■賢者の石

08:初めての授業


 ハリーには、いつでもどこでも囁き声がつきまとった。食事をしているときも、教室移動しているときも、まるでハリーが動物園のライオンだとでも言うように、皆がジロジロ見てくるのだ。

 その反面、ハリエットはあまり脚光を浴びなかった。生き残ったという意味では、ある意味ハリエットも同じ立場なのだが、直接例のあの人を退けたという意味では、ハリーとハリエットでは天と地の差があった。ハーマイオニーが言うには、文献にもハリーが双子であると書かれているものと、ハリエットのことがほとんど書かれてないものの二種類に分かれるようだ。物珍しい事件を気にする者は、ハリーに双子の妹がいるかどうかなんて興味はなく、ハリー・ポッターただその人だけが興味の対象なのだ。

 とはいえ、ハリエットはそれで良かった。ハリーには申し訳ないが、もしもハリーほどいろんな人に注目される毎日ならば、ハリエットは早々にしてストレスで参ってしまうだろう。だからこそ、彼女はハリーのことが心配だった。いつもいつも人に見られる生活をしているので、ハリエットはできるだけハリーの側に寄り添った。

 ホグワーツには、百四十二もの階段があったし、なかなか開けてくれない扉もあった。開けてくれないときは、丁寧にお願いをしないと開けてくれないのだ。それでも開かないときは、くすぐったり、怒ったり、笑わせたり、手を替え品を替えやらなくてはならない。

 ゴーストも厄介だった。ポルターガイストのピーブズである。ゴミ箱をぶちまけたり、足下の絨毯を引っかけたり、生徒をいじめるのが生きがいのようなゴーストだ。ハリエットなんかはとろくさいので、しょっちゅうピーブズの被害に遭っていた。ハリー・ポッターの双子の妹ということで一応目立つ存在であり、かつ鈍くさいので、ピーブズの絶好の標的となってしまったのだ。『ハリエットちゃ〜ん』と喜々としてピーブズの声がするときは、ピーブズに追いかけられているハリエットと遭遇することだろう。

 だが、ピーブズ以上に生徒たちが目の敵にしているのは、管理人のアーガス・フィルチだった。彼はミセス・ノリスという猫を飼っていて、彼女と共に、生徒がちょっとした規則違反をした途端、嬉々として罰則を宣言するのだ。

 ミセス・ノリスに遭遇するたび、ハリエットは彼女を構おうとしたが、ハリーとロンはもちろん嫌な顔をした。

「気が狂ってる」

 ロンは肩をすくめた。

「フィルチの手下のあの猫が好きだなんて」
「ハリエットは、動物の中でも特に猫が好きなんだ」

 ハリーはボソッと呟く。ロンはゲッと顔を顰めた。


*****


 ハリエットは、教室移動はハリー達としていたが、授業自体はハーマイオニーと受けることが多かった。二人一組になって練習をする授業は多く、ハリーは友達のロンと組になることが多いので、ハリエットは自然とハーマイオニーと組むことが多くなったのだ。最初にハーマイオニーを誘ったとき、彼女は快くペアになってくれたので、それからハリエットはいつもハーマイオニーと授業を受けることになっていた。

 コンパートメントでハーマイオニーが言っていたこと――教科書を全部暗記したというとんでもない台詞――は本当らしく、彼女はどの授業でも自信満々に手を上げていた。ハリエットはいつも隣で感嘆していた。マグル界で育ち、今まで魔法のまの字も知らなかったという境遇は同じなはずなのに、彼女は努力だけで教師全員が太鼓判を押すだろう優等生になったのだ。

 呪文の間違いや、ちょっとした魔法の知識など、ハリエットは彼女から吸収することが多々あった。ハリーが談話室で呪文の練習をしていたとき、綴りの言い間違いを指摘したら、ロンに『君、ハーマイオニーに似てきたね』と言われたことは記憶に新しい。

 ハリーはギョッとしてロンを窘めたが、ハリエットは嫌味に気づかず喜んでお礼を言った。ロンは変な顔をしていた。


*****


 天文学や薬草学、魔法史に変身術、様々な授業を経験し、そろそろ受けたことのない授業はないか、というときに、魔法薬学の授業がやってきた。グリフィンドールの先輩が言うには、担当教諭のスネイプは、いつもスリザリンを贔屓し、そして厄介なことに、グリフィンドールを目の敵にしているという。嬉しくない前情報に、ハリー達の表情は暗くなった。

 だが、その日の朝食の際、ハリーの下にハグリッドから手紙が届いた。遊びに来ていたウィルビーを可愛がりながら、ハリエットは興味津々に手紙を覗き込む。

 手紙には、お茶をしに来ませんかと書かれてあった。ハリーとハリエット両方の名が書かれており、ハリエットは嬉しかった。特にハリーは顔をニマニマさせていた。初めてヘドウィグ経由で自分宛に手紙が届いて嬉しいのだろう。すぐに返事を出し、ロンと三人でハグリッドの所へ行く約束をした。

 魔法薬学の授業は地下牢で行われた。ハリエットはいつも通りハーマイオニーの隣に座った。スリザリンと一緒に授業をするらしく、中央の通路を挟み、グリフィンドールとスリザリンは綺麗に分かれていた。まるでその境界を越えたら退学になるといわんばかり、誰一人としてその通路を越えて座ることはなかった。

 名簿を読み上げるとき、スネイプはハリーの名前の所で曰くありげに流れを止めた。

「ああ、さよう」

 彼は唐突に柔らかい声を出し、皆は戦々恐々とする。

「ハリー・ポッター。我らが新しいスターだ」

 スリザリンからクスクス笑いが漏れ出したことで、ハリエットはようやくそれが嫌味なのだと気づいた。だが、なぜ教師たるスネイプがハリーに嫌味を言うのかが分からなかった。ハリーは何も悪いことをしていないのに。

「このクラスでは、魔法薬調剤の微妙な化学と、厳密な芸術を学ぶ」

 スネイプは、マクゴナガルとは別の意味で怖い人だった。マクゴナガルは規則に厳しいだけで、ハーマイオニーのように真面目にしていれば、まず怒られることはないだろう。だがスネイプは、いわば、何が逆鱗に触れるか分からないような恐怖があった。

 大演説の後、スネイプはゆっくり生徒を見回し、そして最後にハリーに目をとめた。

「ポッター!」
「はい」

 反射的に、ハリーとハリエット、二人が返事をした。だが、スネイプがハリーに声をかけていることは誰の目から見ても明らかだった。スネイプもハリエットの存在を無視することにしたらしい。そのままハリーに質問した。

「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」

 ハリエットは、スネイプの質問の半分も理解できなかった。そもそも単語すら聞き取れない。料理をするわけではないので、苦いスープになるという答えでないことは唯一理解できた。

 ハリーも困っているようで、下を向いていた。ハーマイオニーだけは、唯一ピンと手を上げていた。

 ハーマイオニーの存在は無視され、その後もスネイプからの質問は続いた。だんだんスリザリンから嘲笑うような笑い声が漏れ始め、ハリエットは自分のことのように身体を小さくした。

 スネイプの質問に三回分かりませんとハリーが答えた後、彼は力を入れて視線を上げた。

「ハーマイオニーが分かっていると思いますから、彼女に質問してみたらどうでしょう」

 嫌味とも、真面目ともとれるナイスな返答に、グリフィンドールの生徒が数人笑い声を上げた。その中にもちろんロンとハリエットも混じっている。

 胸がすく思いで笑ったハリエットだが、しかしすぐに心配になる。ハリーは、生意気とも思われかねない返答をして、スネイプに嫌われないだろうか?

 恐る恐るスネイプを見れば、予想通り、彼は不快そうに眉間の皺を深くしていた。

「教えてやろう、ポッター」

 そして仰々しく先ほどの質問の答えを長々と口にする。そして最後には。

「ポッター、君の無礼な態度でグリフィンドールは一点減点」

 スリザリンの生徒の笑い声は最高潮だった。ハリエットは彼らを精一杯睨み付けたが、端の席にいたので、効果はほとんどなかっただろう。

 本格的に授業が始まってからも、スネイプはまるで親の敵と言わんばかりグリフィンドールに言いがかりをつけ、そしてスリザリン――特にドラコ――に対しては、息子のように甘やかしていた。ドラコが角ナメクジを完璧に茹でたので皆見るようにと生徒たちは誘導されたが、スネイプの説明を受けるうちに、ハーマイオニーの方がよっぽど完璧だとハリエットは感じた。

 一番酷かったのが、ネビルが調合の順序を間違え、おできを治す薬ではなく、おできを作る薬を作ってしまったときだ。

 スネイプは、ネビルの失敗を、なぜか隣にいたハリーを悪者にすることでグリフィンドールから減点したのだ。言いがかりとしか思えない理由に、グリフィンドール生は心底怒った。

 ようやく授業が終わったとき、ハリーは心の底から落ち込んでいるようだった。ハリエットはすぐに慰めに行きたかったが、教室を出て行く生徒たちの波でなかなか前に進めない。ようやく教室を出た頃には、ハリーの姿は見えなくなっていた。

 ハリエットは、ハーマイオニーと並んで廊下を歩いた。

「さっきの、ハリーに対して酷くなかった?」

 せめて誰かとこの腹立たしい気持ちを共有したくて、ハリエットはハーマイオニーに話しかけた。

「でも、ハリーもハリーだわ。あんな風に言ったらスネイプ先生、怒るに決まってるもの」
「でも、理不尽だったわ」

 ハーマイオニーの足が止まった。

「……ええ、そうね。あれは可哀想だったわ」
「ミス・グレンジャーは我輩のやることに不満がおありかな?」

 冷たい声が降ってきて、二人は揃って固まった。ぎこちなく振り返れば、睨んでいるのかと思うくらい鋭い眼光が自分たちを見下ろしている。

「ち、違います。私の方です!」

 反射的にそう言い返し、ハリエットはものすごく後悔した。

 自分のせいでハーマイオニーが悪く思われたくなくて言い返した。そのことに後悔はないが、しかし、もっと他に言い方があったはずだ。

「ほう、お聞かせ願おう」
「あっ……あ、あの」

 パクパクとハリエットは口を開け閉めする。大量の冷や汗が流れた。

「あれは、ハリーが可哀想だったと思います……」
「結構。スターの妹は兄思いだな」

 ハリエットの顔が強ばる。

「皆、初めての授業で緊張してたし、ハリーは他の子の鍋を見る余裕なんてなかったはずです」
「ウィーズリーと雑談をする余裕はあったようだがな」
「でも……」

 ハリエットは諦め悪く食い下がった。

「もしハリーが鍋の異変に気づいていたら、絶対に注意してたと思います。なのに、ハリーが得するためにわざとネビルのことを見て見ぬ振りしたなんて、そんな酷いこと言うなんて……」

 言いながら、ハリエットは顔を俯けた。

 ハリーとハリエットには、友達がいなかった。二人はいつも汚らしい格好をして遠巻きにされていたし、もし二人に好意を持って近づく者がいれば、喜々としてダドリー達いじめっ子がやってきて、それを追い払うからである。

 ここホグワーツに来てからは、ロンやハーマイオニー、ネビルなど、色々な人と出会って、そして友達になった。いつも隣には双子の片割れがいたとは言え、彼女は決して友達にはなり得ないのだ。くだらない話をしたり、冗談を言ったり、愚痴を零したりできる存在を、ハリーが嵌めるなんて、そんなことあるわけがないし、そう思われること自体悲しい。

「わ、私は、そんなのおかしいと思います!」

 だんだん恐くなって、ハリエットはそれ以上その場にいられなかった。逃げるように走り出し、目的地も分からぬまま廊下を駆けていった。