■賢者の石

09:飛行訓練


 初めての飛行訓練は、非常に残念なことに、スリザリンと一緒だった。空を飛ぶのを楽しみにしていたポッター家の双子は、揃って肩を落とした。

「最悪。マルフォイの目の前で箒に乗って、そして物笑いの種になるのさ」

 飛行訓練に対し、不安を抱えていたのはハリー達だけでなかった。今や学年一優等生の地位を欲しいままにしているハーマイオニーもである。さすがの彼女も飛行については自信がないようで、図書館で借りたクィディッチに関する本に載っていた飛行のコツを、周りに話しまくった。それを必死な思いで聞いていたのは、ネビルと――ハリーにとっては残念なことだが――ハリエットだった。理論だけで空を飛べるなら誰も苦労しないと言ってもハリエットは聞き入れず、メモまでし出す始末だ。ハリーは呆れてそれ以上何も言えなかった。

 おかげで、ハリーはハグリッドの小屋で手に入れた情報について、なかなかハリエットに伝えられずにいた。ようやく彼女を捕まえたのは、飛行訓練へ向かうその日の午後である。

「ハリエット。この前ハグリッドの小屋でびっくりするものを見たんだ」

 魔法薬学の帰り際、校内や外で道に迷い、結局ハグリッドの小屋にたどり着けなかったハリエットに対し、ハリーは興奮して言った。

「ハグリッドの小屋でね、新聞を読んだんだけど、僕らの誕生日のその日に、グリンゴッツで強盗があったらしいんだ。そして、荒らされた七一三番の金庫は、侵入されたその日に空になってた」
「それが?」
「分からない? ハグリッドは七一三番の金庫を空にしてたじゃないか。こんな偶然ってある? ハグリッドは、すんでのところであの包みを持ち出すことに成功したんだ。あれは一体何なんだろう……」

 ハリーはそれきり考え込むようにして黙り込んだ。正直なところ、ハリエットは今から始まる飛行訓練に緊張しすぎて、ハリーの言葉はほとんど耳に入ってこなかった。ネビルは彼女以上に青い顔をしていた。

 午後三時半、いよいよ飛行訓練が始まった。少し風があるくらいで、よく晴れた、飛行にはもってこいの天気だった。とはいえ、ハリエットは今にも戻しそうな青い顔をしていた。空を飛ぶのは憧れだし、楽しみだ。だが、それ以上に、自分の下手な操縦で、天から真っ逆さまに落ちることを思うと、気持ちが悪くなっていく一方だ。

 まず、歩行訓練は箒を上げることから始まった。担当教師のマダム・フーチのかけ声と共に、皆『上がれ』と叫んだ。

 ハリーの箒はすぐに上がったが、ハリエットはなかなか上がらなかった。箒に怖がってるのが伝わってるんじゃないかとハリーにアドバイスをもらったが、気持ちを新たに上がれと叫んでみても、なかなか恐怖心は消えないようで、箒はちょっと動くだけだった。

 次に、箒の乗り方の指導を受けた。マダム・フーチは一人一人ゆっくり箒の握り方を指導していた。ドラコも間違った握り方をしていると先生に指摘され、ハリーとロンは大喜びだった。とはいえ、ハリエットの方はは人ごとではなく、ドラコの方を伸び上がって見た。そのことに気づき、ドラコは馬鹿にされた思ったのか、目を吊り上げて威嚇してきた。

 マダム・フーチの合図で、いよいよ空を飛ぶことになったが、極限までせり上がった緊張のせいで、ネビルがタイミングを間違えて空に飛び上がってしまった。

「戻ってきなさい!」

 マダム・フーチは大声で叫んだが、箒初心者のネビルが箒を自在に操れるわけがなかった。ネビルはしばらく空中で右往左往した後、とうとう真っ逆さまに地面に落ちてしまった。

 嫌な音がして、その場はシンと静まりかえった。マダム・フーチは慌てて駆け寄り、ネビルを診察する。ネビルの手首は折れていた。

「私がこの子を医務室に連れて行きますから、その間誰も動いてはいけません。箒もそのままにしておくように。さもないと、ホグワーツから出て行くことになりますよ」

 ネビルはぐしょぐしょに泣きながら、先生に抱きかかえられて城の中へ入っていった。二人の姿が見えなくなったところで、ドラコが嬉しそうな声を上げた。

「見たか? あいつの顔」

 グリフィンドール生はネビルを庇ったが、スリザリン生はドラコに倣い、余計にはやし立てるばかりだ。

「見ろよ」

 ドラコは草むらの中から何かを拾い上げた。

「ロングボトムのばあさんが送ってきたバカ玉だ」

 ドラコが掲げたのは思い出し玉だ。ネビルの祖母がふくろう便で送ってきたもので、持ち主が何か忘れていることがあると、赤く光って教えてくれるというものだ。

「マルフォイ、それ返してよ」

 静かだが、芯のあるハリーの声に、皆が二人を注目した。

「それじゃ、ロングボトムが後で取りに来られる場所に置いておくとしよう。そうだな、木の上なんてどうだ?」
「返せったら!」

 ハリーは一歩近づいたが、それを避けるようにドラコは箒に飛び乗った。ゆうゆうと樫の木の高さまで上がると、ハリーに上から呼びかける。

「ここまで取りに来いよ、ポッター」

 ハーマイオニーが窘めたが、闘志に火がついたハリーは止められなかった。

「は、ハリー……」

 気の弱い妹の声なら特に。

 ハリーは箒に飛び乗り、本能に従って急上昇した。風が耳元で唸り、ローブがはためいた。ドラコと同じ高さまでハリーが飛び上がると、女の子達は息をのみ、男の子達は歓声を上げた。ハリエットは、あまりの恐怖に見ていられなかった。

「こっちへ渡せ」

 鋭く威嚇したハリーに、ドラコは表情を強ばらせる。遙か下にいるクラッブとゴイルの方を見、舌打ちをすると、大きく手を振りかぶり、ガラス玉を遠くに放り投げた。

 ガラス玉は本当に小さかった。だが、ハリーには不思議とよく見えた。そして、飛行技術も抜群だった。ギュンと急降下し、みるみるスピードを上げてガラス玉を追う。精一杯手を伸ばし、そうしてすんでのところで玉をキャッチし、また箒を引き上げて水平に立て直した。着陸までハリーは完璧だった。さっきまで怒っていたハーマイオニー、そして不安で胸を押さえていたハリエットは、いつの間にか満面の笑みを浮かべていた。それほどまでにハリーの飛行は素晴らしかった。まるで自分の身体の一部かのように箒を操り、ものにしていた。

「ハリー・ポッター」

 マクゴナガルの声が響くまでは、ハリーは英雄だった。

 彼女の顔は強ばっていた。連れていかれるハリーの顔も、また真っ青だった。

 グリフィンドールは、お通夜のように静まりかえっていた。対するドラコ達スリザリン生は、厄介者がいなくなったと手を叩いて喜ぶ。

「ハーマイオニー……」

 ハリエットは今にも泣き出しそうな声を出した。

「どうしよう……もしかして、ハリー、退学になっちゃうかしら?」
「そ、そんな……そんなこと。大丈夫よ。ネビルのことを話したら、きっと先生だって分かってくれる。後で話しに行きましょう?」
「ええ……ええ」

 ハーマイオニーも不安そうだったが、自分以上に怯えているハリエットを見て、彼女の背中を撫でた。今一番不安なのはハリーだろうと、ハリエットは何とか心を持ち直した。

 ハリーが連れて行かれた後、しばらくしてマダム・フーチが戻ってきて、授業が再開した。ドラコ達はまだ馬鹿笑いをしていたが、フーチに怒られ静かになる。

「さあ、気を取り直して、もう一度行きますよ。笛を吹いたら地面を強く蹴ってください。一、二の、三――」

 ピーッと笛が鳴り響き、皆が一斉に地面を蹴った。ちゃんと箒に乗れた生徒は、二メートルほどで停止する。何度か繰り返して乗れたものもいたが、乗れない生徒もやはりいた。

 ハリエットとグリフィンドール生数名は、端で何度かチャレンジした。その間、きちんと乗れた生徒は、もう少し高い場所まで浮上していた。ハリエットは、どう頑張っても数十センチ程しか上がれなかった。未だネビルの光景が尾を引いていた。空中で右に、左と揺さぶられ、ついには地面に落ちていったネビルの姿が、頭から離れない。

 空中で停止した後は、しばらく箒に乗ったまま移動をした。調子に乗って猛スピードで移動する生徒は、マダム・フーチにすぐ叱られていた。大抵の生徒は、駆け足くらいの速度だった。ハリエットはというと、相変わらずほんの少し浮かんだところで、のろのろと移動していた。

「見ろよ」

 いつの間にかドラコがすぐ近くまで来ていた。彼の後ろには、もちろんクラッブやゴイルもいた。

「あの腰抜け。あれなら歩いた方がまだ早い」

 ハリエットは顔を赤くした。自分に向かって言っているのは明白だった。

「ろくに箒も乗れないようじゃ、この先が思いやられるな。双子揃って退学したらどうだ?」
「まだハリーが退学って決まったわけじゃないわ」

 ハリエットが弱々しく反論した。

「そもそも、マルフォイが悪いんじゃない。あなたがあんなことしなかったら、ハリーは箒に乗らなかったわ。ハリーが退学なら、あなたも退学よ」
「何を言われても負け犬の遠吠えにしか聞こえないね。悔しかったらここまで来たらどうだ」

 唇の端を歪めて、ドラコは空高く飛び上がった。ハリエットはもちろん無視した。自分の実力は分かっていた。無理をして暴走して、それこそ退学なんてことがあってはならない。

 ハリエットは、その後もずっと真面目に箒に乗り続けた。授業が終わる頃には、ようやく一メートルまで上がることができるようになっていた。