 確実に何かが近寄ってくる気配に、ドラコはパニックになった。

「後ろで何が起こってる!」
「大丈夫。絶対に振り向かないで。あなたは石にはさせないわ。――オブリビエイト 忘れよ」

 恐怖に目を見開かれた目がとろんとする。ドラコはうつろな表情になった。

 ハリエットは後ろからドラコの両目を覆った。自身も目を閉じ、シューシューと口から空気を漏らす。二人のすぐ側を通り、巨大なヘビはそのままパイプの中に戻っていく。

 完全に音が聞こえなくなってから、ハリエットは目を開け、徐にドラコのポケットから日記を取り出した。
『彼はスリザリン生だ。純血だ。石にすれば僕の信条に反する』
 リドルの声が頭の中で響いた。
『魔力が足りず、直前の出来事しか消せなかったが……充分だろう。もうすぐで全てが終わる』
 彼はクスクス笑った。
『お節介が徒になったな。純血ならば、大人しく静観していればいいものを』
 ハリエットは、日記を手に、また医務室へ戻った。