■アズカバンの囚人

11:どうして


 ホグズミードからの帰り道、双子はどんな顔でどのように帰ったかさっぱり覚えていなかった。気がついたときには、自分たちの寝室にいて、カーテンを閉めてベッドの上にいた。

 三本の箒でシリウス・ブラックについての真相を聞いてから、ハリエットは、ハリーとすら今は話したくない気分だった。こういう気分になるのは珍しい。ダーズリー家にいた頃は、お互いが全てで、身の回りに起こることは全てその日の夜に報告した。悩みがあれば相談したし、一緒に怒って、一緒に笑った。

 そういえば、一度本当に辛い思いをしたことがあった。ハリーが何気なく訊ねた質問だった。
『どうして僕の額には傷があるの?』
『お前達の両親が自動車事故で死んだときの傷だよ。これ以上の質問は許さないよ』
 その時初めて、双子は自分たちにもちゃんとした両親がいることを知ったのだ。しかし、認識すると同時に、もうその二人はこの世にいないことを知った。その時は平然を装ったが、夜、階段下の物置で、双子が顔を合わせると、どちらからともなく涙を流した。止めどなく涙は溢れた。自分たちの中で抱いていた微かな希望は、その時潰えてしまったのだ。

 だが、今は。

 その時以上に辛い思いだった。この悲しみを誰とも共有したくないと思うくらいには。

 ホグワーツに来て、ようやくそれらしく両親のことを知った。鏡越しではあっても、ちゃんとした等身大の両親を見て、笑ってくれて。アルバムでいろんな両親の顔を見て。両親の知り合いから様々なエピソードを聞いて。会う人会う人から、君たちは両親の生き写しだと言われて、どれだけ嬉しかったことか。

 今はもう、両親の顔も分かるし、どう育ってきたかも教えてもらったので分かる。ダーズリー家にいた頃よりも鮮明に両親のことを想像できるからこそ、二人の死の真相は悲しく、より一層胸に鈍い痛みを与えた。

 二人は親友を――シリウス・ブラックを心から信頼していたはずだ。ハリエットたちが、ロンやハーマイオニーを信頼しているように。その親友が裏切るなんて、一体誰が考えるだろう!

 ハリエットはその日、全く眠れなかった。

 翌朝、談話室でハリーと出くわした。彼は黙ってアルバムを差し出してきた。二年前ハグリッドからもらった両親の写真が詰まったアルバムだ。

 ハリーの目の下にはくっきりとクマがあった。眠れなかったのだろう。自分もおそらく同じ顔をしているという確信があった。

 ハリエットはアルバムをローブのポケットに入れて、四人で大広間に行った。監督生のパーシーもついてきた。

 大広間で、ロンとハーマイオニーは、シリウスについて話したそうな雰囲気を出していた。だが、周りにはグリフィンドール生がいたし、何よりもちろん監督生としてハリーを守る使命を負ったパーシーが護衛のように周りをうろちょろしていたので、とても話し出せる隙はなかった。

 こんなときでも、ハリエットはいつもの習慣を忘れなかった。ナプキンを広げてチキンをいくつかつまみ、さっと包んだ。

 立ち上がったハリエットを見て、ハーマイオニーは驚いたように見上げた。

「もう行くの?」
「ええ。ちょっと行くところがあるから」
「一人じゃ危ないわ」
「遠くへは行かないから大丈夫」

 今は何より気分転換したい気分だったし、一人きりで頭の整理がしたかった。

 大広間を出ると、入り口の所でドラコ達三人組と遭遇した。ハリエットは思わず足を止めた。ドラコの方も、訝しげにハリエットを見る。

 ドラコは、未だホグズミードでのことを忘れてないような顔をしていた。だが、今のハリエットにはそんなことどうでもよかった。

「ドラコは知ってたのね」
「は?」
「私たちの後見人のこと」

 ドラコは黙りこくった。ようやく真実を知ったのか、とでも言うかと思っていたのに、いざそうなると気まずそうな表情だった。彼の臆病な性格がよく分かった。

「私たちが真実を知って満足?」

 ついハリエットの声は刺々しくなった。魔法薬学の授業でのことが鮮明に思い出された。

「ハリーをけしかけてどうするつもりだったの? やり場のない怒りを煽ってどうするつもりだったの?」

 そして大きく息を吸い込んだ。

「私たちがシリウス・ブラックをどう思ってるか、どうしたいかなんて、部外者のあなたにとやかく言われたくないわ!」

 激しく怒りを感じた。両親を裏切ったシリウス・ブラックのことは憎い。でもその感情を、からかうためだけの材料にするのはもっと許せなかった。ブラックのせいで両親が命を落としているのに、ドラコはそれをなんとも思ってないのだ。

 ドラコを睨み付けると、ハリエットはローブを翻して玄関ホールへ向かった。

 怒りがとこみ上げてきて、どうにかなってしまいそうだった。ブラックもドラコも、ハリエット達のためだと自分たちに隠し事をしている大人達だって皆許せなかった。

 いつだってそうだ、周りの人は、いつもハリエット達自身よりもハリエット達のことを良く知っている。そしてそれを決して教えてはくれないのだ。

 ハグリッドの小屋は目前だった。道を逸れ、いつもの木の所へ行こうとしたところで、誰かに強く腕を掴まれた。

「おい――待て!」

 ドラコだった。まさかついてくるとは思っていなかった。ハリエットは腕を振り払うことができず、足を止めざるを得なかった。

「何よ!」
「一人で外をうろつくな! 見つかったらどうする!」
「あら……あなたは私やハリーがシリウス・ブラックに殺されるのがお望みなんじゃないの?」
「違う!」
「いいから放してよ!」

 突然涙が溢れた。別になんともないのに、せきを切ったように次から次へと涙が零れてくる。

 どうして両親が殺されなくてはならなかったの? どうして裏切られたの? どうして私たちには両親がいないの? どうしてハリーは命を狙われているの? どうして――ブラックは両親だけじゃ飽き足らず、ハリーまで奪おうとするの?

 ハリエットはその場に泣き崩れた。立っていられなかった。溢れる悲しみがハリエットをボロボロにしていく。

「お、おい――」

 戸惑ったドラコの声が、途中で途切れた。森から、すごい勢いで黒いものが飛び出してきたからだ。

 その正体は犬だった。野太い鳴き声を上げながら、黒犬はドラコに飛びかかった。ドラコは悲鳴を上げて倒れる。腕に容赦なく噛みつかれていた。

「す、スナッフル……」

 思わずハリエットの涙は引っ込んでいた。しばし茫然としていたが、我に返ると、スナッフルを後ろから抱きかかえた。

「駄目! 駄目よ! 傷つけちゃ駄目!」

 スナッフルはそれでもなおドラコの腕に噛みついていたが、やがて低いうなり声を出すと、ようやく離れた。ドラコのローブは血で赤く滲んでいた。

「もう行って……」

 ハリエットはできるだけ顔を見ないようにして言った。

「行って!」

 一際大きく叫ぶと、ドラコはビクッと肩を揺らして、立ち上がった。おどおどとその場に立ち尽くしていたが、スナッフルが脅すように大きく鳴いたので、慌てて立ち去った。彼の姿が見えなくなって、ようやくハリエットは安心したように地面にへたり込んだ。心配するかのように、スナッフルがハリエットの手に頭を押しつける。

 ハリエットはしばらく放心していた。側にスナッフルの温かさは常に感じていた。ただ疲れたように彼の背中を撫でる。

「ありがとう……」

 ハリエットの言葉に応えるかのように、スナッフルが一鳴きした。思わずハリエットはクスリと笑う。

 そのまま地面に腰を下ろすと、ローブのポケットからアルバムが飛び出した。スナッフルは興味を示したように鼻先を近づける。

「あなたも見る? お父さんとお母さんがいるの」

 ハリエットは表紙をめくった。寂しくなる度に、ダーズリーの家で理不尽を感じる度にアルバムを見ていたので、今はもう、どの写真がどこにあるかは見ないでも分かった。

「これがお母さんよ。私にそっくりでしょう?」

 ハリエットは言い聞かせるように話しながら、ペラリ、ペラリとめくっていく。

「これがお父さん。ほら、私と一緒にいた男の子。よく似てるでしょう?」

 言葉が分かるわけでもないのに、スナッフルはちゃんと律儀に反応してくれたので、ハリエットは流暢に一枚一枚説明した。

 そして写真は結婚式の時のものに行き着く。そこには当然シリウス・ブラックがいた。今まで何度もアルバムを見ていたのに、ジェームズのすぐ隣にいる花婿付添人が、まさか脱獄囚のシリウス・ブラックだとは思いも寄らなかった。ハンサムで若々しく、あの鬼気迫った表情を浮かべた新聞の切り抜きとは、到底似ても似つかない顔立ちだ。

 写真の中のブラックは、父や母と同じように、溢れる笑みを浮かべていた。このときの彼は、何を思っていたのだろうか。もしかして、もう既に親友を裏切ることを目論んでいたのだろうか?

 意思に反して、ポタリポタリと涙がアルバムの上にしたたり落ちた。スナッフルも驚いたようにハリエットを見上げる。ハリエットは慌てて頬を拭った。

 高い声を出し、スナッフルが心配そうにその鼻先をハリエットに近づけた。ハリエットは無理矢理笑みを浮かべた。

「大丈夫よ……」

 泣き止むまでには、しばらく時間がかかった。何度もアルバムを見返していたとき、ハリエットは近づいてくる複数の足音に気がついた。

「ハリエット? やっぱりここにいたのね」

 最初にハーマイオニーの声がした。彼女の後ろにはハリー、そして引きつった表情を浮かべるロンがいた。

「ぐ、ぐ、ぐ」

 ロンは目を最大限に見開き、喉が詰まったような声を上げた。

「グリムだああっ!!」

 そして慌ててハーマイオニーの後ろに隠れる。背の高い彼は盛大にはみ出していた。

「グリムじゃないわ!」

 ハリエットは憤然と言い返した。

「スナッフルのことそんな風に言わないで! 私の友達なの」
「うわ、本当にスナッフルだ」

 ハリーは興味津々でスナッフルに近づいた。

「驚いた、どうやってここまで来たんだい?」

 スナッフルはハリーに身を寄せた。その毛は絡まり、ゴワゴワしていたが、ハリーは気にせず撫でた。

「皆はどうしてここに?」
「あなたを探しに来たのよ。いつまで経っても帰ってこないから」

 怒ったような、悲しそうな顔でハーマイオニーは言った。

「あの……あのね、ハリエット。私たちも談話室で話してたんだけど、あなた達、一人で城の外に出たら危険だわ。あの話を聞いて、先生方と同じように、私も強くそう思うようになったわ。たとえハグリッドの小屋でも、一人では絶対に駄目」

 ハーマイオニーはジロリとスナッフルを見ていた。スナッフルは居住まいが悪そうに精一杯身体を小さくする。

「ハリーにも言ったけど、ブラックを追いかけたりしちゃ駄目よ。吸魂鬼が必ずブラックを捕まえるし、アズカバンに連れ戻す。そしてそれが当然の報いよ」

 ハーマイオニーの声が恐かったのか、スナッフルが震え出した。ハリエットは宥めるようにスナッフルを撫でた。

「でも、僕は」

 ハリーが立ち上がった。

「僕はブラックを許せない。マルフォイは知ってたんだ。魔法薬学のとき、なんて言ったか覚えてるかい? 『僕なら、自分で追い詰める……復讐するんだ』って」
「僕たちの意見より、マルフォイの意見を聞こうってのかい?」

 ロンは珍しく怒っていた。

「あいつ、君をけしかけてあわよくば――」
「ブラックは父さんを裏切った!」

 ハリーは声高に叫んだ。驚いたように木々から鳥が羽ばたいた。

「ハリエットからも何とか言って!」

 ハーマイオニーがハリエットを見る。ハリエットはまごついた。

「私……私は」

 ハリエットは、ポケットの中のアルバムを、ローブの上からギュッと押さえた。

「ハリーに危険な目に遭って欲しくない。私にはもうハリーしかいないの。だから、危ないことはしないで」

 ハリエットの瞳からまた一粒涙か零れた。ハリーは握った拳を開き、やりきれない思いを胸の中に閉じ込めた。