■アズカバンの囚人

15:暴れ柳の抜け道


 ハグリッドから、バックビークの裁判で控訴に敗れたという手紙を受け取ったとき、ハリエットの手はぶるぶると震えた。無理だったのだ。バックビークを救うことができなかった。何も悪いことはしていないのに。

 処刑は日没だという。会いに行っても、ハリエットにできることは何もないが、ハグリッドが一人で死刑執行人を待つなんて、そんなことさせられるわけがない。

 日が暮れる前までに行こうと思い、一階まで早足で来たとき――大広間に向かう様子のドラコの後ろ姿を見て気が変わった。そのまま彼の襟元をぐいと掴む。

「ぐっ……な、何だ!」
「ちょっと来て」

 玄関ホールまで来ると、人の気配が少なくなってきた。この格好のままでは少し可哀想なので、ハリエットは掴む場所を腕に切り替えた。

「おい、外に行くつもりか?」
「一人で外歩いたらいけないんでしょう? 私についてきて」
「なんで僕がそんなこと――」
「あなたのせいだからよ!」

 ピシャリと叫ぶと、ドラコは目を白黒させて押し黙った。何が何だか分からないが、ハリエットの剣幕に大人しくしていた方が身のためだと思ったのだ。

「バックビークが処刑されるわ。日没にね。あなたには見届ける義務があるわ!」

 全ての咎はドラコにある。控訴に破れたとあらば、今更誰かが何を言ってもそれは覆らないだろう。ならせめて、彼は自分のしたことを自覚するべきだ。

「ハグリッド!」

 ハリエットが戸をノックすれば、涙でぐしょぐしょの顔でハグリッドが出迎えてくれた。

「来ちゃなんねえだろうが!」

 ハグリッドはそう囁きながらも、一歩下がって中に引き入れてくれた。

 ハグリッドはドラコをチラチラ見て気にしている様子だった。ドラコはドラコで居住まい悪く入り口で突っ立っている。

「茶、飲むか?」

 ハグリッドはやかんに手を伸ばした。彼の手はぶるぶる震えていた。

「ハグリッド、バックビークはどこなの?」
「俺……俺、あいつを外に出してやった。俺のカボチャ畑さ。繋いでやった。木やなんか見た方が良いだろうし、新鮮な空気も吸わせて、その後で――」

 後半はもう言葉にならなかった。ハグリッドの手が激しく震え、持っていたミルク入れを落としてしまった。

「私がやるわ」
「戸棚にもう一つある」

 ハリエットは床を掃除し、そして戸棚に歩いて行った。

「ハグリッド、私もあなたと一緒にいるわ」
「お前さん達は城に戻るんだ。言っただろうが、お前さん達には見せたくねえし、それに夜は危険だ。日が沈む前に、マルフォイと帰るんだ」
「でも」

 ハリエットは代わりのミルク入れを探してハグリッドの戸棚をかき回していた。

「マルフォイも、怪我させて悪かったな。だけど許してくれ。あいつにゃ悪気はなかったんだ……」
「…………」

 コガネムシのような黒い目に大粒の涙を浮かべ、ハグリッドはドラコを見る。真正面から見られ、気まずくなって彼が目を逸らしたとき――。

「あっ」

 唐突にハリエットが声を上げた。

「スキャバーズだわ!」

 ミルク入れの中で丸まるっていたネズミを、ハリエットは反射的に捕まえた。年老いて、しかも指が一本欠けているそのネズミは、紛れもなくスキャバーズだった。彼女の手の中でキーキー大騒ぎしながら、ミルク入れの中に戻ろうと彼は暴れる。

 スキャバーズは、以前にも増してボロボロだった。前より痩せこけ、毛がバッサリ抜け落ちている。

「どうしてこんな所に……まさか、クルックシャンクスから逃げるために?」
「そいつがロンのペットか? クルックシャンクスに食べられたはずじゃ……」
「私もそう思ってたんだけど――痛っ!」

 ハリエットの手に、スキャバーズが思い切り噛みついた。血がボタボタと地面に落ち、ハリエットは驚いてスキャバーズを地面に落としてしまった。

「あっ!」

 スキャバーズは、わずかに開いていた窓から外へ逃げ出した。ハリエットは咄嗟にドラコに叫んだ。

「つ、捕まえて! お願い、その子を捕まえて!」
「な、なぜ――」
「いいから!」

 ハリエットが絶叫するように叫ぶと、ドラコはよたよたと小屋を出た。ハリエットも、ハグリッドへの挨拶もそこそこに急いで小屋を出た。

 ネズミを捕まえようとドラコは奮闘しているようだが、しかしすばしこいスキャバーズはなかなか捕らえられない。ついには禁じられた森の方へ逃げようとするので、ハリエットは杖を取り出した。

「ペトリフィカス・トタルス! 石になれ!」

 もうすぐ逃げ切れると安心していたスキャバーズに、見事に閃光が当たった。コロッと音を立てて地面に寝転がるスキャバーズを、ドラコは拾い上げた。

「お前……」

 ドラコはハリエットの行動にいささか引いているようだった。ハリエットは噛まれた左手を庇いながら彼に近づく。

「どうしても捕まえないといけなかったのよ。その子、ロンのペットなの。その子がいなくなったせいで、ハーマイオニーの猫がその子を食べたんじゃないかって、二人はずっと喧嘩してるのよ。逃がすわけにはいかなかったの」

 ハリエットはスキャバーズを覗き込み、微笑んだ。

「でも、本当によかった。私も食べられたんじゃないかと思ってたの。ロン、すごく可愛がってたから、落ち込みようもひどくて。ごめんね、もう少しその子持っててくれる?」

 ハリエットとドラコは肩を並べて城へと歩き出した。バックビークとハグリッドのことが気にかかったが、スキャバーズに逃げられてもいけない。先に確実にロンに手渡すべきだと思った。

 石になって身動きできないネズミを抱え、二人は夕暮れ時を進む。――と、そんなとき、夕日を背に、オレンジ色の何かがこちらに駆けてくるのが見えた。黄色い目を細めているクルックシャンクスだ。獲物に狙いを定めたようなその顔に、ハリエットは嫌な予感がした。

「き、奇遇ね。こんな所で会うなんて」

 ハリエットは咄嗟に猫に声をかけた。

「クルックシャンクス、そろそろ城に戻ったら? ハーマイオニーが心配するわ――」

 その瞬間、クルックシャンクスは地面を蹴った。その跳躍力は目を見張るもので、彼は一気にドラコに飛びつく。

「な、なんだこの猫は!」
「クルックシャンクス、止めて!」

 ハリエットは慌てて猫を止めにかかった。猫は荒々しくフシャーと鼻息荒くする。ハリエットは猫をがっちり掴み、ドラコから――いや、ネズミから剥がそうとした。

 しかし、猫が傷ついてもいけないと、あんまり強くは押さえられない。猫はするりと身体をよじらせ、ハリエットの手から逃げた。

「に、逃げて! ドラコ!」

 ハリエットは立ち尽くすドラコに叫んだ。

「絶対にスキャバーズを放したら駄目よ!」
「無理言うな!」

 叫び返しながらも、しかしドラコはちゃんとスキャバーズは放さずにいてくれているらしい。慌てて走るドラコの後ろを、クルックシャンクスが苛立ちげに鳴きながら追った。

 やむなく、ハリエットは杖を掲げた。動物に魔法を使うのは気が進まないが、ここで放っておいて、今度こそスキャバーズが食べられてしまったら、ロン達に合わせる顔がない――。

「ペトリフィカス――」

 しかし、呪文は続かなかった。突然何かが視界に飛び込んできたのだ。その黒い何かは高く跳躍し、ハリエットの目の前を横切った。

「スナッフル!」

 黒い犬は、猛然と駆け、瞬きをする間もなくドラコの下にたどり着いた。そして彼の足に思い切り噛みつき、転倒させる。

「ドラコ!」

 ハリエットは目の前の光景が信じられなかった。あの大人しいスナッフルが噛みつくなんて。

 確かに一度スナッフルはドラコの腕に噛みついたことがあった。しかしそれは、泣いていたハリエットを助けるためだったのだと分かる。でも、今は。

 スナッフルは何か勘違いしてしまったのだろうか?

「スナッフル、駄目! ドラコは助けようとしてくれてるの! 放してあげて!」

 ハリエットは我に返って叫んだが、しかしスナッフルの耳には届いていないようだった。そのままドラコを引きずり、『暴れ柳』の木の下に潜り込んでしまった。

「あっ……ああ、どうしよう!」

 ハリエットも慌てて木の根元に駆けつけようとした。だが、暴れ柳は激しく枝を震い、ハリエットを決して近づけさせない。

「どうしよう! ……ペトリフィカス・トタルス!」

 ハリエットは困りに困って、とりあえず暴れ柳に向かって魔法を放った。だが、運良く枝に魔法が当たっても、その枝のみが石化するだけで、その他の部分には全く影響はない。こんなことなら、もっと本を読んで魔法の練習をしておくんだったとハリエットは今更ながらに痛感する。

 こんなときにハリーがいたら、諦めない心を教えてくれる。

 こんなときにハーマイオニーがいたら、的確にどうすればいいかを教えてくれる。

 こんなときにロンがいたら、僕たちもいるじゃないかと励ましてくれる。

 どうして、どうして私は今一人なの――。

「ハリエット!!」

 泣きそうになっていたとき、突然声がしたと思ったら、ぐいと腕を掴まれ、ハリエットは後ろに尻餅をついた。その途端、今まさにハリエットが居た場所に、暴れ柳の枝が振り下ろされた。

「あ……」
「ハリエット! こんな所でどうしたんだ!? 危ないじゃないか!」

 何もない場所から急に現れたのは、ハリーだった。そして次々にロン、ハーマイオニーが姿を現す。透明マントを被っていたのだ。

 茫然とするハリエットを、ハリー達はひとまず安全なところまで移動させた。

「――それで、どうしてこんな所に?」
「…………」

 ハリエットは、安堵でポロリと流れた涙を拭った。混乱している様子の彼女に、ハーマイオニーが優しく声をかけた。

「私たちはね、ハグリッドの所に行こうとしてたの。でも、途中でハリエットたちの声がしたから。ハリエットと……マルフォイの」

 ハリエットは激しく頷いた。

「あの、あのね、この先にドラコがいるの。ドラコとスナッフルが……」
「ドラコ?」

 ハリエットのファーストネーム呼びが気になり、ハリーは訝しげに声をかけた。今はいいでしょ、とハーマイオニーが彼を小突いた。

「この先って、暴れ柳?」
「ええ。突然スナッフルが現れて、ドラコを引きずって暴れ柳の穴に消えたの」
「いい気味じゃないか。グリムもマルフォイが気にくわなかったんだろ」
「そんなこと言わないで!」

 ハリエットはキッとロンを睨み付けた。

「スナッフルはそんなことする子じゃないし、ドラコだって、スキャバーズを捕まえてくれたのよ!」
「スキャバーズ? 君、今スキャバーズって言った?」
「ええ、言ったわ。ハグリッドの小屋でスキャバーズを見つけたの。だからロンの所に連れて行こうとしたんだけど、スナッフルがやってきて――早く助けに行かないと!」

 ハリエットは急にやる気になって立ち上がった。しかし眼前には相変わらず荒れ狂う枝がそびえ立っている。

「でも、誰か――誰か助けを呼ばないと、絶対あそこには入れないわ!」

 ハーマイオニーは冷静に判断を下した。それは正しい。だが。

「スナッフルが入れるなら、私たちにもできるはずよ」

 自分の魔法がもう役に立たないことは分かっていた。なら、なんとか枝を掻い潜って駆けつければ。

「ああ、どうすれば――クルックシャンクス?」

 その時視界の隅にオレンジ色の毛が移った。クルックシャンクスは、未だにハリエット達の近くにいたのだ。彼は、サーッと前に出て、殴りかかる大枝の間を、まるでヘビのようにすり抜け、両前足を木の節の一つに乗せた。

 突如、柳はまるで石になったかのように動きを止めた。木の葉一枚そよぐこともしない。

「この子、どうして分かったのかしら?」

 しかし、この機を逃す手はない。四人は急いで木の根元に近づいた。ポッカリと開いた穴は、狭い土のトンネルに続いていた。クルックシャンクスはまるで案内するかのように四人の数歩先を歩いた。トンネルの中を這って進みながら、底まで滑り落ちる。

「この道、『忍びの地図』に書いてあった。たぶん、ホグズミードに続いてるのかも」

 背中を丸めて、できる限り早く進んだ。通路は延々と続いていた。しばらくして、ようやくトンネルが上り坂になった。やがて道が大きく曲がり、そこからぼんやりした灯りが漏れている。

 その先には、部屋があった。埃っぽい部屋だ。随分と朽ち果てた部屋で、僅かに残っている家具は誰かが壊したかのように破損しており、窓にも板が打ち付けてある。

「ここ、『叫びの屋敷』の中だわ」

 ハーマイオニーがそう言うと、ギシッと頭上で軋む音がした。この部屋にドラコはいなかった。なら、二階の可能性が高い。

 隣のホールに移動し、そこから階段を上った。二階には、開いているドアが一つだけあった。そこからうめき声が漏れている。ハリエットはすぐに飛び込んだ。その気配を察知したハリーが咄嗟に彼女の腕を掴もうとしたが、僅かに出遅れ、叶わなかった。

「ドラコ!」

 部屋の奥には、妙な角度に曲がった足を投げ出し、ドラコが座っていた。

「ああ、ごめんなさい! 足は大丈夫?」

 ハリエットが駆け寄り、彼の前にしゃがみ込む。彼女の後に続いて、ハリー達も恐る恐る辺りを警戒しながら部屋に入ってきた。

 ドラコは痛そうに顔を顰めていたが、それより気になるのは。

「あいつ――犬じゃなかった」

 ドラコの顔は、蒼白としていた。

「罠だ」
「えっ?」
「あいつが犬なんだ……。あいつは『アニメーガス』なんだ」

 ドラコは怯えた目でハリエットの後ろを見ていた。ハリエットが振り返ると、そこには――男が立っていた。彼は四人が入ってきたドアをピシャリと閉める。

 黒い男だった。汚れきった髪がもじゃもじゃと肘まで垂れている。痩せ細った顔の中で、落ちくぼんだ目だけがギラギラと光っていた。男は笑った。シリウス・ブラックだった。