■炎のゴブレット

15:良い提案


 寝て起きて、ベッドの上でぼうっとしているとき、もしかして昨日のことは夢だったんじゃないかとハリエットは思った。ザビニにホイホイついて行ってしまって、襲われかけたところをドラコに助けてもらって、そこでパートナーに誘われて……。

 ――僕と、ダンスパーティーに行かないか。

 触れられてもいないし、顔が近いわけでもない。何か甘い言葉を吐かれたわけでもないし、褒められたわけでもない。それなのに、ハリエットはその言葉を聞いたとき、じんわりと胸が温かくなるのを感じたのだ。それは徐々に熱を帯び、熱いくらいになって、我慢できないと思ったとき――イエスと口にしていた。

 ただのお手本に返事をしてしまったことは恥ずかしくて堪らなかったが、その後ドラコは改めてパートナーに誘ってくれた。その際、彼はいろいろとごちゃごちゃ言っていたような気はするが、ハリエットはほとんど聞いていなかった。

 自分でも驚くほどに――嬉しかったのだ。誘われたことももちろんだし、今までのように、ハリーのことを聞きたいからではなく、継承者に興味を持ってではなく、男女の関係を求めるものでもなく、ドラコなら、そういったハリエットが嫌がるような目的で誘ったのでないことは明らかだ。

 ただ、一晩経って冷静に考えてみると、ハリエットには我慢ならないことがあった。――バッジである。

 次会ったとき、ドラコにはバッジは外してもらおうと考えていた。いくらハリエットがお人好しでも、大好きな兄を嘲笑するバッジを身につけている人とパーティーには行きたくない。

 魔法薬学のとき、早速ドラコの方を見たが、やはり彼は胸にバッジをつけていた。いつ言おうかとハリエットはずっと観察していたが、しかし、やがてあることに気がついた。授業中や廊下、大広間で、ドラコ達とすれ違うことがあっても、彼がバッジを『汚いぞ、ポッター』の方に変えることがないのだ。その代わり、ドラコはハリエット含むハリー達の事を一切無視した。これが彼なりの譲歩なのかも知れないとハリエットは思った。一方で、もちろんハリーやロン、ハーマイオニーは不気味なほど大人しいドラコを気味悪がったが。

 そんなこんなで、ハリーとロンの不仲やクリスマスパーティーのパートナーについて、目下の悩みは解決したので、ハリエットは上機嫌だった。ハッフルパフとの合同授業でもそれは変わらない。

 その日の薬草学は、『ピョンピョン球根』の植え替え作業だった。新しい鉢を用意し、その中にピョンピョン球根を移動させるのだが、これがなかなかうまくいかない。その名の通り、まるで生き物かのように球根が元気に跳ねるからである。

「何だよ、こいつ! 土飛ばしてばっかじゃないか!」

 ロンの球根は特に活きがいいようで、ロンはぺっぺっと口の中に入った土を吐き出していた。

「当たった球根が悪かったわね。私のは結構大人しい方よ」

 ハーマイオニーは素知らぬ顔で素早く植え替えをしていた。確かにハーマイオニーの球根は、土から出たばかりのときは騒がしいが、新しい土に移動となると、途端に大人しくなった。

「でも、本当この子達、可愛いわ。ウサギみたい」
「ウサギー? どこがだよ。癒やしの欠片もないじゃないか」

 ロンがぶつくさ言っているとき、ハリーの手の中から、球根が一個飛びだし、ハリーの顔に思い切りぶつかった。ゴッと音が鳴るくらいには辺りに響いたので、ハリエットは思いきり笑ってしまった。

「あははっ! ハリー、災難ね!」
「大丈夫かい?」
「いや……大丈夫じゃない」

 ハリーは涙目だった。球根が顎に強かにぶつかってきたのだ。

「君の妹、最近お転婆になってきたね。前は真っ先に君のこと心配してたのに」
「いい傾向なのかも……」

 そう言いながらも、ハリーは恨めしげにハリエットを見た。確かに、いつものハリエットならばこういうとき真っ先に心配する。今日のハリエットは何だか……陽気だった。

「そういえば、ロン達から聞いたんだけど、ハリエット、パートナー見つけたって?」
「えっ、ええ……」

 小声でハーマイオニーに囁かれれば、途端にハリエットは大人しくなって落ち着きなく視線を彷徨わせた。

「ロン達には内緒なんでしょ? 後で私には教えてくれる?」
「もちろんよ」

 躊躇いなくハリエットは頷いた。パートナーがドラコだと言ったら、ハーマイオニーはどんな顔をするだろうと考えたら、今からちょっと楽しみだった。

「ちえっ、なんだあいつら。たかがパートナーなんだから、そんなに出し惜しみしなくたっていいだろ」
「たかがパートナー一人見つけられないのはどこのどなたでしょうね?」

 ハーマイオニーがジトッと言い返せば、ロンはそれ以上何も言えなくなってぷいと顔を逸らした。

 ハリエットは、その後も上機嫌で薬草学を終えた。ただ、温室を出るとき、ハリエットは声をかけられた。

「ハリエット、ちょっと話があるんだけど」
「私?」

 ハリエットは、声をかけた人物――ジャスティンと、ハリー達とを見比べた。

「先に行ってて」
「分かった」

 ハリー達とは、大広間で合流することにして、その場は別れた。

「湖を散歩でもしない?」
「ええ……」

 ハリエットは躊躇いがちに頷いた。ザビニのこともあって、二人きりというのは遠慮したかったが、しかしジャスティンには負い目がある。外ならば、人目もあるだろうとハリエットは了承した。

 ただ、どうして急に声をかけてきたのだろうという疑問は残った。ハリーのバッジを巡って廊下で口論してから、ハリエットはジャスティン達と全く話をしていなかった。薬草学のときもそうだ。ハリエットは、ハリーの顔に球根がぶつかったとき、ジャスティン達が嫌な笑い声を上げるのを聞いていた。

 もうすぐお昼時のせいか、湖に人気はなかった。少し肌寒いと思いながら、肩を並べて二人は歩く。

「この前はごめんね」

 ジャスティンは唐突に謝った。バッジのことか、とハリエットは思い当たったが、それは見当違いだった。

「継承者とか、嫌味言っちゃって。その後すぐにあの記事が出たから、気にしてるんじゃないかって」
「ああ……あれね。気にしないで。私も少し突っかかりすぎたもの」

 あくまで『少し』ではあるが。

「良かった。ずっと気になってたんだ。あれから……いろいろ言われてるだろ?」
「……まあ」

 ハリエットは苦い顔で言葉を濁した。記事が出た当初の頃よりは、ハリエット宛の手紙や中傷も落ち着いてきてはいた。それでも、一度心についた傷はなかなか治らない。不特定多数の人に怖がられている、恨まれているというのは、気持ちの良いものではない。

「あのさ、良かったら、僕のパートナーになってくれない?」

 ジャスティンは急に話題を変えた。唐突に明るい声になったので、ハリエットは頭が追いつかなかった。

「えっ?」
「パートナー。なってくれない? 君のこと……可愛いなっでずっと思ってたんだ。だから――」
「えっと……折角のお誘いだけど、ごめんなさい。私、パートナーがいるの。もうオーケーしてしまったわ」
「誰だい?」
「それは……」

 ハリエットは口ごもった。何となく、この場で打ち明けるのは得策でない気がした。彼に言えば、あっという間に学校中に広まりそうな気がした。ハリエットとドラコ、グリフィンドールとスリザリン、犬猿の仲の妹とその相手。自分たちが悪い意味で注目を浴びることは確実だろうが、せめてパーティー当日までは穏やかに過ごしたいというのがハリエットの本音だった。

 結局答えなかったハリエットを、ジャスティンは侮辱されたと思ったらしい。

「わざわざそんな嘘つかなくたって良いじゃないか。そんなに僕が嫌なのか?」

 彼は一気に不機嫌になった。ハリエットはポケットに手を入れて、いざというときの逃げ道を確保できるようにした。もうあんな過ちは犯さない。

「君にとってもこれは良い提案だと思ったんだけど」

 ハリエットが警戒したことにも気づかず、ジャスティンはふて腐れたように言った。

「君は日記に操られてたとはいえ、一歩間違えれば僕たちを殺すところだったんだ。君の親友も含めてね」

 ハリエットは声を詰まらせた。

「そういう悪いイメージがついちゃったんだから、それを取り払う努力をしないと。もしもさ、被害者の僕と加害者の君が仲良くしてたら、皆はどう思うかな? 僕はもう君のこと怒ってないし、それどころか好意を持ってる。そうと分かれば、外野があれやこれや言う資格はないと思わない?」

 ハリエットはローブの裾を握りしめた。

「こ、これは、私への罰なの。私がしたことなんだから、報いを受けるのは当然なのよ」
「でも、こういう誹謗中傷が永遠に続くのは嫌だろ? 野放しにしてたら、後ろ暗い過去として君にずっとついていくよ。それにさ」

 ジャスティンは急に声を潜めた。

「今ハリーがハッフルパフに疎まれてるのは知ってるだろ? もし君がパートナーになってくれたら、僕が口利きしてもいいよ」

 ジャスティンはにっこり笑った。

「ハリーはこの後も第二、第三と課題をこなしていかないといけないのに、今後も周りが敵だらけじゃ、きっとやりづらいと思うよ。趣味の悪いバッジだって止めさせてやるよ」

 最後の一押しだと言わんばかり、ジャスティンは熱を込めた。

「僕がハッフルパフの皆に口利きする。大丈夫、任せて。必ずバッジは全部回収するから」
「…………」

 嫌だ、とハリエットは正直そう思った。彼の『提案』は魅力的だ。確かに一理ある。これでハリエットへの中傷が和らぎ、かつハリーのバッジも姿を消すとなれば、こんなに良い提案はないだろう。

 ……だが、ジャスティンとパーティーに行くというのは、あまり喜ばしいことではなかった。ハリエットはジャスティンにあまり良い感情を抱いてなかったし、こうして――まるでハリエットの弱みをつつくような提案の仕方も気持ちの良いものではない。

 もしも今のハリエットに、パートナーがいなかったら、ひょっとして頷いていたかもしれない。しかし今は違う。ドラコと行くパーティーをハリエットは楽しみにしていた。

 ハリエットはなかなかイエスと言わなかった。それに焦れてきたのはジャスティンだ。

 ――こんなはずじゃなかった。もっと喜んで受け入れてくれると思ったのに。折角声をかけてやったのに、なんて失礼な奴だ。

「……ジャスティン、その申し出は本当に有り難いけど、でもやっぱりあなたとは行けないわ。本当にもうパートナーがいるの」
「じゃあ誰だよ。いるなら答えられるだろ?」
「……ドラコよ。ドラコ・マルフォイ」
「――っ」

 ジャスティンは目を見張った。

 ――ドラコ・マルフォイ? あのスリザリンの?

 マルフォイがハリーと犬猿の仲だと言うことはホグワーツでも知られている。マルフォイがハリーによく突っかかっていたのだ。なのにどうしてハリーの妹がマルフォイとパーティーに行くという話になる?

 ハリエットが嘘をついているという様子はなかった。だからこそ余計に苛立ちが強まる。

 よりによって純血主義のマルフォイなんかと。秘密の部屋だの継承者だの記事でぼろくそ言われたくせに、なぜ今マルフォイなどと衆目の場に出ようとするのか。

 スリザリンのマルフォイが良くて、自分が駄目な理由が分からなかった。普通に考えれば、自分と行く方が後腐れなく噂に歯止めをかけることができるというのに。

 次第に怒りが溜まってきて、ジャスティンは自分でも歯止めが利かなくなった。

「石になったときのこと、僕は今でもトラウマなんだ」

 そして気づけば脅すようなことを口にしていた。

「それでも、折角僕が君の手助けをしてあげようと思ったのに、そういう態度はないんじゃないかな?」

 ハリエットの瞳に怯えの色が見えた。ジャスティンは意外なことに、その事実に愉悦を感じた。

「もしかしたら、僕の口が滑っちゃって、リータ・スキーターに何か漏らしちゃうかも」

 ハリエットは震えていた。それは恐怖らか、怒りからか。

 ハリエットの口から低い声が押し出された。

「ドラコに一言言ってから……」
「勿体ぶらなくたって良いのに」

 やっとの思いで言った言葉も、ジャスティンは何でもないように捉えた。

「まあいいよ。じゃあ返事が聞けたら僕の所に来て。良い返事を期待してる」

 ジャスティンは手をヒラヒラ振ってその場を後にした。ハリエットはその場にしゃがみ込んだ。涙は出なかったが、湖に映った顔は、泣きそうな顔をしていた。