マルフォイ家の娘
13 ―越えてはならなかった―
長い一日も、ペティグリューを吸魂鬼に引き渡せば終わりと思われた。だが、運の悪いことに、今夜は満月だった。そして、ルーピンは脱狼薬を飲むことを失念していた。
満月の光を浴びたルーピンは狼人間へと変身し、ハリー達を襲った。シリウスが犬に変身して狼人間を撃退したのも束の間、今度は大量の吸魂鬼がシリウスめがけて襲ってきた。あわやこれまでと思われたが、どこからか立派な牡鹿のパトローナスが現れ、ハリー達の命を救ったのだ。
ただ、この一連の騒動によって、ペティグリューには逃げられてしまった。そのせいでシリウスは捕らえられ、吸魂鬼のキスを待つだけとなってしまった。
シリウスの危機を救ったのはハリー達だった。ハーマイオニーが持っていた逆転時計で数時間時間を遡り、バックビークを救い、かつハリーの守護霊の呪文で過去の自分達を助けた上で、幽閉されているシリウスをも助けたのだ。
西塔の天辺に到着すると、ハリーとハリエットは滑るようにしてバックビークの背中から降りた。
「ありがとう。本当になんとお礼を言ったものか……」
シリウスは自嘲するように小さく笑った。
「さっきの話は聞かなかったことにしてくれ。情けないな。何が一緒に住もうだ……。どうやら、わたしはまた脱獄囚に逆戻りのようだ」
「ブラックさん」
ハリエットは下から精一杯手を伸ばし、シリウスの手を握った。
「私……まだ混乱してるんです。お父様のことも、ハリーのことも……。でも、これだけは分かります。私は今とても嬉しいんです。血の繋がった家族がいたことも、ブラックさんが後見人だってことも……」
シリウスの手は骨張っていた。そして細い。ハリエットは痛みを伴わないよう優しく力を込めて握った。
「私、本当に嬉しいんです。今夜知ったことは、全部が全部嬉しいことばかりじゃなかったけど、私にはハリーがいたし、ブラックさんもいたんですね」
「また三人で会えますか?」
ハリーも一歩前に出てハリエットの隣に並んだ。ハリエットも頷き、笑顔でシリウスを見る。
「三人でたくさん話したいです。お父さんとお母さんのこと、たくさん聞かせてください」
声にならない様子で、シリウスは何度も頷いた。まるでそっぽを向くかのように彼は前を向いたが、握っていたハリエットの手はぎゅっと力が込められる。
「――必ずまた会おう」
シリウスは名残惜しい様子で手を離した。脇腹を軽く蹴ると、バックビークは承知したように羽ばたき、空へと足を踏み出す。
そろそろ逆転時計で巻き戻す前の時間が迫ってきている。早く医務室に戻らなければ。
そうは思うものの、ハリーとハリエットはシリウスの後ろ姿から目を離すことができなかった。
*****
例によって、ホグワーツ特急に乗る前にドラコに拉致されたハリエットは、到着十五分前のアナウンスが鳴ると、過保護な兄を上手い具合に言いくるめ、コンパートメントを出た。一つ一つ窓を確認しながら歩き、目的の場所を見つけると、喜色を浮かべてノックする。
「ようやく戻って来られたわ」
「ハリエット! 丁度いい所に!」
ハリーの手には一枚の羊皮紙が握られ、そしてコンパートメントの中には、見慣れない小さな灰色のふくろうが元気に飛び回っていた。
「このふくろう、どうしたの?」
「シリウスが寄越してくれたんだ。僕のペットにどうかって」
ロンはふくろうを静かにさせようと奮闘していたが、元気有り余るふくろうはなかなか大人しくならない。ハリーは隣の座席を叩いた。
「ここに座りなよ。シリウスから手紙が届いたんだ。一緒に読もう」
「本当?」
ハリエットが喜んでハリーの隣に座るのと、ロンとハーマイオニーが立ち上がるのはほぼ同時だった。
「私達は席を外すわ」
「どうして? 一緒に読まないの?」
「そうだよ。気にしないで、二人ともここにいてよ」
「いや、やっぱり僕達は少し出ておくよ。ディーンかネビルか……とにかく誰かのコンパートメントにお邪魔するから」
急に親友二人が気を利かせてきたので、ハリーとハリエットは逆に気まずくなってしまった。二人きりになることは今までに何度もあったが、自分達が兄妹だということを知ってからは、一度もない。あれからそう間を置かずに夏季休暇がやって来たというのもあったし、誰が聞いているかも分からない談話室で、おちおち秘密話の一つもできやしないからだ。
終始気まずい空気の中、何とか手紙を読み終えると、ハリーは懐から一冊の本を取り出した。
「汽車に乗る前、ハグリッドからもらったアルバムだよ。父さんと母さんが映ってる。僕はさっき一通り見たから、夏休みの間はハリエットが持ってて」
「いいの?」
「うん。ダーズリーの家じゃ、もし見つかったら捨てられると思うし」
「ありがとう……」
ハリエットは表紙を一撫ですると、大切にローブのポケットにしまった。再びぎこちない雰囲気が流れる。ハリエットは勇気を出して声をかけた。
「ハリー、夏休み、会いに行っても良い?」
「えっ」
「駄目?」
「いや……駄目じゃないけど」
ハリーは困ったように視線をウロウロさせた。
「ハリエットをバーノン達に会わせたくないんだ。もちろん、妹だとは言わないよ。でも、友達だって紹介したら、自然と僕と同じ魔法族だって気づくと思うし……」
「だったら、ダーズリーさん達が来ないような場所を待ち合わせ場所にしましょう? 私、マグル界のことはあんまり詳しくないけど、頑張って会いに行くわ! 夜の騎士バスであれば、どこでも連れて行ってもらえると思うし」
それでもハリーは浮かない顔だ。もごもご口ごもりながら続ける。
「僕、あんまり女の子が好きそうな場所は知らないんだ。お金も持ってないし……」
「そんなの気にしないわ! 私はハリーに会いたいだけだもの。それに、マグル界のお金を持ってないのは私だって一緒だわ。どこか公園とかは?」
ハリエットの提案に、ハリーはようやく頷いてくれた。ハリエットは嬉しくなって笑みを見せる。
「あんまり気を遣わないでね。私達、兄妹なんだから」
「うん」
「私ね、ハリーがお兄さんで嬉しい」
急に何を、という顔でハリーはハリエットをじっと見つめた。
「お父さんとお母さんがもうこの世にいないのは、分かってたことだったわ。ダンブルドア先生もそう仰ってたし、もともと覚悟だってしてた。でも……だからこそ、私ね、まさか自分に血の繋がった兄弟がいるだなんて思いもしなかったの。お父さん達のお墓参りをして、二人の知り合いからたくさん話を聞かせてもらって、できれば写真も見せてもらって……そこで、私の家族の話は終わると思ってたの」
相づちを打つようにハリーが頷いた。きっと、彼も同じようなことを思っていたのだろう。
「でも、終わりじゃなかった。お父さんとお母さんは、ハリーも、ブラックさんも残してくれた。……だから……とっても嬉しかったの」
恥じらい混じりに、ハリエットは微笑んだ。
「ハリーがお兄さんで、とっても嬉しい」
「マルフォイよりも?」
あまりにも真っ直ぐな言葉に照れくさくなって、ハリーはついそんなことを聞いてしまった。ハリエットは少しきょとんとして、そして苦笑を浮かべる。
「ドラコはドラコよ。ドラコは私の家族ではないけど――とても大切な存在であることに変わりはないわ」
意外な返答に、ハリーは虚を突かれた思いだった。
「あー……そう、大切な……」
少しだけ複雑な思いだった。あの嫌味で高慢な少年が、妹にとって大切な存在だと。
ハリエットと本当の意味で兄弟であるのは自分の方だが、比較できないほど長い時間を共に過ごしたのはドラコの方で、それと比例するようにもちろん絆だってあるのだろうことは想像に容易く。
それを他でもないハリエットに明言され、ハリーはもの寂しく感じた。
失った時は戻せない。
それを、この場にはいないドラコ・マルフォイに、堂々と宣言されたような気がした。
*****
友達に会いに行きたいとハリエットがルシウスに申し出たとき、ドラコは心の底から驚いた。そして同時に嫌な予感を覚えた。
「……まだブラックがうろついているかもしれない」
まさかルシウスもそんなことを言われるとは思わなかったのか、渋々の末の返答だ。
「でも、ヨークの、それもマグル界で見かけたって聞きました。私が行きたいのはダイアゴン横丁なんです。さすがに一日や二日で行けないと思います……。どうか許して頂けませんか?」
ハリエットらしからぬ、頑とした態度だった。ドラコは訝しげにハリエットを観察した。見た目にはどこか変わった所はない。だが、雰囲気が――僅かに、ほんの少しだけ刺々しく感じる。以前よりも壁があるような気がしてならない。
「良かろう」
「ありがとうございます」
ハリエットは小さく頭を下げた。そこに笑みはない。ホッとしてはいるが、彼女にとって、まるで今回ルシウスから許可を得るのは当然だったとでもいうような態度だ。ドラコはますます言いようのない不安に襲われた。
何も、ドラコがそう感じたのは、今回だけではない。
家に戻ってきてから、どこかハリエットはルシウスに対して素っ気なかった。今までであれば、ハリエットは、ルシウスが話すことに――自分が話題には入れなくても――相づちを打ったり、愛想笑いを浮かべたりすることはあった。だが、今ではどうだ。ハリエットはほとんど何の反応も返さず、ただ俯いて食事をするばかりだった。
――ホグズミードに行かせてもらえなかったのが未だしこりとして残っているのか。
ドラコはそう考えた。食事を終え、素早く席を立つハリエットに、ドラコは半ば無意識的に後を追っていた。だが、彼女の後ろ姿が自室へと消えていくのを見て、途端にどうして良いか分からなくなる。そもそも、なぜ後を追ったのかも分からない。
そのまま何をするでもなくうろうろとしていたが、やがて自分の行動が馬鹿らしくなって、自室へと戻った。手慰みに箒の手入れを始めたが、どうも身が入らない。隣からバタバタと音が聞こえてくるのが気になって仕方がない。
それから一時間ほど経った頃だろうか。唐突に隣の部屋の扉が開く音がした。ドラコは反射的に部屋を飛び出す。
ハリエットは、見るからにお洒落をしていた。髪をまとめ、お気に入りのワンピースを着、小さなバッグを持ってち。
ハリエットは、突然ドラコが出てきたことに驚いたようだった。
「どうしたの?」
「誰と会うつもりだ?」
「……ハーマイオニーよ」
少し目が泳いだ。ドラコの視線は鋭くなる。
「マグル界じゃなくて、ダイアゴン横丁で? それに、まだ夏休みが始まってから数日と経ってないのに……。ホグワーツで終わる用事じゃないのか?」
「私だって、夏休みくらい自由に遊びたいもの」
「…………」
それを言われると、ドラコにはもう返す言葉がない。ムスッとしながら暖炉までついていくと、ハリエットが苦笑しながら振り返った。
「お土産買ってくるわね」
「…………」
ドラコはハリエットを睨み付けた。別に拗ねている訳ではない!
ドラコが言い返す間もなく、ハリエットはわざとらしいほどの大声で『ダイアゴン横丁!』と叫んだ。ますますドラコの中に不信感が沸き起こる。
迷っている時間はほんの僅かだった。すぐにドラコも煙突飛行粉を鷲掴み、行き先を告げる。
何も考えていなかったドラコは、騒がしいパブ暖炉に姿を現してようやく、もしも本当にハリエットの待ち合わせ場所がダイアゴン横丁だったら、と焦った。だが、幸いなことに、暖炉のすぐ近くにハリエットの姿はなかった。灰を落としながら辺りを見回した所で、見慣れた赤毛があるドアの向こうへ消えていく所を目撃した。
勘が当たってしまったとドラコは眉間の皺を深くした。――あの扉は、マグル界へ続く扉だ。間違ってもダイアゴン横丁へ行ける出口ではない。
足取りも荒くドラコが後を追えば、ハリエットは脇道で夜の騎士バスを呼び出していた。ここまで来てドラコはたたらを踏む。さすがに変装も何もしていない今の状態では、同じバスに乗れば気づかれる。ドラコは為す術もなく見送るほかなかった。
バスはあっという間に視界から消え去った。もう帰ってしまおうかともドラコは考えた。追跡だなんて馬鹿げてる。別に自分はハリエットがどこへ行こうが気にしない。気にもならない。それなのに――。
気がついたときには、ドラコは杖腕を上げていた。数分と経たずに、目の前に夜の騎士バスが現れる。スタン・シャンパイクと名乗る男の間延びした台詞はほとんど耳に入ってこなかった。押しのけるようにしてバスに入り、乗客の中にハリエットの姿がないことに気づくと、安心したように、そして同時に落胆したように息を吐き出す。
「なに勝手に乗り込んでるんでえ? 名めえは?」
「なぜ名乗る必要がある」
「そりゃあ、乗客の身元くれえ把握してなきゃいけねえ」
それでも嫌だ、と反射的に思ったドラコだが、逆にこれが好機だと思った。
「ドラコ・マルフォイだ。少し前にハリエット・マルフォイが来なかったか?」
「マルフォイ? あーん? おめえさん、あの子の弟か何かかい?」
「兄だ!」
ドラコはカッと頬に熱を集めて答えた。弟に見られるなんてとんでもない!
「ハリエットが忘れ物をした。だから今からそれを届けに……ハリエットはどこへ行ったんだ?」
「どこだったかねえ。確か……サリー州リトルウィジング……」
「僕もそこへ連れて行ってくれ」
「あいよ。運賃は十一シックル。十三出しゃあ熱いココアが――」
みなまで聞かず、ドラコはガリオン金貨で支払った。スタンはもたもたと釣り銭を手渡し、運転手に出発を告げた。
初めて乗った騎士バスは、最悪の乗り心地だった。誰が寝たかも分からないベッドに腰を下ろした途端、耳がつんざくような音と共にドラコは右往左往と揺さぶられる。ベッドの枠に頭をぶつけたことは一度や二度ではない。もう二度と乗るものかと胃がひっくり返る思いで己に誓うことしばらく、ようやくバスは目的地で止まった。
「またのご利用をお待ちしております」
最後の口上だけはそれらしい口調で締め、来た時と同じように、バスはあっという間に姿を消した。
ドラコは最悪な気分で辺りを見回した。乱暴な運転のせいであちこち身体が痛いし、ここがどこかもよく分からない。
ドラコが降り立ったのは、見たところ、平凡な住宅街だった。取り立てて何か観光地がある訳でもない。だが、スタンの言葉を信じるならば、ハリエットはここでバスを降りたのだ。
夜の騎士バスであれば、どこへだって連れて行ってもらえるのだ。ならば、わざわざ目的地から離れた場所に下ろしてもらう意味もない。必ずハリエットは近くにいるはずだ。
辺りを見回しながら、ドラコはうろうろその場を歩き回った。立ち並ぶ家の中の一つにお呼ばれしていたのであれば、もう探し出すことなど不可能だ。むしろ、しばらく歩いてみても、取り立てて遊ぶ所など見受けられないので、その可能性の方が高い。
落胆のような、安堵のような、不思議な心地でドラコの足取りはゆっくりになる。そして、終着の廃れた公園に行き着く。
そこで、ハリエットは見つかった。ベンチに腰掛け、本のようなものを熱心に見つめている。ドラコは咄嗟に近くの茂みに身を隠した。ハリエットは一人だった。最後に彼女を見た時間から計算して、おそらく数十分はここにいたはずだ。たった一人で? ――いや、待ち合わせと考える方が自然だ。
ドラコは、彼女が何を見ているのか気になったが、遠目からでは分からなかった。教科書でもないし、図書館の本でもない。一体何だろうか。
「遅れてごめん!」
その時、公園に駆け寄ってきた人物を見てドラコは息をするのを忘れた。なんの躊躇いもなく、彼はハリエットに声をかけ、ハリエットの隣に腰掛けた――。
「伯母さんが解放してくれなくて……本当にごめん。待ったよね?」
「ううん、全然。私もなかなか許可がもらえなくて、少し前にようやく到着できたの」
本を閉じ、微笑むハリエットに、ようやくホッとしたように笑うハリー・ポッター。生き残った男の子で、ドラコの一番嫌いな男で、ハリエットの友達で――。
本当に、そうだろうか?
無駄に冴えた頭が、真実を追究しようと回転する。
ハリエットの友達? 本当に? 人目を忍ぶように、わざわざこんな場所で会っているのに? ロンやハーマイオニーもいない、たった二人きりで会っているのに?
ハリエットは、お出かけとなるといつもお気に入りの服だ。そこに特に意味などない――そう思っていたが、本当に? 今日の服装に、何の意味もないと、そう言えるか?
何よりも。
知らず知らずのうちにドラコは拳を握り込んでいた。
何よりも、シリウス・ブラックの脅威がまだ去った訳ではないのに。ブラックが彼を狙っていることは知っているはずなのに、それなのに、わざわざこんな廃れた場所で会うほど、ハリエットは、あいつを。
ハリーはまだ良いだろう。脅威が来れば、保護呪文が掛かった家に逃げ込めば良いのだから。でもハリエットは? もし、ブラックがハリエットに杖を向けたら? そこまで考えが及ばないはずないのに、どうして、わざわざこんな所まで出向いて――。
腹の下辺りが、煮えたぎっているかのように熱く感じた。頭は冷静なはずなのに――身体が熱い。
気付けばドラコは踵を返していた。もうこの場にはいられない。
「トニー!」
持て余した激情を押し殺し、公園から充分離れたところでドラコはしもべ妖精を呼んだ。汚い枕カバーを身につけたしもべ妖精がすぐに現れ、おどおどとドラコを見上げる。
「お、お坊ちゃま、何かご用でいらっしゃいますか?」
「家に帰る。姿くらましをしろ」
大きな目を、トニーは更に見開いた。
「ですが、お坊ちゃまのお年ですと、まだ姿くらましは危険だとお言い付けられて――」
「うるさい! 早くやれ!」
棒きれのような腕を掴むと、トニーはしぶしぶ姿くらましをした。四方八方から押さえつけられているような気味の悪い感覚がドラコを襲う。
ようやく見慣れた土地に足がついても、ドラコの吐き気は収まらなかった。
「大丈夫ですか?」
トニーが無遠慮に腕を引っ張るが、ドラコはその手を振り払って歩き出した
こんなの、何てことない。夜の騎士バスに比べれば、さっきの、あの光景に比べれば――。
*****
ハリエットは、暗くなる前に帰ってきた。片手に紙袋を提げ、わざとらしく『人が多かったわ』なんて言いながら。
アリバイを証明しなければとでも思ったのか、ハリエットはドラコにダイアゴン横丁での話を聞かせたがった。ルシウスやナルシッサもいる食事の場では、いつも通り口数少なく食べるだけだったが、食後となるとそうはいかない。
ドラコが部屋に下がってしばらく。少し早いが今日はもう寝ようと準備をしていたドラコの耳に飛び込んでくる控えめなノックの音。
ドラコは咄嗟に灯りを消した。部屋の主が寝ていると分かれば、さすがに起こしてまでは話をしようとは思うまい。
ドラコがベッドに横になったのと、ハリエットがそろりとドアを開けたのはほぼ同時だった。
「ドラコ? 寝てるの?」
ガチャリと開く音と、控えめなハリエットの声。ドラコは息を詰めた。
ハリエットはすぐに部屋の暗さに気づいたようだった。にもかかわらず、彼女はそろり、そろりと部屋の中に入ってくる。しまいにはドラコのベッドの端にそっと腰を下ろす。ドラコは堪らず起き上がって灯りを付けた。
「一体何の用だ! 僕はもう寝る!」
「やっぱり起きてた?」
ハリエットは眩しそうに苦笑した。その顔を見ていられなくて、ドラコは険しい表情で顔を逸らす。
「本当に寝てるのなら、置いて行こうと思って」
そう言ってハリエットが差し出したのは小さな紙袋。
「お土産買ってくるって言ったでしょう?」
「いらない!」
「そんなこと言わないで。使ってくれたら嬉しいわ」
ドラコは紙袋に見向きもしなかった。むしろ手渡された袋を押しのけるようにして枕の横に追い立てる。
「……それ、買うの大変だったんだから。何十人も並んでたのよ?」
顰めっ面のまま寝る体勢に入ったドラコを見て、ハリエットが拗ねたように言った。
――ああそうだろう。
ドラコは無意識のうちに歯を食いしばった。
ハリエットがダイアゴン横丁に行ったというのは事実だろう。こうして目に見える証拠があるのだから。だが、それが今日の目的ではなかったはずだ。わざわざあんな乗り心地のバスを使ってまで行った本当の目的があったはずだ。お洒落をして、何分も待って、アリバイを作って、ブラックの危険などものともせず、義兄のご機嫌伺いのためにお土産まで用意して。
耐えがたい屈辱だった。早く出て行って欲しかった。嬉しそうに今日の出来事を語るハリエットが恨めしい。その高揚した口調は、本当の目的のカモフラージュに過ぎないのに、そんなこと、とっくの昔に気づいているから、だから、お願いだから、口を閉じろ――。
ドラコの祈りが通じたのかは分からない。あまりに相づちがないせいで、ハリエットの口調も次第に熱が薄れてきて――ついにはパタリと口を閉じていた。
ドラコは、しばらく微動だにしなかった。気を引くために黙り込んだのか、ドラコが寝てしまったと思ったのか。
だが、やがて聞こえてきた小さな寝息に、ドラコは信じられない思いで起き上がった。
幼い頃は、よくある光景だった。少年少女二人が寝転がっても広すぎるベッドの上で、今日あった出来事を語り合ったあの頃。どちらかがどちらかのベッドで寝入ることもままあった。だが、だからといって今は。
ベッドの端で、ハリエットは、いっそ憎たらしいほどの安らかな寝顔を晒していた。彼女ももう寝る準備を始めていたのだろう。カーディガンを羽織っただけのネグリジェで、寝入ってしまうことなど考えていなかったのか、今にも落ちそうなベッドの端で、ハリエットは寝息を立てていた。
ドラコの中に、昼間のあの光景が蘇ってくる。ハリエットとハリーが仲良く寄り添って笑っている光景。ほの暗く、醜い感情が胸の中へ染み渡っていく。
膝をついたままドラコが移動すれば、それと共に微かな音をたててベッドが軋む。
いつの間にか、ドラコはハリエットを見下ろしていた。反射的に、ハリエットの顔に掛かっていた髪に触れた。
指通りの良い髪だ。マルフォイ家の誰にも似ていない、夕日のような赤毛。
今のドラコには、月の明かりよりも眩しくて、しかしそれでも目を細めるだけで、瞑ることはしない。視界から追い出すことはしない。
ハリエットが身じろぎした。顔がこちらに傾く。今は閉じられた瞳が、自分だけを映せば良いのに。余計な者は見ずに、自分だけを見てくれれば良いのに。
ドラコの震える手は、赤毛から白い頬へと移動していた。罪悪感よりも、恐怖よりも、感動に近かった。こんな風に彼女に触れるのはいつ振りだろう。互いにもう思春期を迎えているのだから、無遠慮に触れることがなくなるのは当然のことだ。そしておそらく――今後も、ない。自分がハリエットに触れる機会は、一生来ない。
息を詰めて顔を近づける。そうして吸い寄せられるようにたどり着いたのは、唇。
微かに、本当に僅かに触れるだけのキス。それなのに、ドラコはまるで火傷したかのようにバッと離れた。腕で口元を覆い、息を殺してハリエットを見つめる。
――彼女は、起きなかった。
ドラコが一線を越える前と変わらず、穏やかな寝息を立てている。
ドラコは、詰めていた息を吐き出すと共に、血の気を失うのを感じた。やってしまったと、自分の中の熱はみるみる冷え切っていくのに、触れた所は、まだ感触を覚えているそこは、燃えるように熱かった。