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07:煎じ役交代
〜もしもハリエットの薬係が別の人だったら〜



*死の秘宝『ダーズリー家』、ダーズリー家にて*


〜ハーマイオニーの場合〜


「一応手土産は持ってきたけど、どうかしら」

 プリベット通り四番地の前で、ハーマイオニーはドキドキと早鐘を打つ胸に手を当てた。

 ハリーやハリエットから、ダーズリー一家がなかなかの癖をもつという話は聞いていた。中でも一番驚いたのが、十一歳になるまで、二人を階段下の物置に住まわせていたという事実だ。いくら本当の娘、息子じゃないからといって、そんな待遇をさせていたなんて信じられなかった。

 だからこそ、ハーマイオニーは今日、そのダーズリー一家と顔を合わせ、それどころか一緒に住むという事態に緊張してならなかった。だが、どんな理不尽なことを言われようと、堪えるつもりだった。ハーマイオニーにとって、ハリエットは大切な親友だ。彼女の薬を煎じるため、そして彼女を安全な場所に置くためには、ダーズリー一家の協力が必要だった。

 チャイムを鳴らすと、軽快な足音を鳴らして、すぐにハリーが出てきた。少しだけやつれている。

「やあ、ハーマイオニー。来てくれてありがとう」
「気にしないで。ハリエットは?」
「上で寝てる。一応君のことも話したんだけど、いまいちまだ納得がいかないようで……」

 後半は、ダーズリー一家に向けての言葉だとハーマイオニーは理解していた。ハーマイオニーは笑顔で頷く。

「失礼するわね」
「うん」

 ハリーの後に続いて、ハーマイオニーは豊かな栗毛を揺らしてダーズリー家の居間に入った。居間には、でっぷりと太った男が一人と、その息子とみられる、大柄な少年、そして神経質そうな顔をした女性がいた。

 ハーマイオニーを見て早々、三人は揃って顔を顰めた。

「初めまして、ミスター・ダーズリー、ミセス・ダーズリー」

 明らかに歓迎されていないこの雰囲気にもめげず、ハーマイオニーは明るく言った。

「ハーマイオニー・グレンジャーです。ハリーとハリエットの友達です」

 そして彼女は三人の前に進み出る。

「こちら、つまらないものですが、良かったら」

 ハーマイオニーはケーキと見られる白い箱を差しだした。ペチュニアは眉を寄せるだけで動きもしなかったが、ダドリーは目を輝かせて、ケーキの箱を奪った。

「それで? この小娘が我が家に住み着くと?」

 バーノンが忌々しげに鼻を鳴らした。ハリーは疲れたように頷く。もう幾度と繰り返されたやりとりだった。

「ハリエットのために薬を煎じる必要があるんだ。ハーマイオニーが手伝ってくれる」
「わざわざ薬を煎じないといけないなんて、一体どんな悪質な病気なのよ。ダッドちゃんに移らないでしょうね?」
「ご安心ください」

 怒りに顔を歪めているハリーの代わりに、ハーマイオニーが答えた。

「ハリエットは昏睡状態のようなものなんです。ただ、身体を正常に保つためには、栄養や薬も必要で……。私は薬を煎じるのが得意なので、そのお手伝いに今日こちらに伺いました。一月の間、どうかダーズリー家に住まわせていただけませんか? もちろん、ご厄介になるんですから、お手伝いもします」
「病院に連れて行けばいいだろう! わざわざわしらの家で世話する必要もない」
「ハリエットとハリーは安全な場所にいる必要があるんです。二人にとっては、ここが世界で一番安全な場所なんです。ダンブルドア先生からお聞きしたかもしれませんが、ハリー達が十七歳になるまでの一月、どうかお願いします」

 ハーマイオニーは深く頭を下げた。ハリーとはずっと直情的にやりとりしていたため、半ばハーマイオニーのような理性的な少女とやり合うのは、バーノンにとっては拍子抜けの出来事だった。

 どうもやりにくい、とバーノンは顔を歪めた。

「――この家であの棒っ切れを使って一つでも変なことをしてみろ。すぐに追い出すからな」
「ありがとうございます、ミスター・ダーズリー」

 ハーマイオニーはにっこり笑った。その顔が気に食わず、バーノンは唇の端を歪めた。

「二人っきりになったからといって、部屋で良からぬことはするなよ」
「おじさん!」

 ハリーが怒鳴った。ハーマイオニーはパッと彼を制する。

「ご安心ください。同じ部屋にハリエットがいますし、それに、私たちはただの友達です。とっても大切な」

 トランクを抱え、ハーマイオニーは二階へ上がった。そしてすぐに隅でトランクを広げ、中から薬を煎じるために必要な道具を取り出す。

「想像以上ね、あの人達。ああ、ハリー、ちょっと掃除しておいてくれる? 埃がたったら薬の成分が変化しちゃうわ。――んもう、私ったら、もう少し予備のライターを持ってくるんだった。ここでは魔法が使えないのをすっかり忘れていたわ」
「薬のためなら魔法を使っても良いって、キングズリーが掛け合ってくれたっていう話だよ」

 ハーマイオニーに言われたとおり、ハリーは隅々まで掃除を始めた。ハーマイオニーがパッと喜色を浮かべた。

「良かった! ハリエットの身体を拭くために、いちいちあなたには外に出ておいてもらわないといけないもの」

 ハーマイオニーは軽く杖を振って、ハリエットの身体を清めた。ハリーは少し羨ましそうにその光景を眺めた。ハリーはまだ未成年なので、簡単な魔法すら使えないのだ。

「ハリエットのためにとっておきの薬を作らなくっちゃ。私、図書室でいろんな本を借りてきたの。材料もたくさん揃えたし……準備はできたわ」

 ハーマイオニーの周りには、鍋やクリスタルの瓶だけでなく、ライターやおたま、包丁、トング、ザルなどがずらりと並んでいた。

 どうやらハーマイオニーは、薬を煎じるために、便利なマグル用品もふんだんに活用する気満々らしい。ハリーももっともだと思った。ヒナギクの根やアスフォデルの球根を刻むのには、包丁が一番手っ取り早いし正確なのだ。

 ハーマイオニーは非常にテキパキと薬を煎じた。側で見ていたハリーには何が何だか分からないが、とにかくハーマイオニーの技術には目を見張る者があった。魔法とマグル用品をうまく掛け合わせて煎じている。その工程を眺めていると、うまく魔法使いとマグルが共存できればなあと思った。

 ハーマイオニーが薬を煎じきる前に、ハリーはペチュニアから呼ばれた。早速言いつける仕事ができたらしい。ため息交じりに階段を降りていく。

 炎天下での草むしりを終えた後、ハリーはもうヘトヘトだった。だが、ようやく夕食かと思ってテーブルに着けば、山盛りのチキンは全てダドリーのためのもので、ハリーとハーマイオニーにはこれっぽっちの夕食しか用意されていなかった。当然、ハリエットの分など最初からない。

 ハリーは、ハリエットのためにスープを作りたいと、ペチュニアに直談判する気満々だったが、ハーマイオニーがそれを止めた。

 ハリーはこれに不満げだったが、二階に戻ってきて、ハーマイオニーが次々取りだした物を見て納得した。

「私、これでも料理できるのよ。あんまり得意じゃないけど、スープくらいだったら作れるわ」

 ハーマイオニーは清潔な鍋や新鮮な野菜、コンソメなどを取りだした。

「うわお、僕、そんなところまで気が回らなかったよ。これでも十五年くらいここで暮らしてるのに……」

 ハーマイオニーは微笑んだ。

「いろいろと食料も持ってきたわ。ほら、このリュックの中。勝手に食べて良いわ」
「本当にありがとう、ハーマイオニー!」

 ハリーは喜んでリュックをゴソゴソした。魔法界のお菓子だけでなく、マグル界の食料やパン、果物が盛りだくさんだった。ハーマイオニーの用意周到さにハリーは改めて感心した。

 ハーマイオニーのおかげで、ハリーは例年よりダーズリー家が過ごしやすく感じた。だが、決してその暮らしぶりが良いという訳ではなかった。

 ハリーは相変わらず容赦なくくだらない用事を言いつけられるし、それどころか、ペチュニア達は、なんとハーマイオニーにまで用事を言いつけようとするのだ。確かに彼らにしてみれば居候という観点になるかもしれないが、ハーマイオニーは客観的に見れば客という立ち位置になるはずだ。

 ハリーは当然庇ったが、ハーマイオニーはそれを断り、進んで手伝いをすると申し出た。ハリエットの薬を煎じる以外は割合暇だったし、それでペチュニアの機嫌が良くなることはないにしても、悪くならないだけマシである。

 だが、この時の選択をハーマイオニーは後に後悔することとなる。ペチュニアは客にも容赦がなかった。ハーマイオニーはマグル界で育ったので、皿洗いも洗濯も掃除も抵抗はなかったが、もしもマッド-アイの言うとおり、薬の煎じ薬がマルフォイのままだったらどうなっていたかしら、とハーマイオニーはおかしく思った。あの生粋の純血貴族がマグル式の皿洗いなんて、想像だにできない。きっと途中で投げ出し、『僕に命令するつもりか!? 誰がしもべ妖精みたいなことをするもんか!』とぷんぷんして家を出て行くに違いない。

 ダーズリー家で暮らし始めた当初は、まだこんな感じでハーマイオニーにも余裕があったが、ダーズリー家を離れる日が近くなってくると、次第に愚痴もひどくなってきた。

「こんなの奴隷労働よ!」

 夜、ペチュニアに肩まで揉ませられたハーマイオニーは、苛立たしげに床にタオルを投げつけた。

「ああ、ハリー、ごめんなさい。私ったら、まず身近なところから目を向けるべきだったわ。しもべ妖精もより先に、あなた達の待遇改善運動をしなければならなかった!」

 忙しさのあまり、ハーマイオニーは少し頭が混乱していた。

 そのうち『ポッター家双子を助けよう!』バッジでも作り始めるんじゃないかとハリーは遠い目になった。


*****



〜ロンの場合〜


「ハリー? ハリー!! 僕、来たよ!」

 昼を少し過ぎた頃、玄関からロンの怒鳴り声が聞こえてきて、ハリーとダーズリー家は度肝を抜かした。バーノンはギロリとハリーを見て、無言で早く行ってこいと命令した。ハリーは目にも止まらぬ速さで玄関へ向かった。

 ガチャリと玄関を開けると、大きなトランクを持った赤毛の青年がニカッと笑った。人好きのする笑みに、ハリーは少しホッとしたが、すぐに苦笑に変わった。

「ロン……言っただろ? チャイムを鳴らしてくれないと。大声で呼んだら、近所に聞こえちゃうから……」
「チャイム? ああ、そういえばそんなことも言ってたね。だって、何だかごちゃごちゃしててよく分からなくてさ。聞いてよ、僕、ここまで一人で来たんだよ。パパも一緒に来たがったけど、生憎仕事があったからね」

 ロンは得意げに胸を反らした。ハリーは笑みを深めた。

「とにかく、上がって。気をつけてね。あの人達、本当に良い性格してるし、少しでも魔法っぽいことを言ったら怒り出すから――」
「大丈夫だって! こう見えて僕、マグル製品不正使用取締局局長の息子なんだから――あ、そういえば今は違った」

 だから心配なんじゃないか、とはさすがのハリーも言えなかった。ハリエットがあんな状態の今、猫の手でも借りたいくらいの心境なのだから。

 ロンが意気揚々と居間まで入ると、ジロリと三つの視線がロンに向けられた。ロンは家を出る直前まで母にガミガミと言われた挨拶を思い出した。

「こんにちは! 僕、ロン・ウィーズリーです! ハリー達の友達の! 一ヶ月間お世話になります!」
「お世話するなんて誰も許可してないぞ」

 バーノンはジロジロとロンを上から下までなめるように見た。一目で気にくわないと思った。彼の格好は――まともでなかった。色の組み合わせも変だし、何だかゴワゴワした質の何かを着ている。

「あれ? ハリー、僕のこと話してたんじゃなかったの?」
「話したんだけど、いろいろあってね」

 ハリーは言葉を濁した。結局、ロンが来るまで、バーノン達をうんと言わせることができなかったのだ。こうなれは、強行突破しかない。

「お前の名前……どこかで聞いたことあるな」

 しかし、不穏なことに、バーノンはそんなことを言い出した。ハリーはギクリと身を縮こまらせる。ロンは、一度ダーズリー家に電話してきたことがあった。だが、彼は生憎と電話の使い方を知らなかったので、電話に出たバーノンに辺りに響き渡るくらいの声量で話しかけたのだ。

 どうか忘れていますように、とハリーは祈ったが、皮肉なことに、バーノンの記憶力はすこぶる良かった。

「思い出したぞ! お前、いつだったか、わしの家に大声で電話してきた奴だろう!」
「あ、覚えててくれたんですか?」

 ロンは素直ににっこり笑った。あの電話のおかげで、ハリー達がどんな目に遭ったかすっかり忘れているらしい。

「こんな非常識な奴を誰がうちに住まわせるか! 出て行け!」
「おじさん! 何度も言ったでしょう! ハリエットの薬のためには、ロンが必要なんだよ!」
「こんな奴が薬なんか煎じられるのか!?」

 ハリーはうっと詰まった。正直なところ、彼もそこが心配だった。だが、お世辞にもハリーだって魔法薬学の成績は良いとは言えない。

 とはいえ、今までだって、ロンと力を合わせて越えてきた壁はいくつもあった。今回だって、ハリエットのために、きっとやり遂げてみせる!

「ハリエットは僕の友達でもあるんだ! 友達の危機に、じっとなんかしてられない! 一ヶ月間、よろしくお願いします!」

 ロンも珍しく真剣だった。

 ヘラヘラしていたと思ったら、急に真剣な顔になるので、バーノンは気圧された。その隙に、ハリーはいそいそと自室にロンを連れて行った。

「うわあ、埃っぽい! ここに三人住むの?」
「しばらく掃除してないからね。君が来るまでに掃除しようと思っていたんだけど、そんな暇がなくて」

 慌ただしくハリーは掃除をし始めた。ロンは、ベッドで寝ているハリエットを覗き込んだ後、のんびりトランクの整理を始めた。

「早速薬作る? 僕、フレッド達からいろいろもらってきたよ」

 ロンはまず、キングズリー経由で癒者から渡された材料や道具を床に並べ始めた。続いて、フレッド達から託された、薬を煎じるのに使えそうな道具を出していく。ちらりとその様子を見て、ハリーは内心呆れた。クソ爆弾や噛みつきフリスビーが、薬を煎じる工程で、一体いつ必要になるというのだろうか。ダドリー対策にはなるかもしれないが、その時にはきっと三人ともダーズリー家を追い出されてしまうだろう。

 掃除が終わると、ハリーとロンは、一緒になって煎じ薬の作り方が書かれている羊皮紙を覗き込んだ。――とてつもなく複雑な工程だった。二人は揃って顔を引きつらせた。

 とりあえずと作り始めたが、何をするにしても、てんやわんやの大騒ぎだった。やれ細かく切りすぎだの、入れるタイミングを間違えただの、色が緑っぽくならないだの……。

 主となって薬を作るのはハリーだったが、鍋をかき混ぜながら彼は、ゼロとゼロを足しても一にはならないというムーディの言葉を思い出した。

 残念ながら、それは事実だった。それどころか、ロンは、実を言うと、ゼロどころかマイナスだった。はっきり言って足手まといなのだ。材料を切っている間、羊皮紙の手順を口頭で伝えて欲しいと言ってもしょっちゅう間違えるし、煎じている間あれやこれやと口を出してきて、手順を間違えるのは幾度とあり……。

 ようやくと出来上がった薬は、羊皮紙に書かれているような薄い緑色ではなく、どす黒い沼のような色だった。

 さすがに――さすがにこんなものをハリエットに一番に飲ませる訳にはいかず、ハリーは決死の思いで毒味をした。一口飲んだだけで、すぐさま吐き出してしまいそうになるくらいの不味さである。何度もえずきながら、ようやく飲み込む。

 しばらく経ってみても、影響はなかった。ロンは明らかにホッとしたような顔をした。

「良かった。こんな所で倒れても、すぐに癒者に診せられないからね。僕、殺人犯にならなくて良かったよ」

 ロンは、薬をハリエットに飲ませるよう促した。ハリーは気が進まなかった。本当にこれは薬なんだろうか? ただの苦い泥じゃなくて?

 だが、材料も時間も無限にある訳じゃない。すでに階下からは、早く手伝いに来いと甲高く叫ぶペチュニアの声が響いていた。

 ハリーは、恐る恐るスプーンで泥のような薬を掬い、ハリエットの口から流し込んだ。こくり、と彼女の喉が動き、ハリーは少しホッとした。

 それから何回にも分けて、ハリエットに薬を飲ませた。心なしかハリエットの顔が苦渋に満ちているのを見て、ハリーはごめんと心の中で謝った。

 そんな兄に対し、ロンは至って楽観的である。

「でも、案外これで目を覚ましたりして。ほら、不味すぎて」

 ハリーはギロリとロンを睨んだ。そうなってくれたら非常に嬉しいが、今のこの行為は、正直ただただハリエットの体力を奪っているようにしか思えなかった。

 それから約一月、ハリー達のダーズリー家滞在の日々が流れたが、例年より散々だとハリーは思わないでもなかった。

 ペチュニアからまるでしもべ妖精のようにこき使われるのを、ロンはぐちぐちと毎晩愚痴ったし、ダドリーから殴ったり蹴られたりするのには、三日で堪忍袋の緒が切れた。しゃっくり飴を食べさせたり、ハグリッドの手製のロックケーキでさりげなく仕返しをするくらいならまだ良かった。だが、クソ爆弾や噛みつきフリスビーで大々的に復讐するのはいただけなかった。

 ハリーとロンはすぐさま部屋に閉じ込められた。おまけに、一週間に一度ハリエットの様子を見にやってくる癒者にも盛大に怒られた。

「一体何を飲ませたんです! 体調が悪化していますよ! あなた達本当にホグワーツの六年生ですか!」

 これにはさすがのロンもしょんぼりした。もちろんハリーもだ。その癒者に手取り足取り薬を煎じ方を教えてもらって、ようやく人並みくらいのレベルを煎じられるようになった。

 マッド-アイ達が来る少し前、一度だけハリエットは目を覚ましたが、ハリーとロン、そして今まさに飲ませようとしていた薬を見て、ハリエットが一筋の涙を流したのは、三人だけの胸の中にしまった。


*****



〜シリウスの場合〜


「ワンッ!」

 真っ黒い大きな犬は、プリベット通り四番地の前で、大きく吠えた。熊ほどもあるガタイの犬が、家の敷地の、しかも玄関のすぐ前に居座っている様は、なかなかの恐怖を感じる光景だが、しかし、長くフサフサの尻尾は、嬉しそうに左右に大きく振れている。吠え声も、心なしか歓喜に満ちあふれているように聞こえた。となれば、丁度そのタイミングでプリベット通り四番地を通りかかった人々は、もしかしてあの家の飼い犬だろうかとか、よっぽどご主人様に会えて嬉しいのねとか、微笑ましく見守るばかりだ。

 現に、家から慌ただしく飛び出してきたくしゃくしゃの黒髪の少年は、とても嬉しそうに顔を綻ばせている。

 ああ、やっぱり飼い犬だったのかと皆はにっこり微笑んだ。少年は犬をわしゃわしゃと撫でた後、家の中に引き入れた。

「シリウス!」

 玄関を閉めると、ハリーは大きく叫んでスナッフルに抱きついた。たった数日シリウスと会わなかっただけだが、ハリーは懐かしく、そして同時にとても嬉しく思った。ハリエットがずっと昏睡状態なので、ハリーは心細くてならなかったのだ。魔法省から追われる身であるにもかかわらず、魔法省から干渉を受けているハリーのところに、堂々とシリウスが来るという計画は、ハリーもあまり乗り気ではなかった。だが、学生時代ジェームズに次いで次席だというその頭脳や、後見人という安心感は、ハリーが喉から手が出るほど欲していたものだった。結局、ハリエットを助けるためだと鼻息荒くしたシリウスに押し切られる形で、彼がハリエットの煎じ薬を担当することになったのだ。

「小僧っ! なに野良犬なんか引き入れてる! さっさと外に出せ!」

 ハリエットとシリウスの微笑ましい再会も、バーノンのダミ声で終わりを告げられた。ハリーはスナッフルに手を置いて、立ち上がった。

「おじさん、言ったでしょ? ハリエットの薬を煎じてくれる人が到着したんだ。シリウスだよ」
「なに戯けたことを言ってる! 犬が薬を煎じるだなんて、そんな馬鹿なこと――」

 バーノンは最後まで言えなかった。己の目の前で、みるみる犬が人間へと変化していったからだ。瞬きは決してしていなかったはずなのに、いつの間にか先ほどの黒犬がいた場所には、黒髪の、背の高いハンサムな男が立っていた。

「ハリー、ハリエットの後見人のシリウス・ブラックだ。一月世話になる」
「――っ」

 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだろう。

 犬が人間になった。

 その人間はシリウス・ブラックだった。

 シリウス・ブラックは脱獄囚である。

 ピピピッとバーノンの頭の中でその結論が出されたとき、彼は唸り声にも似た声を喉の奥から出した。そして普段の姿からは想像もつかないほどの敏捷さで居間に飛び込み、そして駆け戻ってきたかと思えば、彼の手にはライフル銃があった。

「ペチュニア! ダッドや! 絶対に玄関に来るんじゃないぞ!」

 一家の長として、バーノンは脱獄囚と差し違えてもここから先には進ませないつもりだった。精一杯顔を厳つくしながら脱獄囚を威嚇する。だが、どういうことだか相手はのほほんとしていた。

「ハリー、何も説明していないのか?」
「すっかり忘れてたよ。昨日来たばかりだし。一応人が来るってことは言ってたんだけど、そういえばシリウスは脱獄囚だったね」
「ははは、全く、そういうところはジェームズにそっくりだな」

 爽やかに笑い合う脱獄囚と居候。バーノンはわなわなと震えだした。

「わしを無視して話をするな!」

 そしてついに爆発したと思ったら、彼は赤ら顔をもっと赤くしていた。

「警察に通報する!」

 そう言うと、ようやく二人の視線はバーノンに向けられた。

「さもなくば出て行け! ここはわしらの家だ! 小僧、お前がその殺人鬼と仲良くするのは勝手だが、そんなのは外でやれ! わしの家に厄介ごとを持ち込むな!」
「おじさん、昨日も言ったじゃないか。ハリエットのためにも、どうしてもシリウスの力が必要なんだ。シリウスはおじさん達を傷つけようなんて意志はない。ただ一月の間一緒に住まわせて欲しいんだ」
「こんな脱獄囚と一緒に住めだと!? 気でも狂ったか!? ペチュニア! 警察を呼べ! 家に脱獄囚がいるとな!」
「警察?」

 シリウスは不思議そうな顔でハリーを見た。

「闇祓いみたいなものだよ」
「死喰い人と一緒にされるのは複雑だな」

 小さく嘆息すると、シリウスはバーノンに向き直った。

「呼びたいなら呼べば良い。だが、わたしは魔法使いだ。その警察とやらがここに到着する前にわたしはすぐに逃げ出すことができるし、もしそうなったら、お前達は近所になんて言われるだろうな?」

 シリウスは脅迫するような、からかうような奇妙な顔をした。

「脱獄囚が家にいる、なんて妄言を吐いた男とその家族。まず頭を心配されるだろう。挙げ句の果てには、『まともじゃない』と思われるかもな……」

 バーノンはヒュッと息をのんだ。

 対するハリーは、バーノンからは見えないところでニヤニヤした。

 ダーズリー家を説得するため、ハリーからあらかじめシリウスにバーノン攻略のいろはを叩き込んでいた。シリウスはハリーの期待以上の働きだった。顔が整っているからこそ、シリウスは迫力満点なのだ。

「だ、だが、お前は殺人鬼だ! いつペチュニア達に手を上げるかわからん! 小僧! こいつを連れて出て行くんだ!」
「そもそも、わたしは――」
「おじさんは怖いんだ」

 ハリーは小さく呟いた。もうその顔に、先ほどまでの楽しそうな笑みはない。それどころか、少し悲しそうな表情ですらあった。

「シリウスじゃなくて、僕が怖いんだ」
「馬鹿言うな! どうしてわしがお前なんか――」
「僕がシリウスに頼んで、おじさん達を殺そうとしてるって考えてるんでしょ」

 久しぶりにハリーとバーノンの目が合った。底知れない緑色に、バーノンは一瞬溺れそうになった。

「僕がおじさん達を恨んでるって思ってるんだ。だからそんな考えになるんだよ。でも、そう思うくらいには、僕たちにひどいことをしてきたって自覚はあるんだね?」
「いい加減にしろ! 黙らんか!」
「ねえ」

 ハリーの声は静かだ。にもかかわらず、バーノンは気圧されたように押し黙った。

「もし少しでも僕たちに悪いって気持ちがあるんなら、あと一月だけ僕たちをここに置いてよ。もちろんシリウスも。僕が十七歳になったら、もう絶対にここには帰ってこないし、念願の家族水入らずが味わえるよ。あと一月なんだ」

 バーノンは、顔を赤くしたり青くしたり、ひどく忙しそうだった。そのせいで、銃を持つ手は下に下がっていた。ハリーは歩き出し、バーノンの横を通り過ぎた。すれ違い様、呟くように言う。

「シリウスは冤罪だよ。誰も殺してない。だからおじさんは怖がらなくて良いんだ」

 少しでもストレスを感じないよう、ハリーは言ったが、どうせ信じてくれないだろうことは分かっていた。バーノンはいつだってハリー達のことを嘘つきだと決めてかかる。

 ハリーの後に続いて、シリウスが居間に入ると、ペチュニアとダドリーが腰を抜かした。脱獄囚だの、警察を呼ぶだの、物々しいやりとりは居間にまで聞こえていたのだ。

「ひっ……!」
「シリウス・ブラック!!」
「シリウスは冤罪だよ。誰も殺してない」

 ハリーは同じ文句を繰り返したが、二人の耳にちゃんと届いたかどうかは分からない。ハリーは二人に説明するのを諦めて、二階へ上がった。

「ここが僕たちの部屋だよ」

 昨日は、帰ってきて早々ペチュニアから庭の草むしりを言いつかっていたので、ろくに掃除ができておらず、一年間溜まりに溜まった埃だらけの部屋だった。シーツもかび臭かったので、今は剥がし、ハリエットはむき出しの薄いマットレスの上に横たえられていた。シリウスはすぐに顔を顰めた。

「こんな部屋で二人は寝泊まりをしていたのか?」
「うん。慣れれば結構居心地良いけどね」

 ハリーは、物置部屋のことは言わなかった。十一歳まで階段下なんかで寝ていたことを伝えれば、ダーズリー家とシリウスはいよいよ修復不可能になると思えたからだ。ハリーは別にそれでも構わないが、十七歳になれば、いずれ永遠に彼らとは会わなくなる。それを思うと、わざわざ喧嘩をふっかけるようなことをしなくてもいいと思うようになっていた。成人を目前にして、ハリーも大人になったのだ。

「だからといって、こんな埃っぽい部屋に……。それに、いくら兄妹とはいえ、君たちは異性だ。同じ部屋で暮らさせるなんて……」
「いいんだ。不便なときもあったけど、辛いときはいつもハリエットと分かち合うことができたから」
「…………」

 ハリーは肩をすくめ、掃除を始めた。脱獄囚に恐れをなしたのか、その日ペチュニアは一切ハリーに仕事を言いつけようとはしなかった。おかげで部屋は隅々まで綺麗になったし、シリウスも集中して煎じ薬の調合に取り組むことができた。

 シリウスの調合の腕前はさすがだった。ハリーが見てもさっぱり分からない手順を流れるようにこなし、綺麗な薄い緑色の薬を完成させた。

 ハリエットに薬を飲ませた後、丁度夕食の声がかかった。ハリーを呼ぶペチュニアの声が、心なしか震えているのは気のせいではないだろう。

 ハリーとシリウスが連れ立って居間へ降りていくと、テーブルに着いたバーノン、ペチュニア、ダドリーの三人は、まるでお通夜のような表情をしていた。

 二人が席に着くと、ビクリと肩を揺らし、それぞれが食事を始める。ハリーの更の前には、チキンが三つと、シリウスの前には十個ほど乗せられていた。

 いつもはハリーのチキンは一つなので、これは良い方だろう。だが、シリウスはそうは思わなかったらしい。ハリーがあっという間にチキンを食べたのを見て声をかけた。

「ハリー、もっと食べるんだ。そんなんじゃ栄養がつかないぞ」

 ダーズリー家ではもはや暗黙の了解の、ダドリー専用の中央の山盛りチキンから、シリウスはにこにこと四つ、五つを引っつかみ、ハリーの皿に入れた。

「あ、ありがとう……」
「ハリエットも食べられれば良いんだがな。スープくらいならいけるか? 特にこのスープはおいしいから、ハリエットに食べさせてやりたい。今余ってる分はもらっても?」

 シリウスは微笑んでペチュニアを見た。ペチュニアはヒッと背筋を伸ばし、機械仕掛けの人形のようにぶんぶん首を縦に振った。

「ありがとう。ハリエットもきっと喜ぶ」

 シリウスは残っていたスープを、まるまる器の中に入れた。それを見ていたダドリーが、まるでお菓子を盗られた子供のような顔をしていた。

 シリウスの言葉は、まるで鶴の一声だった。

 癒者に、病人には清潔な部屋が必要だということを聞き、シリウスがそれを口にすれば、ペチュニアはすぐに一部屋用意した。バーノンがハリーのことを小僧と呼べば、シリウスは『ハリーには名前がちゃんとあるんだがな』とポツリと呟き、バーノンはそれ以降小僧とは言わなくなった。栄養のある野菜ジュースを飲ませてあげたいとシリウスが愚痴ると、ペチュニアはわざわざ野菜をミキサーにかけ、新鮮なジュースを作った。ダドリーが部屋で暴れて騒げば、シリウスが無言でじっと見つめることにより、大人しくなった。

 シリウスのおかげで、ハリーの夏休みは、それなりに快適になった。加えてハリエットの健康状態も良く、そのおかげか、一度だけ彼女は目を覚ましたのだ。

 シリウスは大層喜び、彼の無言の幸せオーラに圧力をかけられ、ペチュニアはその日大層な豪華料理を作った。ハリエットに食べさせてやりたいとシリウスは呟いたが、さすがのダーズリー家も、彼のこの呟きは叶えることができなかった。