■アズカバンの囚人

05:不吉な始まり


 新学期になって、新しい教師が二名ホグワーツに赴任となった。一人はホグワーツ特急で出会ったリーマス・ルーピンで、闇の魔術に対する防衛術が担当だ。そのことがダンブルドアによって紹介されたとき、その席を狙っていたスネイプは射殺さんばかりにルーピンを見つめていた。

 もう一人はハグリッドである。退職するケトルバーンに代わり、『魔法生物飼育学』を担当する。ハリー達四人はもちろんのこと、グリフィンドール生も皆割れんばかりの拍車で歓迎した。

 だが、めでたくないこともある。アズカバンから脱獄したシリウス・ブラックを警戒して、ホグワーツを吸魂鬼が警備をすると言うし、それを聞いたパンジーは喜々としてハリー達双子をからかったからだ。

「ポッター、あんたも気絶したそうね! 妹みたいに汽車で泣いたの?」

 ハリー達は、パンジーの声を無視して『占い学』へ向かった。北塔のてっぺんにあるらしいが、四人は一度も訪れたことがなかったので、全く道が分からずたどり着くまで苦労した。

 担当教授はシビル・トレローニーという女性だった。ひょろりと痩せていて、大きな眼鏡をかけている。

「占い学へようこそ」

 トレローニーは大きな肘掛け椅子に腰を下ろした。

「占い学は、魔法の学問の中でも一番難しいものですわ。眼力の備わっていない方にはあたくしがお教えできることはほとんどありませんのよ。限られたものにだけ与えられる天分とも言えましょう。そこの男の子」

 トレローニーは突然ネビルを指さした。

「あなたのおばあさまは元気?」
「元気だと思います」
「あたくしがあなたの立場だったら、そんなに自信ありげな言い方はできませんことよ」

 ネビルはヒッと喉を鳴らして背筋を伸ばした。

「それでは、二人ずつ組みになってくださいな。棚から紅茶のカップを取って、あたくしの所へいらっしゃい。紅茶を注いであげましょう。それからお飲みなさい」

 トレローニーは詳細に占いの仕方を語った。

「教科書の五ページ、六ページを見て、葉の模様を読みましょう」

 ハリエットは、トレローニーに言われたとおり注がれた熱い紅茶を苦労して飲み、滓の入ったカップを回し、水気を切り、それからハーマイオニーと交換した。

「私のカップはどう?」
「ふやけた茶色いものが見えるわ」

 ハリエットは小さく答えた。もう少しマシな返事がしたかったが、そうとしか言えなかった。

「心を広げるのです! そして自分の目で俗世を見透かすのです!」
「うーん、ええっと、そうね。零れたインク壺が見えるわ。教科書によると……覆水盆に返らず? 大きな間違いを起こさないように自分を律し……」

 自分で言っていてもハリエットはよく分からなかった。そもそも、今自分が見ているものが本当に零れたインク壺なのかも分からない。

「大きな間違い、ねえ。少しだけ気をつけてみるわ。ねえ、今度は私が見るわ」

 ハーマイオニーに張り切って言った。

「ううん、ネズミ? ネズミみたいなのと、犬が見えるわ。あっ、羽根ペンも見えるわ! 努力が実るでしょう、ですって!」
「ありがとう」

 ハリエットはニコニコして言った。隣のハリーとロンのペアには、トレローニーがやってきていて、三人の声が聞こえた。どうやら、トレローニーはハリーのカップを見ているらしい。

「棍棒、攻撃……あまり幸せなカップではありませんね」
「僕には山高帽だと思ったけど。ハリーは魔法省で働くんだとばかり」
「髑髏……行く手に危険が。まあ、あなたにはグリムが取り憑いてますわ!」

 急にトレローニーが叫んだ。

「何がですって?」
「グリム! 死神犬ですよ! 墓場に取り憑く巨大な亡霊犬です! 可哀想な子、これは不吉な予兆――死の予告です!」

 トレローニーに大袈裟に後ずさった。カップが手から落ち、盛大に音を立てて割れる。

「あなた……最近不吉なものを見ませんでしたか? もう既に死の魔の手はあなたに忍び寄っています!」
「ハリー!」

 すっかりトレローニーの言葉を信じたロンが血相を変えてハリーの服を掴んだ。

「君、もしかしてグリムを見てないよね!? グリムを見た奴は二十四時間後に死ぬんだ!」

 ロンの顔色はみるみる悪くなっていく。

「グリムって、どんな犬だい?」
「大きな黒い犬だよ! 僕のビリウスおじさんも、グリムを見たんだ。そしたら二十四時間後に死んじゃった!」
「そういえば……」

 ハリーも顔色を悪くした。

「僕、ダーズリーの所から逃げたときに見た」
「ハリー!」

 今度声を上げたのはハリエットだった。

「あんなに可愛い子が死神犬な訳ないじゃない!」
「可愛い子!」

 ロンは高々と叫んだ。

「グリムが可愛いだって?」
「だから違うって言ってるじゃない。あの子は普通の野良犬よ。撫でたら尻尾を振ってくれたし」
「撫でた!」

 叫ぶを通り越してロンはもはや怒鳴っていた。

「グリムを撫でたって! 呪われちゃうよ! 末代まで呪われちゃう!」
「馬鹿らしい」

 ハーマイオニーもハリエットを援護してくれた。

「ハリエット、その子を見たのはいつなの?」
「一月前よ」
「もうこれだけでグリムじゃないことは明らかね。ロン、あなたさっき自分でなんて言った? 『グリムを見たものは二十四時間後に死ぬ』。ハリーとハリエット達だけが違う時間軸を生きてるとでも言いたいのかしら?」

 ロンは言い返すことができなくて口を結んだ。

「いい? 死神犬を見ると恐くて死んじゃうのよ。死神犬は不吉な予兆じゃなくて、死の原因だわ。気にしないのが一番なのよ」

 ハーマイオニーがそう締めて、死神犬騒動は幕を下ろした。

 あの黒い犬が死神犬でなくとも、トレローニーが下した死の予言が気になって、ハリーは次のマクゴナガルの変身術でも気落ちしていた。生徒全員が落ち着かなかったので、マクゴナガルはその原因を問い、理由が分かると呆れたようにため息をついた。そして、トレローニーは、一年に一人の死を予言しており、けれども未だに誰一人として死んでいないことを説明し、皆がホッとしたところで授業を開始した。


*****


 次の授業はハグリッドが担当する『魔法生物飼育学』だった。四人は足取りも軽くハグリッドの小屋へ向かう。もちろん彼が指定した怪物的な怪物の本も携えて。

 ハグリッドはいつも以上に陽気だった。それほど教鞭を執れるのが嬉しいのだろう。

 授業は放牧場のような所で行われた。グリフィンドールとスリザリンが合同で授業をするのが少し不安なところだ。

「ちゃんと見えるようにしろよ。さーて、まずは教科書を開け!」
「どうやって?」

 ドラコがいち早く声を上げた。

「どうやってこの野蛮な教科書を開けば良いんです?」

 ドラコが取り出した教科書は、紐でぐるぐる巻きに縛ってあった。ハリー達のようにベルトで縛っている生徒もいれば、袋に押し込んだり、クリップで挟んでいる生徒もいる。

「だ、誰も教科書をまだ開けなんだのか?」

 皆の『当たり前だろう』という視線を受け、ハグリッドはがっかりしたようだった。ハリエットは控えめに手を上げた。

「あ、あの、間違ってたら恥ずかしいけど……教科書を撫でたら、大人しくなりました」
「ハリエット!」

 ハグリッドは興奮してぐわっと大きな口を開けた。

「そうだ、その通りだ! お前さん達、撫でりゃー良かったんだ! ハリエットに――じゃなかった、グリフィンドールに十点だ!」

 途端に嬉しそうなハグリッドに戻ったので、ハリエットも嬉しかった。思わず隣のハーマイオニーに話しかける。

「撫でたら大人しくなるなんて、可愛い子よね」
「君、いつの間に本を手懐けたの? さすが、動物好きは伊達じゃないね!」

 ハーマイオニーが反応する前に、その向こうのロンが反応した。

「あ、ありがとう?」

 褒められているのかよく分からなかったが、ハリエットはとりあえずお礼を述べた。

「じゃあ、俺はちょいと魔法生物を連れてくるから、大人しくまっちょれよ」

 そう言い残して、ハグリッドは森の奥へ消えた。

「恐ろしく愉快な本だな。僕たちの手をかみ切ろうとする本を持たせるなんて」

 ドラコがグチグチ言う声が聞こえたが、ハリー達は無視した。

 ハグリッドが連れてきたのは、馬のような奇妙な生き物十数頭である。羽根がついており、頭部は巨大な鳥のように見えた。鋼色のくちばしが鷲にそっくりだった。前足のかぎ爪は十五センチ近くありそうで、見るからに殺傷能力がありそうだった。

「ドウ、ドウ!」

 ハグリッドは手慣れた動作で、その生き物を宥め、柵に繋いだ。

「ヒッポグリフだ! 美しかろう、え?」

 始めはその奇妙な見た目に驚いたものの、ハリエットは素直にその通りだと思った。輝くような毛並みは滑らかで綺麗だったし、しかも羽根や毛はそれぞれ細かい部分の色が違い、嵐の空のような灰色、赤銅色、赤ゴマの入った褐色、艶々した栗毛、漆黒など色とりどりだ。

「もうちょっとこっちに来い」

 ハグリッドは生徒たちに手を振った。

「ヒッポグリフは、誇り高い生き物だ。決して侮辱しちゃなんねえ。必ずヒッポグリフが先に動くのを待つんだぞ。側までゆっくり歩いて、そんでもってお辞儀をする。そんで待つんだ。こいつがお辞儀をしたら触ってもいいっちゅうことだ。ようし、誰が一番乗りだ!」

 ハリエットは喜々としてパッと手を上げた。その行動と同じく、顔はキラキラと輝いている。

「おお、ハリエット、やってくれるか!」
「や、止めて方が良いんじゃない……?」

 ハーマイオニーは珍しく怯えている。ヒッポグリフが猛々しく首を振り、イラついている様を目撃してしまったのだ。

 だが、頑としてハリエットは手を下ろさなかった。

「よーし、そんじゃバックビークとやってみよう」

 ハリエットは頷き、柵を跳び越えた。

 ハグリッドは鎖を一本解き、灰色のヒッポグリフを群れから引き離し、革の首輪を外した。

「さあ、落ち着け、ハリエット。まずはお辞儀だ……ゆっくり、そう」

 ハリエットは緊張の面持ちで頭を下げた。どれだけ下げていれば良いのだろう。『もう上げてもええぞ』と言われるまでハリエットはずっと頭を下げていたので、クスクス笑われた。

 ヒッポグリフは前足をおり、お辞儀のような格好をした。

「やったな、ハリエット! 触ってもええぞ! くちばしを撫でてやれ、ほら!」

 ハリエットは頬を紅潮させながらヒッポグリフに近づいた。恐る恐る手を伸ばすと、ヒッポグリフの方からくちばしを差し出してきた。ヒッポグリフは楽しむように目を閉じた。

「ようし、じゃあハリエット、こいつはお前さんを背中に乗せてくれるぞ」

 えっとハリエットの口が動く。ハグリッドが何を言ったのか一瞬分からなかった。

「ほれ、ほれ」

 しかしハグリッドはハリエットを追い立てる。

「や……」
「辞退しときなさいよ」

 パンジーがからかうように声を上げた。

「じゃなきゃ、お空で一人泣いちゃうことになるわよ!」
「僕がやるよ」

 おどおどしていたハリエットを見かねて、ハリーが手を上げた。

「ポッターは妹思いねえ」
「無理しないで大丈夫だよ。僕、ヒッポグリフに乗ってみたかったから、代わってよ」

 パンジーをまるっきり無視し、ハリーはハリエットに笑いかけた。

「ご、ごめんね……」
「そうだな、ハリエットはちょいと空が苦手だったな。そんじゃ、ハリー、またお前さんもお辞儀をせにゃならん」
「うん」

 ハリーはお辞儀をし、またヒッポグリフもお辞儀を返した。ハグリッドは彼をヒッポグリフの上に載せ、その尻を叩いた。

「そーれ行け!」

 ヒッポグリフは翼を大きく開き、羽ばたいた。ぐんと上昇し、瞬く間に何メートルもの空に飛び上がった。あっという間にハリーとヒッポグリフは豆粒のような大きさになった。

 ハリエットはドキドキしながらハリー達を見つめていた。放牧場を一蹴すると、ようやくハリーは地上に降りてきた。ドサッと着地する衝撃はものすごかった。

「ようし、よくやったハリー! 他にもやってみたい奴はおるか?」

 ハリーの成功に感化され、他の生徒も怖々と放牧場に入ってきた。ハリエットはすぐにハリーに近づく。

「ハリー、どうだった? 箒みたいに飛ぶの上手だったわ!」
「僕は何もしてないよ。全部ヒッポグリフが……」
「簡単じゃあないか」

 ドラコがハリーに聞こえるようにわざとらしく声を上げた。

「ポッターにできるんだ、簡単に違いないと思ったよ。お前、全然危険なんかじゃないな?」

 ドラコはハリーではなく、ヒッポグリフに話しかけていた。

「そうだろう? デカブツの野獣君」

 その瞬間、鋼色のかぎ爪が光った。ドラコが悲鳴を上げ、次の瞬間ハグリッドがバックビークに首輪をつけようと格闘していた。バックビークはドラコを襲おうともがき、ドラコの方はローブがみるみる血に染まり、草の上で身を丸めていた。

「ドラコが死んじゃう!」

 パンジーが叫んだ。

「あいつがやったのよ! あの獣!」
「死にゃあせん!」

 ハグリッドの顔色はドラコ以上に悪かった。

「誰か手伝ってくれ、この子をこっから連れださにゃ」

 ハグリッドがドラコを軽々と抱え上げ、ハリエットもついていき、ゲートを開けた。ドラコの腕には深々とした長い裂け目があった。血が草地に点々と飛び散り、ハリエットは何も言えなかった。そして二人は城の中へと姿を消していった。

 ――こうして、ハグリッドの最初の授業は、生徒の負傷という最悪な形で幕を下ろしたのだ。