マルフォイ家の娘

02  ―気づいた日―








 一年に一度のクリスマスを憂鬱に思う子供は、この世に一体どれくらいいるだろう。

 隣室から微かに聞こえてくる歓声で目を覚ましたハリエットは、今年もクリスマスがやって来たのだとベッドの中で小さく息を吐き出す。

 薄目を開ければ、窓の向こう側はまだ薄暗いことが分かった。とはいえ、いつもならばとっくの昔に起床している頃合いだ。そろそろ起きなければ、本格的に叱られてしまう。

 そうは思うものの、寒さのせいもあってか、ハリエットはなかなかベッドから出ようとはしなかった。更にはかじかむ足先を丸め、毛布の奧へ奥へと引っ込める。

 軽く目を瞑った所で、ハリエットのそんな心境を見越してか、バシッと騒がしい音が響いた。もうすっかり慣れたものなので、ハリエットは少々身体をビクつかせる程度の驚きで済んだ。

「お嬢様、おはようございます。メリー・クリスマス!」
「……おはよう、ドビー」

 毛布からちょこんと顔を出し、ハリエットは挨拶をした。

 眼前にニコニコと笑って立っているのは、屋敷しもべ妖精のドビー。ハリエットのお世話係兼、母親のような存在だ。

「今日は折角のクリスマスなのに、二度寝をされるのですか? ほら、プレゼントも届いてます」

 ドビーが指差す方をハリエットはちらりと見た。確かに、サイドテーブルには例年と同じようにプレゼントが数個置かれている。今年もいつもと同じように三つのプレゼントだ。

「ドビーのはこれね?」

 ようやく起き上がり、ハリエットは一番包装が下手なプレゼントを手に取った。ドビーは恥ずかしそうに縮こまる。

「気に入ってくださると良いのですが……」
「ドビーからだったら何でも嬉しいわ」

 ワクワクとした心地で包装を解き、中から出てきたのは、特徴的な小さな箱。見るのは初めてだが、その形を見てハリエットはすぐにピンときた。

「蛙チョコレートだわ! そうでしょう? 蛙チョコレートよね?」
「はい。仰る通りです」
「これ、どうしたの!?」

 ハリエットは勢い込んで尋ねた。通常、屋敷しもべ妖精は給料をもらえない。にもかかわらず、どうしてドビーは蛙チョコをプレゼントできたのか。

「実は、しもべ妖精のネットワークを使ってこっそりお手伝いをしておりました。その時に給料代わりに頂いて」
「わざわざ私のために? ドビー、ありがとう!」

 蛙チョコは、魔法界でも人気のお菓子だ。確かに以前、蛙チョコが食べてみたいと漏らしたことがあったが、まさかドビーが覚えていてくれたなんて思ってもみなかった。

 ワクワクと箱を開ければ、中からは蛙の形をしたチョコレートと、一枚のカードが出てきた。ハリエットはカードをよく見ようとしたが、それよりも先にピョコンと蛙が動き出したため、慌てて掴んだ。

 もぞもぞと手の中で動くチョコレートは、少々ハリエットを気後れさせたが、『人気のお菓子』という言葉に負け、一口齧る。

 その瞬間、ふわっと口の中に広がる甘い味。今までチョコレートは何度も食べてきたが、その中でもこの味は格別に思えた。

「おいしいですか?」
「ええ、もちろん!」

 ハリエットはあっという間にチョコレートを食べ終えた。続いてカードに注目する。蛙チョコの本命とも言われるおまけである。有名人の魔女、魔法使いが乗っており、魔法界の子供達は、皆一度はカードをコレクションしたことがあるとかないとか。

 ハリエットのカードはアルバス・ダンブルドアだった。ホグワーツの現校長で、近代の最も偉大な魔法使いでもある。

「アルバス・ダンブルドア……素晴らしいお方です。ドビーめもいつかお会いしたいです」
「私がホグワーツに通うようになったら、その機会もあるかもしれないわ! ダンブルドア先生に会ったら、ドビーのこと話しておくわね」

 ドビーはダンブルドアを尊敬している。ことあるごとにどこからか彼の情報を仕入れてくるため、今やハリエットはちょっとしたダンブルドア通になっていた。

 ドビーは嬉しそうに目を細めて笑い、ハリエットを見上げた。

「――ハリー・ポッターも、いつかはそのカードに載るでしょうか?」
「ハリー・ポッター?」

 ハリエットは目を瞬かせて聞き返した。

 ハリー・ポッター。闇の魔法使いを倒した、魔法界の英雄。

 ドビーは、ダンブルドア以上にハリー・ポッターを崇拝しており、どこから拾ってきたのかひどくボロボロの絵本で、幼いハリエットに何度も読み聞かせをしたものだ。そのおかげで、今やハリエットもハリー・ポッターの大ファンとなっていた。

 両親・・は共にハリー・ポッターが嫌いなようで、その話題は好まないし、ドラコはドラコで、ハリエットがたくさんハリー・ポッターの話を聞かせたらうんざりしたのか、いつの間にか大のハリー・ポッター嫌いになっていた。ハリエットはドラコのクィディッチ話を嫌な顔せず聞いているというのにひどい話だ。

「そうね、きっと載るわ。今はまだ未成年だけど……でもね、ドビー、信じられる? 私達、ハリー・ポッターと同い年なのよ。もしハリー・ポッターもホグワーツに通うのなら……私達、同級生になっちゃうわ!」
「それどころか、友達になれるかもしれません」
「そうなったらドビーにも紹介するわね!」

 まだ見ぬハリー・ポッターを想像し、何がおかしいのか、二人してクスクス笑った。

「あ、そうだわ。ドビーに私からプレゼントがあるの」
「ど、ドビーめに?」

 ドビーは大きい瞳を更に見開いた。ハリエットは恥ずかしそうに小さな箱を差し出す。

「ハンカチを刺繍してみたの。ドビーったら、すぐ泣くから……」
「ドビーめにハンカチを……ドビーめにお嬢様が……」

 ハンカチを見るや否や、ドビーはおいおい泣き出した。ハリエットがハンカチで顔を拭くように言えば、『滅相もない!』としばしドビーは聞き入れなかったが、やがてなかなか止まない涙に痺れを切らし、ついにハンカチでそっと顔を押さえた。

「早速役に立ったわね」
「お恥ずかしい限りです。一生の宝物にします」
「大袈裟よ」

 ハリエットは苦笑したが、自分もまたダンブルドアのカードを宝物にしようと思っていたので、それほど本気ではなかった。

 ようやく涙が止まると、ドビーは恥ずかしそうにハリエットを見上げた。

「お嬢様、プレゼントはまだ二つありますよ。開けなくてもよろしいのですか?」
「今開ける!」

 ハリエットが次に手を取ったのは、長方形の重たい何か。これまたあまり上手とは言えないラッピングだ。開けてみると、中から出てきたのは最新号のクィディッチ・マガジンと、分厚いクィディッチ指南書。

「……ドラコも好きね」

 試しにパラパラとページをめくったが、そんな感想くらいしか出てこない。聞かずとも、一緒に楽しみたいがために、あまりクィディッチに興味を持たない妹をクィディッチ熱に引きずり込もうというのだろう。残念ながら、その行為自体が逆効果だとも知らずに。

 最後に開けたのは平べったい箱だ。一番綺麗にラッピングされている。中から出てきたのは一枚の白をベースとしたワンピースだ。襟と袖、裾に緑の刺繍が施され、一転してクラシカルな雰囲気となっている。

「わあ、可愛い……」

 ワンピースを身体に当て、ハリエットはくるりとドビーの前で一回転した。

「似合う?」
「はい、とてもよくお似合いです。ドビーめが奥様に進言したんです。お嬢様には白がお似合いになると」
「……そう……」

 小さく笑むと、ハリエットはしばしじっとワンピースを眺めた。やがて徐にネグリジェを脱ぐとワンピースに着替えた。今の時期だと少々寒いかもしれないが、どうせ外に出ないのだから構わない。

「お嬢様、そろそろ下に行かなければ、朝食を食べ損ねてしまいます」
「……分かったわ」

 憂鬱にため息をつくと、ハリエットはのろのろと身支度を整えた。窓からの景色は、徐々に明るくなっていた。

 部屋の外の肌寒い空気に一瞬身体を震わせ、ハリエットはそのまま薄暗い廊下を歩き出した。すると、数歩と行かないうちに、隣室から嬉しそうな声が上がる。

「ハリエット! こっちに来てくれ!」

 言わずもがな、ハリエットの兄のドラコの声である。ドアが開く音に気がついたのだろう。ハリエットは躊躇ったが、やがて意を決して扉を開けた。

 廊下とは一転して明るい部屋、その奥にあるベッドの上にドラコは座っていた。その手に大きな箒を掲げ、キラキラ光る瞳でハリエットを見た。

「新しい箒だ! 父上がくださった!」
「箒? でも、前も誕生日にもらってなかった?」
「それとこれとは別物だ! なんたって、これは競技用の箒なんだから! 大人用なんだぞ!」
「どう違うの?」
「まず飛べる高さが違う! 今までのは、安全措置として一定の低い所までしか飛べなかったが、これはそういう制限がないんだ! どこまでだって飛べる!」

 興奮のあまり、ドラコの声は騒がしいくらいに大きかった。ハリエットは苦笑いを浮かべるしかない。

「良かったわね」
「母上からはチェスセットだ。この前駒が一つ無くなったって零したのを覚えててくださったんだ。ハリエットは何をもらったんだ?」

 ハリエットはちょっと胸を反らしてワンピースを強調した。ドラコは残念そうにため息をついた。

「いつもそれだな。たまには違うものをねだれば良いのに。パーキンソンはぬいぐるみとかアクセサリーとか、そういうものをもらってるって自慢してたぞ」
「お洋服だって嬉しいわ」
「全く、女子の気持ちは分からないな。箒を買ってもらえば良かったのに」
「私はいいわ。クィディッチは見てるほうが楽しいもの」

 肩をすくめ、ドラコは他のプレゼントの開封作業に移った。

 ベッドの脇には、見上げるほどのプレゼントの山がこさえられていた。もちろん全てドラコのプレゼントだ。ドラコは知り合いが多い。マルフォイ家の嫡男として、様々な社交界に出ているので、顔が広いのだ。もちろん、同い年の友人だっている。所狭しと詰められているお菓子の箱は、おそらく友人のクラッブかゴイルからのものだろう。

「あいつら、自分が食べたいお菓子を送ってるだけじゃないか?」

 あまり興味のないクィディッチ本をもらったハリエットは、ドラコもそうでしょと思ったが、口には出さなかった。悪態をついている割には口元が緩んでいるので、余計な茶々は入れない方が得策だろう。

「ほら」

 ハリエットの顔の前に、急にドラコが何かを差し出してきた。

「なあに?」
「食べたいって言ってただろ、蛙チョコ」
「ああ……。ええ、言ってたけど、今は大丈夫。それに、それはドラコがもらったものだわ」
「ふーん、ならいいけど」

 箱を開け、ドラコはチョコを口の中に放り込んだ。流れるような動作でカードを見たが、そこに映っているのがダンブルドアだと知ると、明らかに落胆した顔になった。

「ダンブルドアばっかり出てくる。まだサラザール・スリザリンが出てこない」

 ドラコはカードを放り投げた。ひらひらとカードがプレゼントの山に吸い込まれそうになったので、すんでのところでハリエットが救出する。

「いらないなら貰ってもいい?」
「別にいいけど、ダンブルドアなんかがいいのか?」
「優しそうな人だもの」

 ハリエットはカードをポケットにしまった。ドビーはダンブルドアが好きだ。このカードを渡したら喜んでくれるだろう。それにハリエットとお揃いになる。

「そうだ。ハリエット、ハンカチありがとう」

 ドラコはハンカチを振って見せた。ハリエットは笑顔で頷く。

「ずっと前から刺繍頑張ってたのよ! 何度も失敗したけど」

 ドラコのハンカチには箒とスニッチ、イニシャルを刺繍した。ちょっと失敗して、スニッチが黄色いウサギのように見えるのはご愛嬌だ。

「父上にも同じものを?」
「ええ。何が好きか分からなかったから、お父様のものはマルフォイ家の紋章で、お母様のものは花の刺繍にしたわ」
「無難だな」

 ドラコの言葉に頷きながら、ハリエットは今更ながら不安に駆られた。素人に毛が生えたような出来のものを贈って、父は呆れないだろうか?

「お坊ちゃま、お嬢様、ご主人様がお呼びです。早く食べに来るようにと」

 その時、ドアの外からドビーの声が聞こえた。『もうそんな時間か』とドラコは立ち上がり、プレゼントはそのままに部屋を出て行く。ハリエットも重い腰を持ち上げた。

 リビングでは、既にルシウスとナルシッサが着席していた。食事には手を付けられていないため、わざわざ二人のことを待っていたらしい。

「おはようございます」
「おはよう」

 挨拶をし、そして腰を下ろすや否や、ドラコは喜色満面でルシウスを見た。

「父上、箒ありがとうございました。最新のニンバスでしたね! 今から飛ぶのが楽しみです!」
「マルフォイ家の嫡男ともあろうお前が、型落ちの箒など使えないからな。精進するのだ」
「はい!」
「でも、くれぐれも気をつけるのよ」

 エッグベネディクトにナイフを切り込みながら、ナルシッサが口を挟んだ。

「今までのは、制限があったから、もし何かあったとしてと軽傷で済むけれど、今回の箒はスピードも高度も桁違いですからね」
「心配しすぎですよ。今までのは僕の技術に箒が追いついてなくて、むしろ退屈してたくらいなんです」
「ならいいけど……決して遠くまで行かないように」

 おざなりに頷き、ドラコもようやく食べ始めた。今この時が好機ではないかと、ハリエットはルシウスとナルシッサを交互に見た。

「お父様、お母様、ワンピースありがとうございました」
「ワンピース……ああ」

 ナルシッサはその時ようやくハリエットに目を留め、合点がいったように相づちを打った。

「気に入ってもらえたのなら嬉しいわ」
「大切にします」
「ええ」

 それからは、ドラコにどんなプレゼントが届いたのかという話に移った。ルシウスとナルシッサは、上機嫌で話すドラコににこやかに相づちを打ち、『お礼のカードは忘れず送るように』というルシウスの言葉で朝食の席は締めくくられた。

 食事を終えると、ハリエットは自室へ戻ろうとしたが、それを許さないのはドラコだ。強引にハリエットの手首を掴み、ズンズン邸内の廊下を歩く。

「どこに行くの?」
「何言ってるんだ、早速箒に乗るに決まってるだろう!」

 紅潮した頬でそう宣言し、ドラコは邸宅を出た。家の中とは違って、途端に身を切るような寒さがハリエットを襲う。

「箒をお持ちしましたです」

 近くに姿現しをしたしもべ妖精がドラコに二本の箒を差しだした。ドラコは箒を受け取り、ハリエットの方を顎で示した。

「何かコートを持ってきてやれ」
「はい」

 無事ハリエットがコートを着込めば、ドラコは早速出発した。鼻歌でも歌いそうな程の上機嫌な足取りで、行き先すら告げず彼はどんどん先を進む。遠くなっていくマルフォイ邸に、ハリエットは不安を覚えた。

「ねえ、どこまで行くの?」
「うんと遠い所だ。この辺りは建物も多いし、思うように空を飛べない」
「あんまり遠くに行くなって言われたでしょう? それに、マグルに見られるかも知れないわ」
「母上の心配性はいつものことなんだから、気にしなくて良い。それに、マグルの目は節穴だ。ちょっと空を何かが飛んでても、鳥か何かだって思うさ」

 そのうち、辺りは本当にマグルばかりが住む場所になった。住宅街を抜け、閑散とした森の中へと足を進める。

「この辺りで良いか」

 ドラコが足を止めたのは、少し開けた空き地だった。木々の背は低く、確かにマグルに見られず飛びやすい場所のようには見える。

「こんな所で飛ぶの? もしマグルに見られたら……」
「今日はクリスマスだぞ。一体誰がこんな所まで来るんだ」

 そう言いつつも、自分達とてクリスマスにも関わらずこんな所まで来ている。

 そうは思ったが、ハリエットは口には出さず、黙ってドラコが箒に乗るのを眺めた。

「ほら、ハリエットも乗れよ。そのためにもう一本持ってきたんだ」
「私は良いわ。寒いし……。ドラコ、早く乗ってみて。私はここで見てるから」

 ハリエットの返答に不服そうにしながらも、それでもドラコはすぐに嬉しそうに飛び上がった。今までの箒とは比べものにならないほど浮上が早く、ドラコは少々ふらついたが、すぐに乗りこなす。あっという間に木々の背丈を超し、遙か頭上で歓声を上げてくるくる飛び回った。

 ずっと真上を眺めているのも肩が凝るので、ハリエットは木にもたれてしばらくドラコを眺めていた。

 思う存分箒を堪能すると、ようやくドラコは地上に戻ってきた。興奮した様子でまくし立てる。

「最高だ! 本当に今までのとはスピードが桁違いに違う! ハリエットも乗ってみるか?」
「私は大丈夫。子供用のだってうまく乗りこなせないのに」
「じゃあ僕の後ろに乗れば良い」
「二人乗りは危険だわ」
「大丈夫だよ。二人乗れるだけのスペースもあるし、それに、一人増えた所で僕が操縦を誤るように見えるか?」

 箒に跨がり、ドラコは誘惑するようにハリエットを見た。

 ハリエットも、実はほんの少しだけ興味があった。自分が操る箒は下手だというだけで、別に空を飛ぶのが嫌いなわけではない。

「じゃあお手柔らかにね。あんまりスピードは出さないでね」
「分かってる」

 箒に跨がり、ドラコのお腹に手を回せば、ゆっくり箒は浮上を始める。だが、それからはあっという間だった。いつの間にか周囲の木は遙か眼下だ。のんびり景色を楽しむどころではない。

「ねえ、ちょっと高過ぎじゃない?」
「これくらいなんだ。クィディッチだったらもっと高く飛ぶんだぞ」
「でも、もう少し低い所を飛んで欲しいわ。ちょっと怖い――」

 ハリエットの言葉は最後まで続かなかった。雲の隙間から、突然何かが現れたからだ。

 灰色の大きな機体は、まっすぐこちらへ向かっている。二人は息をのんだ。

 ドラコは咄嗟に右に逸れて回避しようとした。だが、あまりにもその距離が近かった。機体の一部と箒が接触し、負けたのはもちろん箒の方だった。

 折れこそはしないが、コントロールを失った箒はぐるぐると回転しながら地上へと落ちていく。ハリエットとドラコは箒にしがみついているだけで精一杯だった。

「きゃあああっ!」

 恐怖に染められたハリエットの甲高い悲鳴が、僅かながらにドラコに正気を取り戻させた。反射的に身体を反転させると、ハリエットを守るようにして抱き締める。

 地面に叩き付けられたのは、それからすぐの出来事だった。何かが折れるような嫌な音と、くぐもった声が耳に飛び込む。ハリエットは一瞬呼吸ができなかった。

 右腕に痛みを感じたが、すぐに飛び起き、ドラコを振り返った。

「ドラコ、ドラコ!」

 ハリエットに比べれば、ドラコはひどい有様だった。腕は不自然な方に折れ曲がり、膝からは血が出ている。何より――反応がない。

「ドビー、ドビー!」

 ハリエットは泣き叫ぶようにして叫んだ。ドビーはすぐに現れた。

「お嬢様、一体――」
「急いでお父様とお母様を呼んできて!」

 青白い顔で仰向けに倒れているドラコを見たのだろう。ドビーは息を呑み、そして返事をする間もなく姿くらましをした。

 それからのことは、ハリエットはあまり覚えていない。目の前でドラコが運び出され、彼のベッドに寝かせられた。速やかに聖マンゴ病院から癒者が派遣され、ドラコの治療にあたった。

 生きた心地もしないまま、ハリエットは部屋の前の廊下でウロウロしていた。ようやくドアが開いたときには、すぐに駆け寄った。

「先生――」
「ドラコは本当に大丈夫なんですよね?」
「ええ、もちろんですとも。腕はすぐにくっつきますし、幸い頭は打たなかったようです。すぐに目を覚ますでしょう。目を覚ましたら薬は必ず飲ませてください」
「はい」

 ナルシッサは涙目で何度も頷いた。そのままナルシッサと癒者は玄関まで歩いていった。

 それを見送ると、ハリエットはドラコの部屋に入ろうとしたが、ほぼ同時にルシウスが部屋から出てきてドアは後ろ手に固く閉ざされる。ルシウスは冷たい表情でハリエットを見下ろしていた。

「一体どういうことだ。状況を説明しろ」
「あ、あの……」

 恐ろしい程の威圧に触れ、ハリエットはビクビクしながら下を向いた。

「私……ドラコが、箒に乗りたいって言って、あの森へ……」
「なぜ止めなかった! マグル避けも効かないような場所で箒に乗るなんて!」
「でも、この辺りじゃうまく飛べないからって……」
「なぜ箒から落ちた? まさか箒に不具合があったのか?」

 ハリエットはぶんぶん首を振った。今から言うことがルシウスを怒らせることは確実だった。

「二人乗りしたんです……それで、突然マグルの乗り物が目の前に現れて、避けようとして――」
「二人乗りだと?」

 ルシウスの声が一層冷え切った。

「お前が乗りたいと言ったのか?」
「…………」

 ハリエットは嗚咽をこらえながら押し黙った。何と言うべきか分からなかった。二人乗りを言い出したのはハリエットではない。でも結局乗ったのはハリエットで、乗りたいと思ったのも事実だ。

「何たることか! ドラコはマルフォイ家の嫡男だ。それ以前に大切な息子でもある。お前とは比較にもならないのに」

 興奮のあまり、ルシウスは自分が何を言っているのかもよく分かっていなかった。ハリエットがピシリと動きを止めたことにも気づかない。

「今後箒には近づくな」

 それだけ言い捨てると、ルシウスは再びドラコの部屋に入って行った。どこからともなくナルシッサも姿を現し、ハリエットに声を掛けることなくルシウスの後に続く。ハリエット俯いたままワンピースの裾を固く握り締めていた。


*****


 その日の夕方、ドラコが目を覚ましたとドビー経由でハリエットは知った。お腹はペコペコだったが、ハリエットは昼食にも夕食にも顔を出さず、そのせいで情報が全く入ってこなかったのだ。

 ハリエットを心配してドビーが食事を持ってきてくれたが、残念ながらあまり食べられなかった。

 リビングでルシウスとナルシッサが食事をしている頃合いを見計らい、ハリエットはこっそりドラコの部屋に忍び込んだ。寝ていれば帰ろうと思っていたが、ドラコは起きていた。ベッドに半身を起こした状態で雑誌を読んでいる。右腕が吊るされているので少し不便そうだ。

「……ドラコ、大丈夫?」

 ハリエットの来室に気づき、ドラコは顔を上げた。思ったよりも顔色は良かった。

「あんなの、薬を飲めば一発だ」
「でも、腕が折れてたわ」
「起きた頃にはもうこの状態だったんだから、大したことない。それよりも、なんだあの危ない乗り物は! 僕はマグルも空を飛ぶなんて聞いてない! 僕の箒捌きが下手だったら今頃二人共あの世行きだ!」
「私も……びっくりした……」

 いつもの調子でドラコが悪態をつくのを見て、ようやくハリエットも心の底から安堵がこみ上げてきた。それと共に、恐怖も蘇る。

 まさか、マグルの作った乗り物が空を飛ぶとは思いも寄らなかったのだ。大きな音をたてて近づいてくるグレーの無機質な機体は不気味だったし、特に、あのバラバラ動く羽のような所と接触していれば、それこそドラコの言うように命はなかった。

「ま、でも、怪我の功名って奴かな」

 ドラコはヒラヒラと雑誌を掲げた。

「むしろ怪我して良かったかもしれない。母上が買って来てくださった」

 ドラコはちょいちょいと手招きをして、開いたページの一角を指差した。

「ほら、ここ見てくれ。イングランドのクィディッチ・シーズンがもうすぐ始まる。後で父上に観戦に連れて行ってもらうよう言ってみようと思うんだ。今ならどんなことでも聞いてもらえそうだ」

 上機嫌なドラコと打って変わって、ハリエットの表情は暗い。思ったよりも反応が芳しくなく、ドラコは不満そうな顔になった。

「なんだその顔は? もちろんハリエットも行けるよう言ってやるから」
「私は大丈夫」

 ハリエットはすぐに返した。

「きっと連れて行ってもらえないから。今日のことで、お父様、すごく怒ってたわ」
「怒ってた? まさか、僕が落ちたのがハリエットのせいだって思ってるのか? 父上には僕から言っておくから、気にすることない」
「ドラコから言っても無理よ。……お父様は、私に冷たいもの」

 ドラコはパタンと雑誌を閉じた。その瞳は困惑に揺れながらハリエットに向いた。

「そんなことない。ただ今日は、僕が怪我をしたから驚いただけだろう」
「お母様だって私に興味がないわ」
「それこそ気のせいだ。クリスマスプレゼントだってもらってたじゃないか」
「そうだけど……」

 尻すぼみにハリエットの声は消えていく。この違和感を、どう説明すれば良いのだろう。

 結局、ハリエットはそれ以上ドラコには弱音をぶつけることができなかった。告げ口するような気分になってしまったというのもある。

 ドラコの部屋を出、すっかり暗くなってしまった廊下を歩いていると、右腕が、今更ながらジクジクと痛むことに気づいた。だが、ハリエットはこの痛みをどうすれば良いのか分からない。

 痛い。とても痛い。でも、誰にどう言えば良い?

「お嬢様」

 ハリエットが部屋に戻ると、ドビーが待っていた。

「どうされましたか? どこか痛むのですか?」
「ドビー……」

 心配そうに顔を覗き込まれ、ついにはハリエットの涙腺が緩んだ。堰が切れたようにポロポロとハシバミ色の瞳から涙がこぼれ落ちていく。

「腕が痛いの。腕が痛いのよ、ドビー……」
「ああ、やはりお嬢様もあの時に怪我されていたのですね? ドビーめに見せてください。多少の怪我なら……」

 ドビーの長い指先から光が迸る。ハリエットの右腕の痛みは途端に和らいだ。だが。

「これでいかがですか?」
「痛い……」

 ハリエットはまだ泣いていた。涙も痛みも止まる気配はない。

「まだ痛いの……」
「どこが痛むのですか?」
「分からない……」

 ドビーはすっかり困り切った様子でおろおろハリエットの身体を見て回った。

「ねえ、ドビー……」

 ハリエットは乱暴に頬を擦りながら、赤い目をドビーに向けた。

「私、本当にお父様とお母様の娘なのかしら」
「な、なぜそのようなことを……?」
「だって、お父様は私に冷たいわ。私、お父様からクリスマスプレゼントも、誕生日プレゼントももらったことないもの」
「それは……」
「それに、お母様は、話しかければ応えてくれるけど、無関心だわ。このワンピースだって……」

 ハリエットは悲しそうにワンピースを摘む。

「本当にお母様が私に買ってくれたの? お母様が選んでくれたの?」

 ドビーをじっと見つめれば、彼は何も言えないまま目を逸らした。彼は、嘘がつけない性格なのだ。

「やっぱりそうなのね。でも、素っ気なくされるのは当たり前だわ」

 ハリエットは悲しくなって、ドビーに抱きついた。『ドビーめは汚いですから、お止めください!』と彼は逃げようとしたが、ハリエットはそれ以上の力で彼を強く抱き締める。

「だって、全然似てない! 私、二人に全然似てないもの……!」
「お嬢様、そんなことはありません。見た目が似ていなくても……」
「それに、私のこと嫌ってる! ドラコみたいに抱きしめてもらったことなんて、一度もないわ!」
「お嬢様……」
「私っ……二人の本当の娘じゃないんだわ!」

 ハリエットは声を上げて泣いた。

 言った。言ってしまった。ついに言葉にしてしまった。

 幼い頃から抱いていた疑問を、予想を、ついに口にしてしまった。

 だが、ハリエットは、己の言葉がそう的外れでないことにも気づいていた。もしかすると、マルフォイ家とは遠い親戚なのかもしれない。だが、少なくともドラコと血は繋がっていない。

「私の家族は、ドビーだけよ」

 この家に、ハリエットの居場所などなかった。ハリエットはマルフォイ家の娘ではないのだから。