03

 おじさんと双子 

おじさんは後見人






〜もしもシリウスがすぐにピーターを捕まえていたら〜


 それから慌ただしく日々が過ぎた。ホグワーツ入学までは、一体どうしてこんなに時が経つのが遅いのだろうとヤキモキしていたが、いざ九月一日がやってくると、それからは飛ぶように過ぎた。ロンと友達になり、グリフィンドールに組み分けされ、ハリーがクィディッチの選手に選ばれ、トロールが出現し、ハーマイオニーと友達になり、賢者の石を守ろうと奮闘したり。

 ホグワーツでの目まぐるしい日々は、逐一シリウスに手紙で伝えた。忙しいだろうに、シリウスは双子それぞれからの手紙に律儀に返してくれた。

 ホグワーツからキングズ・クロス駅まで戻ってきたときも、彼は迎えに来てくれた。てっきりバーノンの不機嫌な顔と遭遇すると思っていた双子は、朗らかな笑みを浮かべたシリウスに出迎えられ困惑した。

「お帰り、ハリー、ハリエット。ホグワーツは楽しかったろう?」
「うん……とっても」
「シリウスはどうしてここに?」
「君達のお出迎えに決まってるじゃないか」

 シリウスがさっと杖を振るうと、双子の荷物が忽然とどこかへ消え去った。聞かずとも、彼が家まで送り届けてくれたのだと分かった。こう見えて、魔法界で過ごしてもう一年になるのだから。

「さあ、ダーズリーの家まで送ろう」
「うん……」

 分かってはいても、自然と双子の顔色は暗くなる。夢のような楽しいホグワーツ生活は終わり、これから長い長い夏休みが始まる。またあのダーズリーの家で一夏を過ごすのかと思うと、うんざりもしたくなってくる。

「だが、夜までにはまだ時間はある。どうだ? おじさんと少し遊んでいかないか?」

 シリウスが悪戯っぽく笑い、双子はパッと華やかな笑みを見せた。

「遊ぶ!」
「そうこなくちゃ」

 シリウスは双子の肩を抱き、九と四番線の壁を抜けた。


*****


 シリウスは、夏休みの間も毎日遊びに来てくれた。そのおかげで、ロンやハーマイオニーから手紙の返事が戻ってこなくても、なんとか耐え忍ぶことができた。

 やがて、手紙が届かないのは屋敷しもべ妖精のドビーの仕業であることがかったが、それとほぼ同時に大問題が起きた。彼がハリー達をホグワーツへ行かせないために無理矢理魔法を使ったせいで、魔法省から警告文が届いたのだ。シリウスは双子のせいではないと大層怒ってくれたが、聞き入れてもらえなかった。

 ドビーの魔法のせいで大いに怒り狂ったバーノンが、しまいには双子を部屋に閉じ込めた。水も食料もほとんど与えられず、双子は疲弊していたが、何とか飢え死にする前にシリウスに救出され、事なきを得た。シリウスは今にも射殺さんばかりの目つきでダーズリー一家を睨み付けていたが、彼が杖を取り出すことはなかった。あくまでも理性的に話し合いで残りの夏休み、双子は自分の家で預かると宣言した。

 ハリーとハリエットは、グリモールド・プレイス十二番地にあるブラック邸に身を寄せた。ここはシリウスの生家で、普段彼が寝泊まりしている場所とは違うらしい。そのことを語るシリウスの顔は苦々しく、『今の家では君達を泊められるほど広くはないから』という理由の他に何かありそうだったが、双子は彼の気持ちを慮ってそれ以上聞こうとはしなかった。

 ただ、厨房へ降り立ったときは、ハリエットは驚いてシリウスに身を寄せたし、ハリーは怖い顔をした。キッチンの隅には、なんとドビーがいたからだ。

 だが、シリウスから話を聞くに、彼はクリーチャーという名の屋敷しもべ妖精で、ドビーとは全くの別人だった。確かに、よくよく見ればクリーチャーはドビーよりも年寄りで、その上声も僅かに低い。行動はともかくとして、ドビーはハリー達双子に好意的だったが、クリーチャーは全くの真逆だった。『穢れた血の入った出来損ない』だの、『みすぼらしい孤児』だの、ぶつぶつと辛辣な悪口を口にしたため、そのたびにシリウスは恐ろしい顔で諫めた。

 一緒にブラック邸に住み始めると、仕事が休みのときは、シリウスはいろんな所に連れて行ってくれたし――もちろんジェームズとリリーのお墓参りもだ――分かりきっていたことではあったが、彼はとても懐が広く、広々としたブラック邸にウィーズリー家の子供達を呼んでお泊り会も許可してくれた。ハーマイオニーは残念ながら来られなかったが、それでも今までで一番楽しい夏休みだった。あっという間に日々は過ぎていったが、学校が始まるのを嫌だとは思わなかった。ホグワーツは、ブラック邸とはまた違った面白さや新鮮さがあるのだ。ハリーとハリエットはホグワーツへ戻るのを今か今かと楽しみにしていた。そこで待ち受けている事件など思いも寄らずに。


*****


「ごめんなさい……」

 毛布を頭から被り、ハリエットはただただそう謝罪するしかなかった。

 自分がしでかしたことを、ハリエットはもう鮮明に思い出すことができていた。秘密の部屋を開いたこと、生徒や猫、幽霊を次々に石にしたこと、あまつさえ、ハリーの命ですら間接的に奪いそうになったこと――。

 止めどなく溢れてくる涙は、流れずにそのまま毛布へと吸収されていく。椅子に腰を下ろした彼は、何も言わずただ黙ってそこに座っていた。

「ハリエット!!」

 怒鳴るような声と共に、バンッと勢いよく扉を開いたのはシリウスだった。ローブを翻し、血相を変えた様子で唯一カーテンの引かれたベッドへ突撃する。カーテンに手をかけたところで、怖い顔をしたマダム・ポンフリーに腕を掴まれた。

「一体何事です! ここは医務室ですよ! 静かな声で、埃をたてずに、入室の許可を得てから入ってきてください!」
「だが、ハリエットが大変な目に遭ったと聞いていても立ってもいられなくて……お見舞いをしてもいいだろうか」
「…………」

 マダム・ポンフリーは、上から下までシリウスをジロジロと見聞した。

「……まあ良いでしょう。ですが十五分だけです。他にも見舞い客がいますが、お静かに願いますよ」
「分かってるさ。あなたは昔から口うるさくて敵わない」
「口うるさくて結構。ミスター・ブラック、あなたもお変わりないようで。友人のお見舞いをするのに先に私に伺いを立てたことなど一度たりともありませんでした」
「心配が先立つのだから仕方がない」
「口だけは達者ですね。お見舞いはあと十四分です」
「そういう容赦ないところも変わらない!」

 叫び、シリウスはグイッとカーテンを引いた。途端に視界に飛び込んでくるのは、こんもりと盛り上がっているベッドと、傍らの椅子に腰掛ける少年の姿だった。

 シリウスはハリエットのことも気にかかったが、それと同じくらい少年のことも気になった。彼は紛れもなくスリザリンカラーのネクタイをしている。おまけにその顔は、長年因縁のあるルシウス・マルフォイとそっくりではないか。自ずと導き出されるはすなわち、この少年はルシウスの息子、ドラコ・マルフォイであるということ――。

「一体お前が何の用でここにいる?」

 不信感丸出しでシリウスが尋ねると、ドラコもまた眉間に皺を寄せてそっぽを向いた。

「別に……」
「謝罪に来たわけじゃないんだろう? お前は父親がしでかしたことを知っているのか? なんでも、お前の父親がハリエットに闇の魔術の品を与えたそうじゃないか。そのせいでハリエットは苦しむことになったし、他の生徒も――」

 毛布の山がピクリと動いたのを見て、シリウスはすぐに口を噤んだ。

「とにかく、元凶はお前の父親だ。なのにのこのこハリエットの前に現れて何のつもりだ? 父親に言われてきたのか? どうかこのことは内密に、とでも?」
「シリウス……」

 ハリエットはベッドの中から弱々しい声を上げた。少し躊躇ったが、このままではいけないと、毛布の中から顔を出す。

「ドラコは悪くないわ。それどころか、私を助けようとしてくれたの」
「だが……」
「全部私が悪いのよ。私が、誰にも相談せずに、勝手にリドルの日記に書き込んだから。私の心が弱かったから、こんなことになったの……」
「そんなわけないだろう! ああいう品々は、手を替え品を替え、持ち主を誘惑する。君よりもずっと大人の魔法使いでさえ、簡単に魅入られてしまうんだ。悪いのは日記を差し向けた張本人の方だし、君は何も悪くない」

 シリウスの気持ちは嬉しかったが、ハリエットはちっとも立ち直れなかった。むしろ、責めて欲しいとすら思った。

「みんなに、みんなに迷惑をかけたわ。一歩間違ってたら、誰か死んでいたかもしれない……」
「だが、皆生きている。誰一人として死んでない」

 痛いくらいに強くシリウスはハリエットの手を握った。

「生きている以上、何だってやり直せるんだ。確かに、今年は皆ちょっと刺激的な学生生活だったかもしれない。だが、何も起こらないホグワーツなんて、ブラッジャーのないクィディッチみたいなものさ。違うか?」
「…………」

 分かるような、分からないような。

 ハリエットは呆れて笑いそうになってしまったが、すんでの所で堪えた。その前にやることがあった。

「シリウス、私、皆に謝りに行くわ。私のせいで石になった人たちに、心から謝りに行く」
「分かった。途中までわたしもついて行こう」

 二人は微笑み、ハリエットはゆっくりベッドから抜け出した。

「あら、もう良いの?」

 その声にハリエットが顔を上げれば、丁度スリザリンのローブが医務室を出て行く所だった。あっと声を上げたが、その主は気づかずに姿を消す。

「あいつは一体何のために来たんだ?」

 シリウスは不満そうに呟いた。

「何か意地悪なことを言われたか?」
「いいえ。ただ黙って……私の傍にいてくれたの」

 なおもシリウスは医務室の入り口を睨み付けたが、ハリエットが立ち上がったので、慌てて自分もそれに倣う。

 医務室を出て廊下を歩いている頃だっただろうか。突然激しい音が鳴ったと思えば、誰かが階段を滑り落ちてきた。

「すぐ立ち去れ」

 ついで、しもべ妖精特有のキーキー声が廊下に響き渡る。

「ハリー・ポッターに指一本でも触れさせはしない。早く立ち去れ」

 三階から転がり落ちてきたのは、ルシウス・マルフォイだった。ハリーの名を聞き、シリウスは怖い顔で彼の前に立ちはだかる。

「ルシウス・マルフォイ――ハリエットだけでなく、ハリーにまで手を出そうとしたのか?」
「シリウス? ハリエット?」

 まさかシリウスまでいるとは思わず、ハリーは三階から困惑の声を出した。彼の隣には、ルシウスに指を突きつけたドビーもいる。

「これはこれはブラック」

 しもべ妖精にしてやられたはずのルシウスは、そんな様など微塵も見せずに、余裕の表情を浮かべた。

「それにハリエット・ポッター。君が随分とご執心だった日記はもうあの通り無残な姿のようだが。しかし寂しくはないかね? 私が新しい日記でも買い与えようか」
「こいつ――」
「一体何をそんなに怒っている? 本来、彼女の悩みを聞くのは君の役目であったはずだろうに」

 乱れた髪を直し、ルシウスは底の見えない顔で笑った。

「息子から聞いている。君達は――あー……マグルの世界で育ったのだと。そこのマグルには、随分と酷い扱いを受けていたそうじゃないか」
「……何が言いたい」

 地を這うような声でシリウスが問うた。その時になって、ハリエットはわずかに彼の手が震えているのに気づいた。

「君は一体今まで何をしていたのかね? 由緒正しい純血のブラック家当主シリウス・ブラック。君ともあろう者が、まさか後見人としての役目を果たせなかった、などとは言うまい?」
「……後見人?」
「おや? 知らなかったのか?」

 ルシウスは蛇のような目でハリーとハリエットを射抜いた。

「そこにいる彼は、君達の名付け親でもあり、後見人でもある。後見人の意味はもちろん知っているな? 君達の両親は彼を、自分たちに万が一何かあったときに子どもたちを守ってくれると、そう判断して後見人を任せた……にもかかわらず、ブラック、これは一体どういうことだろうな? 亡き親友から託された役目を全うせず、子供達を乱暴なマグルの家に預けたと? 君がしたことといえば、財産の管理くらいじゃないかね?」
「…………」
「ハリー・ポッター、ご忠告差し上げよう。一度ポッター家の金庫を確認してみたまえ。いくらなんでも、さすがに空っぽということはないだろうが、もしかしたらと思ってね。いらぬ世話かもしれないが」

 愉悦と共にもう一度深く微笑むと、ルシウスは堂々たる態度で去って行った。ハリー・ポッターに一杯食わされたことなど微塵も感じさせずに、ただシリウス・ブラックへの勝利で打ち震えていた。

「……シリウス」

 完全にルシウスの姿が見えなくなった所で、ハリーが躊躇いがちに口を開いた。

「後見人って――」
「シリウス」

 その場の誰でもない、穏やかな声に皆がハッと顔を上げれば、ハリーの後ろにダンブルドアが立っていた。彼は静かにシリウスだけを見つめていた。

「話がある。わしの部屋へ」

 小さく頷き、徐に彼は動き出した。反射的にハリエットの手は動き、シリウスのローブを掴もうとしたが――掴めなかった。

 自分達双子にとって、シリウスはいつも雲のような人だった。掴み所のない人。たくさん話をしてくれるし、たくさん笑わせてくれる。なのに、自分の核心に触れるような話は一切しない。彼本人の口から聞いたのは、自分が魔法使いで、ジェームズとリリーの同級生だということだけ。……なぜ、他人の口から彼がどんな人なのかを聞かなければならないのだろう。自分たちだって、シリウスともう何年も交流してきたはずなのに。

 こちらを一切振り向かずに階段を上っていくシリウスに、ハリエットは胸のざわめきを抑えることができなかった。


*****


 あれから、シリウスはすぐに帰ってしまったので、結局一度も直接話はできなかった。手紙のやり取りは続いていたが、『後見人』なんて大切な話を手紙だけで終わらせることはしたくなくて、当たり障りのない文面を書き綴った。

 夏休みが近づくにつれ、双子は漠然とした不安に襲われた。シリウスは、この夏休み、一体どうするつもりだろう? やっぱりダーズリーの家に預けるつもりだろうか? それとも――引き取ってくれる?

 後者であればどんなに嬉しいだろう。しかし、我が儘は言えない。彼は後見人であっても他人だ。家族ではない。親戚でもない。でも――シリウスなら、という思いを消しきれずにいる。彼ならば、全てを包み込むような笑顔で、『もちろん引き取るに決まっている!』と言ってくれるのではないか?

 そう、実際に、シリウスは去年の夏休み、双子をダーズリーの魔の手から颯爽と救い出してくれた。彼がバーノン達に啖呵を切ったときのことを、まるで昨日のことのように覚えている。『ジェームズとリリーの忘れ形見になんて仕打ちを! 残りの夏休み、この子達はわたしの家で預からせてもらう!』
 その時のことを思い出すと、今でも双子の胸はじんわり温まる。彼ならば、一緒に暮らそうと言ってくれるはずだ。……いや、でも、やっぱり駄目だろうか。

 その暗ーい堂々巡りは、キングズ・クロス駅へ向かうコンパートメントで最高潮になった。夏休みが近くなるにつれ、ふさぎ込みがちになっていた双子が、ホグワーツ特急の中でも相変わらず――むしろもっとひどい――のを見て、ロンの堪忍袋の緒が切れた。

「君達の気持ちはよく分かるけどさ、そんなに不安ならさっさと手紙で聞けば良かったじゃないか! シリウスの所で夏休みを過ごして良いかって!」
「君には僕らの気持ちは分からないよ……ダーズリーの家がどんなにひどい所か知らないんだ」
「もしシリウスに断られたらって、それを考えるだけで不安で堪らないの……」
「僕もシリウスには一度会ったけど、君達のこと目に入れても痛くないってくらい大好きみたいだったよ。大丈夫だって。一度聞いてみろよ」

 親友の言葉にも、素直に頷けずにいる双子。先ほどから一ページも読めていない本をパタンと閉じ、ハーマイオニーは肩をすくめた。

「シリウスが一緒に住めないって言うのには、何か理由があるんじゃないかしら」
「理由?」
「ええ。話を聞くに、シリウスという人は、あなた達のこととても大切に思ってるんでしょう? マグル界にだって、ホグワーツ入学前から会いに行ってた。にもかかわらず一緒に住もうって言わないのは理由があるはずだわ」
「どんな理由だって言うんだ?」
「それは分からないけど。でも、シリウスはグリモールド・プレイス以外にも家を持ってて、普段はそこに住んでるんでしょう? それに、闇祓い局局長でもあり、多忙。自分はほとんど家に帰ってこられないから、後見人としての役目を果たせないと思ったのかもしれないわ」
「僕達、別に毎日顔を合わせなくても良いんだ。シリウスの重荷にはなりたくないし。ダーズリーの所から離れられて――時々、ほんの時々、シリウスと話せたら、それで充分なんだよ……」
「じゃあそれを言えば良いじゃないか。僕達は僕達で生活するから、ブラック邸に住まわせてもらえないかって」
「でも、シリウスを差し置いて、自分達だけであの屋敷に住まわせて欲しいなんて、ちょっと図々しくないかな」
「それに、その言い方だと、まるでシリウスはいなくても良いみたいに聞こえるわ」

 不安そうに顔を見合わせる双子。ロンはブチッと来た。

 全くこの双子は! ああ言えばこう言う!

「だからそれを全部ぶつけろって言ってるんだよ! 最初から最後まで、今思ってること全部言えば良いじゃないか!」

 キレたロンの説教は、それからホグワーツ特急が止まるまで続いた。汽車から降りるとき、双子は随分と疲弊しきり、そしてロンは最後に怖い顔で念押しした。

「いいか? 絶対に開口一番に言うんだぞ。シリウスと暮らしたいって!!」

 そうは言っても、と九と四分の三番線へと向かうロンの後ろで、双子は顔を見合わせた。そもそも、今日シリウスが迎えに来ているとは限らない。闇祓いは多忙らしいし、それに、後見人だからと、迎えに来ないといけない訳ではない。

 緊張のあまり吐きそうにすらなりながら、双子は九と四分の三番線の壁を抜けた。マグルが入り交じる中、見たことあるホグワーツの生徒がチラチラ家族に出迎えられているのが見えた。

 まだバーノンの姿はない。もしかしたら――シリウスが、自分が預かるから迎えに来なくても良いと言ったのでは? と根拠もない願望が胸を過ぎったとき。

「ハリー、ハリエット」

 焦がれていた声が聞こえた。振り返れば、少し離れた場所に、困ったように笑うシリウスが立っていた。

「ほら、行けよ」
「ちゃんと思ってること言うのよ。頑張って!」

 ロンとハーマイオニーに背を押され、双子はフラフラとシリウスの下に行った。

「久しぶりだな」
「うん……」

 目を合わすこともできずに、二人は俯いた。気まずい沈黙に、シリウスは困り果てて天を仰いだが、やがて徐に口を開く。

「……ダーズリーの家まで送ろう」

 バクバクとうるさいくらいに鳴っていた心臓が、急に凍りついたような気がした。顔を上げれば、シリウスはもう背を向けて歩き出していて。

 充分な理解も行き渡らないまま、ハリーは彼の服を掴んだ。

「シリウス!」
「どうした?」
「僕達が何を言いたいか、分かる?」
「……いや、分からないな」

 察しの良い彼なら、もう分かっているはずだ。

 ハリーは大きく息を吸い込む。

「僕……僕達、シリウスと一緒に住みたい!」

 ついに兄がその一言を発したとき、ハリエットもまた声もなくぶんぶん首を縦に振った。声すら出ず、情けないとは思ったが、もしもシリウスがこれに是と答えてくれたならば、途端に歓声を上げてこの場で飛び跳ねる自信があった。

 ただ、今は彼の返事が怖いだけで。

 恐ろしいほどの沈黙が三人を包み込む。家族との再会を祝う周囲は騒がしいくらいだというのに、ここだけまるで通夜のようだ。

「……残念だが」

 声色だけで、シリウスもう何を言うのか容易に理解できた。

「わたしはその期待には応えられない」
「どうして?」
「…………」

 シリウスは答えあぐねているようだった。もどかしくなってハリーは叫んだ。

「僕達、これ以上我が儘は言わない! ただ――あの家を出て、シリウスと一緒に暮らしたいだけなんだ! 僕達、自分のことは自分でやるし、シリウスの手は患わせない!」
「騒がしくしたりしないし、仕事の邪魔もしないわ。夏休みの間だけで良いの。シリウスと一緒に暮らせたらって思って……」
「駄目だ。一緒に暮らすことはできないんだ」
「理由を教えてよ! どうして駄目なの!?」
「……君達の安全のためなんだ……」
「安全? 去年、閉じ込められて餓死させられそうだったのに!?」
「ダーズリーにはわたしから話をした。もうあんなことはさせない」
「そんなことして欲しかったんじゃない!」

 怒鳴るようにハリーは叫んだ。

「シリウスなら――僕達と一緒に暮らしたいって言ってくれると思ってたのに! なのに……あの家に帰れって言うの!? あの――最低な家に?」
「ハリー……」

 ハリエットは弱々しい声で兄の服を掴んだ。これ以上は駄目だ。これ以上は――シリウスも自分達も傷つくだけだ。

「僕達はシリウスのこと――」

 ハリーの声は、それ以上言葉にならなかった。何かを押し殺すようにグッと堪え、おし黙る。

 ――心のどこかでは、期待していたのに。

 激しい落胆とやるせなさに襲われる。これからダーズリーの家に帰らないといけないのに、この場にへたり込んでしまいそうだった。

「――送ろう」
「いらない」

 トランクを持とうと近づいてきたシリウスを、ハリーはピシャリとはねのけた。

「タクシーでも何でも拾って帰る。あなたの手だけは借りない」

 シリウスと目を合わせようともせず、ハリーはハリエットの手を引いて歩き出した。彼の横を通り抜けざま、ボソリと呟く。

「中途半端に期待させないで」

 僕達のこと、引き取るほど愛してないのなら、最初から優しくして欲しくなかった。

 一番の――たった一つだけの願いが叶えられないのなら、中途半端な優しさは残酷なだけだ。


*****


 ハリーとハリエットは、夕日が沈みかけても尚、廃れた公園に居座った。どこからかおいしそうな夕食の匂いが漂ってきて、それが双子の空腹を余計に意識させる。

 この夏、最悪なことに、ダーズリー一家は、長男ダドリーのダイエットを宣言した。何でも、学校からダドリーの体重について厳重な注意を受けたという。さすがに危機感を覚えたペチュニアは、家族総出でこのダイエットに協力することを言い放ち――『家族』にハリー達双子は含まれていないのだが、もちろん双子も協力要員である――朝も夜も昼も、とにかくウサギの餌かと見紛うような少量の果物やら野菜ばかりを出してくるのだ。

 昨年とは違い、ロンやハーマイオニーに助けを求めれば、彼らは親友の危機とすぐにたくさんの食料を送ってきてくれたため、幸いにも餓死することはなかった。だが、その反面、家にいれば思う存分食べられないことにストレスを抱えたダドリーが暴力を振るってくるため、双子はやむなく家を出るしかなかった。

 あれから、シリウスからは手紙が届かなくなった。彼が怒っているのは明白だった。闇祓いで忙しいから、なんて理由はあり得ない。

 その証拠に、ほら。

「シリウスは、僕らに会いに来てくれない……」

 ハリーの呟きを、ハリエットは聞かなかった振りをした。

 分かってる。あんなに激しく啖呵を切り、罵った子供に会いたいだなんて、一体誰が思うだろう。

 シリウスがあれから一度も会いに来てくれなくても、ハリーもハリエットも、それが当然だと思っていた。あんなに――彼にひどいことを言ったのだ。彼の事情も考えずに、言いたいことをぶつけてしまった。この夏休み、どんなに後悔したか分からない。でも、どうしようもできない。彼は会いに来てくれないのだから。

 シリウスと離れて、二人はようやく気づいた。自分達はもう――彼のことを、父親のように思っていたのだと。

 彼も同じように思っていてくれたならば、どんなに幸せだっただろう。だが、聞かずとも答えは分かっている。彼は一緒に住もうと言ってくれなかったし、公園にも来てくれない。それが答えなのだ。

「ワフッ」

 そうして、今日も今日とて、最近公園に住み着いている黒い犬を、シリウスの代わりと思ってせめて可愛がるのだ。




*おまけ:後見人馬鹿B*



「アーサー、アーサー! アーサー!!」
「シリウスか……? こんな時間に何の用だ?」
「ちょっと小耳に挟んだのだが、君達がハリーとハリエットを迎えに行く準備をしているというのは本当かね?」
「一体どこから聞いたんだ? 事実ではあるが――」
「待ってくれ。その役目は是非ともわたしに担わせて欲しい。わたしはあの子達の後見人なんだ」
「そうは言っても……。うちの子達も心配してるんだ。二人に何かあったんじゃないかって。ロンも隠れ穴に泊まってもらうんだって今からワクワクしてる。それを今更なかったことにするのは……」
「わたしだってブラック邸に泊まってもらうんだってワクワクしてる! その楽しみが奪われたときの絶望と言ったらない!」
「子供のワクワクと大人のワクワクを一緒にされても……」
「ふわあ……パパ? どうしたの?」
「おお、ロン。いや、ちょっとね」
「その人は誰?」
「彼は……ええと」
「君がロン・ウィーズリーか。ハリー達から話に聞いてるよ。わたしはシリウス・ブラック」
「あっ、僕も聞いてる! 知り合いのおじさんだって」
「知り合いのおじさん……そうか……うん……」
「それで、おじさんはどうしてここに? もしかして二人のことで?」
「そう、そうなんだ! 実は、君達の代わりにわたしがあの子達を迎えに行こうと思っていてね。君達は知らないかもしれないが、ダーズリーはとにかく厄介な人種なんだ。何度堪忍袋の緒が切れそうになったか――いや、実際切れてる。何度あいつらを豚の一家に変えてやろうかと思ったことか。九歳の誕生日にわたしが脅して以降、多少はマシな接し方になったとは思ったのにこのザマだ……。あの子達からの手紙が届かないのもあいつらの仕業に違いない……。腸が煮えくりかえりそうだ。――いや、思い出せ。あの子達の輝かしい笑顔を。理性を失ってはいけない。わたしの怒りよりもあの子達の将来の方が大切だ。あの家がなければ――」
「なければ?」
「――っ、ああ、いや、なんでもない。とにかく、ぜひお迎えはわたしに行かせて欲しい。無事連れてくることができれば、二週間――いや、一週間――いや、数日はあの子達を隠れ穴に泊まらせてもらうから」
「たった数日しか二人はここに泊まれないの?」
「互いに気を遣うかもしれないと思ってね。なあに、寂しくなったら、君達がうちに泊まりに来れば良い。それならいつでも――何なら毎日でも大歓迎だ」
「……ダンブルドアから聞いてはいたが、シリウス、確かに君は後見人馬鹿過ぎるな」
「とにかく、これで万事解決だな! ようし、今から行ってくる! アーサー、ロン、あの子達に会ったら、わたしの株を上げておいてくれ! 頼んだぞ!」