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08:帝王の誤算
〜もしも服従の呪文でなかったら〜



*謎のプリンス『開心術』*


「――はっ」

 乾いた空気が漏れる音で、ドラコは我に返った。茫然として起き上がれば、ヴォルデモートは身体をのけぞらせて高笑いしていた。

「はははははっ! 面白い! これは傑作だ! ドラコ、まさかお前がハリー・ポッターの妹を好いていたとは!」

 席に着く死喰い人の間に動揺が走った。口々に困惑の声を漏らす。

 ――まさか、ルシウス・マルフォイの倅が、ハリー・ポッターの妹を?

「名は何と言ったか……確か、ハリエットとな?」

 まだ消えない笑みをそのままに、ヴォルデモートは歌うようにその名を口にする。

「あ、あり得ません!」

 ナルシッサは眦を決して立ち上がった。

「その子は、マルフォイ家の息子です! 何かの間違いですわ!」
「俺様の開心術に意見があるようだな?」
「わ、我が君、まさかそんな、滅相もございません……」
「どうやら、ナルシッサにとっては気の毒なことに、倅の想いは本物らしいぞ。可愛らしいことに、一緒に箒の練習までしたことがあるようだ」

 死喰い人達は下卑た笑い声をあげた。ナルシッサは茫然としたようにその場に立ち尽くす。

 ヴォルデモートは宥めるような目をドラコに向けた。

「ドラコ、お前とハリエット・ポッターは随分と仲が良いようだな? かの娘がハリー・ポッターの妹ではなくて、純血で、純血主義で、名家の出で……そんな娘だったら、俺様も心から祝福したというのに、残念なことだ」

 下品に笑いは、冷笑に変わった。ドラコはただじっと地面を見つめていた。

「さて、ドラコ。お前の実力が分かったところで、ある任務を任せようと思う。これはお前にしか成し遂げられぬことだ」

 ヴォルデモートはくつくつと笑いながら言った。

「本当はお前にはダンブルドアの殺害を命令しようと思っていたが……気が変わった。俺様の下に、ハリエット・ポッターを連れてくるのだ」

 ドラコは一瞬目を見開き、その拳には力が籠もった。その一挙一動を、ヴォルデモートは己の赤い目で余すことなく眺めていた。

「お前なら簡単なはずだ。友達なのだろう?」
「あいつとは……そんな関係では……」
「俺様に全てを見られながら、偽りを口にするというのか?」

 喘ぐようにして言うドラコに、ヴォルデモートは目を細めた。

「お前はあの娘を好いている。それは紛れもない事実だ。違うか?」
「ち、違います……」

 なおも虚偽を口にするドラコに、ヴォルデモートは父親かと見紛うような笑みを浮かべた。

「でなければ、あの娘からの手紙を後生大事に取っておく訳がない。シリウス・ブラックとハリー・ポッター達の関係もわざと隠していた。ダンスパーティーのパートナーだってなぜあの娘を誘った?」

 次々と暴露される事実に、死喰い人達はいつしか嘲笑を止め、静まりかえっていた。ハリー・ポッターの妹と親密なドラコを、ヴォルデモートがこのままにしておくとはどうにも思えなかった。

「そ、それは……大事な妹が取られたら……ポッターなら悔しがると思って……」

 いつか誰かが口にしていた台詞を、今になってドラコは思い出した。ヴォルデモートは余裕の表情を浮かべた。

「仮に、お前があの娘にそのような感情を抱いていなかったとしよう。ならば、俺様の命令を遂行するのは容易いな?」
「我が君……」
「どうした、簡単だろう? あの娘はお前に何の警戒心も抱いていない。ほんの少し嘘をついて家から誘き出すだけで良いのだ。お前はあの娘を何とも思ってないのだろう? 憎きポッターをやり込められるぞ」
「我が君……」

 ドラコは項垂れ、力なく頭を垂れた。

「お許しください――」
「何に対して許しを請うているのだ?」
「僕には無理です……」
「何が無理なのかと聞いている」

 ドラコの声が詰まった。躊躇うように、吸って吐いてを繰り返す。

「彼女を、連れてくることはできません……それだけはどうか……」
「認めるのだな? あの娘のことを好いていると」

 ドラコは何も言わなかった。ナルシッサが睨み付けるように息子を見ていたが、その視線にすら気づいていない様子だった。

「ならば、なおのことハリエット・ポッターをここに連れてきて貰おう」

 ドラコはパッと顔を上げた。ヴォルデモートは感情のない無感動な表情で彼を見下ろす。

「ドラコ、お前が父ルシウスの失敗を償うためにここにいるとは先ほども伝えた。ルシウスの失敗は俺様に大きな痛手を負わせた。それ相応の償いが必要なのだ。それに、お前はあろうことか、ハリー・ポッターの妹などに惹かれよって……。俺様は情けなくて仕方がないぞ」

 赤く光る目を細め、ヴォルデモートは静かに言った。ドラコは人目も気にせず哀れに首を振る。

「ですが……ご覧になったかとは思いますが、ついこの間、あいつとはきっぱり決別しました。父上の件が、ポッター達のせいだと分かったので……。だから、連れてくることはできません」
「それをお前が何とかするのだ」

 ヴォルデモートは苛立ちを声に表した。

「ドラコ、もし俺様の命令を遂げられなかったら……分かるな?」

 ヴォルデモートは声を潜め、グッとドラコに顔を近づけた。

「アズカバンといえど、お前の父親はどうなると思う。俺様の力を甘く見るなよ。父と母が人質だ。お前はもはやこの任務を成し遂げるほか道はない」

 ドラコは蒼白した顔で固まった。母親からの強い視線を感じた。無意識のうちに唇を噛みしめ、血の味が染み出てきても、突破口は見つからない。呼吸が浅くなり、息苦しくなる。道が見えなかった。

「ドラコ……」

 ナルシッサが今にも死にそうな声を上げた。ドラコは、彼女を見捨てることができなかった。

「我が君……仰せのままに」
「よろしい」

 ヴォルデモートは満足げに頷き、会合の終わりを告げた。ぞろぞろと死喰い人達が部屋を出て行く。ドラコは、ナルシッサに引きずられるようにしてその部屋を後にした。途中で待ち構えていたスネイプに何やら話しかけられたが、ナルシッサは歯牙にも掛けなかった。直ちにマルフォイ邸まで姿現しをし、ナルシッサは息子と向き直った。

「一体どういうことです。本当にハリエット・ポッターと親しい間柄なの?」
「母上……」

 ドラコは未だ茫然としていた。ナルシッサは強く彼を揺さぶり、彼の瞳の焦点を合わせる。

「いいですか、同情は許しませんよ。どんなことがあっても、ハリエット・ポッターを連れてきなさい」
「ですが――」
「殺されることはないわ」

 ナルシッサはすぐに答えた。だが、決して息子とは目を合わせない。

「本当にそうお思いですか?」

 ドラコは泣きそうな顔でナルシッサを見つめた。

「殺されなくても、情報を引き出すために拷問されるかもしれない……。あの人の冷酷さを、母上もご存じでしょう?」
「私たちとあの娘、どちらが大切だというの?」
「母上……」
「今すぐあの娘に手紙を書くのよ。ダイアゴン横丁で待ち合わせをするの」

 その時、居間に高い声が響き渡った。

「シシーに用がある」
「入れなさい」

 ナルシッサが命令すると、玄関の方で扉が開く音がした。コツコツと大股な足音が響き、やがて居間の扉が開いた。

「ベラ、ノクターン横丁になら、死喰い人を集められるわよね?」

 ベラトリックスが挨拶をする間もなく、ナルシッサは尋ねた。

「それはもちろん。ノクターン横丁に小娘を誘き出す算段か?」
「ダイアゴン横丁なら待ち合わせをしても自然でしょう。そのまま死喰い人の所まで誘導して――」

 唐突にドラコが立ち上がった。そして無言で扉へと向かう。

「一体どこへ行くの! 手紙は! ちゃんと書きなさい、書くんです!」
「シシー」

 珍しく取り乱したように怒鳴るナルシッサに、ベラトリックスが宥めるように声をかけた。

「そんなに焦る必要もない」
「ベラ……でも、このままじゃ」
「何も、あの子を経由しなければいけないわけじゃない。私に考えがある。二、三日のうちに解決してみせるさ」

 ベラトリックスはニヤリと余裕ぶって笑った。


*****


 ドラコは滅多に部屋から出てこなくなった。ナルシッサは心配で堪らなかった。息子の体調ではなく、彼が、ハリエット・ポッターのために、自分たちを見捨てるのではないかという不安だ。

 だが、ここ数日ずっとマルフォイ邸に居座っていたベラトリックスが、あるとき上機嫌にふくろうを片手に居間に入ってきてナルシッサは驚かされた。

「どうしたの? そのふくろうは」
「小娘のふくろうさ。ドラコの部屋へ行こうとしていた所を捕まえた」

 灰色の豆ふくろうは、羽をバタバタさせながら暴れているが、がっしりベラトリックスが掴んでいるので、その手から逃れることができずにいる。

「ようやく返信を持ってきたようだ」
「ドラコが手紙を書いたの?」

 そう望んでいながらも、ナルシッサは驚きを隠せずに尋ねた。ベラトリックスがにんまり口元を緩める。

「あの子の筆跡を真似て書かせたのさ。話があるからダイアゴン横丁で待ち合わせしたいって」
「返事は?」

 悠々とした動作でベラトリックスは封を切った。だが、中身を読み進めていくうちに、その顔は歪んでいく。

「なんて?」
「マグルの家から勝手に出ないよう言われてるんだとさ。あの老いぼれの命令だろうね、忌々しい」
「でも、ホグワーツに行かれたらもう手出しはできないわ。その前に手を打たなければ」
「分かってる。もう強硬手段に出るしかないね。ドラコを呼んで来な。小娘の家まで姿くらましをするよ」
「無理矢理連れ出すの?」
「小娘の家は保護呪文が効いてるからそれはできない。ドラコを使って誘き出すんだ。いいか、プリベット通り四番地だ」

 しもべ妖精に連れられ、ドラコは居間へ出てきた。すっかり憔悴した様子で、ベラトリックスがいることに驚きもしない。

 ただ、彼女が鷲掴みしているふくろうには注意を引かれたようだった。驚いたようにふくろうを見つめる。

「どうしてそのふくろうがここに?」
「おや?」

 ベラトリックスが唇の端を歪めた。

「このふくろうが誰のものなのか、お前は知っているのか? それほど文通をしていたのか?」
「…………」
「お前宛に手紙を持ってきたんだよ。くだらない内容だったが」

 ドラコは、炎にくべられる手紙をじっと見つめた。

「ダイアゴン横丁へ行くよ」
「……何のために?」
「お前の教科書を買いにだろうが」
「伯母上も?」

 ベラトリックスは素知らぬ顔で嘘を吐いた。そのあまりにも白々しい嘘に、さすがのドラコも訝しげだ。

「私もあそこへ用があるんだ。さあ、掴まれ」

 ドラコは動かなかった。しかしベラトリックスが無理矢理彼の腕を掴み、姿くらましをした。慌ててナルシッサも後を追う。

 プリベット通り四番地は、閑静な住宅街だった。排気ガスを排出しながら車が行き交う様は、見ていて不愉快だ。

 ベラトリックスは鼻に皺を寄せ歩き出した。ドラコは慌てて彼女の後を追いながら、馴染みのないマグル界をキョロキョロしていた。

「ここはどこですか?」
「プリベット通り四番地」

 何度か書いたことのある宛先に、ドラコはヒュッと息を呑む。

「ほら、行きな。たぶんあの家だろう」

 トンと背中を押さえたドラコが見たのは、大きな庭付きの、至って普通の家だった。立ち並ぶ隣家同士、それほど見分けはつかず、強いて言うなら、家の前に停車している車の色の違いくらいだろう。

 ドラコは、ここまで来てもどうすれば良いか分からなかった。ハリエットをヴォルデモートの前に出すわけにはいかなかった。そんなことをしたが最後、彼女の未来はない。

 だが、父や母を見捨てることもできなかった。どうあっても二人を助け出したい。でも、どうすれば?

 庭先まで近づいたところで、誰かが庭でしゃがんでいるのが目に飛び込んできた。慌ててドラコは近くの茂みに身を隠した。庭に身を屈めていたのは、ハリー・ポッターだった。

 ハリーは、この熱い日差しの中、ヒーヒー言いながら草むしりをしていた。彼の足下にはこんもりと草の山ができている。

 ドラコは、彼の後ろで、ゆっくりと扉が開くのを見た。そこから出てきた人の姿を見て、心臓が止まるかと思った。

 ハリエット・ポッターは、悪戯っぽい笑みを浮かべて、足音を忍ばせながらハリーに近づいていた。そして、手に持ったアイスをハリーの頬へひたっと当てる。

「うわっ!」

 ハリーは遠慮なく驚いて振り返った。ハリエットはカラカラ笑ってアイスを振った。

「驚いた? ハリーはいつもこれに驚くわね」
「そりゃ誰だってそうだよ……。ああ、でもちょっと気持ち良かった」
「アイスを保冷剤代わりにしちゃもったいないわ。早く食べて」
「はいはい」

 ハリーは袋を切ってチョコレートアイスに齧り付いた。

「ねえ、荷造りまだしてないでしょ? 早くしないと怒られるわ。今夜いらっしゃるんだもの」
「うん……後でやるよ」
「ハリーはそればっか」

 ハリエットはふうと仕方なさそうにため息をついた。

「草むしりは終わったの?」
「うん、もう終わる」
「気分は悪くない? お茶持ってくる?」
「うん、お願い。この後は洗車もしないといけないから……」
「それは私が代わるわ」

 ハリエットはとんと己の胸を叩いた。

「でも、外暑いよ?」
「おばさんのお小言飽きちゃったの。今度はハリーが代わってくれない?」
「……分かったよ」

 ハリエットのお言葉に甘えて、ハリーは雑草の処理をした後、家の中に引っ込んだ。ハリエットは、物置からホースを出してきて、放水を始めた。

 ハリエットは、見慣れない、涼しげなワンピースを着ていた。あれがマグルの格好なのだろう。今がこんなときでなければ、興味深く観察していたところだが――。

 その時、甲高い鳴き声と共に、ドラコの背中に何かがぶつかった。驚いて振り返れば、哀れにも羽をもがれたウィルビーだった。ハッとして後ろに視線をやると、ベラトリックスが杖でハリエットを指し示していた。

 ドラコは、その場から動くことができなかった。弱々しく鳴き声を上げるウィルビーが、ハリエットの姿に重なった。

「ドラコ?」

 今度は、後ろからかかる声にドラコは飛び上がった。今一番聞きたくない声だった。

「驚いた。こんな所でどうしたの?」
「…………」

 ハリエットは、ドラコのすぐ側まで来ていた。手にはちょろちょろ流れているホースがあり、ハリエットはそれに気づくと慌てて水を止めに行った。

「あら、ウィルビー……」

 ホースを一旦おいて戻ってきたハリエットだが、怪我をしているウィルビーを見て、血相を変えた。

「どうしたの? 怪我をしたの!?」

 羽の付け根から流れ出る血は固まっていたが、黒いその血は羽を汚し、ひどく痛々しかった。

「もしかして、ここまで連れてきてくれたの?」
「ああ……」

 ハリエットの勘違いに、ドラコは頷くしかなかった。

「ありがとう……動物病院に連れて行かないと……でも、どうしよう、私、この家から離れられないの」

 ドラコの喉はカラカラに乾いていた。きっともう一押しだ。『ウィルビーが心配じゃないのか?』と彼女の背中を押す一言があれば、きっと彼女ならば自らウィルビーを病院へ連れて行くだろう。

 だが、そんなことをすれば。

 彼女は、ウィルビーと同じ末路になるかも知れない。

 ドラコは生唾を飲み込んだ。

「……僕が病院に連れて行く。治ったら君の所に帰す」
「本当? いいの?」
「ああ」
「ありがとう!」

 ハリエットは顔を綻ばせて微笑んだ。その邪気のない笑顔に、ドラコの胸は締め付けられた。

「小娘! 一体誰と話してるんだ!?」

 だが、唐突に響いた野太い声に、ドラコは自分が怒鳴られたかのように飛び上がった。

 家の扉から、でっぷりと太った男が顔を出していた。ぎょろりとしたその目は、油断なくハリエットとドラコを見比べていた。ハリエットは庇うようにドラコの前に立った。

「通りすがりの人よ」
「本当か? またお前達のお仲間とやらじゃないだろうな?」
「違うわ。本当に知らない人。道に迷ったんですって」
「仕事をサボるなよ! 今日は夕方から出掛けるんだ。早く洗車を終わらせるんだ!」
「分かったわ」

 男が家の中に引っ込んだのを見届けると、ハリエットは照れくさそうに笑って振り向いた。

「気を悪くさせてごめんなさい。伯母の夫なの。私たちが魔法を使うのが気に入らないみたいで……折角来てくれたのに、ごめんね。もう行った方が良いわ。ウィルビーをお願い」

 ハリエットに見送られながら、ドラコは慣れない通りを横切った。曲がり角を曲がったところで、怖い顔をしたベラトリックスに迎えられる。

「なぜ失敗した? ちゃんとやったんだろうな?」
「この家から離れられないと」

 ドラコは目を伏せて答えた。

「ウィルビーのことを持ち出しても、家から離れるわけには行かないと」
「ウィルビー……ハッ」

 ベラトリックスは馬鹿にしたように笑った。

「それで、お前はのこのこ戻ってきたわけだな? ふくろうの手当は自分がするからとでも言ったのか?」
「無理に連れ出して怪しまれても面倒だわ」

 ナルシッサは庇うようにベラトリックスを見た。

「それに、恩を売っておくに越したことはない。まだチャンスはあるわ」
「だが、難しくなった。これから奴らはシリウス・ブラックの家に行くんだぞ。ますます手出しができなくなる」

 どうしてそんなことを知っているのか、とドラコは伯母を見上げたが、すぐに気づいた。答えは、自分の手の中だ。

「いつ教科書を買いに行くのか聞きましょう」
「そうだな。できれば一人で来て欲しい所だが……あの過保護がそんなことさせるわけがない」
「もしかして、伯母上が彼女に手紙を出したんですか?」

 ドラコは唐突に尋ねた。始めは、ただハリエットからの手紙を盗み読んだだけなのだと思ったが、二人の口ぶりを聞くからにそうではない。

「それが何か?」

 ベラトリックスは堂々と答えた。ドラコの顔が歪む。

「いくらなんでも――」
「では、お前がやるか? お前がきちんと小娘を誘き出すんだな?」
「…………」

 ドラコは視線を逸らした。どうすれば良いのか自分でも分からなかった。このままでは、確実に父と母が殺されることは分かっていた。このままで良いわけがない。だが、ハリエットを誘き出すこともできない。ドラコは雁字搦めだった。

「気に病むことはないのよ」

 ナルシッサはやけに優しい声で言った。

「言われた通りのことをすれば、全てがうまくいくわ」


*****


 ハリエット達がダイアゴン横丁に行くという日、例によってドラコ、ナルシッサ、ベラトリックスの三人もダイアゴン横丁にいた。ベラトリックスは死喰い人のため、自らに目くらまし術をかけていた。

「ノクターン横丁に死喰い人を集めているが、問題はどうやって連れ出すかだな」

 ベラトリックスは獲物を追う鷹のような目で言った。

「小娘は、護衛の目をかいくぐるのは難しいだろうと言ってる。一人で行動するなと言われてるから、待ち合わせは無理だと。やけに周りに従順な小娘なことだ」
「ふくろうを使いましょう。イーロップのふくろう百貨店に預けてきたとでも言えば良いわ」

 ベラトリックスに言われ、ドラコはウィルビーを連れてきていた。とっくの昔にウィルビーの傷は治っていたが、この時のために、今の今までウィルビーを手元に置いておくよう言われていたのだ。

「偶然会った振りをして、そのまま連れ出しましょう。二人きりで行きたいと」
「母上、お忘れですか。僕はポッター達と犬猿の仲です。妹と二人きりにさせるわけがない」
「それとも、強襲するか……」

 ベラトリックスは不穏なことを言い出した。ドラコの背筋は冷たくなったが、ナルシッサは首を振った。

「人目のあるところでそんなことはできないわ。それに、向こうは闇祓いもついていると言うし」
「お前はルシウスの敵が討ちたいとは思わないのか?」
「煽っても駄目よ」

 ナルシッサの顔は青ざめていた。

「私もポッターは憎いわ。でもここにはドラコもいる。危険なことはできないわ」
「どうやら過保護は一人ではなかったようだ」

 ベラトリックスは呟くように言ったが、ナルシッサは意に介さなかった。

「とにかく、絶対に立ち寄る場所で待ち伏せしましょう。……そうね、本屋が良いわ。教科書を買いに来るはずだろうし、視覚もある。上手い具合に誘い出せるかも知れない」
「仰せのままに」

 ベラトリックスは茶化すように言った。

 三人はすぐに本屋へ向かい、そしてバラバラに散らばった。中に目的の人物がいないか探す必要があったし、固まっていれば、ドラコが誘い出しにくいと思ったのだ。

 朝早くから来て、ドラコ達は随分と長い時間本屋に居座った。今日ダイアゴン横丁に来るという情報は掴めても、時間までは分からなかったからだ。ベラトリックスは次第にイライラしてきて、本屋から出て行った。ドラコは、このままハリエットが来なければと願っていた。

 だが、昼を過ぎたところで、目的の一行がやって来た。アーサー、モリー、ジニーである。だが、その中にハリエットはいない。どうやら、分かれて買い物をすることにしたようだ。ナルシッサは舌打ちしたい気分でドラコを本屋から連れ出した。

「あの人達が話しているのを聞いたわ。ハリエット・ポッターは洋装店にいるらしいわ。今すぐ行くわよ」

 ナルシッサは歩きながら話した。

「いい? 何としてでも連れ出すのよ。何なら、ポッター一人くらいならついてきても良いわ。……ええ、むしろその方が闇の帝王もお喜びになるでしょう」

 マダム・マルキンの洋装店につくと、ナルシッサは躊躇いもなく店内へ足を踏み入れた。その時になってようやくベラトリックスのことを思い出したが、もはや時既に遅かった。

「まあ、奥様。いらっしゃいませ」

 マダム・マルキンは愛想良く二人を出迎えた。上客であるマルフォイ家は、ここでもよく歓迎された――とはいえ、死喰い人の夫がアズカバンに収監された今、内心では何を思っているのか分からないが。

「息子に新しいローブを買いたくて」
「分かりましたわ。こちらの踏み台に」

 ドラコが案内されたのは、運良くとも言うべきか、悪いと言うべきか、ハリエットの隣の踏み台だった。

「ドラコ?」

 ドラコに気づくと、ハリエットは嬉しそうに笑った。

「偶然ね。同じ日にダイアゴン横丁に来るなんて」
「ああ……」

 ハリエットの肩越しに、ハリー、ロンが顔を顰めているのが見えた。ハーマイオニーはといえば、彼らの隣で、無心を装いながらも、どこか気を引かれた様子で押し黙っている。

「あなた達もローブを買いに?」

 ドラコ達から注意を引くために、ナルシッサはやけに愛想良くハリーに声をかけた。にこやかに――とまではいかないが、薄ら微笑みを浮かべているナルシッサに、ハリーは驚きや戸惑いを越え、むしろ恐怖すら感じた。

「あ……はい。サイズが合わなくなってきたので」

 ハリーはもごもご答えた。ナルシッサの夫、ルシウス・マルフォイがアズカバンに収監されたのは、もちろんハリーも知っていた。彼が捕まったその場に自分もいたのだから,それは当然だ。そしてそのことを、ナルシッサもまた知っているはずなのに、この愛想の良さは何なのだろう。何か裏を感じずにはいられなかった。

「そう……」

 頑張って話を続けようと試みたが、残念ながらナルシッサは、マグル育ちの少年に適した話題が浮かばずにいた。だが、しばらくの後、パッと頭に閃くものがあった。

「クィディッチでシーカーをしているそうね。ドラコから聞いているわ」
「あ……そ、そうですか」

 どうせ碌な話ではないのだろうとロンは噴き出しそうな顔になった。

「箒に乗るのがとても上手だと聞いているわ。将来はクィディッチの選手を目指してるの?」
「いえ、そういうわけでは……」
「ハリーは闇祓いになりたいんだ」

 ロンが代わりに答えた。ナルシッサを見透かすように見つめる。ナルシッサの顔は僅かながら強ばった。

「……そう。なれるといいわね」
「ありがとうございます」

 ロンを小突きながら、ハリーは頭を下げた。ナルシッサは顔を背け、もう話す意志がないことを示した。

「じゃあ、ドラコは魔法薬学を続けられるのね?」

 殺伐とした空気が醸し出される傍ら、ハリエットはのんびりドラコと会話を続けていた。

「一緒の授業は闇の魔術に対する防衛術だけになるかもしれないわね。残念ながら、魔法薬学は駄目だったのよ。ハリーと私、二人ともEしか取れなくて」
「余計なこと言わないで良いよ」

 ちゃっかり自分の成績まで暴露されたハリーは、恨ましげに妹を睨んだ。当の本人はその視線に気づかなかった。

「ドラコはこの後どこに行くの?」
「イーロップのふくろう百貨店よ」

 詰まったドラコの代わりに、ナルシッサが答えた。

「あなたのふくろうが治ったから、迎えに行くの」
「そうなの!?」

 ハリエットが期待に満ちた目でドラコを見た。ドラコは躊躇いがちに頷いた。

「ありがとう! 私も一緒に行ってもいい?」
「もちろんよ」

 これまたナルシッサが答えた。

「ありがとうございます!」
「一体どういうこと?」

 何が何だかさっぱり分からないと言った顔で、ロンはハリーに小声で尋ねた。ハーマイオニーも興味をそそられた様子でハリーの方に顔を向ける。

「僕もよく知らないけど、マルフォイの家に手紙を送ったときに、ウィルビーが怪我をしたんだって。家を出られないハリエットの代わりに、あいつがウィルビーを預かったって聞いてる」
「手紙? ハリエットがマルフォイに?」

 ロンは目を丸くした。

「なんで?」
「知らないよ」

 ハリーはふて腐れた。妹とドラコが文通してたなどとこの夏初めて知ったし、あのドラコがウィルビーを介抱するなんて優しさを持ち合わせていたことがどうにも信じられなかった。

「ハリエット、僕達ももちろん行くから」

 ハリーは気に入らないという感情を隠さずに割って入った。

「丁度ヘドウィグの餌を買いたいと思ってた所だから」

 途端にナルシッサが不機嫌な顔になった。そのことにハリーは更に不信感が募った。

 夫をアズカバン送りにされ、自分たちを恨んでいるはずなのに、愛想良く話しかけてくるナルシッサ。どこか大人しいドラコ。

 感じる違和感はそのままに、ローブを購入した一行は、ふくろう百貨店に向かった。

 ウィルビーは、とても元気に羽ばたいていた。ハリエットを見つけると、それはそれは嬉しそうに甘噛みをした。久しぶりの容赦ない痛みに、ハリエットは複雑な表情を浮かべる。

「ドラコ、本当にありがとう。ウィルビーが元気になってくれて良かった」
「どうして怪我をしたの?」

 ふくろうナッツの大箱をいくつも抱えながら、ハリーが聞いた。

「分からないわ。でも、血だらけだったの」
「カラスにでも襲われたのかも知れないわね。ウィルビーは小さいから」

 ハーマイオニーは気遣わしげにウィルビーを撫でた。お返しとばかり、ウィルビーはハーマイオニーの指にも甘噛みした。

 ふくろう百貨店を出ると、アーサー達三人と合流し、フレッドとジョージが経営する悪戯専門店、ウィーズリー・ウィザード・ウィーズ、通称『WWW』に行くことになった。

 ここでドラコ達とはさよならになると思っていたハリエットだが、あろうことか、誘うと『行く』と返事をしたので――返事をしたのはまさかのナルシッサの方だ――ハリエット達は面食らってしまった。

 とはいえ、いざ愛する息子が悪戯専門店という低俗な店へ入っていくのを見送ると、ナルシッサはまるでこの世の終わりのような表情を浮かべた。

 ハリエットと共にドラコは店の中を見て回っていたが、相変わらず元気がなかった。商品を手に、ハリエットがドラコに悪戯を仕掛けても、反応が薄い。ブラッジャーのようにしつこくハリーとロンが自分たちの周りをうろちょろしていても、嫌味の一つすら口にしない。明らかに様子がおかしかった。

「気分でも悪い?」

 ハリエットは心配そうに手を伸ばした。

「今日はもう帰って休んだ方が良いと思うわ。もうすぐ新学期だし――」

 ハリエットの手がドラコの左腕に触れた。途端に、彼は熱いものにでも触れたかのように、パッと腕を引いた。

「触るな!」

 店内に響き渡る声に、全員が水を打ったように静かになった。ハリエットは固まり、ドラコは我に返った。左腕を押さえながら、ドラコは下を向く。

「……怪我してるんだ」
「あ……そうだったの? ごめんなさい。痛かった?」
「大丈夫だ」

 ドラコは早口で言った。

「でも、怪我の具合が悪い。今日はもう帰る」
「そうね、その方がいいかも。お大事にね」

 ハリエットは店の前まで見送りに出た。店には入らず、外にいたナルシッサは、もの言いたげにドラコを見たが、やがてハグリッドがハリエットに話しかけたのを見て諦めた。

「またホグワーツで」

 そう言って笑うハリエットに、ドラコはろくに返事もできずに、ナルシッサと共に姿くらましをした。


*****


 グリモールド・プレイス十二番地に帰ると、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、シリウスを交えてすぐさま会議を行った。その議題内容は――ハリエットとドラコの仲について、である。

「未だに信じられないけど、ハリエット、なんであいつと文通なんかしてるの?」

 嫌そうな顔でロンに言われ、ハリエットは困惑した。

「友達と文通しちゃ駄目なの?」
「友達って……マルフォイと? あいつ、僕らに散々なことしてきたじゃないか」
「でも、良いところもあるのよ――」

 ハリエットが話し出そうとしたとき、ロンは大袈裟に耳を塞いだ。

「止めてくれ! あいつの話なんか聞きたくない!」
「ロンが聞いてきたんじゃない……」

 ハリエットは呆れかえってもう何も言えなかった。だが、この場にハリエットの味方はいなかった。

「気にくわないな」

 シリウスはふんふん鼻を鳴らした。シリウスにとっては、ルシウス・マルフォイの悪印象と、ハリエットを泣かせていたという己の見たままの記憶、二つが相まって――もちろん、愛するハリエットと仲が良いというのも嫉妬の一因だ――ドラコ・マルフォイが気に入らなかった。

「でも、それはそれとして、今日のマルフォイはなんか変だったよ。母親も」

 ハリーも口を挟んだ。ロンはうんうん頷く。

「あいつのお母上、やけに僕らに愛想が良かったな。鳥肌が立ったよ」

 ロンは大袈裟にぶるりと身体を震わせた。ハーマイオニーも首を傾げる。

「確かに、妙だったわね。ルシウス・マルフォイがアズカバン送りになったんだから、私達は憎いはずなのに」
「ハリエット、マルフォイの奴、手紙でこっちの情報を聞き出そうとしてないかい?」

 ロンに問われたが、ハリエットは首を振った。

「別にそんなことは……。ダイアゴン横丁にいつ行くのかは聞かれたけど、それ以外は普通の手紙よ」

 気になることと言えば、手紙に淡々と用件しか書かれてないことくらいだ。いつもならば、半分くらいは嫌味や自慢話が書かれているのだが。

「ウィルビーが怪我をしたのも、きっとあいつらの仕業なんじゃない?」

 ロンが冗談交じりに言った。ハリエットは彼を軽く睨んだ。

「ドラコがそんなことするわけないじゃない」
「そんなことしかしないような気がするけど」

 ハリエットの視線をものともせず、ロンはケロッとして言った。ハーマイオニーが彼の脇腹を小突いた。

「でも、ウィーズリー・ウィザード・ウィーズで突然マルフォイが叫んだのは驚いたわ。怪我してたって言ってたけど、本当かしら? 採寸の時は特にそんな様子は見せなかったけど」
「それは僕も不思議に思った」

 ハリーは考え込んだ。

「左腕にある触られたくないもの……闇の印。マルフォイは、死喰い人になったって考えられないかな?」
「そんなことあるわけないじゃない!」

 ハリエットは急に大声を上げた。

「ハリー、いくらなんでも考えが飛躍しすぎよ。どうしてそんなにドラコのことを悪者にしたいの?」
「別にそういう訳じゃないよ。そうとも考えられるってだけで」
「推測だけで人を傷つけるようなことは言っちゃ駄目よ」

 正論を言われ、ハリーは押し黙った。だが、難しい顔をしたシリウスが彼の後を引き継いだ。

「だが、話を聞く限り、わたしもマルフォイを警戒した方が良いと思う。父親がアズカバンに入れられたにもかかわらず、君たちに愛想良くする理由は何だ? 妙に引っかかる。何か企んでるのかも」

 シリウスは、四人にドラコと二人きりにならないよう注意を促し――特にハリエットにはきつく言い聞かせた――この話し合いは収束を迎えた。


*****


 六年生になってからのドラコはというと、ダイアゴン横丁で話したときの印象そのままで、以前とはすっかり一変していた。まず、ハリーやロンを見かけても嫌味の一つ言わない。それが一番の変化だった。それどころか、避けている節すらある。――いや、避けられているのはハリエットだろう。

 授業や教室移動でバッタリ会っても、ドラコは逃げるようにして去って行く。ハリエットが話しかけてもそれは同じことだ。気づかないうちに嫌なことでもしてしまっていたか、とハリエットは不安になったが、こんな状態では、謝罪もできなかった。

 ドラコとは話せない一方で、そのくせ、彼からの視線は常に感じていた。ふと顔を上げたときや、振り返ったとき、必ずと言って良いほどドラコはハリエットの方を見ているのだ。そして目が合うと、慌てたように逸らされる。

 観察力の鋭いハーマイオニーは、いち早くドラコのこの不可解な一連の行動に気がついていた。未成年のドラコが死喰い人だとは思えない。だが、自分には分からない何かが隠されているのではと、彼女はハリエットが寝静まったのを確認した後で、ハリー、ロンにこのことを相談した。

「マルフォイ、ハリエットのことが好きなんじゃないの?」

 ロンが精一杯ひねり出した答えに、ハリーは思い切り咳き込んだ。

「そっ、そんなこと、あるわけが……」
「だってそうとしか思えないし。あいつ、ハリエットに優しくしてもらえるから好きになったんだよ。この夏それを自覚して、どう接すれば良いのか分からなくなったんだ」
「あながち、それも間違いじゃないのかも」

 ハーマイオニーまで真剣な顔でそう言い、ハリーは至極複雑そうな表情になる。

「だからって、マルフォイにはハリエットをやれないな」

 兄を差し置き、ロンが腕を組んでニヤッと笑った。

「だって、あのマルフォイだぞ? 嫌味で偉そうで、僕たちに喧嘩しか売ってこなかったあのマルフォイに、誰がハリエットをやるもんか」
「二人っきりにさせちゃ駄目だ」

 ハリーは拳を握った。ロンもぶんぶんと首を縦に振る。

「いいか、マルフォイがハリエットに話しかけようとしたら、邪魔をするんだ。その逆も然り」
「分かった。ハーマイオニー、僕らが一緒にいないときは、ハリエットのことよろしくね」
「……相談しない方が良かったかしら」

 過保護に走りそうな雰囲気を醸し出すハリーとロンを尻目に、ハーマイオニーは呆れたようにため息をついた。


*****


 あるとき、ハリエットは、ドラコから手紙を受け取った。次のホグズミードは一緒に行こうという旨の手紙だった。ハリエットは意外に思ったし、ドラコが何を考えているのか知りたいと思った。だが、相変わらずドラコは話しかけようとしても逃げるし、最近では、ハリーやロンも邪魔をしようとしてくる。この機会を逃せば、ドラコと二人きりで話す機会など、今後一度もやってこないかも知れない。

 ハリエットはすぐに了承の返事をしたため、ふくろうに手紙を預けた。手紙を届けに来たふくろうは、いつものワシミミズクではなく、森ふくろうだった。ドラコのふくろうは調子が悪いのだろうか、とハリエットはぼんやり思った。

 ハリーやロンが、過保護にドラコとのことを邪魔してくるので、もちろんホグズミードのことは言わなかった。同室のハーマイオニーには、待ち合わせまでに準備をしなければならないので、どうあっても隠し切ることはできないと思い、白状した。

「……そう。気をつけてね」

 だが、意外なことに、ハーマイオニーは反対はしなかった。

「マルフォイも随分大人しくなったけど、元が元だから。変なことをされそうになったら、魔法で撃退するのよ。シレンシオで虚を突いてから足縛りの呪い。分かったわね?」

 口では物騒なことを言いながらも、心配そうな表情を浮かべるハーマイオニーに、ハリエットは大人しく頷きを返した。

 ホグズミードの日は晴天だった。ハリエットはこっそり男子部屋から調達してきた透明マントを頭から被り、早速出掛けた。

 新学期に入ってから初めてのホグズミードの日なので、興奮して頬を赤らめる生徒が多数いた。ハリエットはうまくその間を縫って歩き、待ち合わせ場所へ向かった。

 本当のところ、透明マントなんて被らなくても、と思ったが、ハリーやロンに見つかると面倒なことになると確信したからだ。ただでさえ、今日は体調が悪くてホグズミードは止めておくと宣言していたのだ。部屋で寝ているはずのハリエットがどうしてホグズミードに、と思われたら後が怖い。

 待ち合わせは叫びの屋敷の前でだった。どうしてそんなところで、とも思わないでもなかったが、グリフィンドールとスリザリンだし、マルフォイ家は純血の名家だ。自分といるところは誰にも見られたくないのかも知れないとハリエットは納得した。

 途中でハリー達の姿を見かけたときは、ハリエットはひやっとしたが、当然透明マントを被っている状態では、彼らに気づかれることもなかった。ハリエットはいそいそと叫びの屋敷へ向かった。

 廃れた屋敷の前で、ドラコは立っていた。周りを気にするかのようにキョロキョロ見回し、落ち着きがない。そしてその顔には、くっきりとしたクマが浮かんでいた。このところ眠れていないのだろうか。アズカバンに収監されてしまった父親のことを気に病んでいるのかもしれない。ハリエットは心配になったが、気を取り直し、足音を忍ばせつつドラコに近づいた。

 元気がないドラコのことは心配だし、以前のような関係に戻りたいとも思っていた。少し方向性は間違っているかもしれないが、良い案が思いつかなかったハリエットは、ドラコを盛大に驚かせることにした。少しでも元気になって欲しいと、ハリエットは後ろからワッと声を出した。ドラコもワッと小さく叫び、たたらを踏んで振り返った。目を丸くして宙を見やるドラコに、ハリエットはカラカラと笑い声を上げた。

「驚いた? 私よ」

 そう言ってハリエットはマントからちょこんと顔を出した。しかし、これでは生首状態かとも思って、すぐにマントを脱ぎ、畳んだ。

「な、なんで……」
「マントのこと? ハリーにバレちゃ面倒だと思って。ドラコに呼び出されたなんて知られたら、絶対に行くなって言いそうだし」
「僕に?」

 ドラコは訝しげに聞き返した。何か気になる所があったようだが、結局その疑問が口に出されることはなかった。突然、赤い閃光が視界の隅で瞬いたからだ。

「――っ」

 気がついたときには、ハリエットはドラコに強く突き飛ばされていた。横様に倒れたハリエットは、辺りに黒いローブを纏った人々が順々に姿を現すのを目にした。

「マントを被れ!」

 ドラコの切羽詰まった声に、ハリエットは言われるがまま、透明マントを頭から被った。でもドラコは、と彼の方を見やると、盾の呪文で応戦していた。死喰い人達は執拗にハリエットがいた場所に呪文を放ったが、たった一人、ドラコはそれを必死にいなす。

「止めて! 止めなさい! ドラコに当たるわ!」

 ナルシッサ・マルフォイが死喰い人の中から姿を現した。ナルシッサまでがドラコの前に立ちはだかり、盾を出してきたので、死喰い人達は大混乱だ。ハリエットはおろおろしながら死喰い人の間を縫い、輪の外に出た。

 死喰い人は、全部で五人いた。頭からすっぽりフードを被り、その顔は見えない。だからこそハリエットはぞっとした。

「透明マントだ! ハリエット・ポッターは透明マントを被っている!」

 誰かが叫んだ。彼らはギョロギョロ目を血走らせながら辺りを窺う。

「アクシオ! 透明マント!」

 ハリエットはギュッとマントを握ったが、幸いなことに呼び寄せの気呪文は効かなかった。

「お前達は小娘を追え! 何としてでも引っ捕らえるんだよ!」

 黒い髪の魔女が叫んだ。五人の死喰い人は散り散りになってホグズミードへと向かう。黒髪の魔女――ベラトリックスは、ドラコの首根っこを捕らえた。

「お前はこっちに来るんだ」
「ベラ!」

 ナルシッサは眉を顰めて叫んだが、ベラトリックスは聞く耳持たず、そのまま叫びの屋敷に入っていった。ナルシッサも慌ててその後を追う。

 ハリエットは、一人廃れた塀の陰に取り残された。今ならすぐにでも逃げ出せる。誰にも見つからずに、ホグワーツへ戻ることも可能だろう。

 しかし、ドラコのことが気にかかった。黒髪の魔女が、ベラトリックス――ひどく残虐な魔女だということは知っていたし、彼ら死喰い人が、自分のことを捕まえようと待ち構えていたことも理解した。そして――ドラコが自分を助けようとしてくれたことも、気づいていた。

 今がどういう状況なのか、ハリエットには全く以て分からない。しかし、分かったことだけを整理した結果、どうあってもドラコを見捨てることができないという答えが出た。ハリエットは、意を決して叫びの屋敷に入っていった。

 叫びの屋敷は、四年前訪れた時以上に朽ち果てている様子だった。マントを被っているからこそ、ハリエットは一部の油断もなくゆっくり、ゆっくりと歩いた。ハリエットが透明マントを使っているということは死喰い人にもバレている。ならば、ほんの少しの軋みが、ハリエットの居場所を知らせることになるのだ。

 ドラコ達は、二階の奥の部屋にいた。奇しくも、四年前、シリウスと相対した部屋と同じ場所だった。

「ドラコ? お前はハリエット・ポッターを逃がそうとしたな?」

 僅かに空いた扉から、ベラトリックスの声が漏れていた。ハリエットは、その隙間からそっと中を覗く。

「お前は自分が何をしたのか分かっているのか? お前はそれほどまでに小娘のことが大事だというのか?」

 下を向いたまま、ドラコは微動だにしなかった。そのことがベラトリックスの怒りに触れたのか、彼女は杖を振り上げた。

「クルーシオ!」

 苦悶に目を見開き、ドラコはその場に崩れ落ちた。空気を割るほどの痛々しい悲鳴に、ハリエットは身体を硬直させた。

「ベラ!」

 ナルシッサは髪を振り乱して息子に駆け寄った。

「お願い、ベラ! 止めて!」
「こいつはお前達を見捨てたんだぞ、シシー! お前の命よりも、小娘の命を取った!」
「そんなこと、今はどうでもいいわ! 止めて、止めなさい!」
「――っ!」

 ベラトリックスは、忌々しげに舌打ちをし、呪文を中止した。息も絶え絶えにドラコは床に蹲る。ナルシッサは泣きそうになりながら、その背を撫でた。

「しばらくは待ってやる。だが、あいつらが小娘を連れてくることができなければ、どうなるか分かってるな?」

 ベラトリックスは顔を歪めて言った。ハリエットは、まるで自分に言われているかのように、身体をぶるりと震わせた。

 どうすれば良いのか全く分からなかった。相手は二人。不意を突けばなんとかなるかもしれない。でも、扉を開けた時点で、奇襲はできなくなってしまう。明らかに手練れと見られる黒髪の魔女に、一介の六年生がどうやって太刀打ちできるというのか?

 何か良い呪文はないかとハリエットが必死に記憶を探る中、事態は更に悪い方向へ動いていた。ハリエットを探していた死喰い人達が戻ってきたのだ。彼らの中に、もちろんハリエットの姿はない。ベラトリックスはドラコを見据えた。

「この落とし前をどうつけるつもりだ、ドラコ?」

 ハリエットは、死喰い人の最後の一人と共に、するりと部屋の中に身を滑り込ませた。

「小娘に逃げられた。私達が小娘を狙っていることは、老いぼれにも知られるだろう。となると、もはや拉致は無理だ。到底なし得ない。お前の父と母は死ぬ」

 ハリエットは身を強ばらせた。

 一体どういうことだろう? ドラコは、誰に人質を取られているんだろう? もしかして――ヴォルデモート?

「お前のせいで、シシーが死ぬんだ! クルーシオ!」
「止めて!」

 誰が叫んだのか――それとも、自分が叫んだのか――ハリエットは、武装解除の呪文をベラトリックスに放っていた。何もない場所から突如現れた閃光は、ベラトリックスの胸に直撃し、彼女の杖は宙を舞った。

「デプリモ! 沈め!」

 いつだったか、ハーマイオニーに、これは便利そうだわと世間話がてらに教えられていた呪文が役に立った。ハリエット達がいる二階の床にはポッカリと穴が開き、ハリエット達は重力に従って一階へぐんと落下した。ハリエットはクッション呪文を唱え、ふわりと一階へ降り立った。彼女の『デプリモ』に巻き込まれたナルシッサ、死喰い人達数名は、それぞれ散々な体勢で一階に落ちた。辺りを埃や砂埃がパラパラと舞う中、ハリエットはドラコに透明マントを掛け、彼の腕を引いてひた走った。

「捕まえろ! 奴だ、小娘だ!」

 ベラトリックスの叫び声が二階から聞こえた。ハリエットは恐怖で震える足を叱咤し、四年前の記憶を掘り起こしながら進んだ。

 地の利はハリエットにあった。まさに四年前、怪我をしたドラコを支えて暴れ柳に向かった、そのルートで足下の覚束ないドラコを精一杯引っ張る。やがて道を大きく曲がり、下り坂になっているトンネルにたどり着いた。

 叫びの屋敷は、ただでさえ部屋数が多く、薄暗くて抜け道も見つけづらい。その上透明マントを被っていたハリエット達を見つけるのは、死喰い人にとってひどく困難だった。せめて頭を働かせて、皆が静まりかえれば、二人分の足音を聞きつけられたかも知れないが、逃げられるかも知れないと焦る彼らには、冷静になることもできなかった。

 おまけに、彼らは屋敷の外へ逃げ出したのだと、盛大な勘違いをした。暴れ柳の根元から這い出すまで、油断は禁物だったが、そこまで来ると、ハリエットも緊張の糸を緩めた。ようやくゆっくりドラコと向き直った。

 ――ドラコは、蒼白な顔で、ポロポロ涙を零していた。声すら上げず、その瞳には絶望の色が見え隠れしていた。

「ど、どうしたの!? どこか痛いの!?」

 ドラコは黙って首を振る。ハリエットにはおろおろすることしかできなかった。

「どうして僕を連れ出したんだ……」

 囁くような小さな声に、ハリエットは声を詰まらせた。

「だ、だって、見ていられなくて――」
「これで、もう全てが終わりだ……。父上と母上は、あの人に殺される」
「――っ」

 ハリエットもまた、ポロリと涙を落とした。彼の苦悩が、痛いほど伝わってきた。

「ごめんなさい……私、本当に考え無しで」
「痛みなら、いくらでも耐えられる。でも、父と母は、殺されたらもう……」

 おしまいなんだ。

 その言葉は、風に乗って消えた。虚ろな瞳で宙を見るドラコに、ハリエットはしがみついた。

「ダンブルドア先生の所に行きましょう? ご両親のことを話すの」
「僕は死喰い人だ」

 やけになってドラコは答えた。ローブをまくり上げれば、そこには禍々しい闇の印があった。

「ダンブルドアが僕を助けるわけがない」
「そんなことないわ。絶対に助けてくれる」

 ハリエットはドラコの左腕を捕まえ、両腕に抱き込んだ。

「死喰い人かどうかなんて問題じゃないわ。あなたは私の友達で、あなたは私を助けてくれた。私も一緒に行くし、説明する。ダンブルドア先生は私達の話を全部聞いてくれる」

 涙がドラコの腕を伝い、滑った。

「でも、もし――もし万が一、ダンブルドア先生があなたを……助けなかったとしても……私はあなたを助ける。私は絶対にあなたの味方よ」

 ドラコは、ようやくハリエットと目を合わせた。グレーの瞳は、感情と共に激しく揺らいでいたが――やがて、ゆっくり伏せ、閉じられた。そして再び開いたとき、決心の光が宿っていた。

「……分かった。行く」

 様々な感情が込み上げてきて、ハリエットには頷くことしかできなかった。彼の腕を引っ張り上げながら、ハリエットは立ち上がる。もう日は傾き始めていた。


*****


 ホグワーツは、騒然としていた。ホグズミードに死喰い人が現れたことにより、動揺と恐怖を巻き起こしていたのだ。

 幸いなことに、ホグズミードの住人には何も被害はなかったが、唯一ハリエット・ポッターとドラコ・マルフォイだけが行方不明だと判明し、ホグワーツは一層恐怖の底に突き落とされた。

 生徒は、それぞれの寮に戻るように指示され、そこから誰も外に出さないようきつく言い聞かされた。特に監督生は、下級生を見張るよう言われた。だが、グリフィンドール寮では、肝心の監督生が寮を抜け出した。ロンとハーマイオニー、そしてクィディッチ・チームのキャプテンであるハリーだ。

 職員室へ向かう途中、ハーマイオニーはわんわん泣きながら何度も謝罪を述べた。嗚咽やしゃっくりが混じる彼女の言葉は聞き取りづらかったが、ハリエットがドラコに会いに行ったという部分だけは聞き取れた。

 どうして止めなかったんだ、という言葉が喉元まででかかったが、ハリーはすんでの所で堪えた。今までにないほど傷ついているハーマイオニーを、これ以上苦しめることはできないと思った。それに、今はハリエットの身が優先で、女子二人の危機管理を責めるのはハリエットの安全が確保されてからだ。

 職員室には、ほとんどの教員が出払っていた。皆ホグズミードへ赴き、ハリエット達を探しているのだろう。残っているのは、ダンブルドア、スネイプ、マダム・ポンフリーのみである。

 唐突に開かれた扉――そして、そこに立っている三人組を見て、スネイプは眉間の皺を深くした。だが、泣き腫らした顔のハーマイオニーを見て面食らったようで、スネイプは嫌味をすぐには用意できなかった。代わりにダンブルドアが声をかけた。

「ハリエットのことが心配なのは分かる。じゃが、寮を抜け出すのは関心せん」
「お伝えしないといけないことがあるんです」

 この頃には、ハーマイオニーの声は明瞭としていた。未だポロポロと涙をこぼしながらも、彼女は精一杯ダンブルドアに声を張り上げた。

「私のせいなんです。私、ハリエットがマルフォイに会いに行くって言ったのを止めなかったんです。ハリエットは、きっとマルフォイ達に連れ去られたんです……」
「どこへ行くと言っていた?」

 スネイプは鋭く聞き返した。ハーマイオニーはしゃっくりを押し殺した。

「分かりません。ホグズミードで会おうと言われたとしか……」

 その時、またも唐突に職員室の扉が開いた。皆が振り返ったが、しかし、そこには誰もいない。

「さて」

 ダンブルドアが皆の注意を引き戻した。

「君たちは寮へ帰るのじゃ。スネイプ先生が送ってくださる」
「校長――!」
「スネイプ先生にも異論はないはずじゃ。妹や友達のことが心配な生徒たちに寄り添うべきは教師じゃろう?」
「…………」

 スネイプは渋い顔になったが、それ以上何も言わなかった。スッと立ち上がり、早く職員室を出るようにと視線だけで三人組に促した。

「でも、先生、僕もハリエットを探しに行きたいです」

 ハリーの言葉に、ロンもハーマイオニーもぶんぶん頷いた。だが、ダンブルドアは決して頷かなかった。

「君たちの心配は十二分によく分かっているつもりじゃ。じゃが、今の君たちにできることは何もない。今は身体を休め、ハリエット達が戻ってきたときに、温かく出迎えるのじゃ」
「先生――!」

 ハリーはなおも食い下がろうとしたが、スネイプに杖で引っ立てられ、強引に職員室から連れ出された。その後、マダム・ポンフリーも出て行った。ハリエット達が傷だらけで帰ってきた時のために、医務室で準備をしてくると宣言してのことだ。

「さて」

 誰もいなくなった職員室で、ダンブルドアはまたもそう呟いた。

「そろそろ姿を現してくれんかの? 姿が見えなければ、わしはどこを見て話せば良いのか分からなくて困ってしまう」

 衣擦れの音がしたと思ったら、ダンブルドアのすぐ前に、二人の少年少女が姿を現していた。ハリエット・ポッターとドラコ・マルフォイその人である。

「君のお兄さんと友達が、ひどく心配しておるのは、君にも分かったことじゃろう」

 ダンブルドアはハリエットを見た。

「じゃが、それでも自分の安否を伝えるよりも先に、わしに何か言わなければならないことがあるんじゃな?」

 ハリエットはゆっくり頷いた。あの全てを見通すような瞳で、ダンブルドアはドラコを見た。

「ドラコよ、よくぞわしの下に来てくれた」

 僅かに身じろぎをし、ドラコは顔を上げた。初めてドラコとダンブルドアの視線が交わった瞬間だった。

「わしは君を――君たちを助けたい」

 その言葉に、ドラコの頬をポロリとまた涙が伝った。