マルフォイ家の娘

10 ―脱獄囚の秘密―








 その朝は、いつもと同じ風景かと思われたが、日刊予言者新聞を読んでいたルシウスが、上機嫌に笑い声を上げたことで覆される。

「読んでみると良い。なかなか興味深い記事が載っている」

 ルシウスはドラコに新聞を渡した。ドラコはすぐにワクワクと目を通す。

 該当記事を読み終えたドラコは、戸惑いの残る顔でルシウスを見た。

「シリウス・ブラックの脱獄……。母上と同じ家の出ですか?」
「その通り。奴から見て、お前は従甥に当たる。マグル殺しにはなかなかの戦歴だと言いたいが、親戚が脱獄囚などと、世間体が悪いにも程がある」

 恐ろしい罪状にハリエットはビクリと身体を揺らす。視線を落とした先には広げられたままの新聞があった。シリウス・ブラックと見られる男が、こちらに向かって何かを訴えかけるように叫んでいる。

 ぐしゃぐしゃに絡んだ黒髪に、ぼうぼうに伸びた髭。その目は吸い込まれそうなグレーの瞳で、ハリエットはしばしじっとその顔を眺める。我に返ったのは、ルシウスが新聞を回収し、折り畳んだ時だった。

「今年はホグワーツが荒れるだろう」
「なぜですか?」
「吸魂鬼がホグワーツの警護に当たる。万が一のブラックの襲来に備えてな」
「脱獄囚が、なぜホグワーツを狙うんですか?」

 純粋なドラコの問いに、ルシウスは口角を上げた。

「ハリー・ポッターがいるからだ」
「ポッター? ポッターが狙われてるということですか?」
「その通り。ブラックは彼の後見人だ」

 えっとハリエットもつい顔を上げる。巷を騒がせている脱獄囚が、ハリーの後見人?

「どういう関係なんですか? なぜブラックはポッターの後見人に?」
「シリウス・ブラックと、ハリー・ポッターの父親は親友だった。子供の名付けと後見人を頼むくらいには……」
「ハリー・ポッターの父親は、実は死喰い人だったんですか?」

 勢い込んでドラコは尋ねた。次から次へと明かされる事実に興奮しているようだ。

「いいや、違う。奴は完全にダンブルドアに味方していた。シリウス・ブラックも、当初はそう思われていたが……奴は、闇の帝王のスパイだったのだ。ブラックもポッターも不死鳥の騎士団という、ダンブルドアが設立した闇の帝王に対抗する組織に属していたが……ブラックは、その情報を闇の帝王に流していたのだ」
「ポッターの父親と親友だったのに?」
「血は争えないというわけだ」

 深く微笑み、ルシウスはゆったりと椅子に背を預けた。

「ブラック家は代々スリザリン出身だ。もちろんブラックの弟も。シリウス・ブラックだけは気まぐれにグリフィンドールだったようだが……最終的にはこちら側に戻ってきたというだけのこと。グリフィンドールがどんなに低俗な場所か、奴は七年も所属しなければ分からなかったようだが」

 ハリエットはできるだけ存在感を消して話に聞き入っていた。

「ポッターとダンブルドアも見事ブラックに騙されていた。ポッターの息子が闇の帝王に狙われていると分かったとき、秘密の守人をブラックに任せるくらいには、奴のことを信用していたのだ」
「秘密の守人とは?」
「生きた人の中に秘密を封じ込める魔法だ。選ばれた者は、『秘密の守人』として情報を自分の中に隠す。秘密の守人が口を割らない限りは、敵方がどんな手段を用いたとしても、決して聞き出すことはできない。ブラックは、親友の居場所を吐くくらいなら死を選ぶだろうと言われていたらしい。それほどまでに二人は親しかった……それがブラックの思惑だとも知らずに」

 朝の食卓はシンと静まりかえっていた。もはやこの場はルシウスの独擅場だった。

「ブラックは、秘密の守人になって一週間も経たないうちに裏切った。後のことは、その新聞にある通りだ。ブラックはマグル界に追い詰められたが、周囲の大勢のマグルを巻き込んだ爆発を起こし、すぐにアズカバン送りになった。アズカバンでは、ほとんどの者が吸魂鬼の影響を受け、正気を失うというのに、驚いたことにブラックは、先日ファッジが視察にアズカバンを訪れた際、二言三言普通に会話したと言う。……全く、恐ろしい男だ。おまけに、ブラックは『ホグワーツに奴がいる』と口走っていたそうだ。言わずもがな、ハリー・ポッターのことだ」

 ハリエットはゾワッと鳥肌が立つのを感じた。まるで楽しいことのように微笑みさえ浮かべて話すルシウスのことが信じられない。

「ブラックの流した情報のせいで闇の帝王は凋落したようなものだ。ブラックが生き残るには、ハリー・ポッターを生贄にするしかない……。彼は、今この時もブラックに狙われているということだ」
「あ、あの、魔法省はハリーを保護してくれないんですか? そこまで分かっているのなら、ハリーはマグル界にいても危険です」

 珍しくハリエットはルシウスに話しかけた。今までだって数えるほどしかないくらいなのに。

 ただ、ドラコはその内容がハリーに関するものだということに顔を顰め、ルシウスは無表情でハリエットをちらりと見た。

「……彼は腐っても生き残った男の子……。何としてでも魔法省は守りたいだろうな。夏休み中も、おそらくは護衛はされているだろう。だが、アズカバンをも脱獄したような男だ。闇祓いどころか、ホグワーツでさえも奴は容易に侵入してしまうかもしれないが……」

 俯き、唇を噛みしめるハリエットを一瞥したあと、ルシウスはまたいつものように冷笑を浮かべた。

「おそらくマグル界でぬくぬくと育てられているハリー・ポッターは、ブラックのことも、自分との関係も知り得もしないことだろう。命を狙われているというのに何も知らないというのは可哀想だ。ドラコ、機会があれば教えてやれ」
「はい、父上」

 ドラコは微笑んだ。ハリエットはその笑みに嫌な予感を覚えた。朝食を食べ終わった後、ハリエットはすぐにドラコを追って居間を出た。

「ドラコ、今の話、ハリーに言わないわよね?」
「なぜ?」

 振り返ったドラコは、純粋な疑問と優越感を孕んだ表情をしていた。

「僕だったら知りたいと思う。復讐したいと思う。両親を裏切った脱獄囚に」
「でも、この話を聞いたからって、ハリーには何もできないわ! ただ苦しい思いをするだけよ!」

 ハリエットは縋るようにドラコの腕に手をかけた。

「お願い、ドラコ。ハリーには何も言わないで」
「こういう時こそ、あいつらが掲げるグリフィンドール魂とやらを発揮すべきときだろう。ポッターはきっと、杖がなくてもブラックに挑んでいくんだろうな……」

 愉快そうに笑うと、ドラコはそのまま自分の部屋へ入っていった。ハリエットはしばらくその扉を悔しげに見続けることしかできなかった。


*****


 ハリーから、ついに家出をして今はダイアゴン横丁にいるという話を聞いたとき、ハリエットは心臓が口から飛び出すかと思った。ただでさえハリーはブラックに狙われているというのに、こんな時に限って家出をするなんて!

 ただ、ダイアゴン横丁は人が多く、わざわざ脱獄囚が赴くような場所ではない。ホグワーツへ帰る日まで滞在するというのはある意味良い選択かもしれないとハリエットは思い直した。

 その年、ハリエットはダイアゴン横町行きもお留守番になった。表向きはブラックがうろついていて危険だから、という理由だったが、ならばなぜドラコは行ってもいいのだろうと疑問が浮かんだが、ハリエットがお留守番になるのはいつものことなので、異は唱えなかった。

 だが、それでもショックだったのは、ホグズミード行きの許可証にサインがもらえなかったことだ。ホグズミードは、ホグワーツの三年生以上が休日に遊びに行ける、魔法使いだけが住む村だ。グリフィンドール寮の上級生からおいしいお菓子のお土産をもらう度、早く行きたいと胸躍らせていたのだが。

 ルシウスに好かれていない自覚はあったが、それでも、上機嫌にドラコの許可証にサインをした後で、ハリエットのものには見向きもされなかったときはショックを受けた。それはドラコも同じなようで、おずおずと抗議してくれたが、『シリウス・ブラックがいて危険だから』という理由で受け付けられなかった。ならばとナルシッサにお願いしてみても、『ルシウスが許可しないのであれば』と取り付く島もなかった。

 ハリエットの憂鬱はそれだけに留まらない。ホグワーツ特急で、シリウス・ブラックを探しに来た吸魂鬼と遭遇し、身も凍る程の恐怖を感じたのだ。薄れていく意識の中聞こえてきたのは『この子達だけは!』という女性の怯えた哀願の叫び声だった。

 吸魂鬼が去って尚、恐怖にぶるぶる震えるハリエットを助けてくれたのは、傷だらけで、しかし優しい雰囲気を持った男性だった。彼はリーマス・ルーピンという、闇の魔術に対する防衛術の新しい教授で、吸魂鬼の影響に有効だというチョコレートをくれた。

 新しく教授に就任したのは何も彼だけではなかった。今年からは、魔法生物学をハグリッドが教えることになったのだ。ハリエット達はもちろんこのおめでたい話にわあわあ歓声を上げ、一回目の授業を心待ちにしていた。だが、礼儀に厳しい魔法生物ヒッポグリフを侮辱したことにより、ドラコは大怪我を負ってしまった。加えて、自分のことは棚に上げ、ドラコが初授業のことをルシウスに告げ口した結果、彼はカンカンになって怒り、ハグリッドとそのヒッポグリフ――バックビークに対し裁判を起こしたのだ。

 ハリエットはもちろん急いでルシウスに手紙を書き――ハリエットが彼に手紙を書いたのはこれが生まれて初めてだ――バックビークは悪くないこと、どうか見逃してくれないかと平身低頭でお願いしたが、聞く耳を持たれなかった。返信すら返って来なかったため、読んでいるのかどうかも怪しい。

 新学期早々、まだ一ヶ月と経っていないのに、立て続けに様々なことが起こり、ハリエットは早々に疲れ果ててしまった。

 その上、忘れた頃にやってくるホグズミード休暇。

 唯一の救いは、ハリーも同じく許可証にサインをもらえず、ホグワーツにお留守番をすることくらいだろう。こう言ってはハリーに悪いが、ハリエットはせめて、虚しく皆の帰りを待つのが自分だけでないことにホッとしていた。

 結局マグルのおじにサインをもらえなかったハリーは、ひどく打ちのめされた様子でロンとハーマイオニーを見送った。

 ただ、談話室へ戻る途中、研究室からひょっこり顔を出したルーピンが、ハリーとハリエットをお茶に誘ってくれた。下級生で賑わっている談話室に戻っても居心地が悪いだけなので、二人は有り難くご相伴に預かった。

 話をするうちに、ハリーの両親とルーピンは同級生だということが分かった。懐かしそうに目を細めるルーピンと、興奮したように両親について聞くハリー。ハリエットは少々羨ましく思ってしまった。

 だからこそだろう。二人の話が途切れたとき、つい聞いてしまったのは。

「あの――ルーピン先生は、私の両親についてはご存じありませんか? 私の両親もグリフィンドールだったんです」

 目を瞬かせてルーピンはハリエットを見た。しばらくの沈黙の後、悲しそうに首を振る。

「……いや、残念ながら。君はマルフォイ家の子だと思っていたけど、違うのかい?」
「……いいえ。私はマルフォイ家と血は繋がっていません」

 ハリエットは落胆を隠しきれない声で小さく返事を返した。

 何か隠していると、ハリエットはそう感じた。その証拠に、彼は名前を聞こうとはしなかった。名前すら聞かず、『知らない』と自信を持って答える人は一体どれだけいるだろう。ルーピンは不誠実な人ではない。ハリエットの質問を面倒くさがって適当に答えたわけではないことは確実だ。

 やはり、ダンブルドアに口止めされているのだろうか。ドビーは、ハリエットが本当の名を知ることで危険な目に遭う可能性を危惧していた。出自が知れることで、一体どんな危険が待ち受けているというのだろう?


*****


 ドラコにとって、スネイプとの時間を僅かばかりもらうのはそう難しいことではない。これが他寮の生徒ならば、緊急の用事でもない限り難癖を付けて早々に追い出されるし、スリザリンの生徒であっても、くだらない用事であれば『我輩は忙しい』と一言言って追い返されるだろう。

 ただ、これがドラコとなると、話は別だ。『先生とお茶がしたかったんです』と言ってもおそらく追い出されることはない。それだけ自分が彼のお気に入りの生徒だということは自負していた。とはいえ、今回彼の研究室を訪れたのはお茶のためではないし、ついでに言うと、ドラコはスネイプとお茶をしたことはない。女子じゃあるまいし、これからもおそらくそんな機会は来ないだろう。

 ドラコは、一枚の羊皮紙を握りしめていた。スネイプにも見覚えのある紙だ。だが、彼から話を切り出すことはせず、ただ黙って毒々しい魔法薬をかき混ぜる。

「スネイプ先生に、お願いがあって」
「ほう」

 ようやく切り出した割には、歯切れが悪い。スネイプは短く相づちを打って続きを促した。

「ハリエット――あー……妹が、ホグズミードの許可証にサインをもらえなかったんです。ですが、行っても良いですよね?」

 ――と思えば、途端に本題にズバリと切り込む。普段授業で見せる沈着さとは打って変わって様子がおかしい。

 スネイプが黙っているのに気づくと、ドラコは急に早口になった。

「妹は……その、あまり父に良く思われていません。養子だというのは先生もご存じですよね? たぶんそのせいで……いえ、でも父は、妹を虐げているわけではなく、ただ単に、どう接すれば良いのか分からないのではと……。父は、自分がサインをすることが許せなくても、スネイプ先生のサインなら、見逃してくれると思うんです」

 言いながら、ひどい言い訳だとドラコは自分でも思った。両親を悪く言いたくはない。だが、客観的に見れば、ハリエットの扱いはひどいもので。

 十二分な衣食住が与えられているからといって、それが幸せに繋がるとは言えない。彼女は、マルフォイ家にいて本当に幸せなのだろうか。

「なぜ我輩にそんなことを申し出る?」

 長い沈黙の末、スネイプはようやく口を開いた。

「そもそも、ミス・マルフォイは我輩の寮生ではない。我輩がそこまで心を砕く必要性は感じられない。相談するのであれば、彼女の所属する寮監にするが良かろう」
「マクゴナガル先生は厳しい先生です。生徒の事情は鑑みず、ただ規則だからと突っぱねるでしょう。ですが、スネイプ先生であれば、そういった機微を察して柔軟に対応してくださると思ったんです。どうにかなりませんか?」

 言外に、贔屓してくれとドラコは言っていた。自分の妹だから、同じように多少は目を瞑ってくれと。

 だが、今回ばかりはドラコの言葉も聞き入れてはもらえないようだ。スネイプは相変わらず魔法薬をかき混ぜている。

「我輩にはどうしようもできませんな。自寮の生徒に我輩が口出しをすることを、それこそマクゴナガル教授が良く思うとは思えん」
「先生……」

 がっくりと肩を落とし、ドラコはついに諦めた。羊皮紙を折り畳み、そのまま帰ろうかとも思ったが、ずっと疑問に思っていたことを聞くことにした。

「それ、何の魔法薬ですか?」
「我々には一生無縁の代物だ。親愛なるルーピンのためにわざわざ我輩が煎じているのだ」
「持病? 何のでしょう?」
「生憎と彼の持病については校長より箝口令が敷かれている。我輩としても、後学のためにぜひとも君に教えたいところだが……それすらも校長は許してはくれないだろう。非常に残念でならないが」
「そうですか……」
「ついてくるかね?」
「えっ?」

 思いも寄らない誘いに、ドラコはまじまじとスネイプを見た。目を細め、スネイプは不敵な笑みを浮かべた。

「ルーピンの持病について、我輩から漏れることはあってはならない。しかし、探究心のある利発な生徒が自ら答えにたどり着くことがいけないことだとは、もちろん校則にはない」

 ドラコはみるみる口角を上げた。彼がここまで言うのだ。きっとルーピンの持病には面白いことが隠されているのだろう。

 好奇心を刺激され、ドラコは二つ返事で行くことを了承した。嫌な臭いを放つゴブレットを持ち、ほとんど生徒の出払った、人気のない廊下を歩く。

 研究室の扉をノックすると、返事はすぐに返ってきた。スネイプと共に入室すると、ドラコは一点を見つめて固まった。そしてすぐに我に返って不機嫌そうな顔になる。

「どうしてお前がこんな所にいるんだ?」
「ここにいたら駄目なの?」

 さも不思議そうな口調で聞き返したのはハリエット・マルフォイ。ドラコがスネイプにホグズミードに行かせてやってくれとお願いした該当の人物だ。 
 ホグズミードに行くのは諦め、ハリエットのために尽力していたというのに、当の妹は至ってご機嫌な様子で、貧乏な新任教授と、大嫌いなハリー・ポッターと共にお茶をしていたのだ。ドラコの機嫌は今や最底辺まで凋落していた。

 ルーピンの持病のことなどすっかりどうでも良くなって、ドラコはハリエットの腕を引いて部屋を出た。

「怒ってるの?」

 腕に込められた力に、ハリエットは当然戸惑った。

「ホグズミードはどうしたの?」

 ドラコの足がピタリと止まる。ハリエットは彼の背に頭をぶつけそうになった。

「僕が……」
「え?」
「僕が、どれだけ」
「なに?」
「もういい!」

 突然の怒声に、ハリエットはビクッと肩を揺らした。ハリエットの困惑などいざ知らず、ドラコはそのままハリエットを置いてズンズン地下の方へと歩いて行く。手の中の羊皮紙は、グシャグシャに握り潰されていた。