■アズカバンの囚人
02:大きい黒犬
大きなトランクをズルズル引きずりながら、ハリー達はマグノリア・クレセント通りまで来ていた。だが、すぐに疲労を感じ、どちらが言うでもなく低い石垣にがっくりと腰を下ろした。
「……ごめん」
しばらくして、ハリーがポツリと呟いた。
「ううん」
ハリエットは短く答えた。
「それよりも、これからどうする? ヘドウィグ達、ロンの所に行かせなきゃ良かったわね」
「マグルのお金もないしね。透明マントを被って箒で飛ぶのは?」
「二人乗りってこと? 短い時間ならまだしも、長時間ならおすすめはできないわね」
「二人乗りしたことあるの?」
やけに現実味を帯びた言い方に、ハリーは純粋に訊ねた。ハリエットは内心ドキリとした。
「えっ、ううん、ないわよ。なんとなくそう思っただけ」
「ふうん」
気のない返事をして、ハリーは首を傾げた。妙に視線を感じた。直感で振り向けば、何かが視界に映る。ハリーは後ろの垣根とガレージの間の隙間を指さした。
「ねえ、あそこに何かいない?」
「恐いこと言わないでよ……」
ハリエットは怯えたが、しかし、何かがいると言われて、知らない振りはできなかった。恐る恐る視線を向けた先には、確かに黒い何かがいる。
「ルーモス」
「はっ、ハリー、今魔法――」
「一回も二回も一緒だよ」
ハリーが点した光は、ガレージを煌々と照らした。そこに浮かび上がったのは、大きな黒い犬。落ちくぼんだ目が二つぎょろりとこちらを見ている。
「犬だわ!」
ハリエットは明るい声を上げた。
「おいで!」
ゲッとハリーはハリエットを見た。ハリーも動物は嫌いではない。しかし、あんなに大きな犬は、正直危険なのではと思った。野良犬なら、腹を空かせているかもしれないし、突然人間に飛びついてくるかもしれない。ハリーは立ち上がって杖を構えた。
兄の気も知らずに、ハリエットはその場にしゃがんで黒犬に手をこまねいた。犬は、なかなか近寄ってこなかった。その割に、こちらをジッと見つめ、動こうとしない。
辛抱強くハリエットは待った。こういうときのハリエットをなめてはいけない。五分でも十分でも余裕で待つからだ。
黒犬は、一歩二歩と、ハリエットに近づいていった。ハリエットが右手を差し出せば、黒犬はおずおず鼻を近づけた。
「首輪もしてないし、きっと野良犬だわ」
犬が身を寄せてきたので、ハリエットは満面の笑みでわしゃわしゃと撫でた。
「近くで見ると結構可愛い顔してるね」
ハリーも近づいてきた。
「でも、すごく痩せ細ってる。ご飯食べてないのかな」
ハリーの声に、ハリエットは喜々とした表情を浮かべた。ポケットに手を入れ、中からハンカチでくるまれた包みを取り出す。
「こういうこともあろうかと、ベーコン盗んできたの」
広げたハンカチの上には、四枚の大きなベーコンが並んでいた。
「四枚って、結構大胆だね」
「コツが分かってきたのよ」
ふふっとハリエットは笑った。
「あっ、ねえ……」
ハンカチごと地面に置こうとして、ハリエットはおずおずとハリーを振り返った。だが、言わずとも双子の片割れはすぐに分かった。
「いいよ。ハリエットの好きなようにして」
「ありがとう。……ほら、お食べ」
ハリエットはハンカチを地面に置いた。脂ののったベーコンが艶々と輝いている。犬は、しばらくハリエット達とベーコンを見比べたが、やがておずおずと前足で一枚のベーコンを引っ張って食べた。よほどお腹が空いていたのだろう、あっという間にベーコンがなくなった。
「くうん……」
「どうしたの? 全部食べて良いのよ」
ハリエットは犬を撫でたが、彼は動かなかった。
「この子、もしかして遠慮してるの?」
「気にしないで良いのに」
さっさと食べろ、といわんばかり、犬はベーコンをハリエット達に押しやった。ハリエット達はしばらく戸惑っていたが……やがてベーコンを一切れずつ食べた。
「おいしい」
「残りはあげる。どうぞ食べて」
残った一切れを黒犬の前に差し出した。犬は嬉しそうにベーコンを食べた。
「おいしい?」
「ワフッ!」
黒犬を撫でながら、ハリエットはうっとりと首を傾げた。
「ねえ……この子の名前、スナッフルはどうかしら?」
ハリーは固まった。
「え、ハリエット……。まさか、飼う気じゃないよね?」
「え?」
双子は顔を見合わせた。きょとんした表情がそっくりだった。
「そのつもりだけど?」
「ハリエット!」
珍しくハリーは怒った声を上げた。だが、ハリエットも譲らない。
「だってこの子、こんなに痩せてるのよ? こんな所で独りぼっちにしたら可哀想だわ。いつか死んじゃう!」
「だからって、ホグワーツは犬も連れて行けるか分からないよ」
「猫がオーケーなら犬だって大丈夫よ!」
ハリエットは自信満々に答えた。
「でも、この犬……スナッフル? すごく大きいよ」
「魔法界の生き物は皆大きいじゃない。これくらい可愛いものよ」
「そうかなあ」
スナッフルは、ハリーとハリエットの間に落ち着いた。尻尾を振りながら、大人しくおすわりをする。
「でも、本当にこれで箒に乗るって計画が駄目になったね」
「いいじゃない。何とかなるわ」
ハリエットは足を投げ出して空を見上げた。暗くなった夜空には、星が瞬き始めていた。
「――ごめん。本当にごめん」
ハリーはまたも謝った。
「何回謝るのよ。ハリーがやらなかったら、私がしてたわ」
「ハリエットが?」
「もちろん。私だって我慢ならなかったもの。マージおばさんを爆発させないだけ、ハリーはよく我慢したわ」
「ハリエット……過激だよ」
「そうかしら?」
ハリエットは悪戯っぽく笑った。
「……やっぱり、どうしても許せなかったんだ。父さんと母さんをあんな風に言うなんて。だんだん頭に血がのぼって、何も考えられなくなって」
「ハリー……」
ハリエットはポンポンと兄の肩を叩いた。
「僕は退学だ……」
絶望の声を上げてハリーは項垂れた。スナッフルは驚いたように鼻先をハリーに近づけたが、ハリエットと違って、ハリーはそんなに単純ではなかった。ハリエットは、励ますようにハリーの背を撫でた。
「もし……そうね、もしそんなにハリーが不安なら、私も魔法を使うわ。私も退学になる」
「ハリエット?」
パッとハリエットは立ち上がった。トランクから杖を取り出し、掲げる。
「ハリエット、駄目だ――!」
「そうね、何の魔法にしようかしら。どうせなら、スカッとする魔法が良いわ。ううん……」
迷いあぐねていると、耳をつんざくようなバーンという音が響き渡った。目の眩むような明かりが辺りを照らし、双子はギュッと目を瞑った。
「ナイト・バスがお迎えに来ました」
声がして目を開けると、目の前に大きなバスが立っていた。三階建ての紫色のバスで、とっても派手だった。
「迷子の魔法使い、魔女達の緊急お助けバスです。ご乗車ください。お望みの場所までお連れします。私はスタン・シャンパイク、車掌です」
ハリー達は未だ目をぱちくりさせていた。二人揃って微動だにしないので、スタンは丁寧口調も忘れて肩をすくめた。
「でえ、乗るのかい? 乗らないのかい?」
「の、乗ります……?」
言いながら、ハリーはハリエットを見た。何が何だか分からなかったが、ハリエットもとりあえず頷いた。
それから、名前を聞かれたので、ハリーは咄嗟にネビルを、ハリエットはハーマイオニーの名を述べた。
「このバスはどこに行くの?」
「お望みしでえで、どこへでも行くぜ」
「じゃあ、ロンドンまで頼める? いくらかかるの?」
「十一シックル。十三で熱いココアがつくし、十五なら湯たんぽと好きな色の歯ブラシがついてくらあ」
トランクから巾着を出し、ハリーは二人合わせた料金を支払った。ハリーの後ろからハリエットが顔を出す。
「犬は大丈夫ですか? プラスで料金はかかりますか?」
「犬ぅ?」
スタンは疑い深く言い返した。
「どの犬っころでえ?」
「この子です」
ハリエットは、自分の後ろで行儀良くお座りしているスナッフルを示した。スタンは仰天して声を張り上げた。
「冗談でえ! そんな汚え犬っころのせられるかい」
「で、でも、この子友達なんです! すごく大人しい子で……。私の膝の上に載せておきますから」
「それでも駄目でえ! 帰った帰った!」
スタンはシッシと手で追いやる。途方に暮れてハリーとハリエットは顔を見合わせた。
「ワンッ!」
スナッフルは大きく一鳴きすると、駆けだして数メートル距離を開け、またハリー達を見た。
「スナッフル?」
「ワンッ!」
また鳴いて、スナッフルは再び数メートル距離を開けた。まるで、さよならするかのように名残惜しげにハリー達を見ている。
「驚いた……」
ハリーは驚嘆の声を上げた。
「あの子、気を遣ってる?」
「私たちがバスに乗れるように?」
「人間の言葉が分かるのかな? いや、そんなわけないよね」
「でも、折角お友達になれたのに」
「また会えるよ」
まだハリー達がグズグズしているので、スナッフルはもっと遠くに行った。もう顔も見えないくらいだった。
「元気でね! スナッフル!」
ハリエットは大きく手を振った。ハリーも片手を上げた。スナッフルは甲高く鳴いた。
「早く乗ってくんせえ」
スタンが急かすので、慌てて二人はバスの奥に乗り込んだ。ハリエットはいち早く窓際のベッドを確保し、スナッフルを見た。
しばらくしてバスは出発した。マグルの車なんて比じゃない速さで、あっという間にスナッフルの姿は見えなくなった。