■アズカバンの囚人

08:競技場の吸魂鬼


 シリウス・ブラックの襲撃を受けたその日の夜は、生徒全員が大広間に集まり、寝ることになった。その翌日から普段通りそれぞれの寮で寝ることになったが、被害に遭った『太った婦人』の肖像画は取り外され、代わりに灰色のポニーに跨がった『カドガン卿』の肖像画が掛けられた。彼はとてつもなく複雑な合い言葉をひねり出し、少なくとも日に二回は変えるので、グリフィンドール生から大いに不評を買うことになった。

 そして同時に、ハリー達の監視も厳しくなった。先生達は、シリウス・ブラックの目的をハリーだとした。それに伴って、妹たるハリエットも狙われるのではないかと、一緒くたに監視されることになったのだ。そして何かと理由をつけ、教師陣はハリー達と一緒に廊下を歩いたし、監督生のパーシーもハリーの行くところにはピッタリついてきた。マクゴナガルは、ハリーの夕刻に行われるクィディッチの練習にも良い顔はしなかったが、なんとかマダム・フーチに監督してもらうということで折り合いをつけた。

 第一回のクィディッチの試合は、グリフィンドール対ハッフルパフだった。本来はスリザリンだったのだが、シーカーのドラコが怪我していることを理由に試合を延期してきたのだ。天候が悪いので、難癖をつけたんじゃないかとフリント達は当たりをつけていた。

 試合前日に行われた闇の魔術に対する防衛術の授業は、体調の悪いルーピンに対し、スネイプが代わりに教鞭を執った。これには生徒たちは内心大ブーイングである。そして、スネイプはルーピンの授業予定を全く無視し、いきなり『人狼』について学ぶと宣言した。

 授業の最後には、あろうことか、人狼の見分け方と殺し方について、レポートを羊皮紙二巻分を提出するようお言葉があった。

 教室を出て、スネイプに声が届かない場所まで来ると、皆は一斉に不満をぶちまけた。

「いくらあの授業の先生になりたいからって、スネイプはやり過ぎだよ。一体ルーピン先生に何の恨みがあるんだろう? 例のボガードのせいだと思う?」
「その可能性はあるわね」

 ハーマイオニーが首を傾げた。

「でも、早くルーピン先生が元気になると良いわね」


*****


 クィディッチ試合の当日、天候はもはや嵐のようだった。雨は横殴りに窓に叩き付け、風もうねるように激しい。

 それでも中止にはされなかった。有り難いような、嬉しくないような、ハリーは複雑な心地になった。

 試合が始まると、激しい雨でほとんど前が見えなくなった。風のせいで周りの声すら聞こえない。試合の進行もよく分からなかった。やがてタイムアウトがかかった。

 タイムアウト中に、作戦の変更と、点数の確認がなされた。優等生ハーマイオニーのおかげで、ハリーの眼鏡は防水仕上げになった。

 今や轟くような雷も鳴っていた。耳につんざくような音は不快でしかなかったが、たった一瞬であれど、競技場が明るくなるのは選手にとって有り難いことだった。

 そしてそれはハリーも同様だった。

 稲妻がスタンドを照らしたとき、ハリーの目にスニッチが飛び込んできたのである。スニッチを見つけたのはハッフルパフのシーカー、セドリック・ディゴリーとほぼ同時である。二人は競りながらスニッチめがけて突進した。

 その時、奇妙なことが起こった。競技場に不自然な沈黙が流れ、風は相変わらず激しいのに、静かになってしまった。ハリーの耳が急に聞こえなくなったかのようだった。

 すると、あの恐ろしい感覚がハリーを襲った。冷たい何かが心の中に押し寄せてくる。

 少なくとも百人の吸魂鬼がピッチに立っていた。また誰か女の人の声が頭の中で響く。

「ハリーだけは、ハリーだけは!」
「どけ、馬鹿な女め。さあ、どくんだ」
「ハリーだけは、どうかお願い。私を、私を代わりに殺して…!」

 ハリーの視界は靄に包まれ、そのまま暗転した。


*****


 次にハリーが目を覚ましたとき、彼は医務室にいた。真っ先に視界に飛び込んできたのは、真っ青な顔のハリエットとロン、ハーマイオニー、濡れ鼠になってしまったクィディッチ選手達である。

「ハリー、気分はどうだ?」

 フレッドは優しく声をかけたが、ハリーはシーカーとして、試合の結果を気にした。

 しばらく誰もハリーの質問に答えず、彼の『負けた?』という台詞に背中を押されたジョージが沈痛な面持ちで頷いた。

「ディゴリーがスニッチを取った。君が落ちた直後にね。何が起こったのか、あいつは気がつかなかったんだ。振り返って君が地面に落ちているのを見て、ディゴリーは試合中止に使用とした。やり直しを望んだんだ。でも、向こうが勝ったんだ。フェアに……ウッドでさえ認めたよ」

 グリフィンドールがリードしてはいたが、スニッチを取られたので、ハッフルパフに百点差で負けてしまったという事実が残った。

 そして、落ち込むハリーを更に絶望の淵に突き落とす出来事が待っていた。

「それで、あの……ハリー」

 ハリエットが、恐る恐るバッグを持ち上げ、ハリーのベッドにおいた。そこからゆっくりと木の切れ端を取り出す。

「……実はね、ハリーが落ちたとき、ニンバスは吹き飛んだの。それで、暴れ柳に激突してしまって」
「ニンバス……これが?」

 ハリエットは青い顔で頷いた。ハリーの顔も蒼白となっていた。手を伸ばし、木の屑を持ち上げる。元が箒だとも分からないくらい、ニンバスは粉々に壊れてしまったのだ。

「ハリー、気を落とすな。箒が壊れたからって、飛べなくなる訳じゃないんだ」
「そうよ。学校にも箒はあるし」

 フレッドの言葉に、ハーマイオニーもうんうん頷いた。だが、ロンの顔色は悪い。

「選手用の箒と学校のじゃ、雲泥の差だよ。あんな箒じゃ、ハリーはスニッチを掴めない」
「そんなことないわ――」

 ハーマイオニーは言い返そうとしたが、ハリエットの表情を見て口をつぐんだ。

「ハリー、私、考えたんだけど……」

 ハリエットは、意を決して兄に話しかけた。

「お父さんとお母さんが残してくれたお金を使うべきだと思うわ。新しい箒を買うのよ」

 自分用の箒を所持していないとき、選手は学校の箒の『流れ星』を使うこともできる。だが、流れ星は恐ろしく遅くて動きがギクシャクしているのだ。ハリエットだって、一年生の頃自主練で使っていたのでよく理解していた。ハリエットならば、それくらいの遅さでむしろ有り難いくらいだが、ハリーには我慢ならないだろう。

「ね? 新しいニンバスを――」
「いや」

 ハリーは強く首を振った。

「箒は高いし、そんなの駄目だ。それに、あの金庫は僕たち二人の分だ。僕だけのために使えない」
「でも、こういうときに使わなくっちゃ。私はそんなに夢中になれるものがないけど、ハリーがクィディッチで活躍してるのを見るのは好きなの。だから、新しい箒を買って?」
「僕たちはこれから四年間もここに通うんだぞ。そんな無駄なことにお金を使ってられない」
「無駄じゃないわ。私だってハリーの試合を楽しみにしてるもの」
「わざわざ箒を買わなくても試合はできる。学校用ので充分だ」
「一年生の時、散々文句言ってたじゃない」
「あれはニンバスと比較したからで――」
「もう面会時間は終わりましたよ!」

 その時、マダム・ポンフリーが顔を出した。

「それに、医務室は清潔に、静粛に!」

 ずぶ濡れというだけでなく、選手は特に泥だらけだった。マダム・ポンフリーの顔がどんどん恐いものになっていくので、見舞客は退散することにした。ハリエットは最後にハリーを振り返ったが、彼は意地を張ったように背を向けて横になっていた。