■アズカバンの囚人

04:吸魂鬼の恐怖


 無事キングズ・クロス駅に到着すると、ウィーズリー夫妻と別れを惜しんだ。アーサーは話があるとハリーを隅に呼び、ロンはモリーに手作りのサンドイッチを手渡され、もごもごお礼を言って汽車に入っていった。

「ああ、もう、ロン!」

 だが、ロンが姿を消した途端、モリーが叫ぶ。彼女の手にはスキャバーズがいた。

「あの子ったら、スキャバーズを預けたまんま! ハリエット、悪いんだけど、ロンに渡してくれる?」
「はい」

 ハリエットは快く頷き、スキャバーズを受け取った。スキャバーズはやはり具合が悪そうだった。毛並みも悪いし、ぐったりしている。急に年を取ったかのような顔をしていた。

 汽車に入る前にハリーと合流し、ハリエットはコンパートメントを探した。

「ハリー、ハリエット、こっちだよ」

 すると、ロンがコンパートメントから顔を出した。隣にはハーマイオニーもいる。

「ここしか空いてなかったんだ」

 コンパートメントの中には、二人の他に男性が一人いるだけだった。窓際に座ってぐっすり眠っている。ホグワーツ特急は生徒のために貸し切りになるので、大人がいるというのは珍しい。

 彼はつぎはぎだらけの、かなりみすぼらしいローブを着ていた。疲れ果てて病んでいるようにも見える。見たところまだかなり若いのに、鳶色の髪は白髪交じりだった。

 彼の鞄にはR・J・ルーピン教授と書かれていた。

「あ、そうだ、ロン。スキャバーズよ。モリーおばさんが渡してくれって」

 ハリエットはスキャバーズを両手で差し出した。スキャバーズはかなり大きいネズミなので、両手で抱えても余るくらいだ。スキャバーズは疲れたように目を瞬かせていたが、やがて大きく目を見開くと、途端に暴れ出した。

「お、おい! こいつ、一体どうしたんだ――」

 ロンが捕まえるよりも早く、スキャバーズはハリエットの手から脱走した。コンパートメントのドアが開いていたので、そこから逃げてしまった。

「スキャバーズ!」

 スキャバーズはあっという間に姿をくらましてしまった。ロンは勢いよく立ち上がった。

「僕、ちょっと探してくる」
「手伝うわ」

 ハリエットもすぐに立ち上がる。

「そんな、悪いよ」
「でも、私のせいだし」

 自分がもっと強く掴んでいたら、と思うと、申し訳なくてならなかった。

「僕たちも……」

 ハリーとハーマイオニーも立ち上がりかけたが、ロンが制する。

「いや、ホント、ハリエットだけで充分だよ。ハリエットもごめんね。あいつこのところなんかおかしくてさ……」

 ハリエットとロンはコンパートメントを出た。

「しょっちゅういなくなるし、いつも震えてる。毛も抜けるのが早いし、そろそろ寿命かな……。あっ、じゃあ僕最後尾からこっちに向かって探してくるから、ハリエットはここから探してくれる?」
「分かったわ」

 ハリエットは、いつかのネビルのように、一つ一つコンパートメントをノックしてネズミを見なかったかと声をかけることになった。

 ネビルがいるコンパートメントに来たときには、ネビルは懐かしいような、気恥ずかしいような苦笑を浮かべていた。

 ハッフルパフやグリフィンドール生がいるコンパートメントは、快く返事を返してくれたし、軽く世間話することもあった。中には、僕も手伝おうかと爽やかに言ってくれるハッフルパフ生もいて、ハリエットは恐縮して丁重に断った。だが、スリザリンのコンパートメントは違った。何の用だと最初から威圧感がひどいし、ネズミのことを話せばネズミをうかうか逃がしたハリエットのことを笑う。

 何度目かのスリザリンのコンパートメントのドアを叩いて、ハリエットは重たい気分でドアを開いた。そしてその中にいた人物を見て目を丸くした。

「ドラコ」

 ドラコも突然現れたハリエットに驚いたように目を丸くした。

 コンパートメントには、ドラコとクラッブ、ゴイル、そして一名の女子生徒がいた。見事に全員スリザリンで、この雰囲気を乱したハリエットのことが気にくわない者が一名。

「何よ、あんた。ドラコの名前を気安く呼んじゃって」

 刺々しく言うのはスリザリンのパンジー・パーキンソンだ。パグ犬のような顔をしていて、甲高い声だった。

「友達のネズミがいなくなったの。これくらいの大きさで、年取ったネズミなんだけど、見なかった?」
「見てないわよ、そんなネズミなんて!」

 パンジーは噛みつくように、しかしちゃんと答えてくれた。

「年取ったネズミに逃げられるなんてよっぽどとろくさいのね、その友達は!」

 正確に言えばハリエットが逃がしてしまったのだが、それは口には出さなかった。

「ありがとう。もし見かけたら声かけてね」

 早く退散しようとそう言ったハリエットだが、汽車がみるみる速度を落とし始めたので、その場に留まった。

「なに? まだつかないはずよね?」

 パンジーが不安な声を上げる。ほぼそれと同時に、ガクンと汽車が揺れて止まった。突然の急停車に、荷物棚からドサッとトランクが落ちる音が聞こえた。そして何の前触れもなく一斉に明かりが消え、辺りは真っ暗になった。

「何が起こったんだ?」
「故障かしら? ちょっと止めてよね、こんなところで!」
「いたっ、パーキンソン、俺の足を踏むな!」
「あら、ごめんなさい、ゴイル」

 ハリエットは、不安を浮かべた顔でキョロキョロ辺りを見渡した。他のコンパートメントも異常に気づき、ぞろぞろと外に出るものもいた。

「あんた、暇してるんなら運転士にこの状況聞いてきなさいよ」
「わ、私?」

 突然とんと肩を押され、ハリエットは困惑する。

「そうよ、あんたよ! さっさと行きなさい!」
「でも――」

 不意に底冷えするような冷たさを背筋に感じ、ハリエットはゾクッとした。パンジーもそれを感じたようで、急に押し黙る。何かが近づいてきていた。黒いマントを着た、天井までも届きそうな黒い影だった。

「早くドア閉めなさいよ!」

 咄嗟にパンジーは命令したが、ハリエットは自分もコンパートメントの中に身を滑り込ませた上で、ドアを閉めた。当然パンジーは怒る。

「ちょっと! なんで入ってくるのよ!」
「だ、だって、他に逃げる場所がなくて――」

 黒い影は、ドアをすり抜けた。四人は言葉を失ってただただその影を見る。

 顔はすっぽりと頭巾で覆われ、しかし顔なんてものはなかった。黒い闇だけがそこには広がっている。

 黒い影は、ガラガラと音を立てながらゆっくりと長く息を吸い込んだ。まるでその周囲から、空気以外の何かを吸い込もうとしているかのようだった。

 ゾッとする冷気が全員を襲った。ハリエットは呼吸ができず、苦しみながら喘いだ。冷気が身体の奥まで入り込む。ハリエットの胸の中へ、そして心臓そのものへと……。

 ハリエットは冷気に溺れ、パクパクと口を開いた。酸素が入ってこない。苦しかった。どこか遠くから叫び声がした。ゾッとするような怯えた叫び、哀願の叫びだ。誰か知らないその人を、ハリエットは無性に助けたかった。だが、腕を動かしても宙を掴むのみ。濃い闇が手をかいてもかいても迫ってくる――。

「おい!」

 誰かに強く肩を揺さぶられた。

「しっかりしろ!」

 眉をしかめながら目を開けると、ドラコの顔が飛び込んできた。いつの間にか灯りもついていて、眩しいくらいだった。目を細めながらゆっくり身を起こすと、ハリエットは自分がコンパートメントの床の上に倒れ込んでいたのだと気づいた。ドラコはその脇にかがみ込んでいた。

「さっき……さっきのは?」

 言いながら、ハリエットは自分の頬が濡れているのを感じた。触ってみると、冷たい。涙の跡だった。

「もういない。出て行った」

 まだ全身が氷のように冷たかった。青ざめた顔でドラコを見る。

「誰が叫んでたの?」
「誰も叫んでない」
「叫んでたのはあんたよ。ひどいくらいに泣き喚いてたわよ? 助けて! 助けて! って」

 パンジーは嘲笑ってハリエットの真似をした。痛む頭を抑え、ハリエットは茫然としたように彼女を見つめた。

 夢……だったのだろうか。それにしては、やけに鮮明だった。女性の声は悲しげで、ハリエットの胸をついた。

 と、その時、コンパートメントのドアがノックされた。そして返事も聞かないういにドアが開く。

「ハリエットを探してるんだけど――」

 ロンだった。ロンは、ドラコやクラッブ、ゴイル達の顔ぶれを見て分かりやすく顔を顰めたが、床にハリエットが倒れているのを見て慌てた。

「お前ら! ハリエットに何をしたんだ!」
「人聞きの悪いこと言わないでくれる? そのか弱いポッターさんが一人で勝手に気絶しただけよ」
「ハリエット、大丈夫かい?」

 ロンはハリエットの身体を起こした。ハリエットは未だ青白い顔で頷いた。

「やあ、君たちは大丈夫だったかい?」

 そのとき、トントンと開いているコンパートメントのドアをノックして、男性が顔を出した。どこかで見覚えがあると思ったら、ハリエット達のコンパートメントで、死んだように眠っていたルーピンだ。

「僕は……はい。でも、ハリエットの具合が悪そうで」
「じゃあ、これを食べると良い。気分がよくなるから」

 ルーピンは、チョコレートをパキッと割ってハリエットに手渡した。

「あ、ありがとうございます」

 受け取って、ハリエットはチョコを口に含んだ。じんわりとした温かさが胸にしみ込む。

「他の子は大丈夫?」
「ええ。気絶なんてしたのはその子だけよ」

 パンジーは顎でハリエットを示した。ハリエットは気まずくなって顔を逸らした。自分だけが大袈裟に気絶してしまったのが恥ずかしくなった。しかも、どうやら涙も流してしまったらしい。

 ハリエットはぐいっと頬を拭った。ルーピンはしゃがみ込み、ハリエットと目線を合わせた。

「さっきのは吸魂鬼といってね。楽しい気分や幸福な思い出を全部吸い取ってしまうんだ。そして同時に、側にいる人の一番最悪な記憶を呼び起こす。人は、それぞれいろんな悲しみを持っている。それこそ、気絶してしまうくらいに最悪な経験をした人もいる。決してその人が弱いという訳ではないんだ」

 ルーピンは励ますようにハリエットの肩を叩いた。

「もう具合は大丈夫かい?」

 ハリエットはようやく少しの笑みを浮かべて頷いた。

「はい。ありがとうございます」
「それは良かった。じゃあ僕は他の子達の様子も見てくるから。直に汽車も動くそうだよ」

 ルーピンはにっこり笑ってコンパートメントを後にした。ようやくハリエットも立ち上がった。

「ハリエット、ハリー達の所へ戻ろうぜ。スキャバーズも見つかったんだ」
「そうなの? 良かったわ」

 ハリエットはロンと共にコンパートメントを出た。ドアを閉めるとき、ドラコと目が合ったが、笑みを返すだけに留めた。

 ハリー達のいる最後尾のコンパートメントに到着すると、やはり吸魂鬼が話題に上がった。気絶したということを双子が互いに白状すると、気恥ずかしそうに顔を見合わせて笑った。