■アズカバンの囚人

21:自由の空


 その後、三人は暴れ柳の所まで移動した。辺りは静まりかえっていた。皆とっくの昔に暴れ柳の通路を通って、叫びの屋敷に向かっているのだ。

 その後、ダンブルドア達が城に戻っていったり、ルーピンが暴れ柳の所にやってきたり、スネイプが透明マントを拾ったりと、目まぐるしく変わる目の前の光景をジッと眺めていた。

「そういえば、三人はどうして気絶してたの?」

 ハリエットは聞けずにいた疑問を口にした。

「吸魂鬼に襲われたんだ」

 ハリーは身震いしながら言った。

「僕たちが駆けつけたとき、シリウスはもう吸魂鬼に囲まれていて……。必至にパトローナスを出したんだけど、全部は追い払えなかった。そんなとき、どこからか……本物のパトローナスが現れて、追い払ってくれたんだ」
「どこからかって……一体誰が?」
「分からない。……でも、僕はその人のことを、父さんだと思った。見間違いかもしれない、でもそんな風に見えたんだ」

 ハリエットは静かになった。ハリーはやっぱり言わなければ良かったと思った。

「ハリー、あの」

 ハーマイオニーも何か言いたげだ。ハリーは僅かに笑みを浮かべた。

「分かってる。馬鹿げてるって分かってる」

 それ以降、ハリー達は何も話さなかった。やがて一時間以上がたち、一行はようやく暴れ柳から出てきた。

 ルーピンが狼人間へと変わり、ペティグリューが逃げ、シリウスがその後を追い――。ハリー達はシリウス達の様子を見に行こうと、遠回りして湖の方へ以降とした。だが、ハリエットは鋭く『待って!』と叫んだ。

「嫌な予感がするの……私たち、この後また狼人間に襲われたの」
「何ですって!」
「スネイプ先生が立ちはだかって助けてくれたけど、でも、戦況は不利だった。そんなとき、どこからか閃光が放たれて――」

 目の前の光景は、まさにハリエットが語ったとおりになった。狼人間はジリジリとスネイプに近づく。ハーマイオニーは咄嗟に杖を掲げた。

「エクスペリアームス!」

 閃光は見事狼人間に当たった。その後に続くようにスネイプも失神呪文をぶつけ、狼人間は逃げた。ハリエットはハーマイオニーに抱きついた。

「ああ、ハーマイオニー! あなた私たちの命の恩人だわ!」
「でもどうする?」

 ハリーは冷や汗をかいていた。

「ハーマイオニーにはぜひとも僕らの命も救って欲しいところだけど」

 狼人間は、今度はハリー達三人に標的を絞ったようだった。低く唸りながらこちらへ近づいてくる。

「バックビーク!」

 ハリーが叫んだ。

「背中に乗せて!」

 バックビークはハリーを見、そして前足をおった。ハリーがまずバックビークの背に乗った。続いてハーマイオニー、そしてハリエットの順だ。ハリーはバックビークの手綱をたぐり寄せ、首輪の反対側に結びつけ、手綱のようにしつらえた。

「飛んで!」

 ハリーはバックの脇腹をかかとで小突いた。その瞬間、バックビークは空高く舞い上がる。

 間一髪、狼人間が鋭いかぎ爪で地面をえぐった。狼人間は苛立ったように大きく吠える。

 しばらく旋回していると、下にポッカリと大きな穴が開いているのを見つけた。湖だ。

 見ると、もうすでにシリウスは吸魂鬼に囲まれていた。

「下だ!」

 ハリーは脇腹を小突いた。

「バックビーク、下に降りて!」

 ハリーは、先のハーマイオニーの行動に、一種の予感めいたものを感じていた。過去のハリエット達は、今のハーマイオニーの魔法に助けられた。では、過去の自分達は、今の僕たちが――。

 バックビークはハリーの声に従って急降下した。地面に着陸すると、ハリーは転がるように地面に降りた。そして杖を掲げる。

「エクスペクト パトローナム!」

 ハリーの力強い声が闇を切り裂いた。そして杖の先から目も眩むほど眩しい銀色の動物が噴き出す。ハリーは目を細めた。馬のようにも見える。いや、違う。何か角のようなものがある。――牡鹿だ。

 牡鹿は、暗い湖を、音もなく向こう岸へと失踪していく。頭を下げ、群がる吸魂鬼に突進した。その場をぐるぐる駆け回り、次々に吸魂鬼を撃退していく。吸魂鬼はやがて闇の中に退却していった。

 ハリーのところまで戻ってくると、牡鹿はじっとハリーを見つめていた。そしてゆっくりと頭を下げた。

「プロングズ」

 その意味が分かった。牡鹿に触れようとすると、霞のようにふっと消えてしまった。

「ハリー……」

 いつの間にかハリエットがすぐ側にいた。その顔には微笑みを湛えていた。

「……とっても素敵なパトローナスだったわ」
「ああ、でもハリー、誰かに見られなかった?」

 ハーマイオニーは口を挟まずにはいられなかった。

「大丈夫だよ。僕が僕を見た。でも僕は、父さんだと勘違いしてたから。だから大丈夫」

 やがて、湖の向こう側にスネイプが現れ、ハリー達三人を回収していった。

 三人はそれからもうしばらく辛抱した。チラチラと時計を見ながらまだかまだかとその時を待つ。タイミングを間違えて、誰かに姿を見られてもいけないのだ。

 そしてハーマイオニーが見つけた。城から死刑執行人のマクネアが出てくるのを。

「行こう!」

 ハリーはバックビークに飛び乗った。そしてハーマイオニーに手を差し出す。

「さあ!」
「私は行かないわ」

 だが、ここまで来てハーマイオニーが首を振った。

「どうして!」
「バックビークにはこの後シリウスも乗るのよ。四人は乗りきらないわ。私は歩いて医務室に戻る」
「でも、ここにはまだ狼人間がいるのよ! 危険だわ!」
「大丈夫よ」

 ハーマイオニーは砂時計を持ち上げた。

「いざとなれば私にはこれがあるもの。私は大丈夫。それに、もうここまで来れば一本道だわ。狼人間だって、あそこまでやられてまだ人間を襲うなんてことは考えないはず。今は一刻を争うわ。もう行って」

 ハーマイオニーは離れた。ハリエットはやがて頷き、バックビークに跨がった。

「気をつけて」
「絶対にシリウスを助けてあげて」
「もちろん!」

 再びバックビークは空を飛んだ。地面のハーマイオニーは、あっという間に小さくなって見えなくなった。

 ハリー達は、そのままぐんぐん飛翔し、ホグワーツへと近づいた。

 唸るような風を感じながら、ハリエットはポツリと呟いた。「私……こんなことを言う状況じゃないと思うけど」

 ハリエットの顔は蒼白で、力強くハリーを後ろから抱き締めていた。

「もう空は懲り懲りだわ」
「あと少しだよ」

 ハリーの言葉通り、八階の窓は近づいていた。音もなく窓に近寄り、目的の場所でバックビークはうまく空中で停止してくれた。

 ハリーが強く窓ガラスを叩けば、シリウスは呆気にとられてこちらを見つめた。窓を開けようとしたが、しかしもちろん鍵がかかっている。

 ハリエットは、内心死にそうになりながらも、片手でハリーのローブを掴み、片手で己の杖を取り出した。

「アロホモラ!」

 窓がパッと開いた。

「ど、どうやって……」

 シリウスは茫然としていた。双子は同時に叫んだ。

「乗って! 時間がない!」

 シリウスが窓枠に手をかけ、窓から頭と肩とを突き出した。なんとか脱出すると、シリウスはすぐに片足をバックビークの背中にかけ、ハリエットの後ろに乗り込んだ。

「ようし、バックビーク、上昇! 塔の上まで行くぞ!」

 なんとも清々しい気分だった。まだ決して安心はできない。だが、前はハリー、後ろはシリウスに挟まれ、ハリエットは言い表せない感情で胸が一杯だった。このままどこまでも飛んでいきたい気分だった。

 だが、いつの間にかその感情が口から漏れ出ていたらしい。前に座るハリーがクスクス笑った。

「もう空は懲り懲りなんじゃなかったの?」

 バックビークはやがて、西塔のてっぺんに到着した。ハリーとハリエットは、その背中から滑り落ちた。

「シリウス、もう行って、早く」

 ハリーの言葉に、ハリエットもうんうん頷いた。

「もうすぐ吸魂鬼を連れて皆が来るの。あなたがいないことが分かってしまうわ」
「ロンやハーマイオニーや……マルフォイと言ったか? あの子達は大丈夫か?」
「大丈夫!」

 ハリエットは、ギュッと両手を握りしめて頷いた。大丈夫、あのハーマイオニーのことだ、なんてことない顔してピンピンしているはずだ。むしろこっちの方を心配しているに違いない――。

「ロンは気絶してるし、マルフォイも足を怪我してるけど、なんともなさそう」
「なんと礼を言ったら良いのか――」
「行って!」

 また同時に叫んだ。名残惜しいのは確かだ。でも、無事ならそれで。

「また会おう」

 シリウスは笑った。

「君たちは――本当にお父さんの子だ。ハリー、ハリエット」

 シリウスはかかとでバックビークの脇腹を締め、飛び立った。空高く。乗り手と共に、その姿が小さくなっていくのを、双子はジッと見送った。


*****


 シリウスの元に向かうファッジとスネイプの会話を聞きながら、二人は急いで医務室に駆け戻った。扉の前には、二人を今か今かと待つハーマイオニーの姿があった。

「ハーマイオニー!」

 三人は抱き合った。

「無事で良かった!」
「間に合って良かったわ、ほら、ダンブルドア先生の声が聞こえる」

 聞き耳を立てていると、やがてダンブルドアが出てきた。三人が揃っているのを見て、彼はにっこり笑った。

「さて?」
「やりました!」

 ハリーは息せきって話した。

「シリウスは行ってしまいました。バックビークに乗って」
「ようやった。さて、二人とも出て行ったようじゃ、中にお入り。わしが鍵をかけよう」

 医務室に入り、カチャッと鍵がかかる音がしたとき、ハリエットの胸は一杯になった。そのまま示し合わせたように互いが側のベッドに潜り込む。毛布まで被ったとき、ハリエットは隣のドラコと目が合った。

 彼はとても驚いた顔をしていた。それはそうだろう。目の前で三人が消えたと思ったら、今度は突然入り口から入ってきたのだ。

 ハリエットは口を開きかけたが、それよりも先にマダム・ポンフリーの声がして口を閉ざした。

「さあ、校長先生はお帰りになったようですね? ようやく私の患者さん達の面倒を見させていただけますね」

 マダム・ポンフリーは手際よく患者達の口にチョコレートを突っ込んでいった。ハリエットはもぐもぐ口を動かしながらも、にんまりと口角が上がるのを抑えられなかった。

 やがて、遠くから怒り狂う声が聞こえてきた。声の主が近づいてくる――。

「きっと姿くらましをしたのだろう。誰か一緒に部屋に残しておくべきだった」
「奴は断じてそんなことはしていない! この城の中では姿くらましも姿現しもできない! これは何か――ポッターが絡んでいる!」
「落ち着け、セブルス。ハリーは閉じ込められている」

 病室の扉が音を立てて開いた。ファッジ、スネイプ、ダンブルドアの三人が、ツカツカと中に入ってきた。スネイプはすぐさまハリーの元へ向かった。

「白状しろ、ポッター! 一体何をした?」
「スネイプ、無茶を言うな。ドアには鍵がかかっていた。今見たとおり――」
「こいつらが奴の逃亡に手を貸した! 分かっているぞ!」

 スネイプはハリー、ハリエット、ハーマイオニーを指さした。まさにどんぴしゃりでハリエットは内心肝を冷やした。

「いい加減静まらんか! つじつまの合わんことを!」
「閣下はポッターをご存じでない! こいつがやったんだ、分かっている。こいつが――!」
「失礼ですけど、スネイプ先生」

 ハリーが落ち着いた声を出した。

「もしかしたら、シリウス・ブラックと遭遇したとき、先生も錯乱の呪文を受けたのでは?」
「ポッター!!」

 スネイプは髪を振り乱した。そして次はドラコに標的を絞る。

「ドラコ! お前はどうだ! 見ただろう、こやつらが外を出て行くのを! さあ、言え! 見たありのままの出来事を!」
「……僕は」

 ドラコゆっくり口を開いた。

「三人がここにいるのをずっと見てました。もしかしたら、瞬きする時間くらいは、姿を消してたかもしれませんが」
「ドラコ!」

 スネイプが絶望に叫んだ。それと同時にハリー、ハリエット、ハーマイオニーの三人は驚いたようにドラコを見た。彼が、平然と嘘を――厳密に言えば嘘ではないが――ついている。

 その視線が癇に障ったのか、照れくさかったのか、ドラコは早口で付け足した。

「それに、ポッターはさっきまでいびきをかいて寝ていました」

 せめてもの復讐だとばかりドラコは澄ました顔をした。スネイプ越しに、ドラコとハリーの視線が一瞬交錯した。

「もう充分だろう、セブルス」

 ダンブルドアが静かに言った。

「自分が何を言っているのか、考えてみるが良い。わしが十分前にこの部屋を出たときから、このドアにはずっと鍵がかかっていたのじゃ。マダム・ポンフリー、この子達はベッドから離れたかね?」
「もちろん、離れませんわ! わたくし、校長先生がでてらしてから、ずっとこの子達と一緒におりました」
「ほーれ、セブルス、聞いての通りじゃ。三人とも、同時に二カ所に存在することができるというのなら別じゃが。これ以上怪我人を煩わすのは何の意味もないと思うがの」

 ダンブルドアが冷静に言うと、スネイプは唇を震わせた。そして順々に、まるで射殺さんばかりにハリー達を見つめると、足音も荒々しく出て行く。

 彼が出て行くと、その途端医務室はシンと静まりかえった。

「あの男、どうも精神不安定じゃないかね」

 ファッジは心配そうに言った。ハリーはベッドの中で笑いをかみ殺した。

「私が君の立場なら、ダンブルドア、目を離さないようにするがね」
「いや、不安定なのではない。ただひどく失望して打ちのめされておるだけじゃよ」

 ダンブルドアと、そしてファッジまでもがいなくなった後、医務室はお祭り騒ぎだった。ハリーとハーマイオニーは手を叩いて喜び、おまけにロンも呻きながら目を覚ましたので、余計にだ。

 マダム・ポンフリーの制する声を右から左へと聞きながし、ハリエットはぴょんとベッドを飛び降りた。

「ありがとう、ドラコ!」

 満面の笑みだ。顔には幸せが溢れていた。

「さっきのあなた、とっても最高だった!」

 最高潮の興奮というのは、ときに予想の及ばない行動をさせるらしい。ハリエットは勢い余ってドラコをギュッと抱き締めた。耳と耳がピタリと合わさるくらい抱き締められ、ドラコは途端に真っ赤になった。

「なっ……お前っ!」
「お前じゃないわ、ハリエットよ!」
「ハリエット!」

 その名を呼んだのはハリーだった。慌ててベッドを飛び出し、妹からドラコを引き離しにかかった。

「は、な、れ、ろ!」
「い、痛い痛い痛い! 僕は怪我人だぞ!」
「ハリー、そんなことをしたら可哀想だわ」
「だったらお前が離れろ!」
「――っ、いい加減にしなさい!」

 その騒ぎは、堪忍袋の緒が切れたマダム・ポンフリーが、雷を落とすまで続いた。