■IF

03:冤罪の名付け親
〜もしもピーターを魔法省に引き渡せていたら〜



*アズカバンの囚人『またいつか』後、ダーズリー家にて*


 朝一番に玄関のチャイムが鳴り響き、バーノン・ダーズリーはひどく不機嫌だった。折角の休日に、しかも朝から訪ねてくるなど、どんな輩だ。
 ちらりと厄介な居候――双子を見やれば、ハリーの方は紅茶やコーヒーを注ぎ、ハリエットの方は朝食の準備をしているところだった。バーノンはハリーを小突いた。

「おい、お前。出てこい。変な勧誘だったら追い返せ」
「分かってる」

 ふてぶてしい態度でハリーは居間を出ていった。バーノンはふんと鼻を鳴らし、新聞を広げた。
 至って普通の、穏やかな土曜日だった。バーノンの息子ダドリーは、ソファに寝転がってこの前の誕生日にプレゼンとしたゲームに夢中になっているし、妻ペチュニアは、手紙のチェックをしている。なんて幸せな光景だろうか。忌々しい双子がいなければ、バーノンの目の前に広がる光景は、微笑ましい一般家庭の姿そのものだ。

「おい、朝ご飯はまだかよ」
「もうできるわ」

 ダドリーの不満たらたらな声に、ハリエットが返事をした。そのすぐ後に、彼女はキッチンから姿を現した。手には大きな皿一枚だけだ。

「たったこれだけかよ!」

 皿の上には、グレープフルーツ二個が四半分に切られたものが居住まい悪そうに鎮座していた。バーノン、ペチュニアは、ダドリーには二切れ配られ、ハリーとハリエットは一切れずつだ。ダドリーのやる気を保つために、この方法は生み出された。少なくとも、惨めな双子よりも自分の方がたくさん食べられると思った方が、ダイエットにも身が入るに違いない。子犬がコロコロ太っているのと同じくらいの体格なのだから、ダドリーもすぐに平均的な体重になるだろうとバーノンは楽観視していた。

「さあ、可愛いダドちゃん。そんなこと言わずに。おいしそうでしょう?」

 母親の言葉を右から左へ受け流しながら、ダドリーは隣に腰掛けるハリエットのことをチラチラ見ていた。その視線に気づき、バーノンは苛立たしげにまた鼻を鳴らした。
 可愛い息子のダドリーが、どうやらハリエットを意識しているということは、バーノンも最近気づいた。いつの間にこの女狐はダドリーをすかしたのか、ダドリーは終始ハリエットを気にしている。このところ、ハリエットが見た目にも気を遣うようになったのも大きいだろう。大人しくダドリーのお下がりを着れば良いものを、親の遺産とやらで、ハリエットは身ぎれいな格好をするようになった。おまけに身体も成長し、幼気なダドリーを誘惑するまでになっている。

「ハリーは?」

 ハリエットが尋ねた。赤毛の少女が突然自分を見たので、ダドリーは慌ててそっぽを向いた。

「知らないよ!」
「あいつは一体何してるんだ」

 バーノンが呟くように言った。

「全く、勧誘一つ追い返すこともできないのか――」
「ハリエット!」

 その時、ドタドタと慌ただしくハリーが居間に飛び込んできた。静かな朝食の時間が台無しになり、ペチュニアが殺意の籠もった目でハリーを睨み付けた。

「埃が立つでしょう! 走るんじゃないよ!」
「ハリエット、でも――ハリエット!」

 興奮で上気した顔で、ハリーは何とか妹を立ち上がらせた。

「一体どうしたの?」
「こっちへ来てよ! あの――あのね!」
「小僧! 騒がしいぞ! 勧誘は追っ払ったんだろうな!」
「勧誘じゃないよ!」

 ハリーは怒りながら、しかし瞳をキラキラさせて言い返した。

「あの――ハリエット、とにかく玄関に来て! 直接会った方が良い。僕らの知り合いだ。きっと驚くよ!」
「お前達の知り合いだと?」

 バーノンの顔が一気に歪む。そして徐に立ち上がった。

「どうせろくでもない奴らなんだろう。さっさと追い返せ!」
「そんな! あの人は僕たちの――」

 ハリーは何か言いかけたが、すんでの所で口をつぐんだ。

「とにかく、連れてくる!」
「おい、小僧!」

 怒鳴るようにバーノンが呼んだが、ハリーは立ち止まらなかった。ハリエットは、自分も行った方が良いのか迷いあぐねていた。だが、バーノンの最高に不愉快だという顔に睨まれ、ハリエットは恐る恐る席に着いた。バーノンはこれに少し気をよくし、我が家に突如現れた厄介者を追い出そうと、玄関へ歩き出した、その時――。

「やあ、ハリエット。誕生日おめでとう」

 扉からひょっこり姿を現した背の高い男に、バーノンは文字通り固まった。その男は、バーノンに目もくれず、ずんずん居間に入り込み、ハリエットをゆっくり抱き締めた。

「少し見なかっただけなのに、何だかあっという間に大きくなった気がするな。元気にしていたか?」
「し……シリウス?」

 パクパクと口を開け閉めし、ハリエットが尋ねた。シリウスという男が快活に笑う。

「そうだ。シリウスだ」

 その時、ペチュニアが金切り声を上げた。シリウス――その名に聞き覚えがあったバーノンは、悲鳴に思考が乱されたが、彼女が口にした名が全ての答えだった。

「シリウス・ブラック! 大量殺人鬼! 脱獄囚よ!」
「お前があのシリウス・ブラックか!」

 ペチュニアはダドリーを力一杯抱き締め、バーノンは家族を守ろうと、ライフル銃を構えた。ハリエットとハリーが慌ててシリウスの前に両手を広げて立った。

「止めて! シリウスは僕たちの名付け親なんだ! この前話したでしょ!」
「シリウスは冤罪だったってニュースでも言ってたはずよ! シリウスは悪いことなんて何もしてないわ!」

 そういえば、とバーノンはわずかに銃の先を下ろした。つい一月ほど前、ニュースでもシリウス・ブラックは冤罪だったと大々的に報道されていた。シリウス・ブラックは冤罪で、本当の真犯人は、ピーター・ペティグリューというネズミ顔の小男なのだという。
 そこまで思い出したとき、バーノンはまじまじと目の前の男を見た。確か、一年ほど前テレビで見たときは、頬はこけ、もつれた長い髪はぼうぼうと肘の辺りまで伸びていた。蝋のように蒼白な顔は気味が悪く、初めて見たときは、まるで吸血鬼のようだと思ったものだ。それが、この男はどうだ。
 すっかり血色の良くなった顔に、輝かんばかりの笑みを浮かべている。整えられた黒い髪に、彫りの深い整った顔立ちは、口が裂けても言いたくはないが――ハンサムだった。おまけにハリー達よりもぐんと高いその長身は、彼の魅力を余すことなく発揮している。一体誰がこの生き生きとした瞳を持つ男を、十二年も冤罪で牢に入れられていた男と思うだろう。

「挨拶が遅れてすまない。ハリーとハリエットの後見人の、シリウス・ブラックだ」

 安心させるように双子の肩を叩いた後、シリウスはバーノンの前に進み出た。その際、彼はチラリと銃を見やる。

「この子達の言うとおり、わたしは冤罪だった。良ければ銃を下ろして話ができると有り難い」

 忌々しげに舌打ちし、バーノンは銃を元のところに戻した。ハリーとハリエットが嬉しそうにシリウスを挟むのも気に入らなかった。ここを誰の家だと思っているのか。

「で、こんな朝っぱらから何の用だ。わしらは忙しい。さっさとお暇願えると有り難いのだがね」
「そうよ」

 ペチュニアも小さな声で応戦した。

「私達は朝食の最中だったのよ。それなのに突然来るなんて……」
「朝食?」

 シリウスの視線が、テーブルの上に注がれる。グレープフルーツがポツンと寂しく置かれている光景に、彼は何を思ったのか、哀れみの表情を浮かべた。

「すまない。そんなに家計が苦しいとは思わなかったな。今までハリーとハリエットがお世話になったお礼に、援助をさせてもらおうと考えて、今日はここに――」
「何を勘違いしているのかは知らんが、お前の支援なんかいらん! わしらは物乞いではない!」

 バーノンはすぐに叫んだ。何が嬉しくて、こんな元脱獄囚の施しを受けなければならないのだ!

「だが、その食事は――」
「これはダドリーのダイエットに付き合ってるだけだ! わしらの家庭事情に首を突っ込むな!」

 シリウスは、気遣わしげな視線を双子に送った。

「では、ハリーとハリエットもそのダイエットに付き合っていると?」
「当たり前だ。ダドリーが辛い思いをしながらダイエットしているのに、そいつらだけ普通に食べさせるわけにはいかん!」
「この子達は成長期だ。お宅の……ダドリーにダイエットさせるかどうかは好きにすれば良いが、二人にまで付き合わせるのは止めてくれ。この子達はむしろ平均よりも痩せすぎてるくらいだ」
「何の権限があってわしらの事情に首を突っ込むんだ! 援助なんかいらん! さっさと出て行け!」

 バーノンは唾を飛ばしながら玄関を指さした。だが、ここで引き下がるシリウスではない。

「わたしはこの子達の後見人だ! 不当に扱われているのを黙って見ているわけにはいかない!」
「不当! 厄介者をわざわざうちに住まわせてやってるのに、不当だと!?」
「不当だろう! 今日はこの子達の誕生日なんだぞ! どうしてグレープフルーツ一切れが誕生日の朝食だと思えるんだ!」

 シリウスは双子の肩に手を乗せ、歯をむき出しにして怒った。

「それに、この子達から全て聞いたぞ! 今までお前達がどんな仕打ちをしてきたか!」

 シリウスの怒鳴り声に、バーノンは怯んだ。冤罪だったという話だが、今の彼の迫力は、まさに大量殺人鬼さながらの迫力だった。

「ジェームズとリリーの忘れ形見になんて仕打ちだ! 十一歳になるまで階段下の物置部屋に寝泊まりさせて、少しでも気に触ると食事抜きも当たり前らしいな? おまけにお宅の乱暴者がこの子達に暴力を振るうことも日常茶飯事だと!」
「シリウス……」

 ハリエットが遠慮がちにシリウスの腕を引いた。自分たちのためにシリウスが怒ってくれるのは嬉しいが、ここで問題が起こって、シリウスと離ればなれになる方が嫌だった。

「十七歳になるまで、この子達はこの家にいなければならないから下手に出ようと思っていたが、もう我慢ならない! この子達はわたしが引き取る!」
「――っ」

 期待を込めた目で、双子がシリウスを見上げた。シリウスは悪戯っぽい笑顔で双子の頭をくしゃくしゃ撫でた。

「さあ、もうこんな所はお暇しないとな。荷物を持っておいで」
「うん!」

 双子は喜々として駆け出した。バーノンはそんな二人を口をパクパクさせて見る。

「なっ――なっ、お前!」
「まだ何かあるのか? わたしも言い足りないから、受けて立つが」

 ふてぶてしいシリウスの態度に、バーノンは顔を真っ赤にした。彼に指を突きつけながら、勢いよくまくし立てる。

「だからあんな奴らを引き取るのは嫌だったんだ。後見人のお前も碌な奴じゃない。突然うちに来て、突然あいつらを引き取るだと? ああ、結構! さっさと連れて行け! あんな奴ら、もう顔も見たくない!」
「妻とあの子達は、仮にも血が繋がっているというのに、散々な言いようだな」

 シリウスは冷静に返した。ペチュニアが髪の毛を逆立てて怒鳴った。

「血が繋がってるから何だと言うのよ! 忌々しい! 私は魔法が大っ嫌いなの! リリーもそうよ! 気味悪い魔法なんか使って、勝手におっ死んで、その上双子なんか押しつけてきて、こっちは大迷惑なのよ!」

 シリウスは不意にペチュニアを見た。その瞳には、悲しげな光が宿っていた。

「突然赤子二人の面倒を見ろと言われて、困惑したのは分かる。だが、それでもこんな仕打ちはないだろう? ダドリーとの待遇に差をつけられ、誕生日もろくに祝われず、怒鳴られる毎日……。そんな暮らしを十四年間もしてきたのかと思うと、わたしは心が痛い」

 双子が二階から降りてきた。二人ともたっぷり荷物の詰まったトランク一つと、ふくろうの檻を抱えていた。仮にも十四年間過ごしてきた家を離れるというのに、二人には欠片も寂しさや名残惜しさがなかった。

「折角皆でハリーとハリエットの誕生日を祝おうと、特大のバースデー・ケーキを用意したんだがなあ!」

 この家でのハリーとハリエットの待遇を思うと、シリウスはやりきれない怒りに駆られた。だが、二人の誕生日にそんな感情はふさわしくない。シリウスは無理矢理笑顔を浮かべた。

「もちろん誕生日プレゼントも用意したからな! 楽しみにしていてくれ!」

 みるみるパアッと嬉しそうな笑みが顔中に広がるハリーとハリエット。そんな二人が可愛くて仕方がなくて、シリウスはぎゅうっとまた二人まとめて抱き締めた。

「ようし、じゃあ行こうか。まだ誕生日は始まったばかりだからな。君たちの行きたいところに行こう。どこがいい?」
「遊園地!」

 双子の声が揃った。双子は顔を見合わせて気恥ずかしそうに笑う。

「遊園地? どこだ、そこは? マグルの観光地か?」
「うん。とっても楽しいところなんだ。僕たち、一度も行ったことがなくて……」
「ジェットコースターって言って、空を飛ぶ機械があるのよ。すっごく迫力満点なんだって」
「空を飛びたいなら、箒で良いんじゃないか?」
「箒とジェットコースターは違うの!」

 マグルの知識に疎いシリウスがとんちんかんなことを言うのがおかしくて、双子はクスクス笑った。そして思い出したように振り返る。

「さようなら、おじさん、おばさん!」
「今までありがとうございました! ダドリーも、じゃあね!」

 軽く手を振った後は、もう彼らのことなんかすっかり頭の中から消え去った。今は隣にいるシリウスと、誕生日をどう過ごそうかということしか考えられなかった。

「海にも行きたいわ。泳ぎたいの!」
「もちろんいいぞ。海なんて、姿くらましでひとっ飛びだ!」
「あ、でも、その前に朝ご飯が食べたいな……」
「もちろんだとも。どこか食事ができるところに入ろう。何でも好きなものを食べても良いが、ケーキは駄目だぞ。家で特大のが待ってるからな」

 まるで家族のように仲良く肩を並べ、シリウスと双子は家を出ていった。
 『塩を持って来い!』とペチュニアに叫びながら、バーノンはいつかテレビで見た東洋の厄払いを試そうと玄関に出た。三人はまだ庭先にいた。だが、バシッという音を立てて、彼らはバーノンの前から姿を消した。まるで始めからそこに誰もいなかったかのような、あっという間の出来事だった。

 ――その後、この騒動はダンブルドアにも話がいき、結局夏季休暇中は、ハリーとハリエットはダーズリーの家に帰らなければならないということになった。シリウスは随分とこれに憤慨していたが、双子を守るためなので、渋々これを了承した。代わりに、毎年双子の誕生日にはダーズリー家を去り、夏休み後半からはグリモールド・プレイス十二番地という、ブラック家の屋敷に滞在することを許された。
 待ち望んでいた最良の形ではなかったが、しかし、やはりシリウスと暮らせるという目の前の幸福に目が眩み、双子はダーズリー家のことなんかどうでも良くなった。なんといっても、誕生日をシリウスと共に過ごせるのだ! こんなに嬉しいことはない!
 夏休みもクリスマス休暇もイースター休暇も、双子はいつもシリウスと過ごした。シリウスと一緒に海外へ旅行に行き、ダイアゴン横丁に買い物に行き、マグル界に遊びに出掛け……。
 十四年間ずっと愛情不足で育ってきた双子は、それを取り戻す勢いで、シリウスに可愛がられた。シリウスもまた、十二年間何の楽しみもないアズカバンで、むしろ己の幸福を全て吸い取られ、空っぽになってしまった所に、双子との楽しい思い出が徐々に増えていった。そうするうちに、自分もかつて幸福だったのだと、忘れたと思っていた幸せな青春時代を思い出した。
 亡き親友夫婦の忘れ形見の眩しい笑顔に、シリウスは救われたのだ。ハリーとハリエットもまた、亡き両親の一生埋められないと思っていた穴に、シリウスが悪戯っぽい笑顔と共に飛び込んできてくれた。
 ハリーもハリエットもシリウスも、皆幸せだった。ヴォルデモートといういつまでも影のようについてくる不安要素はあったが、それを一緒に乗り越えられると思えるくらいには、互いのことが大切で、大好きだった。