マルフォイ家の娘

03  ―運命の出会い―








「お嬢様、お嬢様……」

 キーキーと高い声が、すぐ傍らからハリエットの鼓膜を揺すぶった。

「朝でございます、お嬢様……」

 ううん、とうめき声を漏らし、ハリエットは薄っすら目を開けた。目の前には何もいない。だが、よくよく目を凝らせば、ベッドの端から、毛の生えていない茶色の頭頂部が見える。ハリエットが手を伸ばして頭を撫でれば、その生き物は大いにビクつき、最低でも一メートルは飛び退いた。

「お嬢様! ドビーめに触れてはいけません!」
「どうして?」

 ハリエットはゆっくり身体を起こし、ぐっと伸びをした。ドビーによって開け放たれた窓から、乾いた風がハリエットの赤い髪をふわりとくすぐっていった。

「ドビー、おはよう。起こしてくれてありがとう」
「…………」

 のんびりと微笑むハリエットに苦言を申すのは憚られ、その代わりドビーは自分で自分にお仕置きすることにした。油断して、彼女に触れられてしまった自分への罰だ。

 ドビーは床に四つん這いになり、自らの頭を打ち付け始めた。

「ドビーは悪い子! ドビーは悪い子! ドビーめにお嬢様が触れるなど……ご主人様に見られたらなんと仰られるか!」
「ああ……ドビー!」

 ハリエットは血相を変えてドビーの腕を掴んだ。ドビーは尚も罰を与えなくてはともがいたが、ハリエットが泣きそうになっているのを見てはたとその動きは止まった。

「ごめんなさい。そんなつもりはなかったのよ。ただお礼を言いたくて……」

 ようやくハリエットも思い至った。義父のルシウス・マルフォイは、屋敷しもべ妖精が好きではない。むしろ嫌っている。ハリエットが妖精と仲良くしようとすれば、その怒りの矛先はもちろん妖精たちへと向けられるだろう。

「ああ、違うのです、お嬢様……」

 しかしドビーが言いたいのはそんなことではなかった。お嬢様がご主人様に怒られる、と言いたかっただけだったのに。

 しかしドビーが真意を伝える前に、高い音を響かせて扉がノックされた。ドビーは震え上がり、頭を抱えてその場にうずくまった。ハリエットは彼をベッドの下に隠し、『はい』と返事をした。

 入室の許可を得て部屋に入ってきたのは、プラチナブロンドの少年だ。同い年ではあるが、ハリエットの兄でもあるドラコ・マルフォイだ。

「またしもべ妖精が騒いでるのか? 隣の部屋まで響いてきたぞ」
「う、ううん! 私がベッドから落ちちゃったの。うるさくてごめんね」

 ハリエットは大げさなジェスチャーでベッドから落ちたことを強調しようとした。だが、そのせいでドラコはベッドの下から覗く茶色い足をバッチリ目撃した。何か言おうと口を開いたが、結局何の言葉も思い浮かばず、その代わりに吐いたのは。

「ホグワーツからの手紙が届いていた。お前も早く受け取ってやれ」
「えっ」

 一瞬何を言われたのかわからず、ハリエットはドラコが視線を向けた方へ、己も視線を滑らせた。すると、つい先程まで何もなかった窓枠に、グレーのふくろうがちょこんと座っているではないか!

「あ……あっ!」

 興奮に顔を上気させ、ハリエットはふくろうに近づいた。震える手でふくろうの小さな足から手紙を受け取り、封を開ける。ドラコもその隣から覗き込んだ。

「ホグワーツ魔法魔術学校の入学許可証……」
「僕としては純血しかいないダームストラングが良かったが。まあ母上が仰るなら仕方がない。ホグワーツで我慢するしかないだろう」
「私達、一緒にホグワーツへ行けるのね!」

 ハリエットは瞳をキラキラさせてドラコを見た。兄とはいえ、同い年なのでまだそんなに身長は変わらず、思った以上に妹が近かったので、ドラコは頬を赤らめて一歩退いた。

「そんなに嬉しいか? ダンブルドアが校長なんてやってる学校だ。たかが知れてる」
「会ったこともないのにどうして分かるの? 優しそうな人だったわ。最も偉大な魔法使いなのよ!」

 誕生日プレゼントにドビーがくれた蛙チョコ。その中に入っていたアルバス・ダンブルドアのカードは、今でもハリエットの宝物だ。蛙チョコが食べてみたいと漏らしたことをドビーが覚えてくれていたことも嬉しかったし、給料などもらえていないため、わざわざお手伝いをしてその駄賃として貰った蛙チョコだったというのも嬉しかった。

 初めて食べた蛙チョコはとても美味しかったし、ずっと憧れていたホグワーツの校長がカードの中に現れたことも、全てが素敵な巡り合わせに思えてならなかったのだ。

「そんなに嬉しいなら早く準備したらどうだ。置いてかれるぞ」
「今日はダイアゴン横丁に行ける日だものね! 急いで着替えるわ」

 慌ててクローゼットを開け、お気に入りのワンピースを取りだした。その合間にドラコは出て行ったようで、伸び伸びと身支度をする。

「お嬢様」

 ベッドから這い出たドビーがニコニコして話しかけた。

「ダイアゴン横丁に行けば、ハリー・ポッター様に会えるかもしれませんね」
「ハリー・ポッター?」

 長い赤毛を櫛で梳かしながらハリエットは聞き返す。

「ええ、そうね。魔法界の英雄だわ! どんな子でしょうね」
「とても素晴らしいお方だと聞きます。きっと……きっと、お嬢様のように心優しい、勇敢な方なのでしょう」
「友達になれるといいな」

 ハリー・ポッターだけじゃなくて、いろんな友達も欲しい。

 鑑の中の自分に向かって微笑んでいたハリエットは、その隅で、ドビーが眩しそうな笑みを浮かべていたことに気づかなかった。


*****


 ハリエットが階下へ降りると、既にダイニングには全員着席していた。ハリエットは頭を下げていそいそ席につく。

「おはようございます」
「今日はダイアゴン横丁に行く日よ。準備はできた?」
「はい」

 ナルシッサの問いかけにハリエットは力強く頷いた。自然と表情が綻んだ。何せ、ハリエットがお出かけできるのは数ヶ月に一度あるかないかくらいだ。ドラコはよくマルフォイ家の嫡男として社交界に顔見せをしているようだが、ハリエットにはそれはない。でもそれは当然だ。ハリエットは――ルシウスとナルシッサの実の娘ではないのだから。

 ハリエットは、自分がこのマルフォイ家と血が繋がってないことに当の昔に気づいていた。どうしたって、儚げなプラチナブロンドの父親とブロンドの母親からは赤毛の娘は生まれようがないし、顔も全く似ていないからだ。それに何より、ドラコとの扱いの差が全ての答えだった。

 ルシウスは、ハリエットに冷たい。話しかけられることは滅多にないし、稀に何か言われることがあっても、大抵は怒られるか命令されるかのどちらかだ。ナルシッサはハリエットを冷遇することはないが、あくまで他人行儀だ。彼女がドラコに対するように、温かく深い愛情を向けられたことは決してなかった。

 昔は、ドラコとの扱いの差に、たびたびこっそり泣いたものだ。その都度ドビーに優しく慰められた。もはや、狭く息苦しいその世界の中で、ハリエットはドビーを家族のように思っていた。

 にもかかわらず、そのドビーも、マルフォイ家ではひどい扱いを受けていた。しもべ妖精はもともと魔法使いに奉仕することを生きがいとしているが、だからといっていじめて良いという訳ではない。

 ルシウスは、ドビーやその他しもべ妖精達がヘマをすると、そのたびに激しく叱責したり、蹴飛ばしたりした。わざとしもべ妖精の意にそぐわないことをけしかけて、彼らが自ら己に罰を与えるのを楽しむことだってある。

 ハリエットは、ドビーやしもべ妖精達が苦しそうにしているのを見て、いつも身を切られるような思いだった。だが、自分が助けに入れば、ルシウスは更に怒り、その矛先が彼らに向けられる。それどころか、『お嬢様』に不快な思いをさせたと、余計に妖精達が己の頭を床に打ち付けるのだ。ハリエットは苦しくて堪らなかった。


*****


 今までダイアゴン横丁に来たのは数えるほどだ。だからこそ、漏れ鍋を通って魔法使い、魔女達が騒がしく行き交う通りまでやって来たとき、ハリエットは興奮してずっと周りを見回していた。

 ハリエット・マルフォイの世界は狭い。滅多に外に出させてもらえず、出るとしてもマグル避けの施された邸宅の近所ぐらいだ。遊び相手だって、ハリエットにはドラコと屋敷しもべ妖精くらいしかいない。

 ドラコはたびたび社交界に顔を出しているため、顔見知りも多く、彼の口からはクラッブやらゴイルやら、パーキンソンやらノットやらの名前が出てくる。クラッブとゴイルは食いしん坊で、パーキンソンはドラコが大好き、ノットは一匹狼――ドラコから話を聞くたび、ハリエットはそのような印象を持っていた。

 ただ、実際に彼らと会ったことはない。稀に彼らがドラコの家に来るときは、ハリエットは部屋から出ないよう厳しく言われるからだ。

 ハリエットは、友達が欲しかった。兄妹でもなく主従関係でもなく、笑ったり怒ったりできる対等の友達が。

 だからこそ、ホグワーツが待ち遠しかった。同じ年頃の少年少女が集う学び舎。魔法も学べて、その上友達もできる場所だなんて、なんて素敵な場所なのだろう!

「入学祝いにふくろうを買ってやろう」

 思案に暮れていたハリエットだが、急に耳に飛び込んできたルシウスの言葉に、反射的にピクッと顔を上げた。しかしすぐに何食わぬ顔でまた辺りの露店に視線を走らせる。今の言葉がドラコに向けられていることなど、考えなくても分かった。少し――ほんの少し、期待してしまっただけだ。

「ふくろうよりも箒が良いです。ニンバスに新作が出たとか」
「一年生は箒の持ち込みは禁止だ。いくらマルフォイ家といえど、一年生から教師に目を付けられる訳にはいかないだろう」
「全く、馬鹿げた規則です」
「焦らずとも、お前なら二年生から選手入りを果たせるだろう。気になっているポジションはあるのか?」
「当然シーカーです。それ以外考えられません」
「ドラコはセンスが良いもの。絶対に選手に選ばれるわ」

 マルフォイ家の和やかな会話を聞きながら、ハリエットは居心地の悪さを感じていた。

 常日頃、話しかけられない限り、ハリエットは口を開かないようにしていた。『家族』の会話には、どうしたって入りづらく思ったし、これ以上嫌われたくなかったからだ。それに、この仲の良い家族の中で、自分だけが異端だ。自分さえいなければ、理想的な家族の形がそこにあるのに、ひどく申し訳なく思った。

 俯き、つい歩みが遅くなったハリエットは、前から歩いてきた少年に気づかなかった。彼もよそ見をしていたのか、気がついたときには思い切り互いの身体にぶつかり、そして尻餅をついていた。カシャンと音をたてて何かが地面に落ちる。

「ごめん!」

 ぶつかってしまったのは、ハリエットとそう年の変わらない少年だった。顔を真っ赤にしてハリエットに手を差し出す。

「あの、僕、他の所見てて……」
「私の方こそごめんなさい」

 顔を上げた少年と目が合った。明るいグリーンの瞳に、なぜか既視感を覚える。

 少年は、なかなかにちんちくりんな格好をしていた。明らかに身体に合っていないトレーナーに、あちこちほつれたジーパン。そのどちらもひどく色褪せている。

 無作法にもジロジロ観察していたハリエットは、彼の足下に眼鏡が落ちていることに気づいた。あっと声を上げてそれを拾い上げ、愕然とする。

「あっ――ご、ごめんね! これ、あなたの眼鏡よね? 私のせいで壊れちゃった!」

 少年のものと思われる丸眼鏡は、レンズの部分があちこち割れていた。それに、フレームも僅かに歪んでいる。お金を持ってないハリエットは、どう弁償したものかとおろおろした。

「ああ、いいんだ」

 しかし、少年は恥ずかしそうに笑ってハリエットの手から眼鏡を受け取った。

「これ、もともと壊れてたから。テープで補修してあるでしょ?」
「あ……」

 自虐めいた顔で少年が指差すのは、眼鏡のレンズ。確かに、割れている部分にはテープが貼られていた。

「レパロはしないの?」
「え? な、なんだって?」
「レパロ。お父さんかお母さんにやってもらえばいいのに」

 事も無げにハリエットがそう言えば、少年は困ったように笑った。

「僕、両親いないんだ」
「ご、ごめんなさい……」

 またやってしまったとハリエットはしゅんとした。初対面なのに、彼には碌な対応ができていない。

「ハリー?」

 その時、どこからか野太い声が響いた。

「ハリー! どこにおるんだ? 迷子か?」
「呼ばれてる。僕もう行かなきゃ」
「あ……」
「じゃあね。眼鏡拾ってくれてありがとう!」

 ハリーと呼ばれた少年は、軽く手を振って駆け出し、あっという間に人混みに姿を消す。ハリエットはパチパチと瞬きをして人混みを見つめた。

「ハリー?」

 そして小さく呟く彼の名。

「まさかね……」

 生き残った男の子。

 彼の特徴は、ドビーが何度も読み聞かせしてくれた絵本で暗記済みだ。くしゃくしゃな黒髪で、額には稲妻形の傷がある男の子。

 彼も黒髪だったが……まさか、たまたま名前が一緒なだけだろう。確かに、ハリー・ポッターは今年ホグワーツに入学するという話だったが――。

「ハリエット!」

 突然すぐ近くで名を叫ばれ、ハリエットは飛び上がった。慌てて振り返れば、そこには息を切らしたドラコが立っていた。

「目を離したらすぐにいなくなるんだから。またペットショップにでも足止めを食らってたのか?」
「ごめんなさい……。ちょっと人とぶつかって」
「ぶつかった? 全く、これだから人の多い場所は嫌なんだ。いいか、くれぐれもノクターン横丁には近づくなよ。僕ならともかく、君ならすぐに人攫いに浚われるだろうさ」

 ドラコはちょっと周りを見回した後、グイッとハリエットの手を掴んだ。遠慮なくぐいぐい引っ張るので、ハリエットはついて行くので精一杯だった。

 迷いなくドラコが向かったのは、マダム・マルキンの洋装店だった。躊躇う様子もなく彼はドアを大きく押し開く。

「お父様とお母様は?」
「どこから聞いてなかったんだ? 父上は教科書を買ってるし、母上は杖を見てる」
「あら、マルフォイ家の坊ちゃんね」

 店主であるマダム・マルキンが、にこにやかに二人を出迎えた。

「制服を仕立てるの?」
「ああ。妹のもだ」
「妹……」

 マダム・マルキンは、マジマジとドラコの後ろのハリエットを見た。ハリエットははにかんで頭を下げる。

「こんにちは」
「マルフォイ家にお嬢ちゃんがいたなんて知らなかったわ」
「妹はあまり社交界に出てないからな」

 これ以上話すことはないと、ドラコは黙って踏み台の上に立った。今までに何度もドレスローブを仕立てているので、勝手は知っていたのだ。

「これは失礼したわね。さあ、採寸を始めますわ」

 それからは、彼女はテキパキと仕事を始めた。ハリエットとドラコは隣同士だったので、ホグワーツに向けてたわいもない話をした。そんな最中、そう間を置かずにまたも客が入ってきた。

 マダム・マルキンが『ホグワーツなの?』と聞いていたので、おそらく同い年くらいの子だろう。ハリエットは気になって後ろを振り向きかけたが、採寸をしていた魔女に叱られてしまった。

 踏み台は二つしかなかったが、マダム・マルキンは新しくもう一つハリエットの隣に並べた。マルフォイ家はいつもドレスローブを仕立てるので――もちろん社交界に出ないハリエットの分はないが――時間がかかると判断したらしい。

「さあ、坊ちゃん、こちらへ」
「はい」

 おっかなびっくり少年は踏み台の上に乗った。興味深げにハリエットが横を向くと、少年も丁度こちらを見ていた。二人同時にあっと声を上げる。

「さっきの!」
「また会ったね」

 照れくさそうに笑うタイミングまで一緒だった。そんな二人だけの空気が面白くなく、ドラコがハリエットの向こう側から顔を出した。

「知り合いか?」
「ええ。さっき私がぶつかっちゃった人よ」
「ふうん」

 ドラコは上から下までジロジロハリーを見、そして鼻で笑った。

「君もホグワーツかい?」
「うん」
「私達もなのよ! とっても楽しみね!」

 ハリエットが満面の笑みで言えば、少年は戸惑ったようにちらちらハリエットとドラコとを見比べた。

「君達は友達?」
「兄妹だ」

 ドラコはツンとして答えた。

 あんまり似てないね、という言葉を少年は飲み込んだ。自分の不用意な言葉で傷つくかも分からなかったからだ。

「私、ハリエット・マルフォイよ。あっちがドラコ。あなたは?」
「僕……僕はハリー・ポッター」

 一瞬、その場の空気が変わった。ハリエットやドラコだけでなく、採寸をしていたマダム・マルキンさえも動きを止めた。

「ハリー・ポッター? 本当に?」

 ドラコが訝しげに聞き返せば、ハリエットもまた我に返った。

「すごい! 私、絵本で読んだわ。生き残った男の子!」
「まさか入学前に君に会えるなんて光栄だよ。改めて、僕はドラコ・マルフォイだ。純血の家柄だし、君と付き合う分にもいいと思う」

 踏み台から降り立ち、ドラコは高慢な態度で右手を差しだした。内容はともかく、彼は自分と友達になりたいようだと、ハリーは大人しく彼の右手を握った。

「でも……僕、君達の期待に添えないかも。何も覚えてないんだ。緑の光が一杯だったってことくらいしか」
「死の呪文だ」

 得意げな顔で答えるドラコを見て、ハリエットは急速に高揚した気持ちが萎んでいくのを感じた。

 ハリー・ポッターが『生き残った男の子』になった日は、彼の両親が亡くなった日だ。にもかかわらず、不躾に興奮してしまうのはあまりに無神経だった。ハリエットは己を恥じた。

「君は死の呪文を受けて唯一生き残った魔法使いだ。とっても有名なんだよ」
「そうなんだ」

 ハリーは、まだドラコの言っている意味がいまいち理解できていないようだった。ハリーの言う、『緑の光が一杯だった』――その光のうちの一つが、両親を貫いたのだろう。そのことを、彼はまだ知らないのだ。

 ハリエットは胸が締め付けられる思いだった。そして同時に、彼に共感を覚えていた。

 ハリエットもまた、自分が覚えている一番古い記憶は、緑の光が飛び交っている場面だった。これが死の呪文かは分からない。だが、嫌な予感はしていた。もしこれがドラコの言う死の呪文であれば――自分の両親は、もしかしたらもうこの世にはいないのかもしれないのだから。

「さ、終わりましたよ」

 マダム・マルキンの声で、ハリエットはハッと顔を上げた。見れば、声をかけられたのは少年の方で、自分達はまだ採寸は終わっていなかった。

「ハリー、またね」

 ハリエットが大きく手を振れば、少年もはにかんで手を振り返してくれた。ドラコはなぜかぶすっとしていたが、おざなりに手を上げて見送った。

 ドレスローブの採寸も終わり、洋装店を出ると、すぐにルシウスと合流した。ルシウスは手に何も持っていなかったが、おそらく検知不可能拡大呪文を掛けた鞄にでも教科書を入れているのかもしれない。

「次は杖を買いに行く」
「いよいよですね」

 ドラコは嬉しそうに言い、そしてあっと漏らした。

「父上、さっきマダム・マルキンの店でハリー・ポッターに会いました」
「――っ」

 口を噤み、ルシウスは一瞬ハリエットをちらりと見つめた。その視線の意味も理解できないうちに、ルシウスはまたドラコに顔を戻した。

「友達になったのか?」
「はい。彼にとっても、僕と付き合うのはメリットがあるでしょう。魔法界のことは何も知らないみたいだったし」
「良かろう。お前がハリー・ポッターを導いてやれ」
「もちろんです」

 オリバンダーの店に行くと、ナルシッサが待ってましたとばかり出迎えた。杖が魔法使いを選ぶ、という話だが、彼女はいくつか既に杖を見繕っていたらしく、その中でドラコは、サンザシにユニコーンの毛の杖に選ばれた。割合すぐに決まったドラコに対し、ハリエットの杖選びは難航を極めた。だが、ようやくスギに不死鳥の羽根の杖に選ばれると、オリバンダーは眩しそうにハリエットを見つめて微笑んだ。どうかしたのかとハリエットが問うても、彼は微笑んだまま何も答えず、そのまま杖の会計をして終わった。

 制服、教科書、杖と揃えた後は、細々とした買い物のみだった。それも終わると、ルシウスはイーロップのふくろう百貨店の前で足を止めた。

「ドラコ、好きなふくろうを選ぶと良い。入学祝いだ」
「てっきり、僕は新しい箒を買ってもらえるのかと」

 ドラコは明らかに不機嫌そうに唇を尖らせた。なんだかんだ言って、父は箒を買ってくれると、彼はそう信じていたのだ。

「新しい箒はクィディッチ・チームに選ばれてからだと言ったはずだ」
「僕が選ばれない訳ありません」
「いざチーム入りするときに、お前は型落ちした箒を使うつもりなのか?」
「…………」

 そこまで言われてしまえば、ドラコももう返す言葉もなく、がっくり肩を落として百貨店の中に入って行った。ハリエットもちょっと胸をドキドキさせながらマルフォイ家の後に続く。

 店内には、大小様々なふくろうが何十羽といた。少々鳥臭かったが、しかし円らな瞳でこちらを見つめてくる彼らを思えばなんてことはない。

 入り口近くには、雪のように白いふくろうがいた。ハリエットが恐る恐る手を出せば、ふくろうはされるがまま撫でられてくれた。人懐こい――とは少し違うようだが、賢そうなふくろうなので、寛容にも撫でられてくれたのかもしれない。

「その子がお気に召しましたか?」

 店員がにこにこ微笑みながら近寄ってきた。ハリエットは慌ててパッと手を引っ込める。

「あ、いえ……可愛いなと思って」
「メスのふくろうでしてね。美しいでしょう? きっとすぐに買い手がつくと思って、店先に置いてるんですよ。いかがです?」
「はい……ちょっと他にも見てから」

 曖昧に笑って、ハリエットは逃げるように店の奥へ進んだ。ドラコはすぐに見つかったので、助かったとばかり彼の隣に収まる。

「どの子か決まった?」
「ああ。一目見たときから気に入ってね。このふくろうにする」

 ドラコが指差したのは、凜々しい顔つきのワシミミズクだ。ドラコらしいふくろうだとハリエットは頷いた。

「うん、可愛いと思う! ドラコにぴったりだわ!」
「……お前な、何でもかんでも可愛いって言うのは止めてくれ。それ以外に言葉を知らないのか?」
「そんなことないわ。確かに格好いいとは思ったけど、でも可愛いとも思って……」

 どちらかというと、可愛いの方に比重が傾いたので、その感想が口からついて出ただけだ。深く突っ込まないで欲しい。

「ま、もう慣れたけど。ハリエットはどのふくろうにするか決めたのか?」

 檻を手に、何とはなしにドラコが尋ねる。ハリエットは慌ててしまった。

「ううん、でも、私……」
「君にはこいつなんか良いんじゃないか?」

 ドラコはゆっくり店内を見渡し、やがて徐に指差したのは、灰色のフサフサした小さなふくろうだった。円らな瞳でじいっとハリエットを見つめている。

「でも……」

 ふくろうを飼うことを、ルシウスが許してくれるとは思えない。だが、確かにドラコが選んでくれたふくろうは可愛らしかった。まるまるとした身体も、甘えるように嘴をパクパクする所も。

 うずうずして、ふとハリエットはそのふくろうに指を差しだした。あんまりフサフサしているので、ちょっとだけ撫でさせてもらうつもりだった。――のだが。

「い、痛っ!」

 ふくろうは、上機嫌でハリエットの指を思い切り噛んだ。その容赦ない痛みにハリエットは遠慮なく叫び声を上げる。

 それに慌てたのはドラコもだ。慌ててふくろうを引き剥がしにかかり、そして元凶を睨み付ける。

「なんて凶暴なふくろうだ! ハリエット、そいつは止めておけ」
「でも、この子とっても可愛い。きっと甘えたいんだわ」
「どこがだ。威嚇してるだけだろう」

 ドラコは呆れて首を振った。何だって、ただの威嚇攻撃を甘えたいだけなどと捉えることができるのか。一度彼女の思考回路を覗いてみたいものだ。

 だが、相も変わらずハリエットのキラキラとした目は灰色のふくろうに向けられている。ドラコはため息交じりにその檻を掴んだ。

「ふくろうはこの二羽にします」

 レジに二つの檻を置き、ドラコは店員とルシウス両者に向けてそう言った。ハリエットは内心あわあわしながらことの成り行きを見守る。灰色のふくろうは、おそらくハリエットのペットとしてのふくろうだ。それはルシウスも分かっているはず――。

「……良いだろう」

 低い声で、ルシウスは是と口にした。ハリエットは一瞬遅れて勢いよく頭を下げた。

「あっ、ありがとうございます!」

 自分が買われることなど全く分かってない目で、ふくろうはハリエットの方をじっと見つめている。ハリエットはにこにこと手を振り返し、そしてドラコに囁いた。

「ドラコ、ありがとう!」
「買ったのは父上だろう」
「それでもよ! 最高のプレゼントだわ!」

 ペットも購入し、これで全ての入学用品が揃い、一行はウィルトシャーのマルフォイ邸に戻ってきた。あっという間のダイアゴン横丁だったが、それでもハリエットは大満足だった。何しろ、大切な友達が一人増えたのだから!

 夕食後、シャワーを浴びてネグリジェを纏い、ベッドの上でドビーに今日あった出来事を話し――それでも眠たくならなかったので、ドラコの部屋に突撃した。ドラコはベッドの上で今日買ってもらったクィディッチの本を読み耽っている最中だった。

「こんな時間に何の用だ?」
「この子の名前を発表しようと思って!」

 ハリエットもいそいそとドラコのベッドに上がった。そして彼の目の前に置くは、もちろん今日買ってもらった豆ふくろうの檻だ。ハリエットは頬を緩ませながらふくろうを檻から出した。

「なんて名前だと思う?」
「知らない」
「ウィルビーよ。可愛い名前でしょう?」

 ドラコのつれない態度にもめげず、ハリエットは得意げに答えた。対するドラコは、訝しげにジロジロと妹を見た。ハリエットのネーミングセンスが悪いというのは、ドラコも経験上良く知っていた。だからこそ少々意外に思った。そしてその違和感は、つい口から漏れ出る。

「一人で考えたのか?」

 そしてハリエットの方も、つい素直に答える。

「いいえ、ドビーと――あっ、違うわ! もちろん一人で考えたのよ!」

 あわあわと両手を振るハリエットは、どこからどう見ても挙動不審だ。ドラコは内心ため息をつく。

 常日頃、ドラコは妹としもべ妖精との仲が良すぎると思っていた。しもべ妖精は下等な生物だし、下品だし、マナーもない。正直なところ、妹としもべ妖精の関係について、ドラコは良く思っていなかったが、彼女が悲しむ所は見たくなかったので、父親には告げ口せずにいた。

「そ、そんなことより、ドラコはワシミミズクに名前付けたの?」
「いいや」
「じゃあ私がつけましょうか?」
「変な名前になりそうだからいらない」
「そんなことないわ! 可愛い名前をつけてあげる!」
「あいつは雄だ。可愛い名前なんかいらない」
「格好良い名前付けるから!」
「いらないって!」

 ふんと鼻を鳴らし、ドラコは完全に本で顔を隠してしまった。それ以上何度声をかけてもドラコは反応してくれなかったので、ハリエットは仕方なしにウィルビーと戯れていた。だが、動物の癒やし効果は思いのほか強く――ハリエットはいつの間にかそのまま寝入ってしまった。

 そのことにドラコが気づくのは早かった。彼女の猫なで声が小さくなっていくのは丸わかりだったし、パタパタとハリエットの近くを飛び回っていたウィルビーも、いつの間にやら羽を休めて彼女のすぐ側で眠りこけている。

 あまりにも平穏な光景。だが、それとは対照的にドラコは己の緊張の糸が張り詰めていくのを感じていた。

 ちらりと視線を横にずらせば、無防備な寝顔を晒して眠りこけているハリエットが視界に飛び込んでくる。警戒心など欠片もない、ひどく安心しきった幼子のような寝顔だ。無意識のうちにドラコは息を凝らし、そのせいですうすうとしたほんの僅かな寝息がやけに大きく聞こえた。

 半ば強引にハリエットから視線を逸らせば、いつの間にやら手に持っていた本を皺ができるほどに握りしめていた。ハッとし、ドラコは慌ててベッドから降りようとした。起こさないようにしてハリエットを跨ごうとしたとき、ふと、いつの間にベッドがこんなに窮屈になってしまったのだろうと思った。ついこの間までは、ハリエットと一緒になってベッドに上がり込んでも、ゆうゆうと転がれるくらいは大きかったはずなのに、今となってはむしろ窮屈にすら思える。

 自分たちの身体が大きくなっただけならまだいい。だが、ドラコはそうではないことにうっすら気付き始めていた。にもかかわらず、その思考に蓋をし、考えを振り払うようにしてドラコは勢いよくベッドから降り立った。