僕が覚えてる

― 01:君だけが置き去りに ―






 誰一人欠けることなく、八人のポッター作戦は幕を下ろした。計画よりも迅速に隠れ穴についた影響で、ポリジュース薬の効果はまだまだ抜ける気配を見せず、リビングにはあちこちハリーの姿が見られた。おまけに、作戦に参加した人数が多いため、皆はぎゅうぎゅう詰めで計画の成功を祝っていた。特にハグリッドなどは、もはや家の中に居場所はなく、窓から顔を覗かせて庭から談笑する形になった。

 ドラコは、特に誰かと話をするわけでもなく、ハリエットの傍に腰を下ろしていた。言わずもがなシリウスには威嚇されたが、居心地の良いハリエットのすぐ側は離れなかった。

 ドラコの中では、未だ先ほどの戦闘で高ぶった感情が収まりを見せなかった。激しく上下に揺れる視界に、目の前を飛び交う閃光。ハリエットのすぐ側を切り裂き呪文が掠めたときは、息が止まるかと思った。

 もう安全だとは分かっていても、それでもドラコはハリエットの側から離れることができなかった。そしてそれはハリーも同じだ。

 一見すると安らかに見える妹の頬をするりと撫でる。一体どんな夢を見ているのだろう。幸せな夢だと良い。でも、幸せすぎるのもいけない。現実の方が辛いと思うようでは――戻ってきたくないとは思ってほしくない。

 無言のままに男二人が見守る中、ハリエットの睫がふわりと動いた。赤みを帯びた睫は、一本一本が繊細で、長かった。瞼の奥から覗いたハシバミ色の瞳は、キラキラと輝いている。

 眠そうに、一回とろんと瞼が落ちる。だが、生まれたての子鹿が立とうとするように、瞼はもう一度震えながらゆっくり開かれた。すぐにまた眩しそうに目は細められるが、もう瞼が閉じることはなかった。

「ハリエット……」

 何度か瞬きをした後、ハリエットの視線は上がり、ハリーを捉えた。確実に目が合う。

「ハリー……」

 掠れた声でハリエットが兄の名を呼んだ。たったそれだけで、ハリーは震えた。にっこり微笑んだが、上手く笑えた自信はない。

「寝坊だぞ、ハリエット!」

 思わず鼻を啜ったハリーに、ハリエットは不思議そうな顔をした。訝るように目を細め――そして、彼女の瞳は大きく見開かれた。

「だっ、誰……?」
「ハリエット?」

 身体を縮こまらせ、たぐり寄せた毛布で口元まで覆うハリエットは、明らかに怯えた様子だった。急に我に返ったようにキョロキョロ辺りを見回し、更に瞳に恐怖を宿らせる。

「ハリー? どこにいるの? ハリー!」
「ハリエット? 一体どうしたんだい? ハリーならここに――ああ!」

 ハリエットに近づいたロンは、己が未だハリーの姿のままなことを思い出した。自分だけならまあまだしも、ここには『ハリー』が八人もいるのだ。そりゃあ、目が覚めてすぐ目の前に兄が八人もいるのを見て驚かない人はいない。

「ポリジュース薬よ。私達、ハリーに化けてヴォルデモートの裏を掻こうとしたの。結果はまあ……上々って所かしら?」

 ヴォルデモートに作戦決行の日が筒抜けだったのは痛いが、結局の所皆無事なのだ。目覚めたばかりのハリエットを無駄に不安にさせる理由もない。ハーマイオニーは穏やかにそう語りかけた。だが、ハリエットは一層怯えた様子を見せる。

 すぐ傍らには、『ハリー』らしき人が二人、そして少し離れた場所には、一、ニ、三――いや、もっといる。同じ顔の男がたくさんいる。三つ子や四つ子というわけではないだろう。明らかに異常だ。

 その上、ハリエットの周囲には知らない人がたくさんいた。にもかかわらず、双子の兄のハリーも、ダーズリーもいない。この時ほどバーノンの乱暴な悪態を恋しいと思ったことはない。彼であれば、『散れ!! ジロジロ見るんじゃない!』とがなりたてて追い払ったことだろう。

 バーノンが恋しいという異常事態と、あまりの心細さが相まって、ハリエットはついには瞳から大粒の涙を零れさせ、毛布をぎゅっと握りしめた。

 嗚咽を堪え、しくしくと泣き始めたハリエットに、周りは大いに慌てた。シリウスは彼女の傍らに膝をつき、精一杯安心させるような笑みを浮かべた。

「ハリエット……もう大丈夫だ。君はあそこから救出された。君にはもう何人も触れさせない」

 シリウスは優しくハリエットを抱きしめた。だが、すぐに腕の中から弱々しい悲鳴が聞こえて少々ショックを受け、慌てて離れた。

「シリウス、ハリエットは目覚めたばかりなんだ。驚かせちゃ駄目だろう」

 ルーピンの言葉にシリウスはしゅんとし、ハリエットが膝を立てて自分から距離を取るように後ずさったのを見て更に落ち込んだ。

「ハリー……ハリーはどこ?」
「僕はここだよ」

 幼子のように泣きじゃくるハリエットに、ハリーは苦笑して彼女の手を握った。今のハリエットは、まるで幼い頃に戻ってしまったかのようだと思った。確か、ホグワーツ入学前もこんな感じだった。ハリーから離れようとせず、いつも後ろをついて回っていた。とはいえ、ハリーから離れれば、途端にダドリー軍団の餌食になるため、やむを得なかったというのもあるが――。

「止めて……」

 だが、震える声と共に、ハリエットはハリーを手を振り払った。きょとんとしたハリーとハリエットの視線が一瞬交錯したが、すぐに逸らされる。

「ハリーをどこにやったの? あ、あなた達は誰?」
「えっ?」

 その時、ハリエット以外の皆はおそらく全く同じ顔をしていただろう。それほど、ハリエットの質問の意味を一瞬では理解できなかった。

「私を誘拐したって、身代金はもらえないわ。だって、ダーズリーの人たちが私のためにお金を出してくれるとは思えないもの」

 一気に言い終えると、ハリエットはまたしてもキョロキョロ周りを見回した。

「ハリーは無事? ハリーはどこにいるの?」
「なに、言って……ハリーは僕じゃないか」

 ようやく返した言葉は空虚に聞こえた。あまりにも妹が己のことを知らない振りをするので、本当に自分はハリーなのだろうか、と一瞬でも思ってしまったのだ。

「だって、ハリー――」

 ハリエットの瞳が、ハリーの額を捉えた。くしゃくしゃの黒髪の下には、ハリエットもよく見慣れた稲妻の傷があった。間違いなかった。どう見ても、今までずっと傍で見てきた傷跡だ。

 おどおどしながらハリエットは上から下までハリーを眺めた。身長は高い。声も低い。体格もがっしりしている。変なローブを着ている。どこからどう見てもハリエットのよく知るハリーではない。だが、額の傷はそっくりだ。明るい緑の瞳も、丸い眼鏡も、頑固な黒髪さえも。特徴だけで言えば、確かにハリーそのものだった。

「本当に、ハリーなの?」
「当たり前じゃないか」

 すぐに返され、ハリエットは戸惑ったように視線を彷徨わせる。

「だって……だって」

 言おうか言うまいか、ハリエットは迷いあぐねた。今から自分が言うことが、なぜだかとても馬鹿らしいように思えたからだ。

「ハリーはまだ十歳のはずだわ」